第一章
この作品は『lovechair』の続編です。
前作を読了後の閲覧を推奨します。
第一章
一
いつもしている指輪を忘れたことに気づいた妙な解放感。左のひとさし指が風邪をひいたみたいにふるえた。初めてのバイト代で買った、十字に穴の開いたシルバーリングだった。お気に入りのサングラスと一緒に、ひきだしの奥にしまったせいだ。
今日、ネコが死んだ。二年前の雪の日、にぼしひとつで買収された腰の低いやつだ。だからずっと名前をつけず、不便なときは「ネコ」と呼んだ。
左目だけ、血がにじんで固まったような琥珀色をしていた。オッドアイなんだと教えてくれたのは、誰だったろう。
帰り道、増水したドブ川に浮かんでいた。黄色い首輪は見間違いない。真っ白なオスで、食事と昼寝の次に毛づくろいが好きなやつだった。
部屋に着くなり、携帯がけたたましく鳴りだす。
表示された名前を見て、無視した。
玄関に座り込むと、蒸れたスニーカーを振りほどくように脱ぎ捨てる。十回目のコールをすぎても、相手は切る気配がない。仕方ないので、十八回目に出ることにする。
「やぁっと出たか。なんだ、昼寝でもしてたんか?」
男のくせにやたらと甲高い声で話すのは、高校時代の知り合いだった。どうにかすると金属音のようで不快である。
「バイトから帰ってきたとこなんだ。気づかなかった」
気のない返事をして、天井を見あげた。気がつかなかった。染みがふたつ。左が濁ってる。
「そうか、悪かったな。労働は尊いぜ」
ちっとも悪びれた様子もなく、電話の向こうで津野は歯ぎしりみたいな音で答えた。
津野の親父さんは一代で不動産業を興した。のみならず、多角経営を打ち出し、建設業、レンタカー業などと手広い。市内のあちこちに看板を立てるほど有名で、当然儲かっていると思われる。しかし、蛙の子は蛙ではなく、鷹が鳶を生むこともあるらしく、この御曹司はデキが悪いことで有名だった。
エピソードを語れば枚挙にいとまがないのだが、あえて挙げるとするならば、高校三年間全教科赤点という、我が校の偏差値から見ればなかなかレアな記録を残したことだろう。教頭の皮肉を借りるとするなら、「我が校はじまって以来」の快挙だったらしい。もともと津野とはクラスが違うので、どんな授業を受けていたのかは知らないし、興味などあろうはずもない。
それでも少しは取り柄があれば救いもあるのかもしれないが、学生時代の女子たちの総意によるところの「キモイ」系男子だったこいつは、典型的ないじめられっこだった。
そんな津野も、高卒で社会人デビューを果たしてから、大きな心の変化があったようである。
やたらとオシャレに気をつかうようになった。働きはじめたおかげで、自由に使える金が増えたのだろう。カツアゲされることもなくなったのも、本人にとっては大きいはずだ。
そこにきて最近、ある巨乳美女をゲットした。そのいきさつは誰も知らない。かなりの金が動いたのではないかとにらんでいるが、いまのところ確証はなかった。
「まあ聞いてくれよ」
で。話しはじめた内容が、昨夜クルマのなかでその彼女とくりひろげた情事の一部始終である。
「いそがしいんだ。切るぞ」
なにが悲しくて、そんなもの聞かされなきゃいけないんだ。
「まあ待て。待ってくれ、これからがいいところなんだ」
こいつの話はいつだって退屈だ。脈絡もないし、聞くだけの価値もない。日本語には不自由しているらしい。ところが、こういう時にかぎって電波はMAXなのだ。
少しでも妨げにならないかと、部屋のなかに入る。フローリングは、カルピスオレンジの原液をこぼしたような色だった。カーテンを引く。
津野の話題は、クルマのことに移った。もっぱら愛車の自慢である。いかにも高級そうな、シルバーメタリックのスポーツワゴン。新車で、お値段も素敵に五百万円也。免許とりたてが偉そうに五百万だ。くそ。
サスペンションの素晴らしさを、情事に絡めてとうとうと語りだす。こちらがいらついてることなど、当然気づいてる様子はない。
「だからよー、やっぱりカーセックスはでかいクルマがイイわけよ。おまえ、まだ新しいクルマ買わねえんか? やっぱ男はよぉ――」
きっと向こうの電波が悪かったんだろう。勝手に動いた右手に、たぶん罪はない。言いわけのうまいやつは、どこへ行っても生き残れると三島さんが言っていた。
窓の外からは、近所の小学生らしき歓声が聞こえてくる。そろそろネコに夕飯をやる時間だった。
携帯で見慣れた名前を呼びだす。ツーコールで相手がでる。
「どうしたの」
はずんだような声だった。
「ヒマだろう、学生」
こちらはぶっきらぼうだ。
「これでもいそがしいのよ、超売れっ子だかんね。それに、これからちょっとね。テストあけの学生はブレイクすんのよ」
耳許でくすぐるような笑い声は心地良い。
「へえ。今日はどこの誰とデートなのさ」
「決まってるじゃない。そんなの、佐山くんよ」
鼻にかかった、高いがよく抜ける印象的な声は、挑発するようにデジタルの波で躍った。
「それはありがたいな」
「ねえ、何時がいい? もうすぐ家着くから、いつでもいいよ」
いつもの時間にいつもの場所で。なにもかも、いつもと変わらない。
「あのさ。迎えに行くの、いつものクルマでいいかな」
「なにわけわかんないこと言ってんの。新しいクルマ買ったの?」
「冗談だよ」
「わらえないねえ」
「……あとでな」
「ン。じゃあ佐山くん、あとでね」
名残惜しそうに、微妙な間をあけて通話が終わる。二分十九秒……短い。
散らかったキャットフードをゴミ箱に放り、ベッドに倒れ込む。舞いあがったほこりと猫の毛が、カーテンのすきまから差しこむ夕日のなかで、きらきら光っていた。
思いたってサイドボードの引き出しを開ける。割れたサングラスと、ネコじゃらしのおもちゃが出てきた。
二
「なんて歌?」
二十一時を少しまわったころ、甘い声をだすステレオに言った。バンドと曲名を教えると、すぐに「知らなーい」と返ってくる。インディーズなのだから無理もない。
ヘッドライトは海へ向かう直線を照らす。法定速度六十キロプラスアルファ。夜の道は空いてていい。
「どういう歌なの」
メロディアスなロックバラード。二回目のサビを聞いて、興味をもったようだった。悪くない。
地球儀の海のような鮮やかな水色のTシャツに、大阪のおばちゃんかとツッコミたくなるような虎が抜かれている。その上にオレンジ色のメッシュの半袖を合わせていて、見るもまぶしい。たぶん、虎が檻に閉じ込められてる的な意味なのだろうと勝手に解釈する。
パンツはピンクを基調にしたどぎつい配色の迷彩カーゴ。本来の迷彩の意味を見失いそうになる。その下は蛍光グリーンのサンダルで、全身を見るともれなく目がちかちかする。
視線をあげれば、ちょっと眠たげなくっきり二重のまぶたに、必要以上に盛られた付けまつ毛。紫のアイシャドウの周辺は、きらきらラメが光っている。
学校ではおとなしいようだが、ひとたび私服に着替えると化粧もひどい。そもそも個性を抹消する目的の校則に抑圧されたフラストレーションは、思いもしない形であらわれるのだということを体現しているようである。
「すごいべたべたな恋愛の歌だよ。『Restroom』っていうの」
「……化粧室?」
「直訳で『安息の部屋』かな」
「ふーん」
きれいな眉をむずかしそうにしかめているが、すっぴんだと眉がなかったはずだ。
「このひと日本人でしょ。『安息の部屋』でいいじゃん、なによ『Restroom』とかカッコつけちゃってさ。使いなれない英語つかって失敗しましたー、みたいな典型例じゃない」
「わるかったな」
髪のあいだからのぞく耳たぶに、青い蝶のピアスが光っていた。マイブームの銀ラメのマニキュアの次にお気に入りのラピスラズリだ。
「え。佐山くんが怒ることないんでない」
「気に入ってるんだよ」
「なにが」
「この歌」
ははは、と少しだけ笑う。三日月形に湾曲した目とうすく開いたくちびる。曖昧で微妙な、中途半端な笑顔は彼女の魅力である。
「ボーカル、女の人なんね」
「きれいだよ。アオリに似てるかな」
「へえ、それはそれは。今度貸してよ……って、これかな」
リアシートからケースを見つけて、小生意気に鼻を鳴らした。ジャケットは能面みたいに微笑むボーカルのアップだ。
「やあねぇ、化粧しててもわかるわ。とがった頬骨に荒れた肌、腫れぼったい目、つぶれた鼻に薄いくちびる……どこがいいわけ? 絶対すっぴんブサイクよ」
「そっくりじゃないか」
無言でケースが後ろに飛んだ。
「おい、ちゃんと片付けろよ」
「はじめっから投げてあったじゃん。佐山くんこそ片付けたら?」
普段は助手席に置いているのだが、彼女を乗せるために急遽リアシートに退避させたのだ。
「あれ限定盤なんだって。超レアなの」
「……あたしさぁ、まえから思ってるんだけど、佐山くん変なとこ細かいよね。O型なのに。嫌いじゃないんだけど」
「…………」
言われたい放題に打ちのめされてふり返る。手当たりしだいリアシートにまとめてあるため、たしかにお世辞にもきれいとは言えない。うん、片付けよう。そのうち。
「ちょっ……ちょっと前!」
悲鳴があがった。
黄色と黒の反射板がまぶしい。カーブが迫っていた。
あわててブレーキを踏み込んでハンドルを切る。
投げ出されそうになる重力感。肩に食い込むベルト。アオリの悲鳴と嫌なスリップ音。景色は流星群になる。
なんとかガードレールすれすれで止まる。
冷や汗を拭う。隣の彼女は、青い顔をしていた。
「悪い。よそ見した」
エンストしたので、エンジンをかけ直す。走行距離もうじき十万キロの中古のマニュアル車だ。無理させられない。
「大事なひとを乗せてるのです。お願いしますよ」
憮然と彼女は抗議する。
「悪かったって」
「…………」
アオリがボリュームをしぼった。
「ねえ、佐山くん。おこってる?」
ゆっくり発進。ローからセカンド。
「べつに」
「一応あやまっとくね」
「ホテル行く?」
くすくすと笑い声。すぐ笑う女だ。言ったこっちがはずかしくなる。セカンドからサードへ。
「そうねえ。もうちょっとムードだしてくれたらね」
サードからトップ。いつもいい感じでギアが入る、この瞬間が心地良い。
そして、オーバートップ。
「あ。でもぅ……ひさしぶりに佐山くんの部屋、行きたいかなぁ」
そっちの方がはずかしいらしく、声が小さくなる。
カーブを知らせる黄色い看板。今度は落ち着いてシフトダウン。
「通夜なんだ」
「え」
すぐに小さな同居人のことだとわかったようだ。
「どうして。ネコちゃん、病気?」
「さあ」
勝手にいなくなったんだ。知るはずがない。
「かわいそう」
「憑いてくるぞ」
「ネコちゃんならいいわよ」
アオリは猫アレルギーだ。
「ごめんね」
「なにが」
「あたしはしゃいでる。ネコちゃんいなくなったのに」
「関係ないよ」
死者と生者は区別されるべきだというのが、ささやかな持論である。喪に服す行為など自己満足でしかない。
「……よし」
アオリはひとりうなずく。
「もっと楽しいこと考えようよ、暗い海なんてやめてさ」
もともと今夜、海に行こうと突発的に言いだしたのは彼女のほうだ。困ったことに、なぜか夜の海が好きだと言う。
付き合って初めてドライブした夜、彼女は海を見て泣きだしてしまった。
どうしてかわからなかった。
どうしていいのかもわからなかった。
困りはてたすえに、本当にどうしてかわからないのだが、きっとそれが夜だったり月がきれいだったりしたせいなのだろうけど、抱き寄せてキスをしてしまった。
以来、もっと海が好きになったらしい。困ったものだ。
「どうせ佐山くん、海キライなんでしょう? たしか初めて海行ったとき泣いたんだよね。そんなに嫌だったの?」
……そうだっけ?
「でも、その泣いてる顔がすんごいかわいくてさー。あたしのファーストキスは涙の味よ」
本当にそうだっけ?
「もうそれからは、佐山くんの泣き顔見るために海行くんだけど、泣いたのあれきりよね」
女ってやだな、と少しだけ思った。
三
思い出せるのは中途半端な笑顔だった。
女というのは不思議な生き物だ。その時つくづく思った。
情熱と青春をうたった陳腐な校歌の途中、伝染病のように女子が全滅した。担任も泣いていたのは女だからで、目を真っ赤にしていた津野は気のはやい花粉症だ。
三年分の授業料と引き換えた卒業証書は薄っぺらで軽い。こんな紙切れのために時間を費やしたのだろうか。通知表と一緒だ。結果はいつだって形にしようとすると薄っぺらになる。
一連の儀式が無事終了したあとも、女たちはまだ泣いていた。気味が悪かったので、裕福な津野と外に出た。腹が減っていたのだ。
校長の言葉を借りるなら、「今日という日にふさわしい天候に恵まれ」ているらしい。「きみたちを祝福するため」だそうだ。
空が青いのは気圧の問題だということを、おそれおおくも教育者が知らないのは詐欺だと思う。
季節を先取りしたのか、津野のヘアスタイルは夏の雲のようだ。もっともその強情なくせ毛は、季節を問わず年中積乱雲である。それはどうも、妄想力と比例しているのかもしれないと、ひそかに疑っている。
「誰でもいいからよぉ、こう走ってこねえかなぁ。物陰かなんかに隠れててさ、『津野せんぱぁい』ってな感じでよ」
ガラスを引っかいたような声が、名残惜しそうに校門のまえで希望する。やはり上昇気流に乗っているせいか、表情までてらてらしていた。
「腹へらねえか」
クラスメイトが何人か出てきて、無言で通りすぎていった。
「当然、カワイイ女の子だぜ。真っ赤な顔してよ、花束なんか抱えちゃったぐらいにしてさ。くぅー、たまんねえなあ」
誰でもいいんじゃなかったのか?
「オレさ、味九のみそ豚ラーメンでいいんだけど。餃子つきで大盛り」
「んでよぉ、なんつぅの。とろぉんとした恋の目をしてるわけよ。そんで『先輩の第二ボタンください!』なんつってよぉ!」
たしかに鯉の目はとろんとしてるが。ふたつボタンのブレザーから第二ボタンを?
ありていに言うと、津野は不潔な男だった。
鼻の下と頬に剃り残しの無精ひげが数本あって、それが毎度のことなので、ひょっとしたら意図的なのかもしれないが、それを確かめたことはない。
ワイシャツの襟や袖は常に汚かったし、履いている靴も泥と汗で汚れていた。内履きにいたっては結局三年間、自宅に持ち帰られることはなかった。
爪を噛むクセがあり、いつも深爪だ。その指はなぜか知らないが、年中汚れている。ガソリンスタンドで働いている人のようだと思ったことがあるが、バイトしているなどという話は聞いたことがない。
そのうちに恐ろしいことに気づくのだが、とうとう一度も自分から手を洗うシーンを目撃することはなかった。もちろん、トイレの後もだ。
きっと津野自身が雑菌で、洗浄したら本人も浄化されてしまうのだろう。だったらなおのこと、ぜひとも浄化されるべきだと思う。
担任と二人で話す機会があった。アンニュイな二十八歳は、受け持ちクラスではないとはいえど、津野のことは職員会議では有名らしく話題をもちかけてきた。
学校はじまって以来の快挙である成績のことではない。全教科一桁点でも卒業できるのは、彼の父上のささやかな献上金のおかげというのがもっぱらの噂だ。さすがは私立。
三年間、津野はテニス部だった。本人いわく、「ハイソである」とのこと。テニスがハイソサエティなスポーツというのは偏ったイメージだと思うが、どうもハイソックスのことらしかった。
結局一度もレギュラーに選ばれることはなかったが、女子のスコートを自然な状況で観賞できるクラブに、毎日感謝していた。学校生活にはいろいろな楽しみ方があるのだということを教わった。
(……あのね。こんなこと、本当は言っちゃいけないのかもしれないけど――ほら、佐山くんて津野くんと仲良いでしょう?)
いつもは明朗な担任の声がかすれていた。仲が良いというのは、まったくもって心外である。
(このあいだ津野くんがテニスの練習してるとこ、たまたま見たのね。なんか……なんだかね、津野くんの動きが人間っぽくなくて――へ、変な気持ちになっちゃって)
話し上手でも聞き上手でもない自分のスキルが妬ましい。このときは、だまって聞いていることしかできなかった。
(こう、ラケットを構えるじゃない? そう、――こう。それでボールから全然目を離さないわけじゃない、あたりまえだけど)
こう、と言うときはていねいにも生態模写をする。威嚇でもするようにラケットを振り上げる姿勢は、まるで人間らしくない。
(この姿勢のまま走るのよね、あの子。ボールを追いかけてコートのなかを、しゃかしゃかしゃかしゃか……! しゃかしゃかしゃかしゃかよ? なんだか――なんだか、カマキリが這ってるみたいだった……!)
それは担任にとって、禁忌に値する内容だったらしい。最後のほうは泣き声とも悲鳴ともとれた。
けれども、「王様の耳はロバの耳」と叫び終わると、何事もなかったかのように晴れやかな顔になった。最後まで就職難を自分のせいにしていた被虐質の女だった。初めてクラスをもったことも理由だろう。
たしかに津野は昆虫的である。逆三角形の顔に離れぎみのつり目、やや出っ歯なところもさることながら、がりがりの体はたしかにカマキリを連想させてもおかしくない。
アニメのガリ勉キャラのような分厚い眼鏡をかけているが、決して賢いわけでもなく、むしろ昆虫らしさを演出しているようでもある。肌も乾燥していて、昆虫の動きをあらわす擬態語と同音異義なのにもつながりがあるように思えた。
「……あ、」
横のほうで女の声がした。タイミングを見計らったが失敗した、そんな失望的な戸惑いが正直に表現されていた。まだ津野と、校門のまえに立ったままだった。
中途半端な笑顔がそこにあった。焦燥をうかべた愛想笑いだと思った。
「なに?」
冷たく言ってしまったのは、たぶん腹が減っていたからだ。
彼女はなにか言いたそうに「あ」と言葉を発したが、結局すぐにうつむいてしまった。
誰かに話しかけるとき、名前を呼ぶかわりにそう前置きする人種がいる。はずかしがりで思い上がりの強い傾向が多いそうだ。
生花の束を持っていたから、なにが言いたいのかおおよそ察しがついた。後ろのほうで友人とおぼしき三人組が、こぶしに力を込めて心配そうに見つめる姿があった。
少し短めのスカートのすそをにぎりしめ、真っ赤になっている。かるくパーマっけをおびた明るめの髪は、伏せがちのまつ毛にかかっていた。
「あ、あの……」
緊張のためかふるえている。まだ顔はあげない。津野は自分の第二ボタンをにぎりしめたまま、いらだったようにふるえていた。
彼女には見おぼえがあった。何度か廊下ですれ違ったていどであるが。わりと濃いめの顔なので印象に残っている。たしか生徒会の書記もしていた気がする。赤いブレザージャケットとチェックのスカート。高校からは名札をつけないから厄介だ。リボンの色から察するに、二年生のようだ。聖徳太子は偉大である。
なんの前触れもなく、いきなり花束が飛びだしてきた。
名前も色以外に見分けがつかない花で、きらきら舞う花粉に目を細めた。津野がくしゃみをした。
(どうしてあのとき、ちゃんと受け取ってくれなかったの?)
いつだったかアオリが言っていた。ラーメン食うのに邪魔だと思ったから、って答えたらマジでぶん殴られたっけ。
そのままたぶん数分がたった。思い悩んだすえあとには引けない後輩と、物理的に受け取りたくない先輩の図だ。
しだいに彼女の目から涙がもりあがってきたので、さすがに危機を感じた。一輪だけ抜き取って、卒業証書の筒のなかに入れた。小さくて細い、白いつぼみだった。これくらいなら邪魔にならないと思ったからだ。
四
「うれしいな」
部屋に入るなり、枕元のドライフラワーを見つけてアオリが言う。
「まだ持っててくれてるんね」
よく言うよ、来るたびにそれとなく見てるくせに。
あれから三度、彼女は髪型を変えた。色もしだいに赤みが増した気がする。いいのか、生徒会書記長。
「まえから聞こうと思ってたんだけどさ、これなんて花?」
結局海には行かず、ファミレスに寄って帰ってきた。
「さあ」
銀色に塗った爪を、うっとりしながらながめている彼女は、もう花に興味を失ったようだった。
それからくしゃみをひとつする。銀色の爪は、部屋の隅の空気清浄器を押す。
他人のことをどうこう言える立場ではないのだが、個性的なファッションほど人を選ぶものだ。
このあいだは、てかてかした光沢のフェイクレザーのパンツに、スカイブルーのノースリーブでやって来た。顔には星をはりつけていたし、足はたしかキリン柄のパンプスだった。
アオリが似合ってるかどうかは、この際別問題としよう。ともかく壊滅的である。口に出して言ったことはないが。こういうのをなんというんだろう。色彩音痴?
「たしかさ、これだけでいいって言ったのよね、あのとき」
まだ花の話は終わってないようだった。
「花ってさー、結構すんのよ。すんごい緊張してたしぃ、全然受けとってくんないんだもん。あー、また思い出してきた。そしたらだんだん鼻の奥がさ、つーんてなって、ああ泣いちゃだめだ泣いちゃだめだって思ったけど、結局泣いちゃったんだよねー」
アオリの感情はいつでもストレートだ。発想はエキセントリックだが、短所であり長所でもあると思う。
「でさでさ。佐山くん、すんごい困った顔してさ。『ラーメン食うか?』なんて! ほんとデリカシーのないひとなんだって思ったね」
「悪かったな」
ドリップの用意をしながら、アオリの皮肉を聞いている。このコーヒーメーカーはお気に入りで、ガラス部分は三代目になる。古い形なので、メーカー在庫が切れたらどうしようといつも心配してる。
「普通はさぁ、ちゃんと断ったりさ、お礼言ってもらってくれたりさ、するもんだよ。それがなに――味九のラーメン! ひっどいよねぇ、しかも津野さんのおごり! ま、美味しかったからいいんだけどさ」
アオリ専用のカロリーゼロの甘味料とミルクを用意する。真夏にホットコーヒーなんて出して、またデリカシーがないと言われるんだろうか。
「そのとき番号交換したじゃん? それなのに全然かけてくれなくて、もうダメだと思ったんだよ。そしたらさ――あれ、このサングラス壊れてるじゃん。もったいないなぁ、かっこいいのに」
ガラステーブルにマグカップを並べる。香ばしい匂いが充満する。小さな足跡がついていたので、ティッシュで拭いたが消えなかった。
「ねえ、今日なんの日か知ってる?」
猫舌のアオリは冷めるまで飲めない。試すような目をしていた。
今日が付き合いはじめてちょうど四ヵ月になるのだ。すぐに即答できる自分が、なんだか照れくさかった。
「さあ。なんだろう」
「へー。ふーん。そー」
細い目をさらにほそめて、ドライフラワーに視線を送っている。どうやら伏線らしかった。
思い出したように彼女は、ネコじゃらしのおもちゃを手に取る。アオリが買ってきた物で、よくそうやってネコと遊んでいた。どっちが遊んでやっていたのか、いまだにわからない。ベッドの上でおもちゃを振りながら、「なんか、さみしいよね」とつぶやいた。くしゃみをしながら。
「テスト、どうだった」
二週間ぶりに会ったといっても、毎日メールで連絡をとりあっていたので新鮮な話題でもない。
「うん。まあね」
投げやりな答え。毎回、学年順位一桁台の彼女には無意味な質問だ。
両手で包み込むようにカップを持ち、「つまんないよ」と息を吹きかける。口をつけるとき、自嘲気味の笑顔をうかべて。
「佐山くんとも会えないしね」
優等生で両親からも期待されているひとり娘は、テストの一週間前から最終日まで、まるで箱入り娘のように管理されていた。その時だけの門限や家庭教師。彼女はその二週間、かぎりなく従順な、聞きわけのいい良い娘を演じていた。
そんな娘が朝帰りしてることだって気づいてないんだ……、さみしそうにつぶやいていたことがある。テストの結果でしか娘を見ていない親なんだと。
「熱っ……あちち」
アオリが真っ赤な顔で舌を出した。
「ご、ごめん」
とりあえず謝っておく。コーヒーは熱くなければコーヒーじゃない、という偏った知識のせいだ。
以前、喫茶店の女主人に飲ませてもらった味が忘れられなくて、時々自分のブレンドを作ったりしているのが、ささやかな趣味だった。アイスコーヒーではあの味は出せない。
「あ、いやいや」
あわててアオリが手を振った。
「べつにね、おこったわけじゃないのよ」
鼻の頭にぽつぽつと、小さな汗の玉がういている。薄いくちびるは大きくて、鮮やかに赤く濡れていた。キスがしたくなった。
アオリのくちびるはいつでも真っ赤なのだ。どうもそれもこだわりらしく、いつも同じルージュを使っている。厚化粧の彼女だが、それだけは本当に賞賛したいほど似合っていて、高校生とはいえどとてもセクシーだった。
「ねえ、ちょっとお腹空かない?」
さっき食べてきたばかりなのに、アオリがこぼした。あんまりお腹空かないねー、ということでお互い少なめだったのだ。コーヒーを飲んだせいか、胃袋が刺激されたらしい。
「オムライスでもつくろっか」
二十三時を少しまわっていた。
「太るぞ、女子高生」
「佐山くんの分はなしね」
「食べてやってもいい」
「素直じゃないねえ。オレはアオリのつくったオムライスが食いたいんだ、ぐらい言ってもバチはあたんないよ」
「考えとく」
枕を投げつけながら、アオリが立ち上がる。舌を出してきたので、こちらも舌を出し返した。そのまま笑いながら、彼女はキッチンに消えた。
自他ともに認める他人干渉不全症候群だというのに、アオリとの関係だけは好調だと思う。こんな面白味のないフリーターのどこがいいのだろう。
明るく積極的で、友だちも多く、クラスの中心になるようなキャラクターなのに、本質はひどく繊細で脆弱だ。親や友だちが知らないアオリの素顔――佐山くんだから言うんだけどねー、と時々もらしてくれるそれは、ひそかに彼女を独占できたようでうれしかった。
姉妹のように育ったいとこが入院していることや、将来はテレビや舞台などのSEになりたいこと。そのために映像音楽系の専門学校に通いたいこと。酒癖の悪い父親のせいで、両親が離婚しそうなこと。そのじつは、母親の浮気が原因だということなど。
どれも彼女にとっては、気安く話せるようなことでもない大切なことのはずだった。
昔付き合っていた三つ年上の彼女は、前を向くことは知っていたが、どこか観念的だった。
別れ話をきりだしたときでさえ、「そんなものね」と片付けてしまった。なじられ責められた方が、やめてと泣かれたほうがどれだけ気が楽だったろう。もう三年前のことだ。
「はーい、はーい。アオリ特製のオムライスのできあがりー」
アオリが大皿を持って戻ってきた。できたての湯気をあげている。
「ケチャップとスプーンをご用意ください、お客さま」
彼女お得意のオムライス、中身はチャーハンだ。
大皿でどんと存在感のある卵に、アオリはケチャップで愛嬌のある顔を描いていく。
「ケチャップのちゃぷこちゃん」
「うまいな」
熱々のオムライスを頬張って感想を述べる。
「でしょー。佐山くん、オムライス好きよね」
お世辞の言える人間でないことはわかっているので、アオリは心底うれしそうだった。
本心を言えば、彼女の作ってくれるものならなんでも美味いと思うのだが、やはり簡単に口にできるものでもないので、黙々とスプーンを運んだ。
「あ。佐山くん」
呼ばれてふり返ると、不意打ちにキスされた。
「ケチャップついてた」
ひひひ、と笑う。
「こういうのやりたかったんだー」
真っ赤になってアオリはばたばたした。
スプーンを置いて、彼女の頭を支える。汗であたたかい。
「なあによぉ」
意地悪そうに彼女は、少しだけ力を抜いた。
ようやく恥ずかしくなってきた。自分は鈍いんだと、最近つねづね認識させられる機会に出会う。
「そのぅ、なんだ」
染みをさがそうと天井を見あげた。なんというか、お膳立ては本当に苦手なのだ。
「せっかくのオムライスさめちゃうよ」
腕のなかで彼女はのどを鳴らす。
「猫舌のくせに」
ふれあうとき、アオリの好きな香水とコーヒーの匂いを嗅いだ。
五
月極駐車場にさらされている愛車のことを考えていた。
あいつも腹が減っているのではないかと。
なんとかぎりぎり午前中に目覚めて、はじめにそんなことを思ったのは、自分も空腹だったからだ。
エアコンが切れていた。アオリが消していったのだろう。
テーブルの書き置きには、「オムライスの残りは冷蔵庫!」とあった。
インターホンが鳴った。
最近、やたらとピンポンダッシュが多い。どうして「ピンポン」と鳴るのだろう。同じ無意味な音なら、ウルトラマンの掛け声の方がやる気がでる。
そんなことを考えながら、半分残ったオムライスをレンジに入れる。
もう一度鳴った。いたずらではないようだ。
すぐにドアの外から声がした。
「起きてるか、佐山」
津野の声だった。めずらしい。ひとり暮らしをはじめたころは、三日と空けずにやって来たのに、最近はめっきり寄りつかない。
「話したいことがあるんだ。……いいか」
深刻そうな声だった。
電話すりゃいいのに――訝ったが、深く考えないことにした。そもそも津野は考えて行動するタイプじゃない。インターホンで会話ができることも知らないのだろう。
「……結婚しようと思うんだ」
玄関に入るなり、何日も寝てないような顔で津野が宣言した。露骨にブランド名を誇示したTシャツが、妙に空々しい。本来は白なのだろうが、首まわりを中心に不自然な褪色を起こしている。
「わかってる、なにも言うな。お互いまだ若い。たしかにそんなこと、まだ考えるような歳じゃないのかもしれない」
唐突なことで、脳にまで届いてこない。逃避のあまり、つい浸透率の単位はなんだったか考えようとしていた。
土気色の棒杭のような姿は、ほとんど死人のようだった。いつもの津野ではない。それだけはわかった。
「……まあ、落ち着け」
とりあえずそれだけ言って、室内に招いた。
血走った目をした津野は、勝手にエアコンをつけると、レンジからオムライスを取り出して、無言でかき込みはじめた。許可したおぼえはない。
「佐山、水」
えらそうでいらいらしたが、それ以上に圧倒され、冷蔵庫からミネラルウォーターを出してしまう自分が許せなかった。
あっという間にご飯粒ひとつ残さずきれいにたいらげてしまうと、水をあおってようやく一息ついたといわんばかりに、太くて長い息をついたのだった。
「で。……誰と、誰が結婚するって?」
とりあえず牽制球。
津野は愚鈍そうな、けれども軽蔑したような目を向けた。分厚い眼鏡のせいで、その目は必要以上に大きく見える。
「俺と、洋子に決まってるだろうが」
怒っているようだった。水のお代わりを要求され、二杯目を飲みほしたあとになぜ氷を入れないのかとなじられた。今日の津野は別人だ。どちらにしてもタチが悪い。
「おまえはさ、葵里ちゃんと結婚するんだろう?」
いきなり切りだしてくる。
なにも答えないのを見てか、津野は冷ややかに肩をすくめると、げっぷをひとつした。
「いいかよ、万が一にも葵里ちゃんと別れちまった場合だな――ムキになるな、たとえばだ。たとえばおまえがそのあとで、他の女と付き合うことになったとしよう。でも、どうしても新しい彼女を、葵里ちゃんと比べてしまうことがあるだろう。逆だって考えられる。おまえと別れて、葵里ちゃんが別の男と付き合いだした。そんなわけもわからない男と、自分を比べられたらどうだ」
一瞬、昔の彼女がちらついた。もう顔もはっきり思い出せない。三年というのは短いようでいて、意外に長いのだろう。なのにその名前と存在だけは、いまもずっと胸の奥から消えることがない。
今日の津野は不快なほど饒舌だ。
こいつが自分の容姿に劣等感を抱いているのは知っている。
人間、顔ではない。そうは言いながらも、やはり外見を重視してしまいがちだ。内面は見えないからだ。人は見えるものに、より強く意識が向かう。少なくとも、見えるということは見えないことよりも勘違いしにくい。
そういう環境で育ってきたためか、こいつは少しひねくれたところがある。常になにかにおびえてびくびくしており、それに行動がともなうと挙動不審ととられる。
気が小さく、頭も顔も自信がないし、運動能力に秀でているわけでもない。集団生活では弱者として虐げられる。学生時代、実際にいじめられ続けてきた。自殺まで考えたことさえあったのだ。
いまは彼女がいる。しかし、次はわからない。ひょっとしたら、最初で最後かもしれない。――そんなところだろう。
「いろいろ考えた。考えたくないことまで考えた。なにが一番良いか考えた」
「それが、結婚……」
浅黒い顔をにぶく染めながら、カマキリの首が縦に折れ曲がった。
「シティホテルを予約した。指輪も、買った。式場も、いくつか下調べしてあるんだ。今夜、決める」
脂汗をうかべた変質的な荒い息に、まるで犯罪者の告白のようだと思った。
「彼女の……気持ちもそうなのか?」
慎重に言葉を選びながらたずねた。記憶違いでなければ、付き合うようになったと聞かされてから一ヵ月半弱。勘違いなら、間違いが起こるまえに止めたほうがいい。十八歳の思考としてはあれだが。
「賭けなんだ――一世一代の」
牛乳ビンの底のような眼鏡の奥で、津野はきらきらと純粋な目をしばたたかせた。それがかなしい幻のように、レンズに何重にも映った気がした。複眼だろうか。
「なあ、佐山。しあわせってなんだろうな」
「当人が幸福と感じられる価値観だよ。個人差もあるし、他人が制限できるものじゃない」
なにか言いたそうに津野が口を開きかけたとき、勢いよく玄関のドアが押し開けられた。
「はろーはろー、地球管制塔、地球管制塔きこえますか。こちらユーリ・アオリン。地球は……地球は青かった!」
赤いジャックパーセルを脱ぎ捨て、制服姿のアオリが駆けてきた。そのままの勢いで抱きついてくる。
「んー、佐山くんだ佐山くんだ。汗くさいぞー。んー、ただいまー」
演劇部の彼女の、学生生活最後の演目がアポロのパロディをやるらしい。ユーリ・ガガーリン役だから主役なんだろうが、どういう話なのかはちゃんと聞いたことがない。
「おっす、五時間ぶり!」
なぜかVサインをする。夏休みをひかえた学生は早いのだ。
「わ、津野さんがいる! たぶん一ヵ月ぶりくらい!」
はずかしいことを言ってのけて、Vサインでごまかす。つられた津野もピースで返す。
左腕をはらうと、アオリが離れた。
「で、なに? なんの話? 邪魔しちゃいけない系?」
好奇心全開できょろきょろ見まわしてるアオリに、津野はぼそっとたずねる。
「葵里ちゃん、質問。いましあわせ?」
すると彼女は、こちらを見て真っ赤になった。
「なによぉ、いきなりなにぃ。あったりまえじゃない。えへへ……へへへへへ、ひひ」
変な声で笑う。
それを聞いた津野が、不満そうにくちびるをとがらせた。骨ばった汚い指がぬっと伸びてくる。
「こんなのどこがいいわけ? 優柔不断で根暗だし、ひねくれてるし、いっつも斜に構えて生きてるだろ。背は高くないし足も短い、ルックスも並なのに、変にキザじゃないか。しかも常に上から目線でえらそうだ」
どれも当たっていなくはなくて、反論できない。ひとを怒らせるツボを心得た男である。
アオリは真顔になって、居住まいを正した。
「うーん。よくわかんないけど、そういう上っ面だけじゃないのよ」
「性格は見えないよ」
すかさず津野が言った。いやなことに、思考回路が同じようだ。
「葵里ちゃんがこいつに惚れたのだって、最初はやっぱ顔だったんじゃないの」
無遠慮にひとの顔を指す。
「それはある。認めるわ」
学生時代に話す機会がなかったのだから、そういうこともあるだろう。
ほら見ろ、と言わんばかりに津野が鼻を鳴らした。
「葵里ちゃんが俺に惚れることなんてないだろう」
「どうして。そんなのわかんないじゃない」
アオリは一度、大きくまばたきをした。
「津野さんはイイ人よ。佐山くんなんかよりはずっと気が利くし」
本気にしていないらしく、津野は卑屈そうな顔をした。
「なにごともさ、良いに越したことはないだろう。プラスであるのは悪いことじゃない」
「そぉ? あたし逆にやだなぁ、なんでもできる人って。なんか近づきがたいっていうかさ。でもさ、完璧な人間なんてそうそういないわよ。あ、でもそう――ドラマとかだと、そういうひとって避けられるもんじゃない」
「いや、ドラマ見ないから……たとえば?」
「たとえば? そうねえ……一応エリートなんだけど、ちょっと悪者っぽい設定になってて、あんまり共感されないタイプね。でも、ここ一番ってところで、ちょっとした人間らしさ? 弱さだったり優しさだったりを見せたりするのよ。そこにぐっとくるじゃない。ああ、なんだこのひとじつは悪いひとじゃなかったのねー、って。わかる?」
「それじゃあさ、なんでひとは見た目を気にするんだろう。ナンパするときとかさ、あれは美人だから相手にされないとか、あっちはブサイクだからやめようとか。どうして、そんな心理が働くんだろう」
「……外見しか見てないからじゃないかなぁ」
少し考えるように、天井を見てからアオリが言った。蔑視の言葉が入っていたので、少し不機嫌な顔になった。彼女はよく自分の容姿を卑下する。
「そうさ。そうだろうね。――そういう目的だからさ。わからないナカミなんて、とりあえずどうでもいいんだよ。一番最初は外見。性格は二の次。就職だってね、履歴書の写真だけで決める企業もあるそうじゃないか。どうして受付のおねえさんはきれいな人ばっかりなのさ」
渋面でアオリはだまり込んでしまった。
ひとに評価をつけるのはなぜだろう。優劣を用いた支配だろうか。自分を少し遠いところに置いて、誰かにランクを与える。それから自分を当てはめる。結果ではなく、その過程だ。
「それより上等な存在を知っているからだよ」
突然話しだしたので、ふたりは驚いたようにふり返った。
いい加減、津野の戯言を止める必要があった。普段はこんなことを言うやつじゃない。一体だれの受け売りだろう。
「目に見えるもののほうが、情報としてはずっとリアルだ。なにより説得力がある。だから、どうしても外見で判断しがちなんだろう。少なくともそういうひとが多い、って話だろう」
「見ようとしないからだわ」
「見つけられないんだよ」
津野の言葉のほうがしっくりくる。
「性格は見えるよ、葵里ちゃん。でも、見つけられない場合が多いんじゃないかな」
「津野さん、さっき性格は見えないって言った」
不満そうにアオリが抗議の声をあげる。
「そこにあるのに気づかないのは、見えないことと一緒だよ。外見は見えるけど、性格は感じるんだ」
かっこいいことを言ったと思ったのか、津野は上機嫌に小鼻をひろげた。
無視して続ける。
「比較して差を作ることによって個人を識別する。どんなに正当化しても、階級制度とか人種差別なんかと変わらないと思う。でもそれは、買い物するのとも同じじゃないかな。カッコイイ、カワイイ、安い、ブランド……そういう分類をすれば区別がつきやすくなる」
「…………」
「みんな同じ顔だったら、どうやって見分ける? 結局そこにあるのは、好みでしかない。けれどもその好みは、生物学的な民主主義にのっとっているのかもしれないけれどね」
「佐山はどうなんだ。ひとは見た目だと思うか」
「存在。好きな存在、嫌いな存在――そこに具体的なパーツはない。生理的な問題じゃないかな。なんとなく嫌い、という表現。なんとなく、って抽象的なのは、具体的に説明できないからだろう。だから、あくまで個人差だ」
それでも津野は納得できないようだった。
「葵里ちゃんはなに? 最初の質問。どうして、こんなやつがいいわけ」
「こいつ」が「こんなやつ」に変わっているのが気になった。
「性格は顔に出るんだよ、葵里ちゃん。第一印象で七割はわかる。少なくとも俺にはわかるね。性格の明るさ暗さ、それに準じた考えかたなんかが、間違いなくなんらかの形にあらわれる。たとえば、こいつみたいに気むずかしくて神経質そうな顔してるやつは、あまり他人を信用していない。ひとりでなんでもできると思いあがってることが多い」
「…………」
「ルックスだってね、だいたいが好みで成り立ってるわけだろう。地味な服ばかり着てるやつは性格も地味だし、アクセサリーばっかで身を固めてるやつは自意識の塊だ」
偏見だな。もじゃもじゃ頭に昆虫顔、薄汚れたブランドロゴのTシャツを着ているおまえには、一体どんな性格が書いてあるというんだ。
「でもね、津野さん。津野さんが言ってることが、さっきのプラスのことじゃないとするよ。マイナスの要素だとする。ひとを好きになるって、別にプラスのところばかりじゃないと思うの」
「それは理想だろう。百パーセント自分の好みの相手なんていないんだよ。だからひとは、どこかで妥協している、絶対。それを認められないだけなんだ」
「嫌いなとこはあるけれど、それ以上に好きなところがあるんだったら、それは妥協じゃないんじゃない? プラス足すマイナスがプラスになってる」
津野のは減算法だから衝突しているのだろう。百でなければ、すべてゼロだと言うのだから考えものだ。アオリも理屈屋で頑固だから、お互い意見は譲らない。
そのうちに津野のほうが折れた。
「……わるい。言いすぎた」
そそくさと昆虫的な動きで、逃げるように玄関に移動する。最後にひと言、わけのわからないことをつぶやいていた。
「間違いはないはずなんだ。……俺にまちがいは」
扉が閉まる。すかさず施錠に立つ。
わずかな沈黙があって、アオリが不安そうに見あげてきた。
「なにしに来たの、津野さん」
はじめから聞いていたはずなのに理解できなかったのだから、途中で入ってきた彼女にわかるはずがない。ひとりよがりの議論であったことは間違いない。
「んー、葵里さんが推理するところの……青少年悩み相談室、かな?」
眉をしかめ、首をかしげて見せた。それからすぐに顔をかがやかせて「お昼まだでしょ」と言った。
「冷やし中華買ってきたよ。一緒に食べよ」
オムライスの空皿を持っていく。朝食だと思ってくれたらしい。津野が恨めしい。
「あ。ねえねえ、そういえばさ」
キッチンからはずんだ声がする。小気味の良い油の音がまざるのは、お得意の薄焼き卵だろう。
「さっきね、笹ノ橋のとこでさ、大平さんに会ったんだよ。偶然」
おおひら? 一瞬考える。
オオヒラ……思い出した。オオヒラヨウコ。今夜、プロポーズを受けるかもしれない津野の彼女だ。苗字なんて一回しか聞いていないから忘れていた。
見るからにセクシーなおミズ系だが、とても純情でいやらしいんだと、御曹司が熱く語っていた。
考えてみると、彼女と付き合うようになってから津野は行動的になった。これは大発見だ。いつも下を向いてて、他人の顔を見て話すことができないやつだった。
本当は他人に、自分を見られたくないのだろうとは気づいていた。笑われるかもしれない、馬鹿にされるかもしれない、そんなもの見たくない。自分が嫌いだとこぼしていた。
けれど、いまは違う。小心なところは相変わらずだが、妙に堂々としている。人目に触れることも恐れず、最近はよく出歩いているようだ。美女と一緒にいるところを見せびらかしたいのか。受けた羨望の言葉を耳ざとく記憶しては、迷惑なことに毎回報告してくれる。
少なくとも学生時代からは、想像もつかない進歩だ。それはそれで、いいことなのかもしれない。
「ぼんやり川見ててさ、イヤリング落としたって言うじゃない。それがほら、あそこってばきったない川じゃない? なにが浮かんでるか、っていうより沈んでるかわかんないし。なんでそーゆーのに税金つかわないのかねえ」
ネコも浮かんでいるはずだった。沈んだか流されたかしてなければ。
「でも、どうしようもないじゃん? だから『大変ですね』って言ったら、あのひといやらしそうにさ、『べっつにー』って言うわけよ。『またもらえるしー』って。にやーっていやらしそうに! あたし、あのひとキライよ」
「おい」
「津野さんからもらったイヤリングよ。絶対そう。だから、また買ってもらえるんだわ。だっておかしいじゃない、あのひとピアスしてるのよ。それなのにイヤリングっている?」
「おいって」
しだいに辛辣になっていく口調に、つい声をあげてしまった。
「なによぅ」
不機嫌な返事。このあいだ、ほしがってた新しいピアスを無視したのを根にもってるんだろうか。つい弱腰になる。
「そんなさ、見てきたような言いかたは悪いぜ」
「見てきたのよ。さっさと別れちゃったほうが津野さんのためだよ」
「言いすぎだぞ」
柳眉を逆立てたアオリが出てきて、ガラス皿を乱暴にテーブルに置いた。ガラス同士がぶつかりある、いやな音が響いた。
「津野さん、だまされてるんだよ。佐山くんだってわかってるんでしょ。あの女にいいように使われてさ。貢がされてるんじゃん」
むくれながら女子高生が、どっかり腰をおろす。下着が見えた。ベージュ。
「それはふたりの問題だろ。お互いそれで幸せなんだろう。たぶんね。オレらがどうこう言える問題じゃないし、言ってもどうにもならないよ」
麺をすすりながら、アオリが小さく「冷たい」とつぶやいた。氷も食べたのだろうか。つられて箸を持つ。
「友だち思いじゃないのね」
そんなことはないと思う。津野とは友だちではないのだから、友だち思いではないという文法は成り立たない。
インスタントだろうと、彼女が作るとなんでもおいしく感じられるのが不思議だ。
「うまいな」
アオリはにこりともしなかった。
六
あーん、あーん……
子どもが泣いている。
あーん、あーん……
姿は見えない。声だけが響いている。
赤ん坊だろうか。
高くのぼりつめたときにだけ、それはやってきた。
わかっていた。いつもの夢だ。
(そんなものね)
いつからだろう。
ループするようにくり返される夢。悪夢ではない。たぶん。
いつだってビジョンは闇だ。
ただの闇。暗いだけ。
響いているのは幻聴か?
あーん、あーん……
暗闇だけがそこにあった。
そこには、それしかなかった。
それ以外、許されなかった。
なにも。
在りはしなかった。
なにも。
なにも――
*
誰かの持ち物のような、重苦しい頭とだるい体だった。
覚醒しきらない目覚めだった。
隣にアオリがいない。
時計を見ると、まだ六時になったばかりだ。エアコンはついたまま。
床で寝ているアオリに気がついた。右のほっぺがフローリングに張りついている。寝相が悪いので転げ落ちたらしい。
小ぶりの乳房が呼吸に合わせて上下している。口の端からよだれが垂れていた。ブラインドから洩れた朝日に光って、きらきらきれいだった。くり返すが、よだれだ。
オードリー・ヘップバーンを横に引いたような顔、と言ったらさすがに言いすぎだろうか。言いすぎだろう。日本人としては濃いめの顔立ちで、初対面でもすぐに顔おぼえてもらえるのよ、と皮肉そうに本人は語っていた。身におぼえがあったが、同意しないでおいた。
アオリはプロポーションが良くないと言う。それも気にしているようだったが、どこが悪いのか理解できない。ただ、彼女好みのファッションは似合わない、という意味だとしたら、まあわからないではない。
たしかに彼女はかわいいとか愛嬌があるとか言われるタイプで、美人というのとは少し違う。それはすなわち、身体的特徴に左右されるものなのかもしれない。
エアコンのリモコンを探す。夏とはいえ、やはり朝は冷える。
つっぷしたままの裸に、適当なものを掛けてやる。
それから改めて、自分も裸だということに気がついた。とりあえず下着とジーンズを身に着ける。女の裸体はきれいだが、男の場合は滑稽だと思う。個人的にはダンテ像を見るよりも、ミロのヴィーナスを見たい。そういうことだと勝手に解釈している。
「ん、う……」
うめき声。もそもそと手足が伸びる。
むくりと寝ぐせの頭が起きあがり、ゆらゆら前後に動いていた。まだ目が開いていない。
おはよう、と声をかける。それに反応して、首をかたむけてくる。彼女は寝相も悪いが寝起きも悪い。
「……ん……」
返事のつもりなのだろう、片手をあげる。
もう一度、おはようと声をかけたが、今度は反応がない。座ったまま寝てしまったようだ。
「コーヒー飲むか、あっついの」
こくんと、首が落ちる。聞こえてはいるらしい。
「シャワー浴びようか」
またこくん。
「朝イチでもう一回ヤる?」
こくん。
たのしくなって、声をだして笑ってしまった。衝動的に抱きしめると、アオリはくしゃみをした。
「……あー、……声ヘンじゃない?」
くしゃくしゃな髪に鼻をうずめる。
「体冷たい」
「へへ、佐山くんあったかい……」
甘えた声で、背中に手をまわしてくる。
「二日連続、家帰んなくてよかったの?」
「んー、もうちょっといたい。……だめ?」
「いや、いいけど。……オレも、いたいかな」
ひひひ、とアオリの肩がふるえる。
「あと二日だよ。夏休みになったら、ずっと一緒にいたげるね。カバンいっぱい服持ってくるから、置くとこあるかなぁ」
「おまえンとこのオヤジさんに殺されるよ」
離れようとしたが、アオリの腕はしっかりとからみついてきた。
「うん。じつはお父さん、出てったんだ。わりとおとといだったりするんだけど。夜遅くお母さんとケンカしてて、昨日朝起きたらもういなかった」
「……え?」
どこまで本気で言っているのか、一瞬わからなかった。昨日は普通にドライブしてただろう。アオリの様子は、いつもと変わらなかった。
「だったらよけい、お母さんも心配するだろう?」
「オトコのとこ言ってるよ。大人って勝手だね。……あの家、やだなぁ。帰りたくない。ひとりなんだもん。だからさ、いいよね。ずっと佐山くんとこいても」
きつくしがみついてくる爪。たてられた痛み。
「夏休みのあいだだけでいいからさ、表札に二人の名前ならべるの。なんか素敵だねえ」
裏腹に声はふわふわしていて、やはりまだ寝ぼけているようだった。
キスをしようと体勢を変える。それを察したように、アオリの体がやわらかくなる。手を離す。すべり落ちる。
「ひどい。な、なんで? なに、いきなりなに」
夢の途中で現実に戻されて、彼女はひどく狼狽していた。右のほっぺをつまむ。よく笑うアオリの頬は、吸いつくようだ。
「床の跡ついてる」
あわててバスルームに駆けていったアオリの悲鳴。
「こ、これ消えるかな。学校行くまでに消えるかな」
「知らないよ」
「け、化粧でごまかせるかな」
「オレ、引っ張ってやろうか」
「あと、よだれ! あたしよだれ! きゃー」
たのしくて笑いが止まらなかった。
すると、全裸の女が戻ってきて腕を引くのだ。
「もう一度エッチしてから、一緒にシャワー浴びて、コーヒー飲むのがベストだと思うな」
聞こえてないと思って言った冗談を、彼女はさらっと答えた。こっちがはずかしい。
ひひ、と意地の悪い顔で笑いながら、アオリが抱きついてきた。
「ね、一緒にお風呂入ろっか」