第四章
第四章
一
最悪の目覚めだった。
インターホンで起こされて、思い出したような痛みに喘いだ。眠っているときは気にならないのに、目覚めた途端に鈍痛がよみがえる。
「佐山さん、いらっしゃいますか。おはようございます。失礼ですが――佐山晶人さん」
野太い声の男が呼ぶ。
子どもの悪戯のようにインターホンを連打するおかげで、そのたびに残響が痛みに沁みる。
近所迷惑なかぎりだが、さいわいなことに両隣の部屋は空いていた。時計を見ると八時になったばかり。きしむ体を引きずって、玄関に向かった。
「朝早くからすいません。……佐山、さんですか?」
チェーンロック越しにまだ半分しか開かない目でにらむと、見るからに胡散臭い感じのする男が立っていた。歳は三十代後半ほどだろうか。背が高くてひげが濃い。真夏のさなかにスーツ姿で、そこからぬっと無粋な黒い手帳をのぞかせた。
「紫崎署の者です。ひどい顔ですなぁ……いや失礼。ボクシングでもされてるんですか」
「なんですか」
「そんなに警戒なさらなくても結構です。お時間はとらせませんので、ちょっとよろしいでしょうか」
そういうのを、時間をとらせるというんだ。
警察の世話になるような心当たりはない。と思ったが、昨日のケンカはあきらかに傷害である。先に手を出してきたのは向こうだから、立派な正当防衛だろう。
ところが、警察の目的はそうではなかったらしい。
「じつは今朝方ですね。捜索願が出されておりましたご友人の津野和敏――ご存知ですよね? 彼が自首してきましてね。ええ。しかも被害者を連れて――その、強姦致傷容疑なんですが」
「自首……?」
「ええ。被害者は津野とも交際のあった大平洋子二十三歳……こちらもご存知ですよね。いま署のほうで供述とっとりますが、容疑は間違いないようです。ただ、なにぶん療養中の身での失踪でしたからな。なかなかデリケートなんですよ。津野がどうしても佐山さんに話したいことがあると言ってきかんのです。ここはひとつご協力願えませんかね?」
「ふたりとも知らないひとです」
ドアを閉めた。
「あ、ちょっと……佐山さん!」
ドアを叩かれる。うるさい。放っといてくれ。関係ない。どうでもいいことなんだ。
耳をふさいでうずくまる。
うるさい。たのむから。
しずかに。
うるさい。うるさい。
……
…………
少しだけ静かになった。
「ばかぁ!」
不意に高い、いまにも怒って泣きだしそうな、それでいて笑っているような甘えて鼻にかかった声。顔をあげ、おそるおそるチェーンを外す。ノブを引いてドアを開けた。
「ホント馬鹿だよ、佐山くんは!」
なつかしいかおりがあった。中途半端な表情は、怒っているのか笑っているのか、泣いているのかもわからない。白いブラウスには、小さな花が敷きつめられていた。
「……少し痩せたか?」
一週間会えなかっただけ。ただそれだけだ。
「お互いにね」
にこりとアオリは笑った。
なんだか犯罪者が説得されてるみたいだった。苦笑して刑事を仰ぐ。
「なにをすればいいんですか」
嘆息して彼は言った。
「きみとふたりきりで話がしたいそうだ。津野が犯行の動機を話す条件として、それを望んでいる。犯行は認めているし、状況証拠もとれているにも関わらず、それ以外はなにを聞いても黙秘だ。……まったく、困ったもんだよ」
「大バカ野郎ですね」
ぼさぼさの頭を掻く。
「お互いにね」
アオリがまた笑った。
「よく似てるよ、ふたりとも」
*
薄汚れた服と無精ひげ、すっかり頬はこけてしまっている。濃い隈のせいでひどく落ちくぼんでいる目は、いつも汚い眼鏡越しでしか見たことがないのに、裸眼の眼差しはなんだかとてもきれいだった。
せまい取調室。刑事ドラマに出てくるのにそっくりだった。安っぽい机とパイプイス。部屋中にこびりついている煙草のにおい。まさかこんなところに、津野といるなんて考えもしなかった。カツ丼もくれないんだぜ、と開口一番にぼやいていた。
「さいッこーだったぜぇ! マジ冗談抜きで! サイコー!」
いつもの津野だった。
追試をまぬがれた、新しいクルマを買ってもらった、女ができた――なにかを自慢するときの、どうしようもないことでも誇らしげに語る津野だった。行儀の悪い黄色い歯をむいて、しきりに悦びの奇声をあげていた。
「こうバシーンとぶっ叩いてな、そんでこう押し倒すわけだ。そんでよ、入れたまんまぶん殴ってやったんだぜ。こう、こうだぜ、こう! 何度も、何度もさ。おうおぅおぅ! もうサイコーよ、サイコーの連続よ!」
半狂乱の恍惚状態で、津野はご丁寧にも実際にそのシーンを再現しようとしていた。馬乗りになってこぶしを振り下ろしている。ただの馬乗りではなくて、腰もちゃんと動いているあたりがリアルだった。ただし相手はいないので、想像力で補う必要がある。あいにくと想像力は乏しいほうなので助かった。
「そしたらよ、あのアマ、ゆるしてぇなんて泣きやがった。うっせえよバーカってなもんだぜ。許せっかよ、バカにしやがってよ。でもあれだな、殴ると手が痛ぇんだな。今度は咥えさせたまま小便してやったんだ。そしたらよ、オエッて吐きやがった。ムカついたんで、ぼこぼこに蹴りつけてやったんだよ」
あはあはと津野は、壊れたような声をだした。めくれたくちびるは白く、ひび割れていた。
「あのアマ、遊びまくってる感じしたもんなぁ。あんなカッコして『処女なの』なんて嘘つきやがってよ。よくも騙しやがったなってもんだぜ」
「津野」
「ひとをなめるのも大概にしろってんだ。どうせ舐めるなら――」
「なあ、津野」
恍惚とした廃人の目を彼はしていた。
「おまえ、自分のしたことわかってんのか」
その目が一瞬険しくなって、鋭く突き刺さってきた。
「なんだよ。なんで佐山にそんなこと言われなきゃなんねえんだよ。説教か? 関係ねえだろ」
「そういう問題じゃない」
「どういう問題なんだ」
考える。
「迷惑がかかった」
本音だろうか。自分で言っててわからない。でも間違いではないはずだ。こいつがおかしなことをしなければ、アオリとケンカすることもなかったろう。
「悪かった」
姿勢を正し、津野が頭をさげた。驚いた。謝ってほしいんじゃない。
「謝るんなら、おまえの両親に謝れ。心配してた」
刑事から聞いた。毎日、息子のいなくなった病室で一日中ぼんやり待ち続ける母親と、仕事も断って自宅から離れられない父親の話を。両親に愛されているはずの御曹司は、なぜ道を誤ったのか。
「それはできない」
純真な目が真っ直ぐ見つめかえしていた。
「親には心配をかけたが、迷惑はかけていない。心配は一方的に相手がするものであって、俺が責任をもつのは自分がかけた迷惑だけだ」
「詭弁だ」
「得意じゃねえか。よくおまえが使うだろう」
津野が笑った。胸をえぐる言葉に直球に、思わず目をそらす。
「オレの場合は……都合が悪いから、自分を納得させる言い訳をつくってるだけだ」
「それも言い訳だろうが。卑屈だな、佐山よぉ」
うるさい。
津野は皮肉たっぷりに続けた。
「なんでだよ。なんで自分を納得させなきゃなんねえんだ。なんで受け入れられねえんだ。それで卑屈になったってんなら世話ねえぜ。子どものときのことか? 三年前のことか? それがいまのおまえを作ったって言いきるつもりかよ。おまえはそれだけなのか?」
「おまえには心配してくれる人がいるだろう」
歯噛みして答えると、途端に津野は腹を抱えて笑いだした。
「なるほどね。健全な家庭環境で育ってきた俺が、佐山――おまえみたいなこと言ったんでムカついてんだろう? なんでも周りのせいにしてきたおまえはよ、環境に押しつけない俺を見て焦ってんだろう。それとも、うらやましいのか? ……いや、違うね。本当は自分を見てるみたいでアタマきてんだよな」
激しい音をたてて、パイプイスがひっくり返った。津野は汚い床に倒れ込んだ。あわてたように外で待機していた警官が飛び込んできたが、津野が適当に言いくるめて返してしまった。閉まるドアの隙間から、アオリの心配そうな顔が見えた。
カマキリは難儀そうにイスを起こすと、慎重に座り直す。くちびるの端に、濁った血が溜まっていた。そうして、骸骨のような手を振る。
「やめだやめ。おまえに殴られるのはもうこりごりだ。しかも、なんでこんな三流ホームバラエティみたいなこと言い争ってんだ。これカメラに撮られてるんだろう? あとで絶対笑うぜ」
「…………」
「それによ。おまえが誰のせいにしようと知ったこっちゃねえしな。おまえにはおまえの人生。俺には俺の人生だぜ。こんなの時間の無駄だ」
それからこちらを見ると、ふと懐かしむように、津野はとても柔和な表情をした。
「しかしよぉ、佐山さ、変わったよな。――なんか昔と比べたらイイ顔になった気がする。まるくなったんだろうな」
「……なんの話だ」
「高校のときさ。俺よぅ――正直初めのころ、おまえが怖かったんだ。いっつもおっかねえ目つきしやがってよ。世のなかの全部憎むみたいな感じだったじゃねえか。いかにも誰も信用してねえって感じでよ」
おぼえてないが、そんなつもりもなかったはずだ。それに、昔からポーカーフェイスは得意な方だと思う。
唐突に津野は、口許を小粋にゆがませた。
「おまえはしあわせか?」
答えられなかった。
「葵里ちゃんは幸せか? おまえはよ、葵里ちゃんのために幸せになれよ。おまえが幸せなら葵里ちゃんも幸せなんだからよ」
「なにクセぇこと言ってんだよ。最近のおまえ、らしくねえぞ」
それを聞くと津野は目を白黒させ、とても恥ずかしそうに、しかしとても晴れ晴れとした顔で笑ったのだ。
「いやなに。人間は変われるもんだなって思ったんだよ」
引きつった声だった。それが津野の最後の言葉だった。
「おい」
コンパスのようながに股が、ふらりと動きだす。
「どこ行くんだよ」
細い背中が不恰好に折れ曲がっていた。
そうしてまた、ひとりになった。
*
それから。
津野は死んでしまった。
拘置所に移るためパトカーに乗せられる瞬間、物陰から飛び出してきた手負いの白ヘビに噛みつかれたのだった。病院に駆けつけるもむなしく、じきに息を引きとった。包丁をくわえたヘビは、狂ったように嗤いつづけていたという。
カマキリは交尾のあと、メスに食われるんだそうだ。
二
お昼すぎた頃にいらっしゃい、あずささんに言われた。
アオリとは通夜のとき、軽く言葉を交わしただけだった。「ケガ大丈夫?」「平気。バイト辞めたんだ」「そうなの」――。あいかわらず三島さんとは連絡がつかない。
「あらま、彼氏」
せまい待合室で自販機のまずいコーヒーを飲んでいると、誰かがそう呼んだ。
看護師長の伊藤さんだった。白衣のビール樽が、にこにこしながらやってくる。
「えーっと、あずさちゃんのお見舞い……よね?」
「時間を言われてたんです。ちょっと早く来すぎたみたいで」
伊藤さんはにっこり笑った。観音像の笑みに似ていると思った。
「ここ、いいかしら」
患者なのか見舞いなのか知らないが、何人かの子どもたちが中庭を駆けている。太陽の光がまぶしかった。
「どうしたの、ひどい痣だけど」
伊藤さんから洗剤のにおいがした。
「……転んだんですよ」
殴られた跡だということはあきらかだ。ましてや日常的に怪我を見ているひとには。弁解する気も起きない。
だが、納得したようではないにしても、それには触れないことにしてくれたようだ。
「あずさちゃんね、もうすっかりいいのよ。検査も全部異常なしだから、もういますぐにでも退院できるわ」
伊藤さんはいつも笑っている気がする。本当に菩薩なんじゃないかと思う。オオヒラさんより、よほど観音度合いが強い。
「彼女、なんの病気なんですか」
心臓に穴が空いているとは聞いていた。知らないことにしよう。そうすれば話題ができる。ひと付き合いはむずかしい。
「あの子、自殺が趣味なんだもん。ホント困っちゃうわよねぇ。人騒がせというか、迷惑というか」
「……え」
たぶん、目も口もまるくなった。
「いい加減やめなさいって、来るたびに言ってるんだけど、そこが自殺狂たるゆえんよね。――でも、本当に死にたいなら手首は縦に切らないとダメよぉ。横に切っても、すぐに塞がっちゃうでしょう?」
不謹慎なことを、いたって楽しそうにこぼした。患者の守秘義務は?
「だからね。あの子、本当は死ぬ気なんてないの。展示が近づくと毎回やらかすのよ。本物の病気だわね」
「……ど、どういうことですか」
待ってましたとばかりに、伊藤さんはにっこり顔を向けた。けれどもやはり観音のように見える。仏像は微笑んでいるというより、ほくそ笑んでるようにも見えるというのは、決して少数意見ではないと思う。
「ほら、病室ってなんにもないじゃない? 置いてるものもみんな質素だし。そういうね、想像力の妨げになるものがないから、作業がはかどるんですって! まったくいい気なもんね。病院でゲージュツするために、わざと手首切ってるのよあの子!」
昔の恋がどうとかって聞いていたが。えっと、あのひとも恋で変わっちゃったひとだから? ……失恋のすえの自殺未遂とはひと言も云っていないことに気づく。
「たいしたもんよね。図太い芸術家気質っていうのか知らねえ……理解できないけど。ただ、あちこちで賞獲るぐらいだからすごいんで――あら、彼氏。とんでもない顔してるわよ、大丈夫?」
「……あ、いえ。えっと――本当ですか?」
伊藤さんはころころと笑った。
「ウチじゃ有名よ、そんなの。もうね、また来たな、って感じ」
このまま帰ろうかと、一瞬本気で考えた。
伊藤さんと別れ、階段をのぼる。
二階の、階段脇。ためらいながらノック。
先客がいた。
やっぱり、という予感はあった。よかった、という安堵もあった。
「来た来た」
あずささんはなぜかうれしそうだった。今日もラフに黒いTシャツにジーンズだ。もっとも、病人ではないのだからあたりまえか。
「ミスター佐山。うーん、ちょっと目が据わってるかな? そりゃいつものことか。まあいいから、ここに来なさいな」
背中を向けているアオリの隣に、イスがもう一脚用意されていた。まえはなかったので、どこかから借りてきたのだろう。
肩をすくめて席に着く。ふたりとも、ベッドの上のあずささんを見あげるような感じになっている。まるで舞台は法廷か。被告人、前へ。
「えー、近ごろ二人の行動は目に余るものがあります。迷惑をこうむった人は数知れず。そこで、この場で私の独断と偏見による、平等かつ公平な裁判を執り行いたいと思います」
もったいぶったようにあずささんが、大仰に宣言した。
「本気ですか」
あきれた。言ってることも矛盾してるが、そもそも数知れないほど誰が迷惑をこうむったんだろう。ぜひとも署名を確認させてほしいものだ。
「静粛に! 私語は慎むこと!」
あずささんの大きな瞳に射抜かれる。どうも逃げられないらしい。
「そうね――、まずはいっつも不機嫌そうな佐山氏からはじめようかしら」
なんだ、弁護人もなしか。座りなおす。
「私からの質問は単純明快、しかもたったのふたつだけ。しかも答えは二択という親切設定」
なんでこんなお遊びに付き合わなければならないんだろう。まったく、いい迷惑である。
アオリがこちらを盗み見ているのを感じた。顔を合わせようとはしないが、ちらちらと視線を向けてくる。このあいだと同じ格好、花柄の白いブラウスにデニムのスカート。トレードマークのマニキュアもなければ、顔もノーメイクのようだが。
あずささんは深呼吸する。思わず身構えてしまった。
そうしてゆっくり、噛み砕くように吐きだす。
「――きみが本当に愛しているのは、木更津香織ですか、それとも如月葵里ですか?」
ちょっと待て。
「だれよ、それ」
隣のイスが悲鳴をあげた。ちょっと待ってくれ。
「誰のことよ」
二択には違いないが、イエス・ノー式ではない。
「はい。佐山氏、保留ね。にらまれてるから選手交代。私も自分の身が大事」
「誰なのよ」
「うるさいわね。次はあんたの番よ」
三人の視線がトライアングルを描いていた。誰だよ、調和のとれた美しい形だっていったのは。最悪だ。
「……昔の彼女だよ」
ぼんやりと答えた言葉は、ほとんど無意識に近かった。
「オレが高一のときに付き合ってたんだ」
「それがなによ」
アオリが語気を荒げた。語調はふるえている。そんな彼女を見ることができない。
「そのひとのこといまでも好きなの? いまも会ってるの。そ、そう……そうなのね!」
「……会えないんだよ」
「うそつかないで!」
「うそじゃない」
「ひどい。なんでそんな――ひどい!」
「やめてくれ!」
「――香織は死んだのよ」
鬱質のほうのあずささんが、厳粛に告げた。
それが――真実。
大きく魅力的な目は、そっと憂いの翳りを見せて、わずかな涙すらうかべていた。「木更津香織」という暗号は、人格変容のスイッチなのかもしれない。
「ねえ聞いて、葵里。……二年半前になるわ。私の大切な、友だちだった――木更津香織は死んだの」
その言葉を聞いて、そうして改めて確認する。
あれは、自分の間違いではなかったのかと。本当はカオリはまだどこかで生きているのではないかという、ささやかで都合のいい期待がいつもどこかにあった。それはあずささんと同じ逃避であったとしても。
あの雪の日、彼女はただ姿を消しただけで、あのマスターも知らなかったように、海に突っ込んだ車なんてなかったのではないか。ほとぼりがさめた頃に、こっそりマンションに戻ってきて、何事もなかったかのように生活を続けているのではないか。ずっとあの街から逃げていたから、それを確かめることができなかっただけで、本当は――と。
そうやって、ずっと逃げていた。
忘れようとして、わざと記憶のなかで彼女をあの冬に殺しては、そのたびに生き返らせ……何度も、何度も。だから、心のなかのカオリはいつも眠っていた。最後に触れられなかった姿のまま。眠ったままの彼女はつぶやくのだ。夢のなかで呼ぶのだ。
アオリを見る。色をなくし、立ちつくしていた。
「……あたし」
寒さにふるえたように、肩を抱く。
「そのひとがうらやましい。死んでも佐山くんに愛される、そのひとになりたいよ」
彼女ののどがヒックと鳴った。きさらづかおり、とくちびるが音をなぞったようだった。
「べ、べつにね。佐山くんのまえのヒトとかー、気にしてないつもりだったんだよ。卒業式のときだってさ、ゼッタイ彼女いるんだろうなぁって思ってたし。……あたしさ、聞いたことなかったよね? どんなひとと付き合ってたのとかさ。ほら、佐山くんも聞いてこなかったからさ、それでいいんだって思ってた」
「…………」
「でもさ、いままでだって本当はね……不安だったんだよ。あたしの知らない佐山くんを知ってるひとがいるんだって考えるとさ――かなり嫉妬しちゃってる。へ、変かな。四ヵ月……たったの四ヵ月しか知らない。もっと佐山くんのこと、いろいろいっぱい知りたいよ。まえのひととか意識したくないけど……言ってほしかった。そういうことならなおさら」
かける言葉を持たなかった。ただ無力だった。
「あたしさ、ちょっと……ほ、ほんのちょっぴり運が良かっただけなんだよね。だ、大好きな彼女が死んじゃってさ。そこにさ、似た名前のあたしが現れたりしたらさ――そりゃあね、佐山くんじゃなくても――へへへ、顔もそのひとに似てたりしたのかな」
鼻をすする音。見ていられなかった。いつまで見ていたいと思っていたのに、いまはもう見ているのがつらかった。アオリからそんな言葉、聞きたくなかった。
「ただ――ちょっぴり、やっぱりかなしいかなぁ。佐山くんはさ、心のなかではあたしなんかじゃなくて、そのひとと付き合ってたのかなぁ、なんて考えちゃうとね」
「違う」
そうだ、違う。
しかし、そこから先が続かない。どんな言葉もこの空間では意味をもたない気がした。なにを言ったところで、なにもわかってもらえないのだろうと悲観していた。
そして、意に反した音を発していた。
「おまえこそ三島さんとなんだよ。デートしてたんだろう」
打たれたように顔をあげる。涙に濡れた、怒ったアオリが迫ってきた。
「ええ、したわ。だからなに」
「開き直るのかよ」
「わたしが誰といてもいいじゃない。三島さんはね、ちゃんと自分の思ったこと言ってくれるよ。佐山くんなんてさ、いっつもダンマリじゃない。それでわかれってのが無理な話よ。口で言わなきゃ伝わらないことのほうが、世のなかにはいっぱいあるんだからね!」
こっちも立ち上がって応戦。
「三島さんがデートしようって言ったからしたのかよ。それからどうしたよ――このあいだの晩、帰ってないっていうじゃないか。なんだよ、おまえこそいまも会ってんだろう。おまえだって、オレに言ってないことあるんじゃないか」
そうだ。留学とか、勝手な――
「なに勘違いしてんの。三島さんとは一回、買い物に付き合ってもらっただけよ。それから全然会ってないし、番号だって知らないわ! どうしてよ。デート? それから? ……冗談! 信じらんない――信じらんないよ! あたし、佐山くんにそんなふうに見られてたの? そんな信用ない? だったら舞子に聞いてよ、ずっと舞子んチ泊めてもらってたんだから! だって会えないじゃない、佐山くんに。家にだって帰りたくない」
「ああそうかよ。でもな、イイ関係に見えたって聞いたぜ。三島さんと歩いてるおまえ、楽しそうだったってな。そんなこと聞かされたオレの気持ち、考えてみろよ」
「はぁ? そんなの考えなくてもわかるわよ。バカじゃないの!」
「うそつけ。なにがわかるってんだ」
「うるさい。いまのあたしとおんなじ気持ちでしょう。大嫌いよ、佐山くんなんて!」
洗濯機の脱水みたいなものだ。時間が来ればぴったり止まる。もみくしゃにされてもそのまま、お構いなしで取り残される。
部屋の隅には、絵画のなかのアオリがいた。それはまぎれもなくアオリだった。でも、本物は目の前にいる。
息を落ち着かせると、アオリは静かに口を開いた。
「そりゃあね、あたしだって秘密のひとつやふたつ持ってるよ。でも、佐山くんの場合は秘密じゃないよ。――悲しいんでしょ、つらいんでしょ。もっとあたしを信頼してよ。頼ってよ。どうして言ってくれないの」
――ああ、声が。
(もっと)
聞こえる。
(――ってくれてイインダヨ)
やめろ。
「……他人に言ってどうにかなる問題じゃない」
弱く首を振る。そうして振り切ってしまいたかった。閉ざしてしまいたかった。それは過去だ。
「そんなことないよ。あたしはね、佐山くんのためならどんなことだってできると思ってる。でも、違う――違うでしょう。これって痛いよ。痛すぎるじゃない」
(ツライヨ、ソンナイキカタ)
(ワタシハキミノタメナラ――)
やめてくれ!
「お願いだから、放っといてくれよ!」
塞ぐ。
耳を。
目を。
心を。
いつかのように! また。
やはり――また、逃げてしまうのだろうか。
「選手交代ね」
青空を背負ったあずささんの声は、低く冷淡であった。
「葵里。あなたへの質問はひとつよ。本当のことを言いなさい。あなたが思っていることを。いま、彼に伝えなさい」
「あいしてる」
ふり向くと、きれいな横顔があった。少し肌の荒れた、幼さの残る卵形の。興奮するとすぐ真っ赤になる、涙もろくて愛らしくいとおしい――
「誰よりも愛してる」
笑顔がふり返った。
ちがう。
泣いていた。
三
「強いのね、葵里……」
とても深く、かぎりない慈悲をうかべてあずささんが微笑んだ。その背中で、ゆっくり大きな雲が流れていた。
「強くなんてない!」
それは叫び。
「強かったら、きっと泣かない。佐山くんにも甘えないで生きていける。あたしずっと、佐山くん――あたしのこと、一番に想ってくれてるんだって……ずっと」
首を振る。声をかけたくても言葉が出ない。すべては濁って沈んでいく。その沼の底で生き続けるカオリが、しきりに袖を引くのだ。
「佐山くんがあたしのこと、好きだよって言ってくれるのがうれしかった。本当にうれしかった。あたし、どうにかなっちゃうんじゃないかって、いっつも思ったよ。しあわせだった。会うたびに佐山くんの新しいこと、わかってくのが楽しかった。困ったときの眉のひそめ方とか、お風呂入ってるときの鼻歌だとか、寝顔が意外にかわいかったりとかさ――うれしかったんだよ」
ゆっくり見た。
きれいだった。そこには各種部位は存在しない。如月葵里はとてもきれいだった。
「好きだよ、佐山くん。死ぬほど苦しいよ。佐山くんのこと考えるとね、痛くなるんだ。心臓のあたりがね、ずきずきするの。痛いけどあったかい、泣きそうなくらい切ないけどうれしい……ああ、きっと佐山くんもこんな気持ちなのかなぁって思ったら、照れくさくなっちゃうくらいでさ」
おもむろに指先が涙をぬぐう。そのか細さは、いつか折れてしまうのではないかと心配してしまう。
「あたしさ、甘えてたのかな。赤い糸とかそういうんじゃなくてもさ、ただ――ただつながっていたかったんだよ。会ってなくても心はつながってる、みたいなさ。そりゃまだ四ヵ月でしかないし、そこまですごいカップルじゃないってのはわかってるんだけど。でも、そう思うことで満足していたい。安心していたいんだよ。あたしのこと、好きでいてくれる人がいる。だからここにいられるんだって安心感――そんな世界。小さいけど、とっても大切な世界」
(必要とされていることの安心感を)
(生きていてもいいんだって思える)
(世界をちょうだい)
ふるえている。
「でも、本当は離れているのが怖い。不安なの。佐山くん、自分のことあんまり言わないでしょう。だから、ときどき佐山くんがわからない。会えないときの気持ちがわかんない、あたし怖いから、よけい悪いことばっかり考えちゃう。ひょっとして、もうあたしのことなんて好きじゃないのかもしれない。ううん、そんなはずない、って何度も否定して。でも、でも会えなかった日、電話もメールもなかった日でも、一回でもあたしのこと考えてくれたのかなぁとか思っちゃったりしてね。どうしようもなく悲しくなって、不安で……毎日会ってないとどうにかなっちゃいそう」
「…………」
「この一週間、会いたかったけどそれ以上に怖かった。で、電話にも出れなかったよ。ずっとかけられなかった。あたし、ひどいこと言っちゃったから――あたしのことキライになって、もし……わ、別れようなんて言われたらどうしうようって――こ、こわかった。怖かったよ!」
堪えかねたようにあふれ、そうして泣きくずれた。
気づいてやれなかったのだ。いつだって自分のことばかりで、彼女の気持ちなどなにも。
(なにが見えるの)
(アキト……)
(そばにいてくれるだけで)
(アキト)
(愛してるのよ)
もういい加減、認めてあげなくては。とっくに死んでしまったこと、もう存在しないのだと、どこにもいないのだと、自分にも、「彼女」にも言い聞かせる。
すると「彼女」はもう泣かなかった。
「アオリ」
「言わないで!」
真っ赤な顔は濡れている。冷たい床にうずくまり、すすり泣き、耳をふさぐ。
「アオリ、聞いてくれ。オレは――」
頭を振り、声をあげる。
「やめて! お願いだから言わないで。もう、……こわいの、こわいのよォ。おねがい。あたしが――あたしから……ね。そうすればもうこれ以上、佐山くんが傷つかなくてすむから! あたしから消えるから。おねがい、あたしがいなくなる。だから――」
「アオリを愛している」
すぐ近くに、いつでも手の届くところにある言葉だった。
短い悲鳴のようなものが、彼女ののどで鳴った。
泣いているのか笑っているのか、やっぱりわからない、中途半端な笑顔がそこにあった。いますぐにでも抱きしめてやりたかった。
「ミスター佐山。質問その二。あなたは葵里をしあわせにする自信はありますか?」
なにをいまさら。
「帰ろう」
手を伸ばす。
あの部屋へ。一緒に。
けれどもアオリの手は、ずっとその身を抱いたまま。かがみこんだ体を抱き起こす。すると、子どものように腕のなかであばれるのだ。
「いや! いやよぉ、あたしここにいる……いられない、佐山くんといられない! 悲しくなる、苦しくなる」
捨て猫のようにおびえ、もがく。腕を離れ、部屋の隅にうずくまる。小さなひざに顔をうずめながら。
押しつぶされそうになった。息を飲む。
そうして、誰もがいなくなるのだ。
「いいよ」
びっくりしたように、おびえた顔をのぞかせる。青ざめていた。
「苦しくなったときや切なくなったとき、つらくてどうしようもなくなったら――帰ってくればいい。いつでも待ってる。オレ、……アオリのこと、いつまでも待ってられるから」
アオリは声にならない叫びを発した。立ち上がる音さえ聞いた。
しかしすでに扉を開き、部屋を出、そうして後ろ手にドアを閉めていた。そう、自らの意志で。
四
病院から出るなり電話が鳴った。
『非通知』だった。
……返事はない。
かすかに話し声らしいものが聞こえてくる。遠い。受話音量をあげて、耳をはりつけた。
ここからは全部が全部、そう聞こえたわけではない。あとから聞いた話や、想像もまじえている。
「わかってるよ……そんなんさ。わかってた。本当はわかってたんだ」
「彼は道を譲ったわ。今度あなたの番じゃないの」
「…………」
「あんたねぇ」
「ちがうのよ。やさしいから――だからこそ不安なの。形が見えないから、終わりが見えない。壊れてしまうのが怖い。壊れてしまったのを思い出すのが怖い。痛いのはイヤ、悲しいのはイヤ、怖いのはイヤ。……でも、それ以上に佐山くんがつらくなるのがイヤ」
「それじゃあ葵里、あなたはどうしたいの」
「あたし、別にね……その、香織さんの代わりにはなれないけれど、そうやって佐山くんの気持ちをまぎらわすことができるんだったら、それでも我慢はできる」
そんなこと望んでない。
「でも、もしあたしと一緒にいることで佐山くんが、前の人のことを思い出してつらいんだったら……佐山くんが傷つかなくていいように、あたしから――別れる」
「それでいいの? 本当にそれで、彼は傷つかない? あなたは?」
「イヤに決まってるじゃない」
「だったら――」
「でも! ……どんなに愛してるって言ってもそれは未来を約束する言葉じゃない。どんなに熱くたって、いつかは冷めてしまうときがくる。それが早いか遅いかだよ」
それは彼女の両親のことを言っているのだろうか。
「どうして冷めちゃうのかしら。ねえ葵里、冷めちゃったの? 彼を愛してるって言ったのは嘘なの?」
「違う!」
「それじゃあどうして」
「たぶん……ううん、きっとウチの両親は間違ってたんだ。津野さんが言ってたけど、妥協してたのかもしれない。この世に百パーセントの理想なんて手に入らないから。だからお互い、ひとり娘も放って好き勝手にやってられるんだよ。あたしは愛されていなかった」
「私は愛してるわよ、葵里。それに、あなたが気づかないだけだったのかもしれないわ。……ふふん。けど、あんたの言い分だと、叔父さんと叔母さんはこんな相手だけどいいや、って思ったって? だからこんなしか続かなかった? それが誤り、それが妥協ってわけ?」
「…………」
「いい――愛というのは、見えないからこそそこにあるのよ。それじゃあ、あんたも彼のことそう思ってたの? 妥協したの? これまでのすべて誤りだった? あなたは間違っていた?」
勢いよくドアが開く音。遠ざかっていく足音だけが不思議と明瞭に響いていた。
電話の向こうから、わざとらしい咳ばらいが聞こえてきた。盗み聞きになれた耳には音がでかい。
「あー、ハイハイ。聞こえたかな? まあそういうわけだからさ、ちゃんとそこで待ってるように。うーん、私もお節介だなぁ。――以上、非常事態終了!」
躁質の女から電話が切れた。
しかし、すぐにまたかかってきた。今度は非通知ではない。
「……ねえ、佐山さん。いくら恋人同士でも、秘密のひとつやふたつ必要でしょう?」
気配が違う。これは鬱のほうの彼女だった。
「香織が自殺した理由、知ってるかしら」
分裂の片割れは力強く、わずかに声をはずませていった。
「遺書もないし、事故の痕跡もつからなかったけど、やっぱり自殺だったのよ。警察も結局そう片付けてしまったけど……でも、私にはそれを断定することができる。だってね、最後に私のところに電話してきて、そう言ったんだもん」
あの晩、飛びだしていった彼女に電話したのだ。しかし、ずっと話し中だった。そういえば、あーちゃんという名前も聞いたことがある。
最期の彼女と話した人物は、見あげた病院の揺れるカーテンの奥にいて、ここからではその姿を見ることはできなかった。
「警察も知らない。誰にも教えていない。履歴から話を聞かれたけど、普通の世間話だったって言ったわ。だってそんなの、言えるはずないし。……香織ね、赤ちゃんできたんだって」
頭を殴られたような衝撃に襲われた。よろめく。
大きな目をした少女が、天使の顔で死神の笑みをたたえている。彼女はゆっくりと毒を注入していった。永遠に――消えることのない毒を。
「結局ね、教えてくれなかった。どうしてなのか、誰の子どもなのかも、どうして……どうして……」
「あずささん」
「海に還すつもりだって、言ってた。最後にすべてを海に……ああ、止められなかった――わたし、とめられなかった……」
「あずささん」
そのときになって、ようやく自分も泣いていることに気がついた。
「あなたは……カオリが好きだったんですね」
沈黙があった。
静寂がつづいた。
息づかいが生まれた。
「ごめんなさい」
「ありがとうございます」
顔をあげると、自動ドアをくぐり抜けてきた女の子が見えた。息を切らして、いまにも泣きだしそうな顔をしている。
なんでもとは言わないが、彼女のことならとてもよく知っている。
すこし目が悪い。だから三十メートル先にも気づかず、きょろきょろあたりを見まわしている。利発なのに、ときどき妙にとろいところがあるので放っておけないところがある。ほら、そっちは駐車場じゃないのに。あと、ひどくさみしがりやでひどく泣きむしだ。
切れたばかりの電話で、見なれた名前を呼びだす。ツーコールで相手は……
五
「……留学?」
助手席のアオリはきょとんとしている。
病院からの帰り道。
なんだかそこにいるだけでひどくなつかしい気になって、妙に感慨深かった。
「誰が言ったの、そんなこと」
「誰って、あずささんだよ。おまえがアメリカの学校に推薦だしたって」
どうにも変だぞと気づきはじめていた。
「ああ、はいはい」
妙に納得したようにアオリがうなずいた。
「だから『いつまでも待ってる』なんてキザなセリフが出てきたわけね。いつもキザだけど、今回のはまた一段と……」
顔をふせて小刻みに肩をふるわせている。
「笑うなよ」
「やァよ。たのしいときに笑わないでいつ笑うのよ。あのひと、口達者だからさ。留学なんてするわけないでしょう、お金とやる気とチャンスがない。それに、佐山くんもいないしね」
「……だまされたのか」
「そうよ」
「うそなんだな」
「そう!」
赤信号。ゆっくり減速して止まる。ニュートラル。
「あ、ねえねえ。これからどうするの。やっぱ帰るんだよね」
「予定だ」
「ま。怒ってるのね。かわいいー」
頬をつつきながら、また笑いだした。
青になる。ロー発進。
「あ。そうだ、このあいだリサイクルショップでね、すてきなソファ見つけたんよ」
いつものアオリがしゃべりだす。セカンド。
「猫だと思うんだけど、ちょっと傷ついてるから結構お安くてさ」
サード。
「黄色いソファでね、カワイイのよ。お部屋にほしくない? あ、ラブチェアって書いてあったかな。ソファなのにチェアってなんぞや、って思ったんだけど」
そしてトップ。この手ごたえはいつも機嫌がいい。
「愛が寄り添ってるんじゃないかな」
「うわ」
アオリは目と口をまるくした。
「うわ。もう一回言って、録音するから」
携帯をごそごそしてる。
「いらないよ、ソファなんて」
そう答えると、すぐに不満そうな声が返ってきた。
夏色の街はかわりばえのない、平穏な昼下がり。なにもかもじれた太陽のため息であったような、おぼろげな陽炎のごとく。日差しがまぶしくて、サングラスがほしくなった。
流れる音楽は、はからずもあの晩と同じ『Restroom』だった。
急におとなしくなった隣を一瞥する。
「どうした」
びっくりしたように顔をあげ、おずおずとたずねてきた。
「あ。ね、ねえ。ベンジンとかシンナーとか持ってない?」
ソファと関係があるのだろうか。
「おねがい。どっか寄ってよ、買ってくる」
「理由を言え」
「ねェ、佐山くぅん」
「甘えてもダメ」
「き、気づいてないよね?」
「なにを」
「だ、だからぁ――」
真っ赤になっていた。うなじまで染まっている。アオリはうつむいてしまった。マニキュアの塗っていない爪をながめているのかもしれない。
「どうしても必要なのか」
「う。うーんとね、佐山くんが部屋に帰らなければ、かなぁ」
「なんだよそれ」
「あ、あの。……えっと、ね」
うかがうような目をしていた。
「あー葵里の名前書いてあるんだ。……表札に。佐山くんの名前の下」
少しだけよそ見。
ホームセンターの看板が見えたが、無視した。
「夏休みが終わるまでいいんじゃないかな」
「や、やだよ。はずかしいからやめる、すぐやめる」
泣きだしそうな顔をしていた。
「そのブラウス、似合ってるよ」
途端に笑顔になる。現金にもほどがある。
真っ赤になった顔をおさえながら、えへへと何度もこちらをふり向く。
「かわいいでしょう? 佐山くんに見てほしかったんだよねー」
白い花が敷きつめられている、おとなしめだが、襟ぐりのデザインが斬新で上品だ。一目瞭然、アオリの趣味じゃない。
「買い物に付き合ってもらったって、このことだったのか」
つぶやくと、アオリは本当にびっくりしたように目を大きくした。
「ど、どうしてわかったの」
「なんとなく。でもさ、いつもの格好のほうがいい」
また不機嫌そうな顔になる。とうとう窓の外を向いてしまった。
「……ごめんな」
返事はない。
こつん、と窓ガラスにひたいを打ち付ける小さな音がした。
「ごめんね」
窓の外は夏。消えることのない夏がながれている。季節はやがてうすれ消えて、しかしやはりまたよみがえるものだ。しかし、この夏だけは消えない。永遠に忘れない。
シートベルトを確認。ミラーに視線を移す。後続車なし。
急ブレーキ。
焼けたアスファルトに、溶けたタイヤが食らいつく。アオリは悲鳴をあげて前のめりになる。
「な、なにすんのよ。危ないじゃない!」
怒ったアオリも好きなのだ。本当に困ったものだ。
「大事なひとを乗せてるのです。お願いしますよ」
憮然と彼女は抗議する。
「よそ見してた。たまには化粧しないのもさ、いいなって思って」
「え。佐山くんの好み?」
「アオリが好きなほうが好きかな」
「へ、へえ」
わかったようなわからない顔をした。
「なあ」
「うん?」
「キスしたい」
やっぱりお膳立ては苦手だ。
「そうねえ。もうすこしロマンチックな気分にしてくれたらね」
すぐ笑う女だ。言ったこっちが照れてしまう。
ウィンカーをだして、路肩に寄せる。車通りのない道でよかった。
「あー、だめ。やっぱりだめ。いまの佐山くんの顔見たら笑っちゃう。ゼッタイ吹いちゃうって。パンダみたい」
一瞬ミラーを確認したが、青あざだらけの顔はパンダかタヌキかだ。無視して顔を近づける。耳が熱い。
アオリも瞳を閉じる。耳まで赤い。
ずっと触れたかった。なつかしかった。とてもきれいだった。
電話が鳴りだした。まるでタイミングを見計らったようだ。くそっ。
安斎さんからだった。
「どうしたんですか」
バイトは辞めたのだ。安斎さんとはプライベートの付き合いはない。当然いま、機嫌が悪い。
「聞け。いいから聞け。だまって聞けよ」
ひどく動揺している。このひとはなんでもオーバーなのだ。
「いいか、佐山。お、驚くな。いま――いまな、店に行ったらだな」
たしかにそろそろ安斎さんの出勤の時間だった。しかし驚いているのはどっちだと言いたくなる。
「裏ンとこにな、ふ、封筒が置いてあったんだよ。こんなブ厚い」
裏というのは、従業員入口のことだろう。こんな、とはちょっと想像しがたい。
「開けたらよ、オマエ……さ、三百万、は、はいってやがった。きっかし。五回数えたんだ、間違いない。他の連中に聞いても誰も知らねえっていうしよ――ど、どうすればいいと思うよ」
「『セブンス』の犯人じゃないんですか。いいじゃないですか、売上たてとけば」
違った場合は警察のお世話になる可能性があるのだが、それは言わないでおいた。
「そ、そうかな。……や、やっぱそうだよな。は、ははは……俺もそうじゃないかと思ってたんだ。いいやつじゃないか、なあ佐山」
「そうですね。そういえば、三島さんどうしてます?」
「おまえが辞めてすぐあいつも辞めちまってよ。もうシフト困ってんだよ」
「大変ですね」
「べつに。せいせいすらあ」
電波のせいにして電話を切った。
にやついていると、不思議そうな顔をしたアオリに気がついた。
「おまえさ、三島さんの番号知ってる?」
「ううん。どうして? なんかあったの」
「いや。いいんだ」
エンジンをかけ直す。
なんだか無性に三島さんに会いたくなった。