ぁ〜〜〜〜〜
怖くない怖い話。
新居から仕事場までは電車で三駅。
ちょうど繁忙期に入ったこともあり、残業続きだった。
夜になると、自宅最寄り駅の通路には滅多に人がいない。
駅から家までは歩道が続いていて、途中に信号はあるものの、深夜は車もほとんど走っていない。
防犯のためなのか、白っぽく塗られた通路はやけに明るく、俺はスマホをいじりながら帰る癖がつき始めていた。
SNSには、友達や見ず知らずの人たちが、それぞれ夕食やペットの写真を上げたり、仕事で疲れただの呟いたり、どうでもいいニュースに突っ込んだりしている。
一人暮らしの俺にとって、それは実家のリビングで家族の会話が耳に入ってくるような、妙な心地よさがあった。
〜〜〜〜〜〜ぁ
帰ったら何を食べようか。
冷蔵庫に何かあったろうか。
酒はまだ一、二本残っていたはずだが、何かつまみたい気分だった。
……〜〜ぁ〜〜〜あ〜〜〜〜〜
考え事をしながら歩いていて、ふとスマホから顔を上げた。
長く続く通路の向こうから、女が、どこか緊張感の抜けた声で叫びながら走ってくる。そう思った。
あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
だが、何も見えない。
姿がないのに、音だけが近付いてくる。
さすがにおかしいと思うほど近くまで来て、ようやく身体が動いた。
金縛りが解けたみたいに、俺はまたスマホを見下ろす。
気付いていない振りをしないといけない。
理由は分からないが、そうしなければいけない気がした。
「晩飯、きんぴらか……」
友人が載せていた、山盛りのきんぴら牛蒡の写真を見ながら呟く。
歩き続けると、声は少しずつ遠ざかり、通路を抜けてしばらく歩く頃には全く聞こえなくなっていたが、俺は前を見て、スマホを片手に持ったまま足を動かした。
周囲には明かりのついた民家があり、どこからかテレビの音や笑い声が聞こえる。
家の近くで犬が吠え、子供の笑い声がしたあたりで、ようやく呼吸が楽になる。
疲労による幻聴だったのかもしれない。
帰宅して、冷蔵庫の有り合わせで飯を食い、風呂に入る。
シャワーを浴びながら、さっき調べた「疲労 幻聴」という言葉を、都合よく頭の中で並べる。
頭を洗い始めた頃、微かに、声が聞こえた気がして手が止まった。
シャワーの音と換気扇の音に混じって、人の声がする。
さっきの今だ、物音がそう聞こえるだけだろう、と自分に言い聞かせ、鼻歌を歌いながらシャンプーを泡立てる。
それでも、声は近付いてきた。
〜〜〜〜……ァ。
換気扇の向こう、外の空気に乗って、確実に距離を詰めてくる。
ァ〜〜〜〜〜〜ァァ〜〜〜。
目を閉じる。
シャンプーが沁みる。
指に力を入れて頭を擦る。
泡が、顔や背中を伝って落ちる。
ァァァアアアアア〜〜〜〜〜〜!
風呂場に女の声が響いた瞬間、身体が強張った。
目は開けられない。
シャワーも止められない。
「……ん、ん〜〜〜♪」
震える声で鼻歌を歌い、最近よく耳にするCMの歌まで、無理やり続けた。
頭からシャワーを被った頃、声が消えていることに気付く。
終わった、のか。
指に絡む短い髪から手を離し、振り返ろうとした瞬間。
「聞いて」
耳元で、女の低い声がした。
俺は情けない声を上げて、その場にへたり込んだ。
それきり、何も起こらなかった。
あの声を聞いたのは、その夜だけだ。
翌日も、その後も、帰り道でも家でも、同じことは起きていない。
それでも、換気扇の音が少し変わった時や、夜の通路を一人で歩く時。
またどこかから、あの声が聞こえてくる気がして、今でも、無意識に身構えてしまう。
アパートに1ヶ月しか住めなかった人と、同じ人かもしれないし、そうでないかもしれない。




