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第8話 塩の沼(2)

 翌日は退屈だった。お土産用というか、実験用の巾着は既に満たされていたので塩はもう作らなくても良かったのだが、水のほうは需要があったので、製塩製水作業は続行する。昨夜就寝前に魔力を使い切るために目いっぱい拡張しておいた麻袋に惰性で塩を入れ、水はどんどんシャワータンクに放り込む。なぜならば、いくら言っても彼らは栓をするということを学習してくれないからだ。

 すぐ次の人が来るから締めなくていいやという気持ちも分からなくもないが、だったらせめて使う場所を決めてくれればいいのに、四箇所から水が駄々漏れである。いつの間にやら足を洗っていた樽がシャワーの下に置かれており、トーコの知らないうちに全員利用していたようだ。使ってもらうために設置したのだから、それはいいのだが、食事休憩のときくらい締めて欲しい。

 「水を大切に、という精神はここの人にはないの!?」

 「お前が言うな」

 朝食の時に零したら、ハルトマンから冷たくあしらわれた。だってあの栓を考案するのにはそれなりに知恵を絞ったのに。トーコがいくら訴えても誰も共感してくれない。腹が立ったのでトーコはちょっぴり意地悪を言った。

 「そういえば、せっかく塩を盛っても、水が抜けるのは三日後だってね」

 「そんなに待てるか。どうせ樽で持って帰るんだから、多少湿っていてもかまわん。人手もあるしな」

 意地悪が不発したトーコはすごすごと撤退した。ついでに要らない塩を押し付けて恩を売る作戦も失敗だ。

 皿洗いと軽傷者の治療をすませて沼上に戻る。水上スケートにも飽きたので、いよいよサーフィンに挑戦するが、多少コントロールが難しくスピードが出やすいだけですぐにできてしまい、飽きた。やっぱり自然の波とやらがないと面白くないのかも。動力が自分の魔力なのでコントロールできすぎるのだ。つまらない。

 そんなことをやっていると、探査魔法に魔物が引っかかった。トカゲじゃないのでハルトマンに報告だ。岸辺までボードを飛ばし、水際で解除、ジャンプ、着地、成功! 採点は九.一八! ひとりでポーズをとっていたら変な目で見られたので幻惑魔法改め遮光魔法を緩めるのが早かったもかもしれない。トーコの運動能力ではできないまねが魔法では簡単にできる。魔法って楽しい。

 ハルトマンはちっとも一箇所にじっとしていないので、探査魔法で探す。魔法使いは数人しかいないので、魔力の多寡で簡単に見つかる。ハルトマンは天幕で打ち合わせ中だった。帰路の計画を確認しているらしかった。

 「ハルトマンさん、魔物がでたよ。大きな鳥」

 ハルトマンは目もあげない。

 「こっちにくるようなら、追い払ってこい」

 「わかった」

 移動魔法で沼に戻る。浮力がないので水上スケートやサーフィンに比べて魔力がかなり要る。前はなんとも思わなかったのだが、比べると差が明らかなのでなんとかならないだろうかと考えてしまう。空気抵抗を弱めるにも限界があるし、イマイチいい案がない。灰色の巨鳥はトーコが往復している間にかなり近くまで来ていた。

 ハルトマンが昨日怒ったのには充分な理由があった。ゲルニーク塩沼で採塩中に襲ってくる魔物は大抵が魔鳥の類なのだそうだ。高山超えできるほど体力のある魔鳥は空から来て人間を掠めさらっていく。間合いが遠いため、対処が難しく、絶対近くに寄せ付けるなと言われたので、探査魔法を最大限に伸ばし、感知したら見つかる前に幻惑魔法で隠す。それでもニアミスしそうなら脅かして近寄らせないようにする。生き物の少ない場所なので、探査魔法を広域に伸ばしても魔物が見つけにくいということはない。探査魔法にひっかかるものが多すぎる<深い森>ではとてもやれない方法だ。

 ヤブヘビはごめんなので暫く様子を見ていたが、斜面の塩をかじったあと、こちらへ飛んでくる。トーコは巨鳥の正面に障壁を張った。真正面から障壁にぶつかった巨鳥は空中でひっくり返り、バタバタと羽を打ち鳴らして水面ギリギリで舞い上がった。そのままもと来たほうへ逃げていく。

 トーコは落ちた羽を移動魔法で回収した。思ったとおり、大きくて綺麗だ。ヘーゲル医師の孫の男の子たちのお土産にしよう。この間はがっかりされてしまったが、ここらで名誉挽回をせねば。

 「ハルトマンさん、鳥は逃げてった。見てこの羽! 大きいでしょ? 貰っていい?」

 「好きにしろ」

 水の補給をして回ってから、トーコは再び沼に出た。するとまた探査魔法に魔物がひっかかる。結局その日は午前中だけで三羽の巨鳥が姿を見せた。

 「全部違う鳥だったよ。大きさも羽の色も違うもの」

 トーコはハルトマンに報告した。最初の一羽以外は遠くから眺めただけだけれどそれは断言できる。

 ハルトマンはギルドの取りまとめ役と鉱夫のリーダーを岸辺に集めた。

 「昨日に比べて明らかに増えている。まったく何も来ない日もあれば、何羽も来る日もあると聞いてはいるが、経験のある者は?」

 鉱夫のリーダーが口を開いた。

 「その通りだ。三羽ここまで飛来したならともかく、遠くから見かけるくらいは良くある。気流の関係で高山を昇ってこれるときは沢山来るし、さっぱりのときはさっぱりだとどっかの偉い人が言っていたわな」

 トーコはハルトマンの袖をひっぱった。

 「キリューってなに?」

 「空気の流れ。風のこと。暖かい空気は上にいき、冷たい空気は下に行く」

 「分かった。気流のことか」

 「トーコはこのまま沼上での警戒を最優先。給水のタイミングはできる範囲でいい」

 「この距離ならシャワーのところには今までどおり補給し続けられるから、いざとなったらそこで汲んでもらって」

 「それでいい。今のところ陸側からは来ていないが、警戒しておいたほうがいいな。そちらの魔法使いはどの程度あてにできる? 沼側には弩があるが」

 「遠距離攻撃ができる魔法使いがふたりいる。魔法使いはもうひとりいるが、運搬のための移動魔法しか聞いていない」

 「幻惑魔法と障壁魔法は使えるか?」

 「それは当人たちに確認してくれ」

 「分かった、一度魔法使いを集めて戦力の割り振りを考えよう。あまり自由度はないが……」

 「彼女を入れて四人か。こうなると国境警備隊が魔法使いを連れてきていただけでも幸運だが」

 「ハルトマンさんも魔法使いだよ」

 「一応使えるが、本当に一応の域を出ないからな。部隊の指揮もあるし、簡単な治癒魔法くらいしかアテにしないでくれ。あとのうちの連中はもちろん使えない」

 昼食後、ハルトマンの部隊のぶん以外の皿洗いを免除してもらったトーコは沼に戻って警戒がてら採塩作業を眺めた。  

 盛った塩は下のほうは水に洗われて流れてしまい、不恰好なきのこののような形をしている。充分に水分が抜けたら、シャベルで小船に回収している。船というより、ホームセンターで売っているプラスチックのそりのように小さなものだ。塩が白いので、雪かきしている人みたいに見える。浮力があっても、水深が浅いので、運ぶのは人力だ。ふたりがかりで船を曳き、岸までジャブジャブ歩く。

 「これは大変だなあ」

 金属だと錆びるからだろう、船は木製だ。

 トーコはちょっと考えて、移動魔法で塩を掻き寄せた。網戸のサッシを思い浮かべる。レールは二本、溝に入れる車輪に大分手間取ったが、レールの上を滑らせる台車を作ってそれぞれ障壁魔法と時間凍結魔法で固定する。試しに塩をあげようとしているひとに小船ごと乗り上げて使ってもらったが、レールが邪魔で曳きにくい。トーコは台車に小船の落下防止を兼ねた板をたて、そこから左右に棒を突き出させてこれを押してもらう。棒の位置は人によって推しやすい高さも違うだろうということで、左右それぞれ三本作った。何人かに使ってもらい、握りの太さも調整する。

 「船を前後ろ逆に載せて、曳き綱を押し棒にひっかけて固定したほうがいいな」

 「こんなかんじの鉤でどう?」

 「便利だけど、一度に一艘しか使えないというのが……」

 「作れば数は増やせるけれど、そもそも塩を盛っている場所が移動するんだよね。この魔法自体三日くらいしか保たないから、その範囲で均等に引いてみる?」

  少なくとも三日前にかけた時間魔法はまだ解けていないから、理屈で言えばそのくらいまでは保つ。

 「台車を増やして、すれ違いできる場所を途中に作ればいいんじゃないか?」

 「それいい! トロッコと同じだね。あ、待って、だったら行きのぶんと帰りのぶんと二本レールを作っておけば、じゃんじゃん回るんじゃない? 昨日のうちに何故思いつかなかった、わたし!」

 自分が遊ぶことに夢中になってしまっていたからだが、皆が一生懸命働いている横で不謹慎だったな、と密かに反省する。どこまでも真平らな沼地なので、引こうと思えばどこにでもレールを引ける。二本目、三本目をどこに引くか、鉱夫たちと頭を寄せ合ってああでもない、こうでもないとやっていると、探査魔法に魔物の気配が引っかかった。鉱夫たちに断って、ボードを飛ばして沖(?)へ出る。魔物の姿を目視確認し、ハルトマンに報告するために取って返す。

 「ハルトマンさん、トカゲが出た」

 「トカゲの報告はいらん」

 「でも大きいし、飛んでるよ。まだこっちに気づいていないけれど」

 ハルトマンは書き物していた手をとめた。

 「……まさか竜じゃないだろうな」

 「竜なの?」

 「見てないのに判るか。どんな外観だった」

 「鱗があって尻尾が長くて、こうもりみたいな羽が生えてた」

 「色は」

 「緑っぽかったような」

 やっぱり火を吹くんだろうか。

 ハルトマンは部下を呼んだ。

 「各責任者に竜が出たかもしれないと伝えろ。作業は中止。道具はそのままでいいから、鉱夫は全員沼からひきあげて野営地まで大至急戻らせろ。足の速い奴二名をクレムまで伝令に出せ。途中行き会う隊には戻れるような戻れと伝えろ。俺は確認に行く」

 矢継ぎ早に指示を出すと、トーコを見た。

 「お前が犬ころみたいに走り回っている魔法で俺を魔物が見えるところまで連れて行けるか?」

 「障壁魔法で固定すれば大丈夫だと思う。急ぐなら転移する?」

 「魔力は温存しておけ。水の補給もいい。姿を隠すのを忘れるなよ」

 わかった、とトーコは製塩製水装置を止めた。結晶塩の採集は今日はやっていないので問題ない。

 それよりも緊張と不安で胃が口から競りあがってきそうだ。ハルトマンの様子だと、今までの魔鳥と違って相当に危険な魔物のようだ。お願いだからこっちこないで欲しい。できれば見間違いとか、違うほうに行ってくれるとか。

 「あれだよ」

 ハルトマンを連れて沖に出たトーコは岸辺というより崖沿いに飛んでくる魔物を示した。ふたりが見ている前で羽の生えたトカゲは崖にとまった。しきりに空気の臭い嗅いでいるようだ。

 「停まれ」

 ハルトマンはしばし睨み、

 「転移魔法で戻るぞ」

 てことは当りなのか。しくしくしてきたお腹をかかえて、どこに人がいるかわからないので指令所の上空に転移する。沼から引き上げてくる人の列が見えた。

 「どうだった」

 「竜なんて見るのは俺も初めてだが、たぶん飛竜だ。崖沿いにこちらに来ている。このままならここも通る。人の臭いに気がつかれなきゃいいんだが」

 「望み薄だな」

 「ここで隠れてやり過ごすか、応戦するかだが……頭が痛いな。弩の矢が通じればいいんだが」

 「固いという話は聞いているが、どの程度のものかだ」

 「飛竜の革で作った鎧を見たことがある。斧の一撃も受け止めるそうだ。おまけに生きている飛竜には鱗もある。ここでやり過ごしても、町の方に行かれると移動中の隊列がまずいな」

 トーコは袖を引いた。

 「こっちに来る前に追い払えないの?」

 「お前、どうやって鳥は追い払った?」

 「飛んでいる先に障壁魔法を立てて。ぶつかったらそのまま逃げて行ったよ」

 「お前には気づかなかったか?」

 「うん。姿は隠していたし、臭いも消していたから。飛竜がぶつかっても障壁が保つか全然自信ないけれど」

 ハルトマンはギルドの魔法使いたちを見た。

 「できれば仕留めておきたい。案があれば遠慮なく言ってくれ」

 魔法使いたちは厳しい表情を浮かべている。

 「うちのチーム全員がそろっていても狩る自信はない。最初からそのつもりで準備したとしても厳しいと思う」

 壮年の魔法使いが言うと、年配の魔法使いも言った。

 「竜は魔法使いにとって一番会いたくない魔物だ」

 「誰でも会いたくないだろう」

 「竜に鉄の武器は通じるが、魔法が通じない。そして相手は魔法を使う」

 「魔法が通じない? そうなのか?」

 自分も魔法使いなのにハルトマンが聞き返した。トーコも初耳だ。たちまち形勢が悪くなる。

 「俺も聞きかじった話だ。竜は強い魔力を持っている。それがこちらの魔法を阻害するとか」

 「巨大な氷の矢で串刺しにしたという話を聞いたことがあるが」

 ハルトマンは首をひねり、そのままトーコを見た。

 「お前、飛竜を倒せないか?」

 「魔法が通じないのにどうやってよ! 無理だよ!」

 「氷の矢で」

 「そんなのやったことない! 無理無理無理!」

 「だってお前氷作ってたじゃないか」

 「食べるための氷と武器は違うでしょ!」

 「たいして変わらんだろ」

 「違うに決まってるじゃない。第一どうやって矢を飛ばすの? そしてわたしが投げて当たると思う?」

 「思わん」

 「だったら言うな!」

 トーコは絶叫した。しかしハルトマンは平然と肩で息をするトーコを見やり、もっととんでもないことを言い出した。

 「仕方ない、追い払うしかないな」

 「は?」

 全員が聞き返した。

 「ハルトマンさん、ここまでの話の流れてどうしてそうなるのか理解できないんだけど」

 「この大人数で飛竜をやり過ごすのは難しい。飛竜は倒せない。だったら他へ行ってもらうしかない。簡単だろ」

 「か、簡単なの、それ? 言いたいことは判るけど、実現できなさそうな」

 「いちいち説明しなきゃ判らないか?」

 ハルトマンは嘆かわしげに出来の悪い妹弟子を見た。

 「他に獲物を見つければ飛竜はそっちを追いかけていくだろう。で、安全が確認できたら撤退する」

 「……他の獲物って?」

 なんだか嫌な予感がする。

 「障壁魔法が通用して追い払えればよし、ダメなら囮が飛竜の前をうろうろして、ある程度誘導したら撒いて逃げる」

 ものすごーく嫌な予感がする。

 「……それ、誰がやるの?」

 「お前に決まってるだろ」

 予感的中。

 「むむむむ無理! 出来るわけない! 相手は空を飛んでるんだよ!」

 「昨日から大はしゃぎで沼を走り回っていたのは誰だ? ヘーゲル医師には、ちゃんとトーコは魔法の修行に励んでいました、間違っても水遊びなんかしていませんでした、って言っておいてやる」

 「鬼ーっ!」

 「心配せんでもタイミングは指示してやる」

 「は、ハルトマンさんは国境警備隊をほっぽっていっちゃいけないんじゃないかなーっと……すみません。なんでもありません」

 「保護者同伴じゃなきゃまともに動けんような奴に心配されるほど、うちの連中は無能じゃない。判ったか? 判ったら、とっととその口を閉じて準備しろ!」

 「じゅ、準備?」

 「お前、結晶石とか結晶樹の実を持ってるか?」

 「結晶石なら一個持ってる」

 ベルトポーチについているのを見せると、ため息をつかれた。

 「こんなくず石持っている内に入るか」

 「酷い! ベアさんがくれたのに! ベアさんが魔法使いになって初めて手に入れたお守りなのに! 結晶石なんて高価なものわたしが持ってるわけないでしょ!」

 「その割には魔力を温存しないよな、お前。仕方ないから俺の結晶石を貸してやるが、俺も本職の魔法使いじゃないからな……」

 それ以前に他人の魔力が篭められても二割程度しか使えない。壮年の魔法使いが口を出した。

 「俺の結晶樹の実を貸そうか」

 「いや、こっちで必要になる可能性もある。それはそっちで持っててくれ」

 ハルトマンは逃げ出そうとするトーコの首根っこを掴んだまま、あわただしく部下に権限を委譲し、出発した。


 近くで見ると飛竜は大きかった。馬くらい丸呑みにできそうだ。

 「なかなか去らないな」

 岩肌にぴったり張り付き、消臭、遮光、隠形の各魔法で隠れているふたりには気がつかないものの、突然現れた障壁魔法にぶつかった飛竜は不穏な鳴き声をあげて、同じところをもう十五分も旋回している。トーコがおっかなびっくり張った障壁魔法は飛竜の勢いに負けて壊れた。障壁魔法が壊されると思わなかったトーコは予想外の飛竜のパワーにすっかり怖気づいており、ハルトマンは彼女が逃げないようにふたたびその首根っこを押さえている。

 「予定通り、出るぞ」

 「い、行きたくないよう」

 「じゃ、ここでこのまま夜明かしするか?」

 「それも嫌」

 トーコはべそをかいた。

 「なら行くしかないな。ほれ」

 「ううっ、帰りたい」

 「早くしろ。それともスピードに乗り切る前にここで大声あげたほうがいいか?」

 ハルトマンは問答無用でトーコにサーフボードをつくらせた。間違っても落ちないように、足首までめり込むように改良したものだ。

 「飛竜の視界に入ったら、隠れる魔法は全部解除。あとは突っ走れ」

 簡単に言うな! そう思いならがしぶしぶ船出する。飛竜の前を横切る勇気はないので、真下でターンし、派手に水しぶきを撒き散らす。

 「よし、追いかけてきた!」

 「ひええっ!」

 何がよし、だ!

 「もう少しスピードを落とせ。ここで振り切ったらついてこないぞ。いいぞ。たまに蛇行しろ。まっすぐ行くばかりだと襲われる」

 もうトーコは悲鳴も出ない。ひたすらボードを操り、時々ハルトマンが岸に近づけろの、ターンしろの言うのにかろうじて従う。障害物に当たってひっくり返るのは嫌なので、探査魔法で水面と沼底の状態は把握しているが、どこまでも真平らである。ひゅうひゅう空気が耳元を流れていき、ハルトマンの声も聞きづらい。それなのに飛竜の咆哮や羽が風を切る音は聞こえてしまう。

 私なんか食べたって美味しくないよ! 全然腹の足しにもならないよ! 追いかけっこするエネルギーと得られるエネルギーを比べたら、ダイエットにしかならないからもう諦めて!

 「この鬼ごっこ、いつまですればいいの?」

 無我夢中で逃げ続け、ふたり乗りサーフボードの扱いにも、ハルトマンの指示にも慣れてくると今度は時間が気になってくる。もう結構長いこと走り回ってる気がする。

 ハルトマンはトーコに見えないのをいいことに顔をしかめた。パニックは収まったものの、今度は集中力が切れ始めている。もう充分採塩場からは離れた。余力があるうちに飛竜を振り切らねばまずい。ハルトマンはトーコに長めの指示を出した。トーコが探査魔法で探った地形を聞き出して作戦を立てる。

 「あの岩の突き出た崖を通り過ぎたらやれ」

 「うん!」

 トーコは大きく水を跳ね飛ばしてターンした。塩水をあびせられた飛竜が咆哮する。咆哮する竜は大きく首をのけぞらせるのを、ここまでの鬼ごっこで確認済みだ。

 「今だ」

 消臭魔法と幻惑魔法に身を包み、慣性の法則を無視してボードを蹴り、移動魔法で無理やり飛ぶ。ふたりの体にかなりの重力がかかる。ボードとそれについたふたりの臭いと幻影を追いかけて飛竜は力強く羽ばたく。そしてすさまじい衝突音と振動がひびきわたった。トーコが張った幻の空と沼を突き破り、崖にまともに突っ込んだ飛竜は沼に落ちたままピクリとも動かない。岸に隠れ潜んでいたトーコとハルトマンは顔を見合わせた。ここで飛竜が右往左往している間に転移魔法で逃げようとしたのだが。

 「もしかして、死んだの?」

 「死んだな。首の骨が折れてるわ、こりゃ」

 ハルトマンがずかずかと歩き出したのでトーコはあわてて後を追った。B級怪獣映画だと、ここでむっくり復活して再び襲い掛かってきたりする。

 「あ、あぶないよ。ボードに乗ろうよ」

 ハルトマンはボードに乗ってくれたが、そのまま飛竜から離れようとするトーコの首根っこを掴んで死骸のそばにボードを寄せさせる。

 「死んだかどうか確認せんとまずいだろうが」

 ハルトマンは足で死骸をつつく、というより蹴って確認している。これは勇気ではなく、蛮勇だ。絶対そうだ。トーコには信じられないことに目まで確認している。

 「持って帰っても大丈夫そうだな」

 「持って帰るの!?」

 「別に手間じゃないだろ。転移魔法で一瞬だ」

 「……」

 「なんだ、魔力が切れそうなのか?」

 「……さっき、飛竜が崖に突っ込んだ瞬間を狙って転移魔法を使おうと思ったんだけど」

 「しょうのない奴だな。結晶石を貸して――」

 「そうじゃなくて、飛べなかった。ここどこ? どうやって飛べばいいの?」

 「はあ!?」

 「どこに飛べばいいのか判らなくて、魔法を発動させられなかった」

 飛竜の出現にも動じなかったハルトマンが絶句した。しばしの沈黙の後、

 「いつもはどうやって転移しているんだ?」

 「なんとなく、あっちのほう、とか景色を思い浮かべてる」

 「できないのか、それ」

 「だって帰る方向はどっち? どのへん?」

 飛竜に追われて逃げ惑った帰りは、日暮れに追われてボードを飛ばし、散々迷った挙句にたどりついた時にはあたりは真っ暗になっていた。


 「飛竜を倒すなんて凄いですね!」

 「倒してないから。勝手に崖にぶつかって勝手に死んだだけだから」

 眠い目をこすりながら、翌早朝最後の水補給のために塩沼に下りたトーコは樽とシャワータンクに水を満たしながら、何十回目かのセリフを繰り返した。沖に作った製塩製水用の巨大タンクも移設して空間拡張の魔法をかけ、シャワーに水を補給できるように改造した。半日くらいは保つだろう。人がぶつかると危ないので、下のほうだけ塩で塗装する。水を入れている間に大急ぎで塩を運搬する用のレールも作ったけれど、一本しか増設できなかった。使ううちに塩の結晶が入り込んで車輪の回りが悪くなると聞いて試行錯誤していたら時間の経つのがあっという間だった。

 「途中で放り出して行っちゃってごめんね」

 「来年に活かしましょうや」

 慰めてくれた鉱夫には申し訳ないが、もう二度と来たくない。景色は素晴らしいし、色々遊べて楽しかったが、最後の飛竜騒動で帳消しだ。そしてもうひとつ。タンクを移設していてトーコは余計な事に気がついた。

 「飛竜にぶつける障壁魔法に時間凍結魔法をかけておけば壊れなかったんじゃ……?」

 気がついて青ざめた。これは絶対に絶対にハルトマンには秘密だ。ばれたらどんな刑を喰らうか考えるだに恐ろしい。昨日のうちに思いついていれば、あんな死ぬような思いをして追いかけっこすることも、そのあと迷子になることもなかったかもしれない。すくなくとももっと早く戻って来れたはずだ。この秘密は墓場まで持っていく。

 疲れ果ててゲルニーク塩沼をあとにし、クレムの町に何事もなくたどりついた時にはほっとした。宿舎の食堂でひさびさの椅子と机で食事をしていると、ユナグールから到着したばかりのギルド構成員たちの中から知り合いを見つけてハルトマンが手をあげた。

 「こっちだ」

 「久しぶりだ」

 覚えのある声にトーコが急いで口の中の物を飲み下して振り返ると、久しぶりに見るベアの姿があった。

 「ベアさん!」

 「座れよ。あんたがこの隊の責任者か。すれ違いでついてないな」

 「トーコがいたなら水には苦労しなさそうだな。ゲルニーク塩沼はどうだった。問題なかったか」

 「水は塩沼からいくらでも生成できたから楽だったよ。それよりお皿洗いの量が多くて大変だった! シャワー……ええっと、上から水浴び用の水が降ってくるようなのを作ってね、これは結構喜んでもらえたみたい」

 言っていることはいまいち要領を得ないが、機嫌はすっかりいいようだ。男ばかりの中でどうしているか少し心配だったのだが、けろりとしている。

 「明日も早いんだ、お子様はとっとと寝ろ」

 ひとくさりハルトマンに文句を垂れてから、素直に席を立ち、トーコはふと思い出したようにベルトポーチから色とりどりの巾着を取り出した。

 「そうだ、ベアさんにこれあげる。ゲルニーク塩沼のお土産のお塩だよ。何色がいい?」

 俺もこれから塩を採りに行くんだが、と思いながら、ベアは大人の対応をした。安っぽいお守り袋の中から深緑色を選んで礼を言う。トーコが機嫌よく引き上げていくと、ハルトマンが渋い声を出した。

 「おい、ベア、あんた仮にも師匠だろ。あいつ何とかしろ」

 「トーコか?」

 「他に誰がいる。もうやりたい放題で手におえん。水と愛想を振りまいているくらいならいいが、今に何かやらかすぞ」

 「何かって何だ」

 「知るか。まったく予想も想像もつかん」

 ハルトマンはため息をついた。ベアは困惑して席をたつタイミングをうかがった。

 「とりあえず、ゲルニーク塩沼については特に問題なしということでいいか」

 「良くない。魔鳥数羽に飛竜が出た」

 ベアは動きを止めた。そのタイミングでベアの前に食事が配膳される。食事が終わるまで席を立てなくなってしまった。

 「飛竜?」

 「もっとも見つけたのがトーコだから、採塩場には気がつかれずにすんだ。あんな遠くからよく見つけるわ」

 「飛竜はどうやってやり過ごしたんだ?」

 「早い段階で接近に気がついたんで、トーコと俺が囮になって採塩場から遠ざけた。幸い自分で崖に激突して首の骨を折ってくれたんで、今は問題ないはずだ」

 「まて、囮? トーコに何をやらせた」

 ベアは思わず声を高くした。

 「飛竜が採塩場の人間の臭いに気がつく前に、俺たちが出て行って、別方向へ誘導した」

 「飛竜というのは空を飛ぶんじゃないのか?」

 「飛ぶ。こっちも崖近くを走ったり、かなり振り回したから、本来の速さでは飛べなかったと思うが」

 「走った? 移動魔法で飛んだんじゃないのか?」

 「違う。水面に障壁魔法で作った板を置いて、その上に乗って、水面を滑らせたんだ。具体的にどうやっているのかイマイチ理解できなかったが、塩水の浮力を利用して、移動魔法に必要な魔力をコントロールと加減速にすべて振っているらしい。重さを支える魔力が少なくてすむから、その分高速移動に魔力を割けると本人は言っている」

 「理屈はなんとなく理解した。だが、そんなことをいきなりやらせるなんて」

 「初日、その魔法を思いついて、一日中、大はしゃぎで沼の上で遊んでいた。怖がりの癖になんであのスピードが平気なのか、まったく判らん」

 後半ぼやきの口調になった。

 「そんなに速いのか」

 「これを言うのはなけなしのプライドが傷つくんで言いたくないんだが。どんなに急ぐ用事があろうとも、俺はあれにはもう二度と乗りたくない」

 「……判った、聞かなかったことにしよう」

 「こっちが水面を走っているから、追いかける飛竜も水面ぎりぎりだ。上下方向への移動は制限されるが、前後左右はかなり動けたから、なんとか鬼ごっこはできた。一応俺もいざとなったら鼻っ面を殴り返すつもりではいたが、そんなわけで意外になんとかなった。最後は幻で崖に突っ込ませて終わりだ」

 トーコが聞いたら怒りそうなあっさりとしたまとめだ。

 「じゃあ、今回はこちらの犠牲はなしか? 僥倖だったな」

 「今回は?」

 「飛竜自体は過去にも何度か出たと聞いている。幸い俺はあたったことがないが」

 「……俺は聞いていないぞ」

 ハルトマンは顔をしかめた。あちこちで情報を集めたつもりなのに、こんな大きな話が引っかかってこないとは。問題だ。ベアは肩をすくめた。

 「二十年前に聞いた話だ。その時だって旧い話だ、忘れている人のほうが多いだろう」

 「なるほど、年寄りの知恵は黄金より重い、というわけだな」

 ハルトマンは公国の古い格言を引っ張り出した。

 「誰が年寄りだ」

 「あんたにその話をしてくれた奴さ」

 「……。仕留めた飛竜は持ち帰ったか?」

 飛竜の相場は知らないが、売ることが出来るなら、しばらく遊んで暮らせるだろう。あの場所に執着があっても、トーコの魔の領域に入る意欲は薄れるかもしれない。

 「当然。トーコに運ばせた。ま、あいつの取り分はないが」

 「何故だ?」

 ベアは驚いた。危険と労力の対価がないとはギルド構成員には看過し難い話だ。

 「護衛中に仕留めた魔物の売却益はその場にいた護衛隊で等分。そして、あいつは公式にはあの場にいない人間だから。俺が勝手に誘って勝手についてきただけ」

 「それはそうだ」

 国境警備隊に部外者が混じるなんて普通ありえない。よくもハルトマンはトーコを連れて行ってどこからも文句がでなかったものだ。そう言うとハルトマンは再度苦情を言った。

 「あのな、あんたのせいでサンサネズの実採りから帰ってきたトーコがそりゃもう、ふてくされて、宥めるのが大変だったんだぞ。ヘーゲルの奥さんやバベッテが慰めても、どーせベアさんのお荷物よ、ってな。酔っ払いよりたちが悪いわ」

 「俺のせいにされてもな」

 「あんたのせいだろ」

 思いかけず強い口調で言われ、ベアは面食らった。

 「あの能天気が一晩寝てもまだ機嫌が直らなかったんだから、よほどだ。口も行動も軽いあほだが、聞き分けはいい。良すぎるくらいだ。居候の立場からすると分相応だけどな」

 「ヘーゲル家には馴染んでいるように見えたが」

 「馴染んではいるさ。でも遠慮がないわけじゃない。あって当然だ。相手の反応は良く見てるよ」

 意外な話だった。ベアから見るとトーコはハルトマンほどじゃないが、傍若無人な部類の人間に見える。

 「あんた、弟子にしてやるって言ったんだろ? そんで魔の領域にまた連れて行ってやるって言ったんだろ? それは本気で言ったのか? それともその場しのぎの嘘か?」

 畳み込まれたベアはたじろいだ。

 「別に嘘は言っていない。ただ……」

 「ただ、ゲルニーク塩沼は女が来ないのが普通だ、って言ったか」

 「そこまであからさまな言い方はしなかったが」

 「そこはきちんと言っておけ。一応説明してやったが、なんで置いていかれたか、たぶん納得していない。むしろ、今は疑心暗鬼だ」

 「何を疑うんだ」

 「あんたをだ。あんた、前に一度あいつを置いていってるだろ?」

 「は?」

 記憶にない。

 「魔の領域からトーコを連れて戻ったときだ。ヘーゲル家に置いて行っただろう。別に責めているわけじゃない。あんたのしたことは至極まっとうで、充分以上の面倒を見てやったと思っている。トーコは一生恩に着ていい。今ではトーコも理解している。でも、あのときは、初めて逢った人間で魔の領域で一ヶ月面倒を見て守ってくれたベアさんが、朝起きたらいなくなってた理由を理解できなかったんだ。あんたの傍がこの世界で一番安全だと信じていたんだから、動揺もするさ。魔物は人の領域には来ない、あんたはそのうち戻ってくるってのを理解させるのに、アニやバベッテがどんだけ骨を折ったと思ってるんだ? 言葉が通じる通じないの問題じゃない」

 ベアがトーコをヘーゲル医師にあずけた時分、ハルトマンもヘーゲル家に居候していた。実家の商売に忙しいへーゲル夫人や、治癒魔法の才能を顕す前のトーコにさほど関心を持っていなかったヘーゲル医師よりも、歳の近い四人姉妹のほうがよっぽど親身になって世話を焼いていた。バルク語を覚えて事情を理解できるようになっても、玄関で物音がするたびにトーコはすっとんでいっていた。それで、運び込まれる怪我人と真っ先に鉢合わせしてなし崩しに診療所を手伝わされているうちに魔法を覚えてしまったわけだが。

 刷り込みの恐ろしさを四人姉妹もハルトマンも思い知った。当時の騒動を思い出してげんなりしてしまう。

 「こんなこと言うのは俺の柄じゃないんだ。だけど、どうもあんたも判ってないようだからな。さっきも寝ろと言ったら素直に部屋に行っただろ。あんたにごねるところを見せたくないんだ。ゲルニーク塩沼入りも全く問題なし、ちゃんと皆のお役にたってきましたって必死にアピールしてただろ。このくらいの近場ならちゃんとあんたについていけるって言いたいんだ。トーコだってあんたの本当の狩場にまで現段階でついていけるとは思っていない。弟子入りの話もあんたの負担でしかないことも判っている。だからよけいにびくびくしているんだ。不必要にトーコを不安にさせるな。ただでさえあいつの魔力は規格外で、魔法の使い方ときたらでたらめなんだ。次に何をしでかすかまるで予測がつかない。こういうことではヘーゲル医師はまるで頼りにならないし」

 立板に水とばかりまくし立てるハルトマンにたじたじになっていたベアは、同士を見出して思わず身を乗り出した。ヘーゲル医師相手では得られなかった共感がこんなところに転がっているとは! そうだろう、これが普通の感想というものであるはずだ。ヘーゲル医師の感覚がおかしいのであって、ベアはまともだ。話の前半部分は納得しかねる部分が多いが。

 「人の話聞いているか? 師匠なら師匠らしく、やたらな魔法の使い方をしないようあいつを指導してくれ。本人は善意なのがなお悪い。いっそ悪意があってほしいと思う」

 聞きたくないと思いつつ、ベアは尋ねた。

 「なにをやらかした」

 「全部話していたら朝になる。ひとつあげるとすれば、塩沼で塩を小山に盛るだろう。あれをやった」

 「どこに問題が?」

 「高さ十メートルだ。どやしつけてすぐに元通りにさせたが、あれが崩れてきたらと思うとぞっとする」

 ベアは想像してみた。高さ十メートルの塩の山。すぐにハルトマンと同じ結論に達した。


 翌朝、出発前にトーコと話をしておこうと思ったベアだが、朝食の席では見かけなかった。出発の時刻まで間がないので、集合場所へ行くために席を立つと、ちょうど外から息せき切って戻ってきたトーコに行き会った。

 「ベアさん、おはよう」

 「おはよう」

 「今ね、魔の領域に持って入る樽にお水を入れるの手伝ってきたこと。前から四番目のトロッコに積んである樽にお水いっぱい入れてきたからよかったら使ってね。時間ないからひと樽だけなんだけど」

 「そうか、ありがとう。ところでゲルニーク塩沼から戻ったら、ツムギグモの巣を採りに行こうと思う」

 「クモの巣? ツムギグモってたしか大きくて、その糸はこの間ベアさんにもらったロープになるんだよね?」

 「そうだ。俺も受けたことがないんだが、せっかくトーコの水魔法があるからやれるんじゃないかと思ってな。チームの申請もあるし、戻ってすぐにとはいかないが」

 「チーム?」

 思ったとおりトーコが食いついた。ベアは用心深く言葉を選んだ。

 「深いところへはまだトーコには無理だが、近場に行くときはチームを申請しておけば、いちいちふたり分の入域許可を取らなくてすむ」

 ほんとうはひとりがふたりになったくらいでは大して手間は変わらないのだが、大事なのは今後もトーコを連れて行くつもだと本人にわからせることだ。 

 「俺もツムギグモの巣取りは経験がないんでな、少し調べておいてくれるか?」

 ベアが不在の間は魔法を使わない宿題を出して気を紛らわせておけ、とはハルトマンの入れ知恵である。

 「判った、調べておく。どこに行けば巣があるのか、どんな道具が必要なのか、どうやって取ればいいのか、最近の取引価格と、巣の使い道と……」

 すでに大分前のめりなトーコにベアは一抹の不安を感じたが、出発時刻になっていたので、ふたりはそれぞれの方向へ向かって分かれた。


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