おなかすいた
VRMMORPG『パンデモニウム』からログアウトできなくなってから、ゲーム内時間で2日目の朝7時過ぎ。
シウの声で目を覚ましたエディは、おおきなあくびをしながら体を起こし、近くで大剣の柄に手を置いて座っている彼の“麗しの女王さま(豊かな胸の影響による多大な脳内美化補正あり)”に声をかけた。
「マスター、おはよーございまーす」
「おはよう、エディ」
ハートレスは6時間の見張り番の後でもさして疲れた様子なく答え、鮮やかな朱色の朝陽に照らされて草原や木立がきらめく、万魔殿地下9階の草原フィールドを見おろしている。
食事などの体の世話が必要ないので、起きたばかりのエディとザックが動けるようになると、シウが「そろそろ行きましょうか」と立ちあがった。
昨日と同じようにハートレスが先頭に立ち、4人パーティは他のプレイヤー達も動き出すなか地下9階の草原フィールドへ降りる。
エディは〈索敵・広範囲詳細〉のスキルを有効活用するため、後衛のザックとシウよりハートレスの近くを歩き、敵を見つけると警告。
相手が初めて見るモンスターである場合は〈分析〉で調べ、前線から離れてシウへ報告する。
シウはモンスターに引っかかれたり噛みつかれたりして減ったハートレスの体力を、定期的に魔法で回復した。
「痛くないんスか?」
「大丈夫。体力回復させればすぐ治るって、わかってるから」
ひどい傷を負ったように見えるハートレスに、エディがうろうろしながら心配そうに訊いたが、彼女は平然と答える。
事実、巨大カマキリにざっくりと切り裂かれた左腕の傷は、これまでのかすり傷と同じようにシウの回復魔法を浴びると瞬く間に癒され、元通りの綺麗な肌へ戻った。
そうして歩き回っている間に一度、木立の間にある小道にいきなり大きな黒い扉が立ちふさがっているという、いかにも怪しげな所へ出た。
それは地下9階のボスモンスターがいる部屋へ続く黒一色の大扉で、そこを通り抜けないと先へ進めないのだが、シウが「主戦力がハートレス一人だと、全員レベル10はないと厳しい相手」と判断し、一行の足を止めさせる。
「これはただの推測ですが、おそらくモンスターにも戦士の〈威圧〉のようなスキルが設定されています。そして相手のレベルより自分のレベルが低い場合、モンスターの〈威圧〉によって行動が制限される」
「確かに、自分よりレベルの低いモンスターは狩りやすい気がする。相手よりレベルが上がれば〈威圧〉が効かなくなるから、行動制限が外れて狩りやすくなる?」
ハートレスが訊くのに「おそらくは」とシウが頷く。
「エディの〈分析〉でこれまで出てきたものを見る限り、万魔殿のモンスターは基本的に出現階数がレベルと思っていいようです。だからレベル9と予想されるボスに挑むには、その〈威圧〉で行動制限されないよう、レベルが10は必要です」
なるほどと納得し、一行は扉から離れて他のモンスターを狩りに行った。
ガイドブック『ボス戦について』の説明に、一度ボス部屋に入るとボスモンスターを倒して先に進むか、転移石で逃げるか、体力が1割以下になった状態でのみ再び開くことができる入り口の扉から何とかして逃げるしかない、と書かれていたので、挑む時はそれなりの準備と覚悟が必要だ。
ちなみに残り体力が1割以上ある場合、入り口扉を開くことはできず、他のパーティメンバーが1割以下になって扉を開けたとしても、自分の体力が1割以上だと通れないので逃げられない。
他のプレイヤー達はすでにレベル上げを済ませたのか倒す自信があるのか、扉を開けてぞくぞくとボス部屋へ入っていく。
ボス戦はソロかパーティ単位で一時的にチャンネルの違う部屋へ転送される仕様で、同じパーティに所属していないと同じチャンネルの部屋へ入ることができないため、自動的に閉まっていく扉の向こうで先行プレイヤーがどうなったのか、ハートレス達にはわからなかった。
「マスター! お願いしまっす!」
レベル上げの狩り中、エディは時々〈盗む〉でモンスターからアイテムを盗り、そのモンスターに捕捉されて追いかけられると急いでハートレスの大剣が届く位置まで走った。
ハートレスは何度かエディがモンスターを引き連れてくるのに、彼を大剣に引っかけないようにして敵を狩るタイミングをなんとなく覚えていく。
エディも繰り返すうちにハートレスのところへ行くタイミングや、彼女の大剣による斬撃からの逃げ方のコツを掴んでいった。
「マスター、今度は成功っス! ネリスの実3個盗れた!」
「うん。おめでとう」
エディがいちいち報告するので、シウは後方でたまにうるさそうな顔をしたが、ハートレスは毎回淡々と答える。
仮面のせいで表情はほとんどわからないが、とくに嫌そうな声でもないので、こいつは意外と面倒見がいいんだな、とザックはおもしろそうに彼らを観察していた。
そうして無事に全員のレベルが10に達すると、4人はボーナス・ポイントとともに「サポートセンターで同時に受けられるクエストの数が4つに増えました」というメッセージを受け取り、それぞれの強化すべきステータスへポイントを入れる。
その他、エディは盗賊レベル10に達したことで〈分析〉能力が上がり、自分と同レベルかそれ以下のモンスターの弱点と苦手な属性がわかるようになった。
しかし魔法は回復と補助がある白魔法と、攻撃のみの黒魔法があり、クラス魔法使いのプレイヤーは呪文さえ唱えればどちらでも使えるのだが、白魔法の効果を上げる白杖を装備しているシウは今のところ黒魔法の呪文は暗記していない。
〈分析〉で苦手な属性が分かっても、その属性の攻撃魔法を使えなければ無意味なので、「報告は弱点だけでいいです」とシウが指示して4人はボス戦に備えた回復に入った。
戦士2人と盗賊は〈調息〉、魔法使いは〈瞑想〉で、急にポップしてくるモンスターを警戒して交代しながら体力と魔力を回復する。
その時たまたまハートレスと一緒に回復に入ったエディが、まぶたを閉じて動きを止めるという彼には不得手な作業に耐えていると、隣からぽつりとつぶやく小さな声が聞こえた。
「おなかすいた」
なぜかゾワリと背筋があわ立つような悪寒を覚え、エディはびくっと体を震わせた。
〈調息〉を発動させるためにはまぶたを閉じていなければならないのに、我慢できずぱっと目を開き、すこし不安そうな声で呼ぶ。
「マスター?」
大剣を抱くようにして彼の隣に座っていたハートレスはその言葉には答えず、仮面の下でまぶたを開くとベルトポーチに手を入れて「キバウサギの肉」とアイテムを呼んだ。
カバンの中は鮮度が保たれる設定らしく、解体したばかりのような肉の塊が細い手に掴まれて現れる。
「……あ」
そしてハートレスは驚くエディの目の前で、取り出したモンスターの肉にカプッと食いついた。
仮面をつけた若い女性が生肉に食いついているという光景はちょっとしたホラーで、さすがのエディも「ひあー……」とつぶやいて身を引く。
一方、ハートレスは肉に食いついたまま凍ったように固まり。
「……マスター?」
だいぶ腰が引けているエディが隣からおそるおそる呼ぶのに、肉に食いこんだ歯を外して口から離し、とても悲しそうな、切なそうな声で言う。
「まずい」
そりゃそうだろう、と数歩離れたところで見張り役をしていたシウとザックは思った。
序盤最弱モンスターの肉にも味の設定がされている、という細かさに万魔殿らしいこだわりを感じながら、何の手も加えられていない生肉など美味いわけがない、と冷静に考える。
それくらい食いつく前に思いつけよ、という話だ。
しかし食堂で食べた時のような美味しさを期待したハートレスはひどくがっかりした様子で、かじりかけの肉となったアイテムをぽいと放り捨てた。
口の周りや手についた赤い血は、キバウサギの肉を捨てるのと同時に雫となってすべり落ちて消えたので、ベタつくことはない。
(プレイヤーの手から離れたアイテムは「所有者無しの落し物」となり、拾った者の所有物となるが、メニューのステータス画面で“現在装備中”となっている武器や防具などは、プレイヤーの体から離れても所有権が外れることはなく、所有者が死亡するまで他の者が拾うことはできない。
プレイヤー間でのアイテムの受け渡しは可能だが、装備品の受け渡しはメニュー画面からのトレード機能によってのみ可能で、戦闘中に味方が武器を落とした場合も拾って渡すことはできない。
捨てられた「所有者無しの落し物」のアイテムは、30分経過すると消滅する。)
「……おなかすいた」
肉を捨ててため息混じりにつぶやいたハートレスは、珍しく大剣から手を離し、両腕で膝を抱えて丸くなった。
〈調理〉などで作られた食品アイテムでなければ味は悪そうだと気づき、自分が〈調理〉に必要な調理器具もレシピも持っていないことを思い出したので、今は仕方ないと諦めてまぶたを閉じ、〈調息〉を発動させる。
その内心では、これまで食事など“エネルギー補給をする作業”としてしか考えていなかったし、今は何も食べなくても生きていられる状態にされているのにどうして「お腹が空いた」と思うのか、自分でもわからずやや混乱していた。
一方、彼女の様子を見ていたシウは、さすがにハートレスよりいくらか年上なだけあって、唐突な行動の原因はおそらく昨日の食事の影響だとすぐに察した。
何しろ4皿も食べたのだから、よほど気に入ったのだろう。
猛獣をなだめるような口調で声をかける。
「レス、この階のボスが倒せたら次のシティに入れますから。そうしたらまた何か食べましょう。今のわたし達はお腹を空かせることはありませんし、食事は基本的に要らないようですが、おそらく精神的に必要なんでしょう」
「うん。5階のタウンで食べたようなの、食べたい」
なぜ自分が「お腹が空いた」と思うのかはさっぱり分からないが、また食べたいと望んでいることだけは確かだ。
ハートレスはシウの言葉に頷き、ふと顔を上げてザックに訊いた。
「あの、“にく”? 何ていう名前か知ってる?」
残念ながら彼らは高級品である現実の肉を日常的に食べられるような生活レベルの人間ではなかったので、厚切り肉を使って古典的な調理法で作られる「ステーキ」というものを知らなかった。
数百年前、「人間の経済活動によって絶滅に瀕した動植物を守るため、植物プラントで作られた野菜や人工食品を食べよう!」という活動を世界規模で流行させた環境保護団体により、ハンバーグやオムレツ、鮭の塩焼きや牛丼などの動物性食品を使った古典料理はすでに大多数の人々の日常食から駆逐されており、その混乱よりだいぶ後に生まれたハートレス達にとって、それらは未知に近い物だ。
古い映像記録によってそれが食べ物で、材料は本物の肉や魚だったらしい、というぼんやりした知識はあるものの、ピンポイントで名前を訊かれるとわからない。
(知ってるか?)と視線で問われたシウとエディが(知らない)と無言で首を横に振ったので、自分も知らないザックはてきとうに答えた。
「たぶん肉くれって言えば、またあんなようなモンが出てくるだろ。さっさと回復してボス倒して、シティ行くぞ」
ハートレスは「うん」と頷いてまぶたを閉じ、今度はそのまま体力が全回復するのをおとなしく待った。




