まさかの再会、元婚約者の影
港に秋風が吹いていた。
少し冷たい潮の匂いが、季節の変わり目を告げる。
地図管理部の窓辺では、ノエルが早くも測量記録を整理していた。
「おはようございます」
「北桟橋の記録、誤差なし」
彼は簡潔に言い、再び手を動かす。静かな朝。けれど、今のセラにはその沈黙も居心地がよかった。
今日の仕事は王都への納品用の地図整理。
セラが描いた図面が、上層部経由で王都の商会に渡るらしい。
「……王都か」
小さな独り言をノエルは聞き流した。
*
昼前、ロウェナが駆け込んできた。
「セラ!王都から視察が来るって!」
「え、視察ですか?」
「納品先の“アーベル商会”が現地確認に来るそうよ」
セラの指が止まる。
聞き間違いではない。アーベル。それは、かつて婚約していた男の名だった。
ロウェナが気まずそうに肩をすくめる。
「悪いけど、あんたも立ち会って」
「……わかりました」
声が少し震えた。
*
午後。外は強い風。
セラは手元の図面を見つめたまま動かない。
ノエルが気づく。
「アーベル商会を知ってるのか」
「……ええ、少しだけ」
「俺は前にそこにいた」
静かな声。彼もその商会の元部下だった。
「彼が来るそうです」
「知ってる」
「黙ってたんですか」
「話しても君のためにはならないと思った」
「それは……勝手です」
「勝手でもいい。けど、過去の線を引きずると、地図は見えなくなる」
セラは黙ってその言葉を聞いた。彼の手が、紙の上に新しい線を描く。
「地図の線は、過去じゃなく未来を描くものだから」
セラはその言葉を心の奥で繰り返した。
*
夜。ロウェナが帰り際に笑う。
「明日は嵐と王都の客。ご苦労さまね」
「ええ、波が高くなりそうです」
残った二人。
「怖い?」
「少しだけ」
「無理に笑う必要はない。君は君の仕事をすればいい」
「それ、励ましですよね」
「たぶん」
ふっと、空気が緩んだ。
*
翌朝、雷鳴が響いた。
港の空は鉛色。嵐の前の静けさ。
ノエルが隣に立ち、短く言った。
「嵐は通り過ぎる。線は残る」
セラは小さく頷いた。
その言葉が、不思議と心を支えていた。




