第1話 はじめてのおつかい
「トーコ、起きなさい。朝ごはん食べちゃいなさい」
居候先の娘たちにかわるがわる起こされること三度。
半分寝ながらベットから這い出たトーコはチェストの上の洗面器に重ねた水差しに手をかけ、その軽さにびっくりしてやっと目を覚ました。
「そうだった」
呟いて窓を開ける。初秋の冷たい風が眠気の残滓をさらってゆく。
洗面器一杯分ほどの大気中から集めた水を窓から呼び込み、渦をまく水塊に顔を突っ込む。呼吸を止めて適度に待ったあと、使用済みの水を外に捨て、新しい水ですすぐ。顔以外のところにも盛大に飛び散ってしまった水気を蒸発させて洗顔完了。
「水差しと洗面器を濡らさなくていい考えだと思ったんだけど、要改良だなあ」
チェストの上のノートにメモを取りながら呟く。それでも魔法はやればやっただけ上達するし、どこをどう改善すればいいのか分かるからいい。直火とフライパンで焦げない目玉焼きをつくる野望に比べれば目指すべきところは見えている。
「飛び散らないように水流をコントロールして、水滴も顔にそんなに残らないようにすれば蒸発させる手間が省けるよね」
屋根裏の子ども部屋から階下の居間に下りると居候先の四女バベッテが買い物籠を手に出かけるところだった。
「おはよう。出かけるの?」
「おはよう、お寝坊さん」
そのとおりなのでぐうの音も出ない。
「シラー夫人と市場に行ってくるわ。そんなに時間かからないと思うから、出かけるなら鍵はかけなくてもいいわ。どうせ、お父様が診療所にいるんだし。洗い物だけお願いね」
「うん、いってらっしゃい」
居間では一家の主ヘーゲル医師が食後のお茶をすすっていた。医師と言っても彼は治癒魔法使いだから風邪引きや持病持ちの人が診療所が開くのを待つことなどない。外科的な治癒魔法が専門なので、忙しいときは忙しいが、朝は一番急患の発生する可能性の低い時間帯で、他の家族と違ってゆっくりできるのだ。
ヘーゲル医師の向かいには三女のアニ。
「あれ、今日はゆっくりなんだね」
「うん、ギルドに立ち寄る用事があるから」
トーコはパンに伸ばしかけた手を止めた。
「薬草の依頼?」
「そう、あとちょっとで暑さも消えるからこんなところで追加発注したくないんだけど、足りないと困るし。アカメソウの実もそろそろ熟す頃だから、アカメクサグモの依頼も出しときたい頃合だったけど」
「いいなあ、ギルド」
「おや、お使いがしたかったの?」
「わたしも早くギルドで依頼が請けられるようになりたいってこと!」
「じゃあ早起きできるようにならないとね。いい依頼は受付が開くと同時に取られちゃうって話」
トーコは肩を落とした。
「ギルド構成員へのハードルは高い」
「このままうちの子になっちゃえば? けっこう治癒魔法使えるんでしょ」
「ヘーゲル医師みたいには無理。魔法が使えるのと、診療できるのは全然別だもの」
「使えるだけいいじゃないの。娘たちは四人ともそろって魔法の才能はないし。旦那たちもてんで畑違いだし」
「無理。傷口見るの怖い。血怖い。人の命を預かるなんて絶対無理」
「なのにギルドはいいの?」
「ベアさんみたいに採集専門って手があるもの。それに市民権欲しいし」
こだわるねえ、と朝食の席を立ちながらアニは笑い、トーコの頭にぽんと手を置いて居間を出て行った。
トーコはため息をついた。ギルドの構成員を目指して魔法の練習をする日々だが、十五歳の資格要件を満たすにはあと半年という時間が必要だ。
ヘーゲル医師のところに居候させてもらいながら治癒魔法と基礎的な魔法について学びながら早半年。寡黙とはほど遠いにぎやかな四人姉妹のおかげでそれなりに言葉も覚えたと思うし、魔法にもだいぶなじんだ。
早くギルドに登録して魔の領域に行けるようになって独り立ちしたい。ヘーゲル家の居心地は良いけれど、いつまでも甘えられるわけではない。三ヶ月前にはアニが結婚して家を出て、つい先月には居候仲間だった兄弟子も晴れて卒業してしまった。アニは町役場に勤める夫が近隣の町に出張しているときはこうして実家に戻ってくるし、兄弟子も町を出たわけじゃないから、取り残されたトーコは寂しさよりも焦りを感じてしまうのだ。
「朝食が済んだら、お使いを頼む」
トーコがひとりでうんうん唸りながらぱくついていると、ヘーゲル医師が手元の書類をめくりながら言った。彼はいつも朝食後、お茶を飲みながら読み物をする。なんだか朝刊を読みながら朝ごはんを食べていた父親に通じるものがある。
「お使い?」
トーコは首をかしげた。本来なら使い走りのたぐいは半人前以下の弟子の仕事の最たるものであろうが、魔の領域と接するこの町では女性はひとり歩きしないものだ。バベッテだってご近所さんと連れ立って出かけた。トーコも兄弟子がいた間は一緒にくっついていくこともあったが、彼がいなくなってからはなかった。
「結晶樹の実をひとつ買ってきてくれ。店はアニが知っている」
「はあい」
なるほど、それでさっきバベッテは買い物に行くときに、出かけるなら、なんて言ったのか。
トーコは最後のパンのかけらでお皿をぬぐって洗い物に立った。食器を重ねてついでに移動魔法も重ねて、厨房に一緒に移動する。
兄弟子に教えてもらったこの魔法は手が二本以上欲しいときに大変便利である。ちゃんと見てないと壁にぶつけて割りかねないので、注意を払う必要はあるが、彼に教えてもらった魔法で一番役に立っている。こっそり門限破りをする移動魔法の使い方とか、相手をぶん殴るのに自分の手を痛めないための障壁魔法とかはたぶん一生用がない。というか、そんな魔法を女の子に教えるのってどうなんだろう。
大気中から皿がすっぽり入る大きさの水塊を作って暖め、予洗い、洗浄、すすぎを終えたら水分を飛ばす。途中汚れた水を取り替えながらきれいになった食器を棚に戻す。全てがピカピカの状態で収まるべきところに収まり満足した。
最初は皿一枚もなかなかうまく洗えなかったが、いまではヘーゲル家で毎日使っている陶器の食器の扱いなら楽勝である。やっぱり水流は回転方向を変えながらが一番早い。水塊の両端から逆方向の回転をかけたらどうなるかな、などと考えながら居間に戻るとアニが待っていた。
考えに没頭して言いつけられたばかりの用事を記憶のかなたに飛ばしていたトーコは、大慌てで身支度しに階段を駆け上がった。
ヘーゲル医師の自宅兼診療所は東門近くの大通りに面している。「魔の領域への入域管理ギルド」通称ギルドはそこから町の中央に向って大きな通りを二本越えた先にあった。
公国の東、魔の領域と接するユナグールの町でも、最もこの町らしいのがのこの東門周辺だ。人の領域と魔の領域の狭間であり、珍しい動植物を取りに危険な土地に入る者たちを相手に商売する店が多い。普通とは違い、町の端、つまり東門が近ければ近いほど家賃が高くなるのも他にない特徴だ。
その大通りに診療所を構えるヘーゲル医師も普通の医者ではない。治癒魔法を使える魔法使いで、魔の領域特有の怪我や症状に対応する特殊な知識を併せ持つ、この町ならではの専門医だ。
トーコが居候させてもらっている半年のうちに多数の人が運び込まれた。快復する人も亡くなる人もいる。魔の領域は人の領域とは異なる生態系があり、不用意に踏み込めばしたたかに拒まれる。それでも侵入を試みる者が絶えないのは、人の領域にない貴重な鉱物、動植物の宝庫であり、一攫千金も夢ではないからだ。腕に覚えがあって、失うものより得るものが多いならば試す価値はある、と考える人間は多い。トーコのように。
今は好意でヘーゲル家においてもらっているが、ここでなんとか独り立ちできるだけの仕事を探そうと思ったら大変だ。就職難は平成日本だけではないのだ。生活保護などなく、農業生産性の低いここのほうが職の有り無しはよっぽど生死に直結する。
ことにこの町では一攫千金を夢見たものの、能力が及ばず魔の領域に入ることをあきらめたり、怪我などで引退せざるを得ない人間がたくさんくすぶっている。体力で負け、言葉もおぼつかないトーコの出番など待っていたら永遠にこない。
というわけで、トーコも魔の領域への入域資格の得られる十五歳の誕生日を待ちつつ、ヘーゲル医師に魔の領域特有の受傷や対処方法を学んでいる。
幸い、トーコにも治癒魔法の才能があったようで、ヘーゲル医師の下で実地訓練を積みながら、単純な外傷なら自分でなんとかできる自信もついた。ヘーゲル医師得意なのは外科的な治癒魔法だが、手持ちの魔法で対応できないものは、近隣の治癒魔法使いたちと協力することが多い。お互いの得手不得手を補いあう仕組みだ。
ただ、聞くところによれば特殊技能者である治癒魔法使いの治療は、折れた骨も、全治三ヶ月の怪我もあっという間に治してしまうものの、高額で、それこそよほどの大怪我の時でもなければ、魔の領域で稼げるような者か一部の裕福な者にしか使えない。肉食性の危険な魔物は血の臭いに敏感なので、怪我をすると傷がふさがるまでは魔の領域に入れない。傷がふさがっても負傷を抱えて入域するのは危険だ。つまりその間の稼ぎを失うわけで、天秤に掛けた結果、ヘーゲル医師の診療所へやってくる者も多い。
彼らから魔の領域の危険について嫌というほど聞いているが、トーコは入域をあきらめるつもりはない。勝算はあると思っている。魔法使いとしては治癒魔法と簡単な水魔法、移動魔法が使えるだけだが、安全な飲み水の確保と怪我への対処が自前でできるのは大きい。
なにも凶暴な魔物を狩って名をあげようというわけではない。比較的安全な場所で季節の果実や木の実、薬草の採集などでまずはほどほどの収入が得られればいい。
ヘーゲル家のひとたちはいい顔をしなかったし、ヘーゲル医師などは診療所を手伝ううちに考えを変えるだろうと思っていたようだが、意外に治癒魔法ができてしまったので、ますます決意を固めただけだった。
彼の娘たちは冗談交じりにトーコが診療所を継げばいいなどというが、トーコとしてはごめんこうむる。アニに言ったとおり、治癒魔法が使えても、それと診療は別物だ。
傷口を見て、怪我を治したとする。しかしその傷は毒のある魔物がつけたもので、解毒する必要があったとする。怪我をした本人がしゃべってくれればいいが、そういうことを運ばれた場所や季節から、見た目だけで判断するなど到底無理だ。第一、おっちょこちょいの自分に人の命を預かるような職業につくのは無理だ。それくらいの自己判断力はある。
ヘーゲル医師も彼の知り合いの治癒魔法使いたちも親切に魔法の手ほどきをしてくれたが、やっぱり魔法使いというより医者としての能力のほうが大事だと思う。最近ではご近所の治癒魔法使いに呼ばれてトーコも魔法を行使するが、あくまでちゃんと診療できるひとの監督下で実務を担当しているだけだ。
ギルドの建物は大きい。まだ町などなかった頃、一番初めに出来た建物で、最初は小さな要塞だったらしい。魔の領域に対する備えだが、このあたりの魔の領域が比較的安全で、人が入って狩りや採集しやすいことからいつしか人が集まって町ができた。今の人口二万人の大きな町はこの建物から始まったのだ。
早朝の忙しい時間帯をすぎたギルドは閑散としていた。ここにくるのは二度目だ。ふたりは奥の窓口に向った。薬草採取の依頼手続きを取るアニにくっついてカウンターの中を覗く。中で事務作業をしている職員も多く、なんだか銀行か郵便局みたいだ。
「ヒラバソウの根はたしか他に二件ほど依頼が来ているが、花はまだこれからみたいだね」
「出たらでいいわ。それよりシマザサの実はまだかしら」
「夏も終わりだからねえ。いいのはもうあまり取れないから、採りに行く人も少ないんじゃないかな」
「どうしても追加がいるのよ。このままじゃ来年まで保たないわ」
「量を減らすか、報酬をあげるかすれば、引き受け手があるかもしれないけど」
「一キロ以上なら百グラム五十五クランで引き取るわ。そうでなければ五十クラン。でも最終的に一キロを超えたら追加報酬も払う。三十キロまでなら引き取るわ。状態のよい実でなかったら、要相談ということで」
「じゃあそれで掲示板を張り替えて様子を見ようか」
テキパキと交渉するアニを横目にトーコは、事務スペースを挟んで反対側のカウンターに知った顔を見つけて手を振った。気がつかない。背伸びして両手も真上に上げるが、気がつかない。ジャンプするとやっと気がついたが、軽く手を上げただけで受付員に視線を戻してしまう。
一ヶ月ぶりなのに、なんと冷たい反応だ。これはあとでヘーゲル夫人と四姉妹に訴えねばなるまい。ヘーゲル家の台所会議は時に容赦ない裁判の議場と化すのを知らないな。
「何しているの?」
「ベアさんがいた」
トーコが示すと、たびたび裁定官役をおおせつかるアニはキラリと目を光らせた。
「ちょうどいいわ。掲示板なんかより直接頼むわ」
三女はトーコを引き連れて、ベアが受付を離れるとすかさず声を掛けた。
「ベアさん、おひさしぶり」
「ああ、ヘーゲル医師のとこの……」
「三女のアニです。最近ちっとも寄ってくださらないのね。父もトーコも寂しがっていましたわ」
トーコは援護にうんうんとうなずいておいた。実際、トーコを拾ってヘーゲル医師に押し付けたのはベアなのに、ちょっと放っておきすぎじゃないか。
「半月ほど遠出していた。昨夜戻ったばかりだ」
ベアはたじろいだようにいつも眠そうな目をゆっくりとしばたかせ、鬚のまばらな顎をなでた。
「じゃあここでお会いできて良かった。実はシマザサの実を七日も前に依頼しているのに、まだ手にはいらないんですよ」
「ああ、もう最盛期はすぎているからな。そんなには採れないだろう」
ベアは受付員と同じ事を言った。アニはしれっとしてそうなんですか、と驚いて見せた。
「困ったわ、今年はずいぶん、ウモウグサが生えてきて、いつもよりシマザザのかぶれ止めが出たから、今のままじゃ足りなくなりそうで。どうしても必要なのに。困ったわあ」
「なるほど」
「ええ、困っているんです。とっても」
ベアが観念したように押し黙り、アニがとっておきの笑顔でにっこりする。
「二週間も魔の領域にいらしてたなんて大変ですわね。よろしかったら父の顔を見がてらお昼にいらっしゃいません?」
勝負あったと見た。
しっかりもののアニは店まで送ってもらい、さらにはそこでベアがギルドで依頼と合わなかった採集物も吐き出させた。長期の採集から戻ったベアを他の店に立寄らせずひっぱってきたアニは鼻高々だ。
ふつうにしてさえくたびれて見えるベアが、さらにくたびれて見えたのは、過酷な魔の領域に長居していたからだ。バベッテの美味しいご飯を食べれば元気になるはず。きっと、たぶん、そう。
「それじゃ、この金額でよろしければここにサインを。こっちでギルドに出しておきますね」
うまくベアにトーコの送りを押し付けたアニはご機嫌で店の奥に引っ込んだ。並んで歩きながらトーコはさっそくベアに質問した。
「どうしてアニが書類を作ってギルドに出すの? ベアさんから薬草を買っただけでしょ?」
「魔の領域へ入るのにギルドの許可がいるように、魔の領域から採取してきたものをギルド構成員が売却するには基本的にギルドの許可がいる」
「黙って売っちゃう人とかいないの?」
「いるな。自分で使ったり、あげたりするのは売却と言わない。お礼に何か貰ってもだ」
「えーと、物々交換?」
「まあ、一種の物々交換と言えばそうだが。だが、おおっぴらにやればギルドから除名されることもあるし、買い取ったほうだってギルドに睨まれる」
トーコの質問攻撃は毎度のことなので、ベアも分かる範囲で答えてやる。冗談か本気か知らないが、彼女がギルドに関心があるのは事実だ。
ギルドもすべての採集物に買い取り先を仲介できるわけではないので、ある程度は暗黙の了解で見てみぬふりだが、あまり堂々と派手にやられてはギルドとしてもお目こぼしできない。ギルドの仲介手数料を嫌って個人取引に走ったところで、入域を管理しているギルドが気がつかないわけないのだ。
ギルドは魔の領域から戻ってきたギルド構成員から依頼物を預かり、依頼人に引き渡し、代金を代わりに受け取る。その金額は手数料を差し引いて各ギルド構成員のものとして登録されるが、つまりは擬似銀行口座のようなものだ。ギルドを襲うような命知らずの銀行強盗はいないので、稼ぎのよいギルド構成員ほど引退後を見据えて資金を入れっぱなしにしておく。この余剰金を使ってギルドは構成員に融資や緊急支援を行っている。
銀行と違うのは現金を預入れることができないという部分かな、とトーコはメモを締めくくった。ギルドには思ったよりもお世話になることが多そうだ。
目当ての店は路地を一本入ったところにあった。トーコはいったんメモをポケットにしまい、扉を押した。
狭くて薄暗い店内にはカウンターしかないように見える。最初はびっくりしたが、これがここの普通だ。市場ならまだしも、商品をたくさん並べている店は少ない。何が必要か伝えて奥から出してもらうのだ。声を掛けると中から店主が出てきた。
「結晶樹の実をひとつください」
「どんな?」
どんな? トーコは固まった。どんな、ってどういう意味?
「あの、結晶樹の実。一個ください」
言葉がうまく伝わらなかったかな。店の人が首を傾けた。
「大きさは? 属性は? 何に使うの?」
え、そんなに色々あるの。
「治癒魔法の魔力の補充に使うんだと……たぶん」
「たぶん? 高価なものだから確認したほうがいいと思うけれど」
「そうだね。……また来ます」
はじめてのおつかい、玉砕。トーコは「大きさ、ゾクセー、用途を確認すること」とメモしてすごすごとヘーゲル家へ戻った。
道中でゾクセーって何、とベアに聞いたら魔力を蓄える結晶樹は水や風の魔力を帯びていることが多いのだそうだ。ごく微かなものだが、特定の用途に使うなら同じ属性魔法に使うのが効率よいらしい。治癒魔法にはあまり関係ないとも。
「ヘーゲル医師はどんなのを使っている?」
「親指の爪くらいの透明っぽいの。薬棚にいれていたよ」
「それだけではな……何か言われなかったか? こういうのを買って来いみたいな」
「ううん」
ベアは怪訝に思った。らしくない。ヘーゲル医師にしては遺漏がある。よほど忙しくて緊急で欲しかったのだろうか? 結晶樹の実と何かを聞き間違えていないだろうか? アニが分っているはずだったのだろうか。
「ただいま」
トーコの後に続くと、居間でヘーゲル医師がくつろいでいた。
「珍しい顔だな。生きていたようでなにより。まあ、座れや。トーコ、結晶樹の実は買えたか」
「買えなかったー。大きさはどのくらい? 属性はどれがいいの? 何に使う用? あとは……予算は?」
「そうか、買えなかったか。先にベアにお茶を入れてやれ」
「ベアさん、アカバネ茶とホウコウソウのお茶とどっちにする?」
「じゃあ、アカバネ茶で」
「バベッテ姉さんの味は期待しないでね」
パタパタと奥へ姿を消したトーコを見送ってベアは息を吐いた。賑々しいことだ。ヘーゲル家になじんでいるようで、それはよかったが、二週間誰とも口を利かなかったあとだとペースについていきかねる。
トーコが出て行くとさっきまでののんびりがウソのような動きで立ち上がったのが、ヘーゲル医師だ。戸棚から小さなグラスをふたつと小ぶりの瓶を出してきて、すばやく注ぐ。蒸留酒の香りが鼻腔をくすぐる。
「早く飲め、見つかるとうるさい」
どっちが居候だ。トーコは本当になじんでいるようだ。大急ぎでグラスをぶつけ合う。久々の酒の味を楽しんでいると、ヘーゲル医師がせかした。
「グラスを隠せ、戻ってきた」
早くないか、と思っていると、さっきと同じ軽い足音が聞こえて、ドアがあく。菓子鉢を持ったトーコが姿を見せ、ベアはまばたきした。
ドアから、大きなポットと三つ重なった皿とカップ、ジャムの壷がトーコの浮かれた気分が伝染したように空を上下しながら漂ってくる。ポットはトーコが置いた鍋敷の上に静かに着地し、他の食器もその周囲に降り立った。減速も静止もスムーズだ。
茶器が無事に着地すると、トーコはドアを閉め、菓子鉢をヘーゲル医師とベアの間においた。お茶をカップに注ぎ始める。いい香りだ。
「今日のお茶は、いい温度だと思う」
「それじゃ、期待しようか」
ヘーゲル医師はグラスを隠し持っていないほうの手でカップを引き寄せ、菓子鉢を覗き込んだ。
「昨日、アカメソウの実が入った焼き菓子を貰わなかったか?」
「探せばあると思うけれど、あっためられないよ? 火は誰かいるときじゃないと使っちゃいけないから」
男どもはおよびでないらしい。
トーコはあっためたほうが美味しいのに、と言いながらヘーゲル医師にかまわんかまわん、蜂蜜もな、とうまいこと追い払われた。トーコが部屋を出て行くと、ヘーゲル医師はまずグラスを回収して戸棚に戻した。
「どう思う?」
「うまいもんですね。お茶も魔法も」
「なんだ、あんまり驚いてないな」
イタズラが不発した子どものような口ぶりだ。
「充分驚いていますよ。言葉もろくに話せなかったのが、半年でこれですからね」
申告どおりベアは驚いていた。トーコをヘーゲル医師に預けたのは別にその才能を見出して、というわけでなく、ベアの知り合いで一番学があってかつ娘が四人もいるのだから女の子の扱いには慣れているはずだという勝手な理由だ。
それでも三月もしないうちに、水を生成して魔法の才能を示した。ヘーゲル医師が治癒魔法を教えて今では診療所を手伝っているのは知っていた。そしてひと月前に会ったときは覚えたての移動魔法を自慢げに披露してくれたが、危なっかしいものだった。それが今や、
「移動魔法の同時展開を三つ」
ポットと皿とカップの動きは別々だった。
「一時期、国境警備隊から預かっていた若いのがいただろ。奴が教えたらしいんだが、食器くらいの重量のものならご覧の通りだ。で、ここからが本題だ。一度トーコを連れて魔の領域に入ってみちゃくれないか」
「話のつながりが見えませんが」
「魔法が使えるんで、やっこさん、すっかり乗り気になっている。来年にはギルドに入りたいんだと。そんな甘いもんじゃないだろう」
「そういえば、そんなことを言っていましたね」
「診療所を手伝わせりゃ現実が見えるかと思ってたんだがな。最初の頃は怪我人が来ただけで廊下まで逃げていたのが、今じゃずいぶん楽させてもらっている。そしてまたお気楽にそそのかす奴らがいるからな。なんでギルドの連中は揃いも揃ってお調子者ばかりなんだ? 他人事だからって簡単に行ってみろだなんて」
だんだん愚痴になってきた。
ベアはお茶をすすった。いい味だ。
「トーコには治癒魔法の才能がある。今なら俺も教えてやれるし、引退する頃には一人前になれるかもしれん」
「まあ、こういうことは本人の意志ですから」
じろりと睨まれ、ベアは観念した。
「分かりました、連れていきましょう」
ベアにもトーコの世話をヘーゲル医師に丸投げしている負い目がある。密談を終えたところでトーコが戻ってきた。首を傾げている。
「おかしいなあ、見当たらないんだけど。誰か食べたかな」
「そういや朝に誰か食ってたな」
しれっと言う誰かさん。ベアはジャム壺の中身に興味があるふりをした。
「結晶樹の実はどういうのを買ってくるの?」
「二十グラム以上あれば、多少濁っていても構わん。属性もな。値段は十~十二クランならまあいいだろう」
トーコはしっかりとメモし、立ち上がった。
「ベアさん、お茶のおかわりは?」
「充分だ。それよりさっきの店に行くなら付き合おう」
「やった、ありがとう」
腕だのみの流れ者も多いユナグールは女ひとりでふらふら出来るほど治安が良くない。国境警備隊とギルドが目を光らせてはいるが、血の気の多い者が減るわけではない。
「トーコ、魔の領域に行きたいか」
「うん、来年になったら行くよ」
すったもんだの末、なんとか結晶樹の実を手に入れたトーコはためらいなく答えた。決定事項らしい。
「三月が誕生日なの。早く十五歳になりたいな。黙ってれば分からないっていう人もいるけれど、準備にも時間かかるし、もっと情報を集めてからじゃないと」
「魔の領域は、一部の人が思っているような魔物の巣窟というわけではないが、それでも魔物がいる場所なのは変わりない。安全に眠れる場所がないというのは、慣れた者でもきつい」
「ベアさんでも?」
「そうだ。二十年以上入っていても、やっぱりあそこは人のいる場所ではない。だから俺も、他の人も町に帰ってくる」
「住む場所じゃないってのは分かるけど。でも絶対安全な場所って本当にあると思う? 地震も火事も洪水も来ると思っていて住む人はいないんじゃないかな。たぶん、その瞬間がくるまで安全だと思っているんじゃない? わたしみたいに」
「そうか」
「ギルドに入れるか分からないし、入れてもやっていけるか不安だよ。でも、もう一度あの場所に行きたい。よく判らないまま、あの場所を離れちゃったことを後悔している。今でもあのまま、あそこで誰かが探しに来てくれるのを待っていたほうがいいんじゃないかって気がするの。帰りたいけど、帰れるのか判らない。どっちつかずで、前にも後ろにも進めない気分なの。それで気持ちにふんぎりがつくかどうか分からないけど、もう一度行きたいの」
ベアはそうか、と再度呟いた。もう一度あの場所へ行ったら、それでトーコは魔の領域に背を向けられるかもしれない。ヘーゲル医師の思惑はともかく、ふっきれるなら、少しの間協力してやってもいい。
ヘーゲル家に戻ると、バベッテが帰っていて昼食のいい匂いが漂っていた。
「おかえり、トーコ。手を洗ってらっしゃい。ベアさんもおかえりなさいなんですって? お昼はありあわせだけど、夕食は腕によりをかけるから楽しみにしててね」
いつの間に夕食まであずかることになっていたんだろう。ベアが疑問に思うよりも先に、ヘーゲル医師が言った。
「トーコ、ギルドへの申請だけどな、ベアが見習い扱いで出してくれるとさ」
「見習い?」
「そう、ベアにくっついて魔の領域に入れるってわけだ」
「えっ! 十五歳以下でも?」
「見習いだからな。その代わりひとりじゃだめらしいが。まあベアにも都合があるだろうから、週一回くらいでぼちぼち始めてみたらどうだ」
ベアは絶句した。おい、なんだそのいかにもトーコの志望を応援していますみたいな物言いは。さっき俺が聞いたのは幻聴か?
「いいの!?」
裏で家主が腹黒い計略をめぐらせているとも知らず、トーコは飛び上がって喜んだ。
「ベアさん、お願いしてもいいの!? ベアさんと一緒に入れるとは思わなかった。よかったー、ちょっと不安だったんだ。でも、だいぶ足手まといになっちゃうから……」
語尾が小さくなり、ベアはやむなく口を開いた。
「……まあ、子どもが気にするな」
トーコの頭越しに視線で圧力をかけるタヌキ親父がいるのに、他にどう言えと。喜びから我に返ったトーコに質問攻めにされながら、ベアは期待と責任の重さにげんなりした。