第八話 おっさんに人権を
「……たくっ、俺をあんな汚いところに閉じこめやがって……っ。お前は人権尊重と言う言葉を知らないのかっ?死ぬかと思ったじゃねぇかっ!」
後ろを向くと、そこには埃で汚れたおっさんが俺の机によじ登って来ていた。俺はそれを見て、思わず一目散におっさんを握りしめる。
「んぎゃぁっ!!」
そんなおっさんの断末魔を聞きながら、俺はそろそろと印南の方を振り返った。冷や汗が流れる。
「……もしかして、見た?」
俺は恐る恐るそう尋ねる。と印南が不思議そうな顔で俺の顔をまじまじと見た。
「……何を?」
それを聞いて俺はほっとした。どうやら、ぎりぎりセーフだったようだ。俺は安心して肩を落とす。と、俺の前の席にいた奴が、俺に話しかけてきた。
「……なぁ、お前が握りしめてるそれ、なに?……さっき動いて喋ってたように見えたんだけど……」
「やっ、やだなーっ!気のせいだよーっ!疲れてるんじゃないのーっ!田中くーんっ!」
俺はそう言って田中君の頭を思いっ切り叩いた。すると、田中君が机に突っ伏したように急に倒れる。
「田中ーっ!?どうしたんだよ急にっ!おいっ!……」
「急に倒れたぞっ!?あれっ?此奴白目むいてんぞっ!」
「おいっ!田中っ!起きろよーっ!!」
少し叩きすぎたか?しかし、俺の犯行現場は見られていなかったようだ。俺は周りをきょろきょろと見渡したが、俺の犯行現場を見た奴も、おっさんを見たらしい人も居なかった。……ここは、このまま何とか乗り切らなくては。ごめんっ、田中君。
「……田中どうしたんだ?」
「田中君寝不足だって言ってたからなーっ!それじゃないっ?」
印南が今し方倒れた田中君を心配そうに見る。それを何とか俺はごまかそうとする。
しかし、やはり印南は手強かった。
「寝不足?いつそんな話したんだ?第一、お前と田中が話してるところをあまり見たことないんだが……」
「けっ、今朝トイレで会ったんだよっ!その時、田中君のシャツが裏表逆だったから教えてあげたんだっ!そっその時、そんな話をしたんだよっ!」
「……あれっ?でも田中って今日チャイムギリギリに教室に滑り込んできたよな?」
「きっ、きっとシャツをひっくり返すのに戸惑ってたんだよーっ!」
「……そうか」
印南が若干腑に落ちないような顔を見せながらも、納得の返事を俺に返した。それを聞いて、俺はほっとする。
しかしそんな時、印南が思い出したように話し出した。
「それはそうと……お前は俺が何を見たと思ったんだ?」
焦って聞かなければ良かった。
後悔したがもう遅い。ここは何とかごまかす方向で。
俺はまた適当な出任せを考え始めた。
……人に見られたくないものだろ?というと……。
俺は頭をフル回転させて、答えを導き出した。
「らっ、ラブレター……」
最終的に、あるはず無いものを作り出した。
印南の表情が段々変わっていく。
これは、不味かった。俺がラブレターなんて貰えるわけ無いっ!
俺が必死に嘘だとばれないでくれと願っていると、印南が口を開いた。
「……中島先生からか……」
だから違うーっ!!俺中島先生と付き合ってねぇし、ラブレターも貰ったことねぇよっ!!
そこから頭を離せーっ!!あと、何で決定的にラブレター=中島先生なんだよっ!!せめてクエッションマークくらい付けろよっ!!
俺はそんなことを心で叫びながら、その思いを口に出した。
「だから違うってっ!!しかも今思ったけどなんで中島先生なんだよっ!」
「えっ、違うのか?てっきり……。何か聞いて悪かったと思い始めてたんだが……。……ん?お前知らないの?中島先生って男喰家で有名じゃんかっ」
そう言って印南が不思議そうな顔を見せる。
「まじ!?あと男喰の喰違ぇよっ!食だからっ、それじゃあ、人食いの化け物みたいだろっ!?」
俺は何だか主旨がずれていっている気がしながらも、そう言葉を発した。
中島先生、そんな噂が流れてたのか……。だから俺はこんな事になってしまったんだな……。どうでもいいことでおっさんと言い争わなきゃ良かった……。
そんな後悔を胸に抱きながら、俺は溜息を吐く。と、印南がまた話し出した。
「で、じゃあ誰から貰ったんだ?お前が、ラブレターなんて」
ますます溝に填っていってる気がする。
そう思い俺は顔を引きつらせ、ははははっと笑い出す。
そんな疲れ切った顔を見せながら、俺は何とか溝から抜け出そうと考えを巡らせていた。
……ラブレターなのだから、男子は出せない。かといって、今適当な女子の名前を挙げると、また噂が急速な勢いで流れ、その子が迷惑するだろう。……そうすると、噂が本人の耳に届かず、女子で、俺の知っている身近な人物……。
俺は思考を巡らせ、そして一つの人物の事を思いだした。
「ねっ、姉さん……」
そう言うと、印南は急に悲しそうな顔になって、俺の肩を叩いた。
「……お前も、苦労してたんだな。……まぁ、なんだっ。……姉貴は泣かすなよ?」
俺が填ったのは溝じゃない。底なし沼だ。
違うっ!俺はそんな親泣かせなことはしてないっ!選択を誤っただけなんだっ!
確かに姉さんのことは家族として(ここ重要)好きだが、しかし幾ら彼女がいないからといって、身内には手は出さないからっ!第一、姉さんはもう彼氏いるしっ!
そんなことを思い、あたふたとどう弁解しようかと思っていると、そんなところに俺に声をかける者がやってきた。
「やっ、山本君っ!」
俺は焦った様子のまま声のした方向に顔を上げると、そこには東の姿があった。
「あっ、東っ!?どうしたんだよ急にっ!俺今取り込み中なんだけど……。あと、今朝のは中島先生でも誰でもないからっ!誤解だからなっ!?」
俺はそう告げると、今は取り込み中なので、再び思考を巡らせ、今の状況からの脱却方法を必死に考え出す。
すると、しかし東は何故か人の話を聞かずに、自分の用件を果たした。
東が、顔を少し赤らめて俺に尋ねる。
「ねっ、ねぇ山本君?……中島先生とは、何がきっかけに付き合うことになったの?」
君はもう何て言うことを聞いているんだ。
そう思い驚いて俺が顔を上げると、先ほどまで東が居た辺りに、数人の女子が集まってこちらをじっと見ていた。どうやら、罰ゲームか何からしい。
その言葉に俺は溜息をつき、そして答えを返した。
「あのなー、中島先生にどんな噂があって、俺が中島先生とどんな関係だと思われてるか知らないけど、俺中島先生と付き合ってないからっ!今朝喧嘩してたのも違う人だからなっ!……さっきっから言ってるけどっ」
俺はそう言っていらいらとしながら言葉を発すると、また思案に耽り始めた。すると東がきょとんとした顔をして言葉を発する。
「……えっ?違うの?付き合って無いの?嘘だぁーっ!」
「だからっ、嘘じゃないって言ってるだろっ!?」
俺がそう言うと、東はなぁんだと言葉を漏らして肩を落とし、表情をいつもの東のものへと一旦戻した。なんだか少し安心したようにも見えた。何故だろうか?
「私、てっきり付き合ってるんだと思って吃驚しちゃったよーっ!山村君っ」
「俺は、何故東が俺の名前をしっかり覚えてくれないのか不思議だよ」
俺がそう言うと、何故かまた、毎度の如く俺の言葉は無視された。
いっつも思うけど、東って結構なマイペースだよな……。
そんなことを思いながら、どうやら東の誤解が解けたようだったので、俺はまたこの底なし沼からの脱出法を考え始めた。
と、しかし東の表情がまた変化していった。今度は不思議そうに歪み、頭が傾く。
そして東がまた、俺に質問をした。
「……じゃあっ、今朝喧嘩してたのは誰?声からして、おじさんみたいだけど……」
これは底なし沼でもない。俺を殺そうと蔓延る悪魔の罠だ。
そう思って俺がぐあ゛ぁぁと短く叫んで机に突っ伏すと、何故か印南は引っかかる事があったようで質問をし始めた。
「……なぁっ、東っ。それってどんな喧嘩だったか分かるか?」
印南は何故かそう尋ねた。すると、東が今朝のことを思い出しながら、質問の答えを返し始めた。
「うーん、私、喧嘩の内容はよく聞こえなかったんだよねーっ。でも、なんか価値観の相異で喧嘩してたって言うのは山岸君から聞いたんだけど……」
印南がその言葉を聞いて少しの間考え込み、そしてなんだか苦しそうに東に言葉を発した。
「東……っ。そっとしておいてあげてくれよっ。此奴もいろいろと大変なんだよっ」
「……大変?何が?」
東が不思議そうに尋ねる。と、印南は言いにくそうに口を開いた。
「東には特別に教えてやるよっ。これは誰にも言うんじゃねぇぞ?……実は、山本の彼女は、姉貴なんだっ。……今朝揉めてたのは、きっと父親だっ。おそらく姉貴とのことがばれたらしい……」
「……えっ嘘っ……山根君が、お姉さんと禁断の恋……!」
誰か炎で悪魔の罠を焼き払って下さい。
……何か俺悪いことしましたかっ!?神様っ!
そんなことを思いながら、俺は反論を諦めて、机に突っ伏したまま動かなくなった。
暫くすると、教室に授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。