第二章
第二章
一
「ヒマっすねえ……」
いつものようにTシャツをたたみながら、店内を五周もしたころ、あくびまじりに三島さんがつぶやいた。
先週からバイトにきた二十五歳で、渡り鳥を名乗っている。フリーターとして三ヵ月以上同じ職場にいたことがないのを、自慢と揶揄を半分に交えて言っているらしかった。
日本全国に手をつけた女がいて、ヤのつくひとたちに命を狙われているんだそうだ。ギターとシルバーアクセサリーが好きで、カッコ悪いことを極端に嫌う、結構真面目に仕事をしないアルバトロスである。
ところで、自称五十の職歴を持つ渡り鳥の言い分はこうだ。
「バイトはボーナス出ないし交通費もなくて、昇給ったってたかが知れてるうえに、すぐクビは切られるし、なかなか不都合でしょう。そんならいっそ割りきって、いろんな経験したほうが人生勉強になるじゃないですか」
店長もよくこんな人間を採用したものだ。
「さっやまサーン」
レジカウンターでひじをつきながら、だるそうに手を振っている。年上なのにバイトでは後輩のせいか、おかしな丁寧語を駆使してくるので苦手だ。
「なんですか。駐車場の草でもむしっててくださいよ。店長に言われたでしょう」
言い捨てて、次のTシャツに手を伸ばす。あまりこの手のタイプとは関わりたくない。
店内にながれる洋楽は、作業BGMとしてはなかなか優秀だ。腿で打ったシャツが小気味の良い音をたてる。
チェーンでもない町外れの平日昼間のジーンズショップなんて、こんなものだ。この調子なら夕方まで十周はできるだろう。……出所不明の高揚感に自己嫌悪する。
雇われ店長とバイト五人のめぐりあわせの問題で、とうとう新人の三島さんとふたりきりの日がやってきたのだが、なぜすでにさぼりモード全開なのか。
「さやまサン、ちょっといいっすか。はーい、しつもん、しつもーん」
間の抜けた、伸びきってたるんだ声。
「なんで服たたんでるんですか、って質問なら受けませんよ」
「あれ、なんでわかったんです?」
「いいですか」
ふり返ると、十三万円の金髪男が無邪気な笑顔をうかべていた。
身につけている物でそのひとの価値が決まるとの言い分で、装飾品には余念がない。現在の首、腕、指の各アクセサリーの総額が十三万なんだそうだ。あくまでシルバーアクセサリーだけの計算で、今度は一気に三十万の男になるんだと教えてくれた。
彼のプランによると、最終的には一千万の男になれるらしい。津野の愛車が二台も買える。すばらしい。ところがどういうわけか、いつも金がないことを嘆いている。もう何年もまえから十三万の男なんだそうだ。
「誰かに見られたらどうするんですか。サービス業なんですから、仕事なくても仕事してるふうに見えなきゃだめなんですって」
この店には『セブンス』という、およそ表の世界にはまったくもって知られていない、幻のビンテージジーンズがある。
店の奥のガラスケースのなかで、厳重に安置されている。世界で七本しか生産されていない胡散くらいいわくつきのもので、後ろポケットに北斗七星を模した刺繍がある。個人的な意見だが、シルエットがいまいちだ。三百万円という値札がついているのだが、数年前には五百万円だったという噂もある。ビンテージというやつは、年を重ねるごとに価値が下がるものなんだろうか。
「大丈夫っすよー、べつに店長いないんですから。見てるときだけやりゃいいんですって」
こういう輩にはなにを言ってもむだなので、たいがいにして作業を再開する。すると、あきれたようなため息をつかれた。
「さやまサン、世渡り下手でしょう。出世しませんよ」
こんなにいい加減なのに、八方美人の三島さんは人当たりが良く、初日からすでに自分のペースをつくっていた。能天気というか屈託がないというのか、憎まれない得な性質らしかった。ただひとり、チーフの安斎さんだけは全面的に嫌っているようだ。
「さやまサン。彼女いるんすか、カノジョ」
「…………」
無視を決め込む。
ところが相手は、気にした様子もなくお構いなしに続ける。
「いや、いますよねー。そりゃいますわ。いや、うらやましいですねえ」
なにを言うか。むしろ三島さんこそモテそうなものである。
赤ら顔で目が細く童顔なのだが、形のいい鼻梁とあごのラインのバランスが上品で、男の目から見てもハンサムな顔立ちなのである。さらに、軽くスポーツでもやっていそうな体つきで、ルックスもいい。ワイルド、カジュアル、ストリート、どれをとっても似合いそうだ。ただ、いつもにやにやしているのでフォーマルだけは下品に見えて似合いそうにない。とイチ服屋のバイト店員の見解である。
「もう二年も干物生活ですよ。まいっちまいますわ」
ヒモの生活、と聞き違えて、一瞬ぎょっとした。まあそれでもおかしくはないのだが。
「孤独な一匹狼も悪くないんですがね、そろそろ新しい出会いってやつが恋しくなるもんなんですよ。もうどっかーんってやつ。ぐぐっと引いて、どっかーんっていうの。わかります?」
わからない。
「そこで、ものは相談なんですけど……」
突然三島さんの腰が低くなる。神妙そうに声を落として、窺うようにこちらに目線を送ってくる。
「さやまサンの彼女、紹介してくれません?」
「……は?」
「あ、いやいや誤解です。四回三十階です。どうせいるんでしょう、こんなオトコマエなんですから――だから勘違いしないでくださいね、本命はその友だち」
「やだなあ、三島さん。あんまり笑えませんよ」
「いや、マジで。ホント、頼みますよ」
きりりと真面目な顔をして、カウンターの上に手をついた。どこまで本気かわからない。
「こんなところにも不景気の波はやってくるんですよ。もうダメ、ホント限界。大不況大飢饉大旱魃大寒波! いつになったら春は訪れるんでしょうねえ……ここんとこ毎晩出向いてるんですよ毎晩! なのに収穫ゼロ! 最近の女の子マジわかんない」
夏だな、と思った。
どうなったのかあれから音沙汰のない津野と、毎晩ナンパに燃える三島さん。熱い男たちの夏である。
携帯が鳴っている。基本的に仕事中は使用禁止であるが、あいにくいまはそれをとがめる人物がいない。さっきも三島さんが、仲間と大声で話してた。
「佐山くん!」
電話口から洩れるアオリの声に、三島さんは「いいねえ」と細い目をさらに細めていた。
「聞こえてる、佐山くん。大変なの」
緊迫した声に違和感をおぼえ、声をひそめる。
「落ち着けよ、どうした」
気配がせわしない。走っているようだが。
「津野さんが! 津野さんがね、……病院運ばれちゃった!」
「病院? 警察じゃなくて?」
なんで警察と思ったのかは、自分でもよくわからない。
「ねえ、すぐ来れる? ……あ、バイトか。うん、じゃあ場所言うから」
ウチの近所にある総合病院だった。このあたりでは一番の大きい。
「悪いのか」
「わかんないんだよ。笹ノ橋のとこで人だかりができてたの。なにかなぁってのぞいたら、ちょうど救急車が来て、真っ青な顔した津野さんを運んでっちゃって……」
アオリの声は、いまにも泣きだしそうだった。
「どうしよう。津野さん、死んじゃうかもしれない!」
「悪いほうに考えるな」
三島さんがにやにやしながらこっちを見ていた。話の内容までは聞こえていないはずだ。
「アオリはどうする」
「向かってる。病院。たしかめなきゃ」
「そんなに心配すんな。大丈夫だよ」
「わかんないじゃん。もしもってことあるでしょう」
「わかった」
「またあとで電話してもいい?」
「ああ。安斎さんが来たら、オレも行くから」
「……うん」
アオリは少し落ち着いたようだった。
それからもう一度、「大丈夫だから」と言って、電話は切れた。
「さやまサン」
もう我慢できないといったように、三島さんが悲鳴のような声でまくしたててきた。
「出産ですか堕胎ですか、結婚ですか破局ですか。いくら必要なんです。遠慮しないで言ってください、カンパします。いやいや、心配しないでください。こういうのよくあることっすから。ええ、仲間とかにも頼んでみます。アンザイさんとかみんな、店長には内緒ですよね、ええわかってますって」
誤解してる。完璧に間違ってる。
「お、お願いですから、余計なことは言わないでくださいね」
「わかってますって。ともかくさやまサンは、すぐにでも病院に行くべきです。心配無用。あとのことは、小生三島弥眞斗が責任をもって引き受けますから。ささ、はやく」
誤解されたままというのは気がかりだったが、津野のほうも気になった。
「すいません。それじゃあ、ちょっと行ってきますんで、お願いします」
ていねいに礼を言って、店を飛びだす。
すぐにアオリに電話しようとしたその時、天啓ともいうべき脳裏をかすめたのは、これからの三島さんのことだった。
(ひとりで大丈夫だろうか)
いくら客が来ないとはいえ、まだ一週間しか経験がないのだ。もしなにかあったら対応できるだろうか。安斎さんが来るまであと一時間半ほどだろうから、それまでではあるのだけど。
(どんなバイトでも三ヵ月も続かないって、なんでだろう)
飽きっぽい性格だからか。それはとてもわかりやすい。見たままだし、とても説得力がある。
(それとも……)
辞めさせられるようなことをしたから?
(たとえば職務怠慢)
これもとてもわかりやすい。
(商品の着服とか)
あわてて首をふった。
見ようによってはガラの悪い格好の三島さんの、そういう姿もまた想像にやさしいのである。
そんなことがあったら、確実に責任問題だ。彼は当然として……
(まさかな)
悪いようには考えまい。
あまかった。
二
「バカだよ、おまえ」
アオリがびっくりした顔をした。とがった頬骨にのったチークは、より骨格を際立させている。
ベッドの上の津野は、土気色の表情をしていた。無表情のまま視線をそらす。
「一昼夜走りつづけたって? 運動不足と睡眠不足がたたって、疲労と肉離れと空腹と脱水症状で倒れた? 笑わせるじゃねえか」
「……だったら笑えよ」
点滴姿で、うめくようにつぶやく。まだくちびるは乾いて、喉がかすれていた。
「なんでそんなことしたんだ」
「ひ弱な男はきらいだからだ」
声も乾いている。
「なんだって。おまえがか?」
「……ちがう」
なるほど。鼻で笑ってやる。
「彼女がそう言ったのか。プロポーズの答えに」
ぴくりと津野の指が震えた。図星のようだ。
ひ弱な男はきらい――、そう言われたから走った。自棄になったからか、自分を鍛えようとしたかだが、たぶん両方だろう。
「俺はバカでダメなやつだ。いつもそうだ。どうしようもなくなってから気づく。ずっとそうだ。なにも変わらない。だから俺はダメなんだ」
「いまはその、どうしようもない状況か?」
少し考えるようにだまってから、津野はゆっくり答えた。
「わからない」
わらったようだった。
「なにがしたいんだろうな。どうしたいんだろう。わかんねえよ。洋子のほしがるもんは買ってやった。洋子がよろこぶから。俺もうれしいから。なにより、洋子が好きだから。……そう、だから結婚しようって言った。そしたら、バカじゃないのって言われた。あんたと結婚なんてするわけないじゃない、て。どこがいけないんだって聞いたら、バカで弱くてダサいとこだって――3Kだってよ。きついきたないくさい」
「寝ろ。疲れてるんだ」
津野は苦しそうに、血色の悪い歯ぐきを見せた。
「一応、家族には連絡しといたぞ。心配してた」
聞いていないようだった。
アオリを促して病室を出る。ドアを閉めると、その奥から嗚咽が聞こえてきた。
「……なんかさ、かわいそうだね」
「同情でどうにかなる話じゃない」
不満そうにアオリがくちびるをとがらせた。どうせまた「冷たい」とか言われるんだろう。
あいにく津野の保護者でもない。
「帰ろうぜ。今晩はオレが作るよ」
「あ、ちょっと――」
あわてたように、アオリが腕をつかんできた。銀色の爪に、青い蝶の指輪。
「寄りたいとこ、あるんだけど……いい?」
ためらいをうかべた表情。お願いするときのアオリは、いつだって少し身を引いている。
「まえに言ったと思うんだけど、おぼえてる? えっと、いとこが入院してるって話」
「姉妹みたいに育ったっていう? ああ、ここの病院だったのか」
「行ってもいいかな」
「いいよ。待合室にいるから」
まだ腕を引いてくる。
「うそ。佐山くんも来るでしょう」
そのまま腕を抱きしめるようにして離さない。
「なんでだよ。オレは知らないんだぞ」
アオリはちょっとだけ機嫌が悪くなったみたいで、むくれた顔で見あげていた。逆らわないほうが賢明だ。
「……あー、なんて名前だっけ?」
夕日に向かって歩きだす。金色の光を浴びて、アオリはうれしそうだ。
「だれ。いとこ?」
「そんなに悪いのか」
右手に階段が見えた。
「そうだね」
マスカラべったりの目許と真っ赤なくちびる。あんまり答えたくないらしい。
素足にスニーカー履いて、軽やかなステップで階段を駆けあがる。二階でコンバースは止まる。
『201 如月あずさ』
ノック。
中からすぐに返事。
「葵里でしょう。そろそろ来るころだと思った」
もともとスライド式のドアは開いていたので、誰が来たかはわかるはずだ。ただ、彼女はこちらを向いていなかったので、その勘は正しかったことになる。
目がくらむほどの世界だった。
オレンジ色の病室のなかで、オレンジ色に染まったベッドで身を起こしているのは、中学生ぐらいの小さな女の子だった。長い髪を結い紐でまとめながら、鼻歌まじりに窓の外をながめている。歌は『七つの子』だった。
「きれいね」
夕日がきれい。センチメンタルだ。とても苦手だ。
「やっぱオレ、外で待ってるよ」
そのとき、ふり返った少女と目が合った。
ネコ科のそれを思わせるアーモンド形に切れあがった大きな目。逆光になっているため、はっきりとは表情はわからないのに、なぜかそのきれいな双眸だけが、妙にぎらぎらと、くっきりとうかびあがっていた。
「こんにちは」
やがて少女の顔が、空間に形をもつ。長くて反り返った濃いまつ毛と、あどけない小さな鼻と相応のうすいくちびる。口許が心なし、アオリに似ている気がする。
「佐山さんでしょう。アオリがいつも言ってるわ」
「うわ、マジ。ちょっと、いきなりそういうこと言う」
アオリが悲鳴をあげる。
「いいじゃない。いつもラブラブな話ばっかり聞かせてくれるでしょう」
「や、やめてってば!」
さらさらの髪に、陶器のような肌。整った顔立ちは美少女だと思う。だがそれらは、どうにも作り物めいて見える。骨があって、筋肉や血管が覆って、それらを包み隠すように皮膚がある――なのに、偽物のようだ。
そのゆがんだくちびるも、わざと皮肉を込めているのだと言わんばかりに不自然だった。演技、というのとは違うのだが。
むしろその目。笑っているのに笑っていない、冷たく凍りついている。そこにほんの一抹の嘘がまざっているような気がした。
「そういうウソついちゃだめでしょう! もう、はずかしいなぁ」
アオリは頬に手をそえて、ちらちらとこちらの様子を窺っている。
「あらー、照れてる葵里かわいいわねえ。もうちょっといじめてあげようかな」
「あ、あずさちゃん」
あわてたようにアオリが語調を強めた。言われたほうは気にしていないようで、ずっとふくみ笑いをもらしている。
蚊帳の外に気づいたらしく、少女はすっと目を細めてこちらを見た。
「……あら、いいわねぇ」
ほそい指をファインダー替わりにのぞいて、彼女は感慨深そうにつぶやいた。
「こうして見ると、この二人すごい絵になる。お似合いよ」
その左手首に、包帯が巻かれていることに気がついた。
「ほんともう勘弁してよね」
アオリは困りはてたように、ふり返って助けを求めてきた。
こういうのは苦手だ。アオリに目配せして、やはり病室を出ようと背を向けた。
「なに。いいじゃない、もうちょっといなさいよ」
すかさず少女に止められる。やれやれ。
「まあ素敵! そのしぐさ。きれいなライン……困ったときに鼻をかくのはクセ?」
あわてて手を下ろす。
「いいからこっちに来て。まあお座りなさいよ」
ベッドの脇にはシンプルな丸イスが置いてある。アオリを座らせて、その横に立つ。
「やーっと連れてきたわね、もったいぶっちゃってさ。――ふふん、どうしてなかなかイケメンじゃない?」
「その話題はなしだって言ったでしょう!」
耳まで真っ赤にして、アオリが声をあげる。
「今日にかぎって?」
「も! ほんとおねがいだから―」
如月あずさは楽しそうだった。
手持ちぶさたで個室を見まわす。
淡い単色のカーテン、白い床、壁、天井。安いパイプベッド、クローゼットと呼ぶには簡素な備えつけの衣類掛けと、小さなサイドテーブル。病室なんとどこも大差ない。ただ、入院生活が長いという話ではあったが、女の子らしさというか、彩りに少々欠ける気がした。
とりたて目をひいたのは、部屋の隅でひとかたまりにされている、スケッチブックやクレヨン、絵の具にイーゼルなどだった。キャンパスには描きかけの作品があったが、平凡にしてその完成図が見えない。
「あずさちゃん、ゲージツカなんだよ」
その視線を見てか、自信満々にアオリが教えてくれた。
「こう見えて美大生」
……中学生じゃなかったのか。どうりでえらそうだったわけだ。印象を修正する。すると同年以上か。
ベビーフェイスの大学生は、コケティッシュに微笑んでいた。
「佐山さんもなにか」
やってますか、という意味なんだろう。芸術関係。それとも興味ありますか、か。
「佐山くん、不器用なんよ。すんごいへたっぴ」
あはは、とアオリが笑う。
「そうなんだ。でもなんかこう、繊細そうじゃない? 芸術家っぽいっていうか」
「あたしもそれにだまされた。ただ気むずかしいだけだね。……あ、けどお父さんが建築デザイナーだから、その影響はあるかも」
「なるほど。才能は遺伝しなかったわけか」
大きなお世話だ。ひとがだまっているのをいいことに、ふたりはそれからあれこれ批判会をはじめた。女はえげつない。
「あらあらァ」
ノックの音にふり返ると、白衣を着た中年女性が入ってくるところだった。にこにこと、ひとの良い笑顔をうかべている。
四十代後半ほどの、ころころに肥ったナースだ。この病室の患者並みに背が低いので、ビール樽が歩いているみたいだった。
「こんにちは、葵里ちゃん」
「あ。こんにちは、伊藤さん」
アオリが極上スマイルで頭をさげた。
「こちら、初めて見る人ね。もしかして噂の彼氏?」
「ぴんぽんぴんぽーん! 伊藤さん、大正解!」
うれしそうに跳びあがる。
それを見て、伊藤看護師がころころ笑った。名札の肩書きは看護師長か。
「あらあら、ほんと? ハワイ旅行ペアでプレゼント?」
「世のなかそんなに甘くないわよ」
自信たっぷりにアオリが言って、まわりが笑いころげた。いまのどこが面白いのかわからない。女は二人そろうと複雑になり、三人だと怪奇になる。
「それじゃあ、あずさちゃん。検温の時間ね」
手品のように体温計があらわれた。
「葵里。あんた、今日はもう帰んなさい。そんなに毎日来てくれなくてもいいのよ」
犬でも追っ払うかのように、いとこさんが体温計を振る。水銀ではない。
「えー、なんでよぉ。来たばっかじゃん。これからお風呂? 生着替えとか佐山くんに見せちゃうパターン? やめてよねー」
「冗談。あんたの濃い顔、毎日見るのうんざりなだけ。自分の顔、ちゃんと鏡で見たことある? あんたたしか、小さいときからカエル嫌いだったわよね。そっくりよ、あんたの顔、カエルに」
「はぁ? ちょっとちょっと、なにひとの気にしてることさらっと言っちゃうわけ?」
「あら。そうだった? ごめんなさいねー。でも、こーんなカエル顔してるじゃない。もうね、気色悪いったらありゃしない。ほらほら、こーんなよ、こーんな。けろけろけろー、けろけろけろー。うげー。げろげろげろー」
こーんな、と言うところは、自分の顔を横に引き伸ばしている。正直なところ、たしかにちょっとだけ似ていた。さすがは血縁。
「む。あ、あったまきたー! こ、こっちだってねぇ、だーれが好きこのんでこんな辛気くさいとこ来るもんですか。ふーんだ、ばーか。ぺったんのナインのちんちくりんのネコ顔! 今度そのほっぺにヒゲ描くわよ、一本だけぐるぐるのやつ。みんなに笑われればいいんだわ。ばかばかばーか」
伊藤さんが顔をふせ、肩をふるわせている。
「カエルよりネコのほうが人気でしょう。あんたそれ、けなす気あるの?」
「ごめんなさいねー。あたし育ちが良いもんだから、あんまり汚い言葉使えないのよ。やっぱりあずさちゃんは、心も汚いからお口も汚いんですよねー」
「はいはい、さっさとドブ川にお帰り。夏の風物詩だからって、度が過ぎれば風流とは言わないわよ。ただの近所迷惑」
「はぁン? ネコだっていやらしい声で鳴くじゃない。あれ近所迷惑だと思ってないわけ? 年に二回も! 教育衛生上もよろしくないじゃないねー」
「なあに、下ネタ? 下ネタなの、天下の女子高生が。サカってますねえ。むしろそっちこそ、にゃんにゃんなんじゃないのー?」
途端にアオリは真っ赤になった。
「かっ……帰るわよ、佐山くん」
「カエル、わよ?」
「やかましい、ネコ!」
完全に置いてけぼりを食った。とりあえず頭をさげて、アオリが出ていった廊下に向かう。
「また、いらっしゃいね」
橙色の光のなか、落ち着いた声で如月あずさが言った。なんだかひどく、なつかしい気持ちになった。それがなんだったか思い出そうとする間もなく、あかんべーをしたアオリが戸を閉めた。
病院の廊下はとても青い。光の絶対量が不足しているのか、それともずっと夕日を見ていたせいだろうか。
うつむきかげんのアオリが、小さく笑っていた。
「くそー、負けた。いまんとこ、四十九戦十九勝」
「……なに」
「あ。ケンカじゃないよ。いつものことだから気にしないでねー」
そういう遊びらしい。本人はいたって楽しそうである。しかし、半分以上負けてるのか。
「で、でも! 罵詈雑言を吐く葵里、嫌いになっちゃヤあよ」
通りがかりのナースさんが、くすくすと声をもらしていた。さすが四十九戦はだてではないらしい。
三
「あずさちゃんのこと聞かないの?」
車に乗り込むなり、アオリがぽつりと言った。
たいして興味はなかったが、そう答えるわけにはいかない。
「気をつけたほうがいい」
「なにが」
「本人の名誉のため隠してた。津野はロリコンだ」
「そういうことじゃなくてね」
アオリは少し怒ったようだった。オーケイオーケイ、どうせユーモアのセンスに欠けているんだ。
「自殺未遂か」
手首の包帯、気にするなというのが無理というもの。
「二年間で五回ね」
「へえ」
一応年齢も聞いておこうか。同年だったら、慣れない敬語は使わないでいたい。
「……それだけ?」
「なにが」
「へえ、って。他には?」
どうも地雷を踏んだようだが、どこでかはわからない。どうして、とか言えばいいんだろうか。それとも、年間平均二・五回は多いな、か。あいにくと、アオリほどの好奇心を持ち合わせてはいないのだ。
「毎日行ってたのか」
エンジンキーをひねる。中古なので、なかなかかかりが悪い。
「おおげさよ。三日にいっぺんぐらいかなぁ。あのひと、誇大妄想だから」
頻繁ということに変わりはない。知らなかった。
「あずさちゃんね、きれいでしょう。ちんこいし、かわいいよねー……」
トーンが下がる。
「そうだな」
率直な感想だ。実年齢はどうあれ、見た目だけならアオリより年下に見える。きれいというよりかわいい感じだ。だが、無邪気というタイプではなさそうだ。どうも毒をもってる気がする。
「あのひとも恋で変わっちゃったひとだからさ、なんか津野さん見てると心痛むんだよね」
……電話だ。
虫の報せめいた予感があった。バイト先からだった。
「おまえ、どこにいるんだ」
なんの前置きもなく、唐突に安斎さんが言った。アルバイトなのに準社員みたいな扱いを受けてるひとで、店長の次にえらそうな二十八歳だ。
「おつかれさまです。えっと、紫崎大附属病院を……出たとこです。知り合いが救急車で運ばれたって聞いたもんですから。勝手に早退してスイマセン」
「三島も一緒か」
安斎さんはおかしなことを言った。
「三島のバカもそこにいるのか、と聞いている」
「そんなはずありませんよ。店空けるわけにいかないでしょう」
「やられた」
安斎さんが悲鳴をあげた。
「どうしたんです」
「あの野郎、『セブンス』パクってトンズラしやがった」
一瞬、目の前が真っ白になった。
「佐山くん、ちゃんと前見てよね。ホントは停まらないとダメなんだよ」
アオリに叱られる。おとといのことで敏感になっているらしい。
「すぐ戻ってこい。いいか、すぐにだぞ。……くそっ、ケース割って堂々と持っていきやがった。とんでもねえ野郎だ」
このひともアオリとは違った意味で、感情をセーブすることができない。もっとも彼の場合は短所だと思う。よって、早とちりしている可能性も充分に考えられる。
「オレ……クビですかね」
「知るかァっ」
相当取り乱しているらしく、安斎さんの声が裏返った。
*
大急ぎで戻ってみると、意外なことに三島さんの姿は店にあった。『本日臨時休業』の看板を横目に店内に入ると、安斎さんともめていた。
「だからぁ、おれじゃねえんすよぉ」
「うるさい。じゃあなにか? 強盗にでも押し入られたってのか」
オーバーアクションで安斎さんが、店内の異常さを表現する。このひとはなんでもおおげさなのだ。それがかっこいいと思っているようだ。アメリカンな肩のすくめかたができると、いつも意味がないときに自慢していた。
「強盗じゃありません。万引きです」
三島さんはきっぱり言いきった。
「バールでケース叩き割って万引きだってか?」
「そうです」
店の奥に目を向けると、頑丈そうだったガラスケースが武装集団の襲撃にあったように、徹底的に破壊されている。たしかに二時間前までは、そこにエジプトのファラオの棺よろしくディスプレイされていたのだ。
ごていねいにも、犯行に使用したと思われる凶器まで放置してあった。たしか外の資材置き場にあった、店の備品だ。
「バカも休み休み言えよ。どこに隠した。あれは、いつか俺が買おうと思ってたんだ。よくもおめおめと戻ってこれたな」
「撒かれたんですって。敵は相当の手練れです。不肖三島弥眞斗、根性だして全力疾走しましたが追いつけませんでした。原因明瞭の腹痛に見舞われ、心苦しくも追跡を断念せざるをえなかったのであります。――そんなことよりアンザイさん、もっと有意義なカネの使いかた教えてあげましょうか」
大きなお世話だと安斎さんが怒った。三島さんは愚痴りモードに入る。
「いや、これでもね。学生時代は体育の成績は良かったんですよ。他の教科――特に数学はさんざんでしたが。いや、学生っていってももう、ええっと八年以上も昔のことで……って八年! 八年ですよ、アンザイさん。おれも歳をとるわけです。それもこれも、理由はすべて酒。こいつがいけない。最近、恐ろしいことにハラが出てきましてですね。あれは悪魔の水です。あ、なんならハラ見せましょうか。あんまり怖いんで、通販で腹筋の機械買おうと思ってるんです。でも、こう暑いとどうしても喉が渇くじゃないですか。ビールの味をおぼえた者は、決して逃れられないまさしく悪魔の……あ、さやまサン」
「来たか、管理能力欠如者め」
安斎さんが毒を吐いた。
いじめられっ子みたいな顔で三島さんが、よろよろと駆け寄ってきた。
「ひどい。ひどい濡れ衣です。あんまりです。さやまサンは悪くありません。さやまサンは間違ってない。さやまサンが正しい。すると必然的に三島弥眞斗も正しいということになります。これが方程式」
「ひっこめ」
ちょっとむッとした顔で、三島さんがふり返る。
「だいたいアンザイさんは、最初っからひとを疑ってひどいじゃないですか。どこに証拠があるんです。俺が見たって言ってるじゃないですか」
「だまれと言ってるだろう。俺は佐山と話がしたいんだ。おまえなんかもう、うんざりだ」
「見てください! いいや、見せます。ほら、この汗……ちょっと乾いてきましたけど、輝く汗、情熱の汗です。もうオリンピックもびっくりでした。映画さながらのアクション! そしてサスペンス! 迫りくるスリリングの連続! そして――感動……!」
「やめろ。きさまなんかとは話したくない、バカがうつる。なにが感動だ、大バカ野郎。じゃあなにか、その万引き犯ってのは、スタントマンかオリンピック選手だってか」
「あ、そうですね。……なるほど。たしかにそういうことになりますねえ」
変に感心する三島さん。本当にこの人は、どこまで本気なのかわからない。
「ところで、安斎さん」
「なんだ、管理能力欠如者」
まだ言うのか。
「三島さんはともかく、オレはどうなるんですか」
「知るかよっ。店長に連絡入れといたから、そしたら聞いてくれ。もう俺の手には負えん」
「警察には?」
「おまえ、身内を逮捕してくださいって言うのか?」
「本気で三島さんを疑ってるんですか」
アクセサリーで一千万の男を目指すと公言している彼が、ジーンズで三百万もスキップするはずがない、というのがひそやかな善意だった。
いまどき防犯カメラのない店だ。ケース保管のため、防犯タグもついていない商品だった。従業員《三島さん》の言うことを信じるのが筋だろう。
すると、まさに「地獄に仏」ということわざがうかぶくらい、三島さんは純真に顔を輝かせた。
「やっぱりさやまサンは味方ですね」
安斎さんは気分悪そうに頭を振った。
「どっちにしても、店長が来てからだ。まあ、おまえの責任問題は免れんと思うがな」
その時、真っ赤になった風が横切った。
「いいかげんにしなさいよ」
威勢のいい啖呵を切ったのは、待ってろと言っておいたはずのアオリだった。
目を白黒させている安斎さんの隣で、「あぁ、堕ろしちゃったんですね」とつぶやく三島さんを聞いた。
「佐山くんは悪くないの。全然悪くないの。そんなのひどいよ。佐山くんが悪いってんなら、佐山くんを呼び出したあたしも悪いってことなんだから。これが連立方程式っていうの」
なに言ってんだ。あわててアオリの口をふさぐ。
それを無理矢理ふり払って、彼女はつづけた。
「佐山くんはね、津野さんを心配して、仕事中なのに病院来てくれたんだよ。友だちが救急車で運ばれたんだからあたりまえでしょう。佐山くんはイイ人なのよ。いっつもむすっとしてるけど、本当はとってもやさしいんだから。佐山くんは悪くないの。全然悪くない。なのにひどいよ。さっきから聞いてれば、ただめちゃめちゃな理屈で怒鳴ってるだけで! 佐山くんなんてね、佐山くんなんてね……っ!」
「わかった。頼むからだまってくれ。たのむ、泣くな!」
それから店長が来て、警察が来た。店長が呼んだらしい。
証拠がなかったせいもあるが、ひとまず三島さんは無罪放免となった。
四
「大好きだって思っててもさ、うまくいかないことってあるんだよね」
誰のことを言っているのかわからなかった。
「思い込みとかですれ違ってさ……勝手だよね」
津野のことかあずささんのことか、それとも彼女の両親のことか。そんな迷い、この瞬間にまで持ち込む彼女を少しだけ恨んだ。
うす闇に、飽き足りた冷ややかなセミダブルのベッド。絡まる獣は二体の肢体。
アオリの髪、アオリの額、アオリのまぶた、アオリの鼻、アオリの頬、アオリのくちびる。――数えられぬ想いだけが求めた。
アオリの首、アオリの鎖骨、アオリのうなじ、アオリの背中、アオリの肩、アオリの腋、アオリの腕、アオリの手のひら、そして指。――そのひとつひとつ、細胞のひとかけらまでも愛おしく、大切に包み込む。
アオリの乳房、アオリのほくろ。アオリのおなか、白くてぺちゃんこのおなか。小さくしぼんだおへそ。
何度もアオリが呼んだ。そのたびにそれに答えた。
幾度となく互いを呼びあい、触れあい、感じあっては求めあった。
アオリの腰、アオリのおしり、アオリの腿、アオリの内股、アオリのひざ、アオリのすね、アオリの足。ゆるやかに這い上がり、そうして透きとおるほど純粋で、待ちわびたように急速に、それでいておもむろに。
めくるめくは眩惑的な、かぎりなく寂寥に近い甘美。情熱に似たしたたかさが、激しく優しく深い波のように襲ってくる。
「みないで……! ああ、みないで」
顔の前で腕を交差させて鳴く。彼女は素顔を見られるのを嫌う。取り払おうと手を伸ばす。
「だめ。あたし、不細工でしょう」
そんなことはないのだが、いつもあきらめてしまう。
顔を覆ったアオリが呼ぶ。
好き? ねえ、あたしのこと好き?
従順に言葉をなぞり、愚鈍なほど明確に応える。
激しく揺れて、跳ねてはしがみつく。磁石みたいだ。お互い引きあい、引かれあい、離されまいと重なりあう。
不意に、永遠に続けと願った刹那が溶けだして、理性が奥底で氾濫をはじめる。
鈍く、鋭く。
まどろみと覚醒は同時にやってきた。
「……三島さんがさ」
大きな波のあと、言った。
「メシおごってくれるって……言ってたんだよ、今晩。アオリも一緒に、って。お礼だって。でも、疲れたから今日は帰りますって言っちゃってさ。それじゃあってんで、明日になったんだ。犯人、捕まるといいな」
アオリは答えなかった。
「だからさ、一緒に行こうぜ。そのぅ……ありがとうな」
眠り姫は聞いていなかった。
赤ん坊の泣き声がする。
五
「へえ」
驚いた顔ひとつせず、彼女はチェシャ猫のように笑っていた。白いTシャツ姿で、体をこちらに向けてくる。
「なんだ。本当に来ちゃったんだ。もう来ないかと思ってた。だって、昨日の今日だよ?」
廊下から見えたかぎりでは、ぼんやり空をながめていたのだが、突然の来訪者に興味が向いたらしい。
「しかも、ひとりで」
くすくすと声がおどった。なんだか昨日とは態度が違うような気がする。わりとあからさまな悪意を感じないでもない。
華奢な膝の上には、真っ白なスケッチブックがひろげられている。開け放たれた窓から、蒸れた真夏の風が病室に流れこんできた。
「なにぼんやり突っ立ってんのよ。趣味の悪い花なんて持って」
中に入ろうとすると、すかさずあずささんが言った。
「はやく活けてきなさいよ。炎天下にさらしてたでしょう。しおれかかってるじゃない、かわいそうに」
アオリからは津野に、と見舞い用の花をあずかっていた。個人的に津野を見舞う気などないのだが、念を押されたので断るに断れない。
ところが、いざ行ってみれば病室は共同部屋に移っているし、「男の病室に花なんているか」と虚弱男に拒絶されるわで、調子が狂ってしまった。仕方なく、花の行き場を求めたらここにやって来ていた。
言われたとおり花びんに水を汲んできて、枕もとの棚に置いた。
あずささんはていねいに花をそろえて白い陶器におさめてしまうと、思いたったようにえんぴつ片手にバランスを計りだした。
「んー、この統一感のなさ――天才的ね。選んだの葵里でしょう。あのコ、紙一重だから」
所在なくイスに腰をおろす。たしかに選んだのは彼女だ。登校前に一緒に花屋に行ったのだ。
意識せず視線は、あずささんの左腕を見ていることに気づく。細い手首に包帯の白さがまぶしい。
「いやにおとなしいわね。せっかくだから、なにか話さない? それともなに、こう見えて人見知りするほうだったりするの」
笑いを噛み殺すように、低くあずささんが肩を震わせた。
「ええ、わりと。……すいません」
大きな目が無感動に、責めるように光を失う。
「うそつきね」
憎らしそうに目許をゆがめ、満足そうに口の端をつりあげた。
「思ったんだけどさ。なんか影あるわね、きみ。葵里の話とイメージが違うのよね。暗いの? ああ、ひょっとしてあれでしょう。じつは、ひとには言えないような過去があったりするんじゃない? ――よしよし、このあずさねえさんがずばり推理してみましょう」
遠慮のなさと押しつけがましい身勝手さは、さすがアオリの従姉というべきか。そのうえ高慢とくれば、さすがに勘弁してほしい。
長いまつ毛を伏せて、あずささんは一度表情を殺した。それからおもむろに、厳かにハスキーな声が、自信に満ちて告げたのだ。
「元カノが死んだのね」
一瞬のうちになにかが壊れ、そして静止した。
全身を冷たいものが駆け抜けた。落ちていった。イスが転がる音が病室に響いた。
(……ていうの?)
――声が、する。
「……どう、して」
幻聴だ。フラッシュバックのように脳裏をよぎる。情景が、声も、顔も、香りさえも。禁断であったはずの女性の記憶が、鮮やかに浮びあがる。
(アキトくんていうの?)
そうして――とうとう捕らえられた。
意識のなかでその名をもった人物が、ゆっくり自分を指さして微笑んだ。その姿。
(香織。木更津香織っていうの)
いま、自分はどんな顔をしているだろうか。
「……そう。葵里は知らないのね」
悲しそうに目を閉じる。
「ごめんなさい、気分悪くしちゃったかしら。……やっぱり香織のこと、忘れられないのね」
「あなたは誰ですか」
かろうじて発したはずの言葉は、不自然なほど落ち着いていた。自分が一番驚いている。本当は息があがって苦しいのに。恐ろしいのに。
「木更津香織の友人代表よ。きみは、そう……お葬式にも来なかったわよね」
わずかな眩暈。あざやかな蒙昧。
(でも、いらないなんて言わないで)
(生きていていいんだって思える世界を――)
もう触れることのできない、遠い景色を見た気がした。
あずささんは、またぼんやり窓の外をながめていた。まっさらな青空が、四角く切り取られている。
三年前の冬、木更津香織は死んだのだ。あのときの彼女と同じ年になっていることに、いまさらのように気がついた。
「ねえ、佐山……さん」
おもむろに少女がつぶやく。ふり返ることなく。
「香織のこと、好きだった?」
「…………」
おかしなところに迷い込んでしまったような錯覚に襲われた。どこまでが現実だろう。ここは、かぎりなく不安定で不明確な迷宮。どこに行けばいいのだろう。どこへ行けば逃げられる?
「あの」
「なに」
大きな瞳が答えた。おびえた自分が映っている。
「美大だそうですね」
とってつけたような話題だった。
「きみはフリーターだそうね」
けれど、それに合わせてくれるあずささんがうれしかった。
「最近ね、葵里を描いてるのよ」
視線の先を追うと、キャンバスには完成像もつかめない、ぼやけた色があった。人間のように見えないこともなく、そこから原色のようなアオリが生まれるのだろうか。
「あのコ、本当におもしろいわね。とっても素敵。私と違って素直だしね。大好きよ」
彼女はそう笑って、すぐに表情に翳りをうかべた。視線は左手に落ちた。
「私ね、心臓に穴が空いてるのよ、生まれつき。だからずっとね、体育の授業とかはいつも見学。どんなに天気が良くても、日陰でただじっとそれを見ているの。遠くでみんなの歓声を聞きながら、私なにやってるんだろう、って思ってた。もともと暗い子でね、運動音痴だから体育なんて嫌いなのよ。グループ行動でも、ひとりだけどんくさくてみんなの足引っ張っちゃうし。だから、本当はうれしいくせにね。でも、心のどこかではみんなをうらやんでいた。グラウンドでクラスメイトたちが、わいわいはしゃいで走ってるのが、本当にいやになるくらい楽しそうでね」
「…………」
「どうして自分だけ、なんで私だけって思った。別に無理しなきゃ問題ないんだし、強制的に止められていたわけでもない。参加したってよかったのに、やっぱり迷惑なんじゃないかって――自主的に集団から離れようとしていたの。そしたらね、不思議なものでね。どんどん卑屈になっていくの。だんだん誰ともしゃべれなくなっていって、そのうち友だちもいなくなって、とうとう部屋に閉じこもるようになっちゃってさ。気がついたら手首切ってた。それが最初かな」
自虐的に彼女は笑う。
「正直、痛みよりも感動したのを憶えている。死にたかったわけじゃないのよね。結果的に死につながるんだろうけど、その時はそんなこと考えてなくて――矛盾してるわよね。私のなかの認めたくない部分とか、いやでいやで仕方ないものを、こう痛みとか血みたいなもので、目に見える形で感じたかったんだと思うの。死にたいんじゃないの。殺してしまいたかったのよ、大嫌いな自分を。いまでもそう。いやなことがあると、すぱッとやっちゃう。それこそクセみたいに。もう病気なの。でもね……そうするとね、いっつも葵里が怒るの。泣きながら怒るのよ」
「あの……」
そんな脈絡もない自分語りを聞くつもりなどない。なぜほとんど初対面の相手の、そんな身の上を聞かねばならない。
高校時代の津野を思い出す。死にたくないくせに死のうとするやつは、大嫌いだ。
死ぬことでなにかが変わるなら、それは残された者だ。死んだ者にそれは確かめようがない。
ふっと、彼女が息をついた。
「中三のときだったかな。なんとなく学校にも行かなくてね、ずっと閉じこもってた時期があったの。親とも満足に口もきかないで。真っ暗な部屋で絵を描いてたんだ。なんでなのかな。別に、そんなに絵が好きだったり得意だったりしたわけじゃないのよ。なにを描いているのか、なにを描きたいのかもわからない。ただ吐きだしたかったんだろうと思うの。それが自分でもなにかわからないから、それは形にならなかった」
たぶんこのひとは、自分がとてもかわいいのだろう。きっとそれは、「悲劇のヒロイン」を気どりたい――彼女と同じなのだ。
それはとても、誇れるものではない。
「学級会とかでも、議題にあがってたと思うのよね。登校拒否とかって目立つから。――ある日、クラスの代表がね、お見舞いに来たのよ。お見舞いって言葉は変だけど、どこも悪くないんだし。激励っていうのも名目だけの、ウソばっかりの寄せ書きの色紙持ってきてさ。――香織だった」
「…………」
「それまで彼女のこと、なんとなく気に入らなかったのよ。家がお金持ちだとか、頭がいいとかね……たぶん、そんな理由だったと思う。初めてだったよ。香織ね、私の絵を見てほめてくれたんだ。私が見たって、なんだかわからないような絵をね。だから、ひょっとしたらお世辞だったのか、それとも本当はただ会話を合わせるためだったのかはわからないけど――うれしかった」
大丈夫。その彼女は、嘘をつかないから。それが彼女の、もっとも憎むものだから。
「……ねえ、きみはいま幸せ?」
ふっと現実に帰ってきたあずささんが、うるんだ瞳でたずねてきた。それは、津野がアオリに言った質問と同じだった。
幸福という境界は、自分で引くしかない。他人が推し測る価値観ではないのだから。
だが、あずささんは言外に香織の存在をほのめかしている。
「幸せ……なのかもしれません。アオリは幸せだと言ってくれます。だから、そうなのかもしれないけど……よくわからないです」
その回答に、一瞬意外そうな顔をした彼女は、やがて悲しそうな目で「なぜ?」とつぶやいた。
なぜ。首をかしげる。
どうしてだろう。
やはり幸福など、測れるものではないからだ。
「でも――そうですね。はっきり言えるとしたら、……いまがとても好きです」
「私は……きみがとても憎いわ」
消え入る寸前の声で、あずささんはまた遠くに視線を投げた。
「オレも自分を、一生うらむでしょう」
不意に険しい憎悪の目がふり返り、ぐっと食い入り、飲みほさんばかりの勢いで襲ってきた。
「そんなセリフ聞きたくない」
彼女を納得させる言葉を用意することはできそうにない。目を伏せて、顔を見ないようにする。
「すいません」
「謝るのは私に、じゃないでしょう」
「すいません」
「だまりなさい」
続かない。重い沈黙。
「ああ、ねえ」
突然、がらりと声のトーンが変わる。
顔をあげると、まるでいままでの話などなかったかのように、表情まで明るかった。
「きみのケータイ番号教えてもらえるかな?」
「いいですけど……病院って使っちゃいけないんじゃ――」
不敵に彼女は笑った。
「緊急時以外、マナーは守るわ。どうも私って、身勝手って思われてるみたいね。納得いかないけど。いいじゃないの、どうせすぐ退院するんだし」
そうして、アドレスが一件増えた。
名残惜しそうにあずささんが、自分のケータイをもてあそんでいる。
「……香織の番号、まだ消せないんだよね」
蒸し暑い夏の風が、さらりとカーテンを揺らした。
「信じたくないから――ううん。怖いのよね、すごく。もし……もし電話しちゃったらさ、きっとなんでもないふうに香織が出てさ、『もしもし、あーちゃん? ひさしぶり、元気してた?』なんて、何事もなく言いそうな気がして。――そんなこと……あるはずなのにね」
「――オレ、帰ります」
あずささんは驚いて視線をあげた。たぶん、顔は見られていないはずだ。
「あ。花、ありがとうね。葵里にも言っておいてちょうだい。また……来てちょうだいね。ごめんなさい。本当に」
このひとは躁鬱病だ。