VRMMORPG『パンデモニウム』
「ただいま。お母さん、メール見てくれた?」
「お帰りなさい。ええ、調理器の設定から一人分減らしてあるから、大丈夫よ」
東城真澄は家へ帰るとすぐにリビングへ行き、個人用電子端末のキーボードを叩いて仕事をしている母の背に声をかけた。
今日は夕食はとらない、というメールを送ったのだが、返信がなかったので母が見たのかどうかわからず、そのために訊いたのだが必要なかったらしい。
何も問題ないことを確認した真澄は、こちらを振り向くこともなく仕事を続ける母に「そう」と頷いて、2階にある自分の部屋へ上がる。
母の向かいのソファに座って貴重な骨董品である紙の本を読んでいた祖父は、真澄の声を聞いてもぴくりとも動かず、足音が遠ざかっても顔をあげようとすらしなかったが、それが東城家の日常だ。
賢い兄とスポーツ万能な妹の間にうっかり生まれてしまった、とくに何の才能もないのにどこか奇妙な娘である真澄に対し、家族がそれとなく距離を置くのは今に始まったことではない。
それは虐待されているということではなく、ただお互いにすこし距離を置き、相手の領域へ踏み込まないよう注意して生活している、というもの。
だから今日も暗黙の了解の内に「なぜ夕食をとらないのか」は訊かれず、また真澄の方からその理由を話すこともなかった。
(もう18時か。19時開始だから、あと1時間で始まる)
左手首にはめた腕輪タイプの時計を見ながら自分の部屋へ入った真澄は、「ターミナル・オン」と声をかけて勉強机の上のターミナルを起動させた。
机の横のフックに通学鞄をかけ、コートを脱いでクローゼットへしまいながら「個人ファイルから『パンデモニウム』のプレイヤー設定を呼び出し」と指示する。
勉強机の上に置かれたターミナルは指示に従い、紙のように薄い液晶画面に黒髪黒目の男性アバターを表示した。
真澄の双子の弟と言ってもいいほどよく似た顔をして、160cmの身長と線の細い体型もほぼ同じ。
けれど腰まで届く黒髪が短くなり、性別の違いでEカップという大きめの胸がなくなっているので、真澄よりとても身軽そうに見える。
それはR18(18歳未満プレイ禁止)の新作VRMMORPG(仮想空間での多人数同時参加型オンライン・ロール・プレイング・ゲーム)である『パンデモニウム』、通称“万魔殿”のベータ版テストプレイで真澄が使用したアバターだった。
今日19時から正式サービスが開始される『パンデモニウム』に、現実では家族から距離を置かれ、親友どころか友人さえいない真澄はこのアバターでログインする予定で、すでに事前登録も済ませてある。
机の前のイスに座って通学鞄から夜用簡易食・小麦味の包みと透明なパック入りのミネラルウォータを取り出し、ベッド脇のサイドテーブルに置かれたヘルメット型のリンク・ギアとターミナルを無線接続して、ターミナル経由で『パンデモニウム』の運営会社である『夢幻工房』に繋いだ。
『夢幻工房』は半年前にできたばかりの会社で、VRMMORPGを出すのは初めてだが、ネットでは「氏名非公開の天才クリエイターが制作に関わっている」という噂でだいぶ前から注目されている。
さいわい新会社にありがちな公開初日に接続要請過多でエラーが出る、というような事はないらしく、真澄のリンク・ギアは無事に『夢幻工房』との接続を完了。
自動で『パンデモニウム』のデータを読み込み、ターミナルのモニタに表示されたアバターの横にプレイヤー設定の詳細が出た。
◆ プレイヤー名 : ハートレス
◆ メインクラス : 戦士レベル1(装備:鉄の大剣・鉄の鎧)
・アクティブスキル〈調息レベル1〉体力回復(まぶたを閉じて動きを止めると発動する)
・アクティブスキル〈威圧〉敵の動きを制限する(武器を構えると発動・プレイヤーのレベルとともに効果上昇)
・常時発動スキル〈索敵・中範囲〉索敵可能範囲内に侵入したモンスターを捕捉する(プレイヤーのレベルアップとともに補足可能な範囲が拡大)
◆ サブクラス : 魔獣使い(装備:クオの木のオカリナ・麻布の服)
・アクティブスキル〈調教レベル1〉アイテム“隷属の笛”を吹くことにより一定の確率で相手モンスターを隷獣にすることが可能 (失敗した場合、隷属の笛は消費される)・成功すると笛にモンスターのシルエットが刻印され、アイテムが“隷獣の笛・モンスター名”に変わる・隷獣の笛の効果範囲は魔獣使いのレベル上昇によって広がり、成功確率もレベル上昇によって上がる
・生産スキル〈楽器作製レベル1〉対象物の加工に必要なハンマーまたは細工道具装備時(シティ・タウン内にある工房限定)
・生産スキル〈魔獣装備作製レベル1〉対象物の加工に必要なハンマーまたは細工道具装備時(シティ・タウン内にある工房限定)
・楽器スキル〈演奏レベル1〉楽器の種類別に多様な隷獣への支援効果を発揮(全フィールドで可能)
◆ 全プレイヤー共通スキル
・〈採取レベル1〉採取カゴを装備して使用すると、薬草や木の実系アイテムを取得することができる(採取点・草むら限定)
・〈伐採レベル1〉木こりの斧を装備して使用すると、木材系アイテムを取得することができる(採取点・樹木限定)
・〈採掘レベル1〉ツルハシを装備して使用すると、金属系アイテムを取得することができる(採取点・鉱床限定)
・〈調理レベル1〉調理器具および野外調理器具を使用して食材系アイテムを消費することにより、食品アイテムを取得することができる・レシピの取得が必要(調理器具があればシティ・タウン内にある工房で、野外調理器具があれば全フィールドで可能)
*〈採取〉〈調理〉はサブクラスが調合師の場合、プラス補正あり
*〈伐採〉〈採掘〉はサブクラスが鍛冶師か細工師の場合、プラス補正あり
・アクティブスキル〈使役〉アイテム“隷獣の笛・モンスター名”を吹くことで、魔獣使いの〈調教〉によって隷獣となったモンスター1体を呼び出して使うことができる
隷獣に指示できるのは「攻撃(最も主人に近いモンスターを攻撃・対プレイヤーの戦闘には参加しない)」と「自己防御」の2種で、一度にひとつの指示のみ可能 (メインレベルの上昇によって可能な指示の種類が増える)
所有者のメインクラスよりレベルが高いモンスターを呼び出した場合、命令に従わず勝手に行動する(他プレイヤーへの攻撃はしない)
(同時〈使役〉可能な隷獣の数はメインクラスのレベルが2上昇するごとに1体増えるが、上限は10体。しかしサブクラスが魔獣使いである場合、最高30体の同時〈使役〉が可能となる。隷獣の笛の所持限度は同時〈使役〉可能数と同じ)
その他にも体力と魔力、力・防御・敏捷・知力・幸運のステータス数値などが表示されている。
ステータスは基本的に選択したクラスに設定された曲線を描いてレベルアップとともに上がっていくが、それとは別にボーナス・ポイントが与えられることがあり、まずはキャラクター作成時に初期ボーナスとして5ポイントを自由に振ることが可能だ。
ただしポイントを振れるのは力・防御・敏捷・知力・幸運の5種で、体力と魔力をボーナス・ポイントで増やすことはできない。
大剣使いの戦士を選んだ真澄は、プレイヤー設定の受付が開始された1週間前に登録し、初期ボーナスとして与えられた5ポイントをすべて“力”に振っていた。
深く考えるのは苦手だし、基本的に後ろを振り向かない突撃型プレイヤーなので、こういったゲームでのステータスは攻撃力を特化させるのが常となっている。
見飽きるほど確認したデータを今日もひと通り眺めて、真澄はそのウィンドウを閉じるとディナースティックを食べながら別のサイトを開いた。
1ヶ月前に行われた人数限定ベータ版テストプレイに参加したプレイヤーが情報を書き込んでいる、万魔殿攻略サイトだ。
出現モンスターの落とすアイテムや経験値、販売されていたアイテムの効果や値段などが書き込まれていて、ついでにテストプレイに参加できなかった人たちのために、サイト管理人のハイテンションなコメントとともにテストプレイヤーがレビューを書いている。
真澄は気まぐれに応募したら抽選に当たり、せっかくだから遊んでみるかとテストプレイに参加していたのでレビューを見たことはなかったのだが、正式サービス開始まであと40分もあるのでヒマ潰しに読んでみた。
管理人コメント。
「新会社『夢幻工房』のスタート・タイトル! R18のお子さまはイヤンな新作VRMMORPG『パンデモニウム』は、3012年10月10日19時に正式サービス開始予定!
正体不明の天才クリエイターが制作したという噂で期待されまくっているゲームのテストプレイヤーに選ばれて、一生分の幸運使い果たした野郎ども!
はやく遊びたくてうずうずしている紳士淑女と、ずっと「待て」状態で欲求不満な俺のために! とっとと情報吐きやがってください!」
テストプレイヤーによるレビュー。
「剣と魔法と血と臓物のリアル・ファンタジー」
「魔法バンバン使いたかったのに、呪文を全部唱えないと発動しない上、一音でも間違えると失敗にされる鬼畜仕様に泣いた。噂の天才クリエイターは間違いなくドS。魔法使いをやりたいヤツは早口言葉で訓練しとけ」
「装備品の生産スキルをレベル10以上にすると〈デザイン・カスタマイズ〉ができるようになる。既存の装備品のデザインを自由に変更可能。楽しすぎて夢中になっていたら、いつの間にかテストプレイ終了時間。地下9階のボスモンスター、見たかったな……」
「ものすごく古典的な王道RPGのMMOゲーム。最初に選べるメインクラスが戦士、魔法使い、盗賊という3種のみな時点でお察しください。しかし風景や装備品の手触りなどの感覚再現度、NPCに組み込まれたAI (人工知能)の自然さは多くのVRMMOの中でもトップクラス。本物の人間が動かしているかのようなNPCがいる、リアルで美しい、古き良きファンタジー世界を旅したい人たちにおすすめ」
「パーティ組むと味方の攻撃でダメージ食らわなくなるとか、砂糖吐きそうな甘さに笑えた。コレのどこがR18なんだ」
「管理人さん攻略サイトまで作ってんのにテストプレイの抽選に外れてたのか。ご愁傷様。しかし“イヤン”はない。気持ち悪いので早急にコメント修正を頼む」
「R18だから当然プレイヤーの平均年齢も高く、そのぶん他のU17(17歳以下のみプレイ可能)や全年齢対象VRMMOよりマナーに厳しい印象。ただしR18のMMOとして、アバターが美女でもリアルは無職男・37歳とかが普通なのはこれも同じ。俺もテストプレイ時よりさらに最高な美女アバターを作って遊ぶ予定なので、貢ぐ時は覚悟の上でどうぞ」
「プレイヤー側の選択肢は少ないが、感覚の再現度やモンスターの存在感、戦闘の臨場感はこれまでのVRを遥かに越えている。当方正式サービス開始を全裸待機中」
「娼館があるって噂聞いたんだけど、テストプレイ中にそれっぽいのは見つけられなかった。地下100階までの間のどこかにあるんだよね? デマじゃないよね?」
「剣で叩き切った時の手ごたえとか飛び散る血や肉や内臓とかモンスターの死体とか。リアルすぎて本気で吐いた。トラウマ製造ゲーム。正式サービスきても絶対プレイしない」
「シンプルなシステムで、地雷職なし。R18のVRMMOをやる時の初心者用チュートリアルみたいな感じ。そのうち“R18で遊びたいならまず万魔殿行け”とか言われるようになりそう」
ひと通りレビューを読んで、真澄は首を傾げた。
確かにとてもリアルだったが、トラウマになるほどのものだっただろうか? と不思議に思ったのだ。
彼女にとって、1日という短いベータ版テストプレイで最も印象深いのは、ロキと会ったことだった。
ディナースティックを食べ終えてミネラルウォータを飲みながら、真澄は彼と初めて会った時のことを思い出す。
すると普段は無口で無表情で愛嬌ゼロの顔に、珍しくほんのかすかな笑みが浮かんだのだが、真澄しかいない部屋ではそれに気づくものなど誰もいなかった。
文中に漢数字とアラビア数字の両方を使用しています。諸事情により今後も両方使用していきますので、どうぞご了承ください。