初恋
「走っていく背中が見えたから、追いかけてきたんです。何かすごく急いでるみたいだったから、何か起きたのかと思って。大丈夫ですか? ハートレスさん」
優しい声が降ってくるのにのろのろと顔を上げると、世界とハートレスを隔てていた黒髪のカーテンが後ろへ流れ、ヘルの姿が見えた。
長い蜂蜜色の髪と澄んだ青い目の、地下15階で空から落ちてきた黒魔法使いの女性プレイヤー。
すでに地下20階の神殿でのランクアップを終えているようで、目の前にしゃがみこんでいる彼女の左手首の腕輪は色が緑になっており、装備も灰色のローブから黒のローブへと変わっている。
ぼんやりしているともう一度「大丈夫ですか?」と声をかけられたので、レスでいい、といういつもの言葉さえ出ず、ハートレスは首を横に振った。
ヘルは「そうでしょうね」と頷く。
「すごく大丈夫じゃなさそうに見えます。今にも泣きそうな顔してるって、仮面つけててもわかるくらいしょんぼりしてますよね。
……ね、ハートレスさん。もし良かったら、何があったのかちょっとだけ教えてもらえませんか? わたしは普段あなたのそばにいる人じゃないから信用しにくいだろうとは思いますけど、あなたは命の恩人ですからね。絶対に他の人に言ったりしませんし、笑ったりばかにしたりしないって、約束します」
ハートレスは唇をかすかに開いて、ささやくような声で言った。
「それは前に、気にしなくていいと、言った」
「命の恩人のことですか? 今の場合は口実ですから、あなたも気にしないでください。とにかく話を聞かせて欲しいだけですから。ぜんぜん関係ない他人に喋ると、ちょっと気が楽になることだってありますよ」
コミュニケーション能力の低いハートレスは、今までそんな状況に陥ったことがなかったので、(そうなの?)と不思議そうに首を傾げる。
そして「そうなんです!」と自信たっぷりに言いきるヘルに何となく流されて、こくん、と頷いた。
自分でもどうしていいのかわからない、などという状況は初めてなので、頭が真っ白なまま、ぽつりぽつりと事情を話す。
「えーと。つまり、さっき『祝福の泉』でロキという人の声が聞こえて、姿は見えなかったけど今ならまだ近くにいるかもしれないと思って、探しに街へ飛び出した。でも見つからなかった。
それで、そのロキという男性は、このゲームのベータ版テストプレイの時に初めて会って遊んだ人で、正式サービスが始まったら遊ぼうという約束もしていなかった。でもあなたには彼がそばにいればわかるし、声は絶対に聞き間違えないし、彼は必ずこの世界にいると確信している。
……ということで良いでしょうか?」
しばらくして話を聞き終えたヘルがまとめるのに、ハートレスはこくんと頷いた。
ヘルは確認を続ける。
「つかぬことをお訊ねしますが。人ごみのなかで彼を見つけたりすると、白黒の世界でただ一人、色がついたようにはっきりと見分けられるとかいうこと、ありました?」
「ものくろ……? ベータ版の、テストプレイの時。中央広場の人ごみで離れて、だいぶ遠く流されても、ロキを見失うことはなかった、けど?」
「正式サービスが始まってログインしたけど彼がいなくて、寂しいというか、がっかりした?」
「……よくわからない。でも、この世界にいればいつか会えるって、思って」
「それじゃあさっき、久しぶりに声が聞こえて、嬉しかった?」
「うん。すごく、嬉しくて。でも、探したけど、どこにもいなくて」
「そういう感じになるのは、これが初めて?」
「うん。だから、よく、わからない」
「最後にひとつ。恋人がいたことは?」
「ない」
相変わらず頭が真っ白なまま素直に答えるハートレスに、ヘルがこぶしを握って天を仰いだ。
小声で叫ぶ。
「くぅー! どうしよう。甘酸っぱすぎてもだえそうです。ちょっとこの子可愛いんですけど、いったいどうすればいいの……!」
しばらくひとりでジタバタしてから、ぼんやりそれを眺めていたハートレスに言う。
「ハートレスさん、それはきっと恋ですよ! しかも初恋!」
きゃー! と自分で言って何やら照れているが、残念ながら言われたハートレスの方は反応が鈍かった。
「こい……。はつこい……?」
それが何かは知っている。
たくさんの物語の中で語られ、人々の話に散りばめられているから。
それは素晴らしいもので、美しいもので、落ちるもので、降ってくるもの。
そして、普通の人たちのもの。
奇妙に欠けた自分のところへ、そんな綺麗なものが降ってくることなんて、あるのだろうか?
それにこの感情は、本当に“恋”なのか?
ハートレスにはわからない。
ただロキがそばにいないことが寂しくて、一度だけでもいいからまた会いたいだけだ。
それが恋としか呼びようのない感情であるのなら、これが自分の初恋かもしれない。
けれど人の形をしたいびつな生きものである自分が、ロキに受け入れてもらえるとは思えない。
(初恋は実らないって、誰かが言ってたな……)
最初から、実る時のことなど思いもつかない。
こんないびつな自分の想いなど、告白できようはずもない。
そもそも彼が見つからないのだから、伝えようがないのだけれど。
それでもハートレスはこの『パンデモニウム』という仮想世界にいるかぎり、ロキを探し続けるだろう。
自分ではどうすることもできない強い衝動によってロキの姿を探し求め、声が聞こえはしないかと耳を澄ませ続けるだろう。
(あと一度だけでいい。一緒に戦えたら、それでいいから)
泣くように、想う。
(会いたい。……ロキ)
でも、もし。
もし今、その時が来てしまったら?
彼が見るのは、落ちこんで暗がりに座りこむハートレス?
(……そんなの、嫌だ)
ふとそこへ思い至り、ハートレスはするりと立ちあがってヘルのそばを通り抜ける。
頭の中を白く塗りつぶしていた霧が風に吹き飛ばされたかのように、一気にすっきりと晴れた。
「ありがとう、ヘル。私、パーティのところへ戻る」
唐突な言葉に「えっ?」と驚いたものの、慌ててその後を追いかけてきたヘルとともに表通りへと歩きだす。
「もう大丈夫なんですか?」
「うん。ここにロキはいないし、座ってるだけじゃレベルは上がらないから」
「……ええと?」
よく分からない、という声にうながされて、ハートレスは答えた。
「もう探さない。今ここに、この世界にロキがいるのなら、私達の目指すところは同じ。地下100階のゲームマスター。それなら進み続ければ、きっとどこかで会うことになる。
その時が来たらまた一緒に戦いたいけど、私が弱かったら足手まといにしかならない。だからもう、こんなふうに探しまわったり座りこんだりして、時間をムダにしたりしない。そんなヒマがあるのなら、レベル上げに行く」
ヘルはどうして初恋の話がレベル上げに行く話になったんだろう、と不思議そうな顔をしたが、ハートレスが納得したようなので「これでいいの、かな……?」と首を傾げつつ隣を歩いている。
そんな傍から見ると不可解な流れだったが、しかしハートレスにとってはこれ以上ないほど単純明快な話で、頭の中は本当にすっきりと晴れ渡っていた。
(強くなろう。もっと強くなろう。地下100階へ辿り着けるくらい強くなれば、きっとどこかでロキと会える。その時に自信を持って隣に立てるくらい、強く、なる)
歩きながらメニュー画面を操作し、ランクアップのボーナスで貰えた5ポイントをすべて“力”に入れて確定すると、パーティメンバー4人からのメールを開く。
シウとザックが中央広場で待ち、エディとリドが探しに出たとあったので、すぐにメールを書いた。
『件名:中央広場』
『内容:いく』
フレンドリストから4人の名前を選んで一斉送信。
まだ隣を一緒に歩いているヘルに訊く。
「ヘル。パーティのところまで送る?」
「え? わたしを送ってくれるの? えっと、それは大丈夫だから、気にしなくていいよ。今自由行動中だから、とくに急いでるわけでもないし」
初恋中の女の子なのに、なんだか紳士的だね、と明るく笑って、ヘルは中央広場に近づくとハートレスから離れる。
「じゃあ、また。彼、見つかるといいね」
「うん。ありがとう、ヘル」
軽く手を振って背を向けたヘルを見送り、ハートレスは巨大なムーンストーンが浮遊する中央広場へ入った。
中央広場の片すみで落ちつかなげにうろうろと歩きまわっていたシウは、ハートレスの姿を見つけるとすぐに走ってきて、鎧に守られた細い肩をガシッと掴んだ。
「レス! ケガはありませんね? 今までどこへ行っていたんですか? いきなりいなくなったりして、わたし達がどれだけ心配するか、考えなかったんですか!」
掴んだ肩を揺さぶりながら言うので、がくがくと体をゆさぶられるハートレスは口を開けることもできない。
彼の後ろから歩いてきたザックが、「おい、シウ」とそれを止めると、ようやくほっと息をつけた。
しかし見あげたザックの顔がいつになく厳しいものであることに気づくと、ハートレスはきゅっと唇を引き結んで緊張した。
「ハートレス」
ザックはただ名を呼んだだけだったが、たたみかけるように怒ったシウの声よりも鋭く突き刺さった。
無言が何よりも雄弁にハートレスを責める。
しばらく後、固く引き結んでいた唇を開いて、ハートレスは謝った。
「ごめんなさい。もう、しない」
「もうしない? 俺たちはその言葉を、どう信じればいい?」
短く問うその言葉の中には、お前はついさっき、ロキの名を叫んで神殿を飛び出し、パーティを置き去りにしたばかりなんだぞという指摘がふくまれている。
そうしてハートレスは初めて、言葉ではどうにも取り戻しようのないものを失ったのだと気がついた。
ザックが言う。
「信用を得るには時間がかかるが、壊すときは一瞬だ」
(信用?)
ザックの言葉に、ハートレスは内心で驚いた。
自分がそんなものを得られるなどとは思っていなかったのに、彼の言葉の意味を考えるなら一度は得られていたことになる。
けれど今はもう、ない。
何をどう考えればいいのかわからず、戸惑っているところに横から声が割り込んだ。
「そこらの小僧のようなことを言うな、ザック。女は信用するものではなく、可愛がるものだろう」
「ベイガン」
ザックはいきなり割り込んでいた年上の男性プレイヤーへ、不機嫌に答えた。
「いきなり何だ。今はそんな話をしてるんじゃねぇ」
「いや、そんな話だ。男と女は元から作りが違う。その違いを理解して信用しようなどというのは、夢想的で野暮なことだ。違いは楽しみ、女は可愛がれ」
「……あんた、女から“このロクデナシ”とか言われたことないか?」
「おお、よくわかったな。別れた女房全員から言われた言葉だ」
「いったい何回結婚してんだよ……」
「お前は一度もしたことが無さそうだな。一回してみるといい。なかなかおもしろいぞ」
「あんたの嫁になった女に同情する」
軽く肩をすくめて「相手も楽しんだと思うがね」と悪びれたふうもなく答え、ベイガンはハートレスに訊いた。
「お嬢ちゃん、彼らとやりにくいのであればわたしのパーティに来るか? その気があるなら一人分、すぐに枠を空ける。ちょうど後続組が来たら生産職メインの方に移りたいと言いだした者がいるんだ」
ハートレスは黒髪に白いものが混じる年上の男を見あげた。
微笑みを浮かべた顔は優しげだが、こげ茶色の目は冷たく鋭い。
それを見て、彼ならば自分を愛玩動物のように適当に可愛がり、後は冷徹に、ただの駒として戦闘で有効に使ってくれるだろうと察した。
きっとすごく楽だ。
「マスター! よかった見つかったぁぁー!」
「レス、無事で良かった!」
ちょうどその時、ばたばたと走ってきたエディとリドが叫んだ。
エディは走ってきた勢いのままガバッとハートレスに抱きつこうとして、反射的に彼女が避けたために派手に転んで地面に突っ伏した。
「……ごめん、エディ。大丈夫?」
「うう……。ダイジョーブっす。できればマスターに受け止めてもらいたかったけど」
「突っ込んできたから、避けた」
「さすがマスター。骨の髄まで戦士って感じで、素敵っス……」
地面に突っ伏したエディの横にしゃがんでハートレスが言うと、彼は意外としっかり答えたので、本当に大丈夫だろうと判断して彼女は立ちあがった。
先の質問の返答を待っているベイガンに言う。
「誘ってくれてありがとう。でも、今のパーティがいいから」
「そうか。それは残念だ。しかし先のようなことがまた起きたら、いつでも声をかけてくれ。わたしのパーティは君を歓迎する」
シウと顔を見合わせたザックが、ベイガンに言った。
「こいつはウチの主戦力だ。勝手に引き抜こうとするな」
「ならばあまり彼女にムリを言わないことだ。器の小さい男は嫌われるぞ」
ベイガンはメニュー画面を操作しながら答え、それが済むと近くのベンチに座って休んでいたパーティメンバーの元へ戻り、街並みの奥へ消えた。
エディはリドに腕を引っ張られてようやく起きあがり、そのそばでメールの着信音に気づいて確認していたシウが言う。
「なるほど、彼はこれを買いに来たところだったんですね。どうやら地下21階はなかなか厄介なフロアのようです。……レス、動けますか?」
「うん」
「まず神殿へ戻ってわたし達のランクアップに付き合ってもらいますが、いいですね?」
うん、と頷くハートレスに、一瞬迷ってから、静かな口調で訊く。
「ロキを探すのに、ギルドを使いますか?」
「ギルドを、使う?」
「ギルドメンバーはあなたに好意的です。告知掲示板に彼の特徴を書き込んで、探してほしいと頼めば、見つかるかどうかはわかりませんが、たぶんいくらか情報は集まると思います」
ハートレスはためらいなく答えた。
「使わない。私はまだ弱いから、それよりレベル上げに行きたい」
どうしてロキを探す話がレベル上げの話になるのか、パーティメンバー4人は理解できず疑問に思ったが、ベイガンの「男と女は元から作りが違う」というのはこういうことだろうか、と考えてやや納得した。
ハートレスと同じ女性であるヘルでさえ首を傾げたことなので、彼らの考えが正しいかどうかは不明だが。
ともかく「そうですか」と頷いたシウは、もうひとつ確認した。
「レス。もしロキが現れて、自分と一緒に行こうと誘ってきたらどうしますか?」
ギルドマスターを横からさらわれては困るので、これも即答で行かないと言ってほしかったのだが、ハートレスは驚いたように息をのんだ。
(ロキが誘ってきたら?)
考えもしなかったことだが、答えはすぐに出た。
「一緒に戦えるなら戦いたい。でもそうじゃないなら、地下100階でまた会おうって言う」
ハートレスはロキに連れて行ってもらいたいわけではない。
そんなことは、望みたくても望めない。
彼の姿を見たいけれど、その声を聞きたいけれど、あまりに近づきすぎて自分の中身の虚ろを知られ、それを嫌悪されたらと思うと身が竦む。
そばにいたいけれど、もし万が一ロキが誘ってくれたとしても、いずれ本性を知られて彼に拒絶され、絶望する未来の自分を幻視して首を横に振るだろう。
今まで皆そうだった。
ハートレスの奇妙に欠けた心に、それがもたらす異常さに気づくと、誰もがはっきりと、あるいはやんわりと拒絶して離れていく。
もしロキに拒絶されたら?
考えるだけで体が震えたので、ハートレスは爪が手のひらに食いこむほどかたく拳を握り、奥歯を噛んでそれを抑え込んだ。
まだ彼に会えてもいないのに、今から拒絶された時のことを考えるなんてバカみたいだ、と思いながらも、体の震えはなかなかおさまらない。
こんなおそろしい気持ちが“恋”なのだろうか。
わからない。
けれどそれでも、ロキに会いたい。
多くは望まないから。
ただともに、その隣に並んで戦いたい。
それに、先のやりとりで自分が意外と今のパーティに愛着を持っていることにも気がついた。
シウは心配して怒ってくれたし、ザックもハートレスのことをちゃんと仲間として考えているからこそ厳しく叱ってくれたのだ。
エディとリドも、街を走り回って探してくれた。
彼らが一度はくれた信用というものを、再び自分が得られるのかどうかは分からないが。
できることならこれからもこの5人で、万魔殿攻略の旅を続けたい。
「……そうですか」
シウはいつの間にか身構えていた体からゆっくりと力を抜き、「そうですか」と繰り返しつぶやいた。
他の3人もほっとした様子で息をつき、ハートレスは「うん」と頷く。
中央広場の片すみで、そうしてまたひとつのパーティとして落ちついた5人は、ハートレス以外のメンバーのランクアップを行うため、再び神殿へと向かった。




