辺境の将軍は失脚令嬢を一途に愛す ― 追放から始まる逆転婚
第1章 薔薇の凋落
王都の冬は、決して優しくはない。外の街路は凍てつき、吐く息すら氷の粒になりそうなほどの冷気が流れているのに、宮廷の大広間は別世界のように暖かく、シャンデリアの光が溶けた蜜のように床を覆っていた。
その光の下で、令嬢たちは真珠の髪飾りを揺らし、青年貴族たちは磨き抜かれた靴の音を鳴らして踊る。流れる旋律は軽やかだが、交わされる視線の奥には計算と打算が渦巻いていた。
エリシア・レイバックは、その渦の中心に立っていた。
深紅のドレスに、白薔薇を模したブローチ。華やかな装いは、彼女が公爵家の娘であり、王太子セドリックの婚約者であることを示す。
視線を向ければ、人々は一瞬にして口を閉じ、微笑を作る。憧憬と畏怖、そのどちらも含んだ眼差し。――ほんの数時間前までは、それが彼女の当たり前の日常だった。
「エリシア、今宵も美しいな」
背後から声がかかる。振り返ると、セドリックが立っていた。濃紺の軍服に身を包み、誰もが息を呑むような整った顔立ち。エリシアの婚約者、次期国王と目される男。
その声を聞いた瞬間、胸がわずかに弾む。彼に選ばれた自分は誇りであり、未来は揺るぎないものだと信じていた。
けれど、その夜は違っていた。
セドリックの眼差しは氷のように冷え、微笑みは影のように浅かった。
「皆の前で、話がある」
その言葉に、大広間の空気がひりついた。演奏が途切れ、舞踏の輪が止まる。貴族たちの視線が一斉に二人に注がれる。
エリシアは胸騒ぎを覚えながらも、微笑を崩さなかった。婚約者としての矜持が彼女を支えていた。
「……なんでしょうか、殿下」
そう問い返したとき、彼の口元がわずかに歪んだ。
「エリシア・レイバック。お前との婚約を、ここで破棄する」
――大広間に衝撃が走った。
令嬢たちがざわめき、若い騎士たちが驚愕に目を見張る。
エリシアの耳に、そのざわめきがまるで海鳴りのように押し寄せてきた。理解が追いつかず、膝が崩れそうになる。
「……な、にを……おっしゃって……」
掠れる声で問い返す。だが返ってきたのは、さらに冷酷な言葉だった。
「お前は王妃にふさわしくない。毒を盛ったのだろう? 義妹リリアナを害そうとした罪人に、未来の王妃の座は与えられぬ」
その瞬間、周囲から小さな笑い声が漏れた。
視線を向けると、純白のドレスを纏った義妹リリアナが、まるで勝者のように口元を綻ばせていた。
「お姉さま……どうしてこんなことを」
泣き真似のような声。その目は喜びに濡れている。
「嘘よ……そんなこと、していない……!」
必死に声を絞り出す。だが、令嬢たちは嘲笑を隠そうともしない。
「まぁ、ついに化けの皮が剥がれたわ」
「傲慢な令嬢の末路ね」
エリシアは唇を噛み、血の味を覚える。反論しようとした瞬間、父の声が響いた。
「……国王陛下のご意向だ。北境への流刑を……受け入れる」
目の前が真っ暗になる。父までもが、彼女を見捨てた。
セドリックが彼女の手を取り、淡々と言い放つ。
「これ以上、無様を晒すな。お前はもう終わりだ」
絹の手袋を外される。その一動作で、エリシアの立場は一瞬にして地に落ちた。
嘲笑と侮蔑、冷たい視線が彼女を突き刺す。かつて友と呼んだ令嬢たちは背を向け、使用人すら距離を取った。
その中でただ一人。幼馴染の侍女マリルが駆け寄り、泣きながら囁く。
「お嬢様を……信じます。ずっと……」
砕けそうな心を、たったその言葉だけがつなぎとめた。
石畳に打ち出された靴音が遠ざかり、宮廷の大広間から洩れる音楽も、もう彼女には届かなかった。
夜会を追放されたエリシアは、外気の冷たさに肩を震わせた。煌びやかな灯火に照らされていた世界から一転して、吐く息が白く溶ける暗がりへ。
背後の扉が閉じられる音は、二度と戻れぬ世界への鎖のように響いた。
白い石畳の上で立ち尽くしながら、エリシアは自分の手を見下ろした。
セドリックに外された手袋。その手は赤く、爪の根本にはわずかに血が滲んでいた。
あれほど磨き上げられてきた手。王妃になるべき者として、常に人前に差し出すことを意識し、ひとつの傷も許されないと教え込まれた手。
――その手は、いまや何の意味も持たない。
マリルが背後でそっと外套を掛けてくれる。
「お嬢様……寒いでしょう」
その声にエリシアはようやく息を吸い込むことができた。
「ありがとう、マリル。でも……私、もう“お嬢様”ではないのよ」
唇の端に苦笑が浮かぶ。マリルは首を振り、涙に濡れた声で答える。
「それでも……私にとってはずっと、ただ一人の主です」
言葉が胸を打ち、凍りついた心の奥に微かな灯火が灯る。だがすぐに、現実が重く覆いかぶさってきた。
父に見限られ、王太子に捨てられ、義妹に陥れられた。
これまでの努力はすべて無駄だったのか。
朝から晩まで礼儀作法に追われ、足の皮が破れるほど舞踏を練習し、書物を読み漁り、王妃教育に耐えてきた日々。
“王妃になるため”だけに費やした十数年が、一夜にして崩れ去った。
エリシアは石畳に視線を落とす。冷たい水が溝を流れ、氷の膜が張っていた。
――私は、何をしてきたのだろう。
胸の奥から虚しさが込み上げ、喉を焼く。怒りも混じっていた。
義妹のリリアナは、努力よりも可憐さを武器に笑い、涙で男たちを惹きつける。父はその姿を「清らか」と褒め、セドリックも彼女を庇った。
どれだけ真面目に生きようと、打算と演技の方が優位に立つ――その事実が、心をえぐる。
けれど、屈するわけにはいかなかった。
エリシアは強く息を吐き、心の奥で呟く。
(私は折れない。必ず真実で抗う。たとえこの身を誰も信じなくても)
その決意がわずかに彼女を支えた。
やがて、鉄の鎧の擦れる音が響いた。
月光の下、数騎の兵が現れる。国王直属の護送隊。
彼らは氷のような視線をエリシアに向けると、淡々と告げた。
「エリシア・レイバック殿。王命により、北境へ護送する」
北境――それは流刑と同義だった。
雪と氷に閉ざされ、魔獣が跋扈する最果て。罪人や追放者が送り込まれる場所。
エリシアは小さく息を呑む。だが泣き叫ぶことはしなかった。
悔しさと恐怖を喉に押し込み、背筋を伸ばす。
「……わかりました」
兵の一人が嘲笑混じりに囁く。
「思ったより気丈だな。てっきり泣き崩れるかと」
別の兵が笑い、「その分、道中で泣かせがいがあるかもな」と言った。
侮蔑の視線が肌に突き刺さる。だがエリシアは一歩も退かない。
マリルがすがるように声を上げた。
「どうか……どうかお嬢様を粗末に扱わないでください!」
その必死の叫びに、兵たちは一瞬たじろぐ。だがすぐに鼻で笑い、「口の減らない侍女だ」と吐き捨てた。
エリシアはそっとマリルの肩に手を置く。
「大丈夫。私は折れないわ」
その言葉が、自分自身を奮い立たせるための祈りでもあった。
そして、隊列の先頭にひときわ異質な存在が立っていた。
冷たい灰青の瞳を持つ若き将軍。銀の刺繍が施された黒い外套。
“氷刃の将軍”――ロウラン・ファルクナー。
彼の名は、北境で数々の戦果を挙げた伝説と共に広まっている。冷徹無比、情を排し、ただ軍律と剣のみで敵を圧する男。
兵たちすら息を呑み、背筋を伸ばす。
ロウランは無言のままエリシアに視線を向けた。
その眼差しは冷ややかだった。だが、他の者たちのような侮蔑ではなかった。
彼は彼女の震えを見ていなかった。
見ていたのは――折れずに立つ、その姿勢だった。
その瞬間、エリシアの胸にかすかな光が差し込む。
絶望の闇を切り裂く、小さな灯火のように。
護送の準備が進む中、彼女は心の奥で強く誓った。
(私はまだ終わらない。この目で、必ず真実を暴く。ここからが、私の旅の始まり)
こうして、薔薇の令嬢は地に堕ち、氷刃の将軍に導かれる旅路へと踏み出したのだった。
王都の石畳を、馬車の車輪がきしみを上げて進んでいく。
冬の冷気が窓から忍び込み、火の気のない車内を容赦なく冷やした。手枷を嵌められたエリシアは外套の裾を握りしめ、唇を噛みながら前を向く。マリルは彼女の隣に座り、固く祈るように目を閉じていた。
外では護送兵の笑い声が聞こえる。
「罪人令嬢が北境行きとはな。王都では噂の種になるぞ」
「夜会でのざまあ見ろ、俺も一度は見たかった」
彼らの声は矢のように胸を突いた。それでもエリシアは表情を崩さず、静かに座り続ける。心の奥で何度も繰り返す――折れない、負けない、と。
やがて馬車が揺れを止めた。扉が開き、冷たい夜気が雪崩れ込む。
「降りろ」
短い命令。声の主はロウランだった。低く、鋭く、余計な感情を含まない声音。
エリシアは一瞬ためらったが、すぐに立ち上がる。石畳に足をつけた瞬間、足先から寒さが這い上がり、震えが背を走った。それでも背筋を伸ばす。見下ろす兵たちに隙を見せたくなかった。
ロウランの瞳が一度だけ彼女を射抜いた。灰青の光。冷たさの奥に、測りがたい何かが潜んでいる。その視線は一瞬で逸らされたが、不思議と胸に残った。
北境へ向かう道は長く、厳しい。雪に閉ざされた峠を越えねばならず、魔獣の棲む森を抜けなければならない。兵たちでさえ気を緩めれば命を落とす道のり。
だがその夜はまだ、王都の郊外に過ぎなかった。
焚き火の炎がぱちぱちと音を立てる。野営地の片隅、罪人扱いのエリシアとマリルには粗末な毛布が一枚与えられただけだった。
息は白く、指先はかじかむ。眠れるはずもなく、彼女は焚き火の向こうで地図を広げる兵たちの姿を見つめていた。
(あの峠は冬期に閉ざされる。補給路は二つに限られるはず……)
思考が自然に働く。公爵家の娘として学んだ知識。王都の人々は忘れてしまっただろうが、彼女は幼い頃から家の政務に触れ、補給や地理に精通していた。
けれど口を出せば、きっと笑われる。
「無能な飾り姫」――今や彼女に貼られた烙印。
エリシアは唇を結び、黙って炎を見つめた。
そのとき、背後から声が落ちた。
「眠れぬか」
振り返ると、ロウランが立っていた。月明かりに銀糸のような髪が揺れる。焚き火より冷たく、夜気より静かな男。
エリシアは思わず立ち上がり、礼を取ろうとした。だが手枷が邪魔をして、不格好な動作になる。頬に熱が集まった。
「……はい。少し、考えごとをしておりました」
「考えごと?」
彼の声は低く、感情を読み取らせない。
「北境の道程についてです。雪の峠を越えるのは難しいでしょう。補給が滞れば、護送隊も危うくなります」
言葉が口をついて出た。抑えられなかった。
兵たちに嘲笑われるのが怖かったのに、彼の前では不思議と怯えが薄れる。
ロウランはしばらく無言で彼女を見ていた。
やがて、短く答える。
「……辺境に来れば、わかる」
それだけだった。
だが否定はされなかった。
その事実が、エリシアの胸に小さな温もりを残した。
夜が更け、冷え込みが厳しくなる。マリルは眠りに落ち、エリシアも毛布に包まれながら瞼を閉じた。
ふと、肩に重みを感じる。薄く目を開けると、厚手の外套がかけられていた。
顔を上げると、焚き火の向こうでロウランが背を向けて立っている。気配を悟られぬよう、ただ黙って見張りを続けていた。
胸がじんわりと熱くなる。
――あぁ、この人は、私を「罪人」ではなく「人」として見ている。
涙が滲み、頬を濡らす。
彼女は初めて、心から泣いた。誰の前でも涙を見せまいと耐え続けてきたのに。
その涙は、絶望ではなく、ほんの一欠片の希望の形をしていた。
翌朝、空は鉛色に曇り、遠くで黒い狼煙が上がっていた。
兵たちがざわつく。「まさか、辺境で戦が……?」
ロウランは狼煙をじっと見つめ、低く呟いた。
「……火種は、すでに燻っている」
エリシアは息を飲む。
北境で彼女を待ち受けるのは、ただの流刑ではない。国を揺るがす陰謀の奔流だった。
それでも彼女は視線を逸らさなかった。
――私の物語は、まだ終わっていない。ここから始まるのだ。
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第2章 氷原の護送路(初遭遇)
夜明け前、王都北門の石造りのアーチが、灰色の空を切り取っていた。雲は低く垂れこめ、空気は刃物の背のように鈍く冷たい。馬の鼻先から白い息が規則正しく吐き出され、その湯気が、薄く明るみはじめた空に溶けていく。
門の内側には護送隊の列。騎兵が八。輜重車が二。雪に軋む音と、革と金具の触れ合う乾いた音。小走りの斥候が往復しては隊長に合図を送る。
その中心で、黒い外套の肩に霜を載せながら、ロウラン・ファルクナーは北を見ていた。灰青の視線は一点に固定されているわけではない。雲の流れと、遠くで風が谷をなでる音、雪の粒が足元でどれほどの圧で潰れるか――いくつもの小さな事象をひとつの線に束ねて、彼だけが知る地図に描き直しているようだった。
私は輜重車の荷台に乗っていた。手枷は外されたが、腰の帯に薄く刻まれた封印紋が冷たく、肌に押し花のように張り付いている。うっかり指で触れると、冬の水に指先だけを浸したときのような痛みが走る。
マリルが震える手で私の外套のボタンを留め直してくれた。彼女の指先はささくれだって、私のボタンと違って、完璧ではない。でも、その不完全さにだけ信頼できる温度が宿っている。
「寒くないですか」
「ええ。大丈夫」
私の声はいつもより低く、少し乾いて聞こえた。心も乾いて、軽くなったのだと思う。軽くなったものは、風に煽られてどこへでも飛んでいってしまう。飛ばされないように、私は膝の上で手を重ねた。
荷台の隅に、古い皮表紙の地図が押し込まれていた。半ば紙魚に食われ、角は毛羽立っている。気づかれないようそっと開くと、北境の地形線が、針のような山脈と絡みあっていた。
王都で見ていた新しい地図の印と、目の前の古軍道図の印は違っていた。補給所の位置が、わずかずつ内陸へと寄っている。関税所も、峠の名前も、馴染んだ音のいくつかが消えて、新しい、口の中でうまく転がらない音が書き込まれていた。
(動いている……)
地図の上では何も動かないはずだ。けれど、帳簿は動く。人の意図も動く。私は新旧の地図を頭の中で重ね合わせ、相違の縁だけを光らせていく。そこに浮かび上がるのは補給路の改竄――あるいは、誰かの利のための路の付け替え。
馬がいななく。列がのろのろと進みはじめる。世界が、ゆっくりと北へ動き出した。
北門の前で兵のひとりが、肩越しに私を見た。目があったのは一瞬だったのに、ひどく長く感じられた。
「罪人令嬢さまは鼻も高ぇな。北風で折れねえといいが」
笑い声がいくつか、雪の上に落ちた。
私は応じなかった。応じるべき言葉の形は、喉の奥にありふれた棘のように浮かんだが、飲み込んだ。舌にじわりと苦みが広がる。代わりに私は、息だけを整えた。馬の歩幅に合わせて、荷の重心が左右にずれないように。車輪の揺れがひどくなる一瞬前には、身体をほんの少し右へ寄せる。
ロウランは何も言わなかった。兵を止めることも、私を庇うことも。けれど、私が罵声ではなく空と地図を見ていること、その小さな調整の連なりに気づいたのは、彼だけだったのだと思う。列が城壁の影を離れるころ、副官のハーゼンに低くひとこと伝える声が耳に届いた。
「峠の前で休む。風が変わる」
風が変わる。言葉は天気の報せのように簡単だったが、そこには雲脚と視界の透明度、雪の粒の粗さの計算が入っている。シャンデリアの真下で生きてきた私は、こういう精度を知らなかった。知らなかったものに、なぜだか救われることがある。
王都の屋根はしだいに低くなり、やがて背丈ほどの低木が続く雪の原に道は出た。雪は思っていたほど白くなく、ところどころ灰色の膜をかぶって、風に細く削られていた。私たちはそれを噛み砕くように進んでいく。
斥候の片方が戻ってきて、手の甲で額の汗を拭った。
「峠道、白くて固い。轍は薄い。風が北西から下りてる。昼までに越えたい」
ロウランが短く頷く。
「古軍道に入る。王道はやめだ」
ハーゼンが目を丸くした。「王道なら距離は半分ですが」
「補給点が多いのは古軍道だ。王道の補給は“誰か”が見ている」
副官はそれ以上問わなかった。ひとつの決断に、いくつの証拠が折りたたまれているかを、彼は知っている顔をしていた。
午前が深くなるにつれて、空は粉をまいたように白濁し、遠くの丘の縁がぼやけた。雪は踏むたびに、疲れたため息のような音を出す。
私たちは峠の手前の、風が巻く窪地でいったん止まった。休憩というより、姿勢を正すための短い溜め息だった。馬の鼻面に凍りかけの水を押し当て、飴色の汗を布で拭う。私は荷台を降りて、荷のロープの締め直しを手伝った。指先がかじかんで、結び目を作るのにいつもより時間がかかる。
兵たちは私を見もしない。見ない代わりに、聞こえるように言う。
「王都なら魔導士のひとりもつけたろうに」
「こんな“飾り”ひとり守るために寄り道とはな」
飾り。私は胸の奥で褪せた赤の花を握り潰す。私はもう飾りではないし、飾りであったとしても、道を踏み外した飾りは刃になれる――私はそう思いたかった。
峠にかかりはじめたとき、雪の上に黒い裂け目のような影がした。最初は自分のまつげが作った影かと思った。違った。
斥候の一人が駆け戻り、息を荒くして言う。
「狼……に見えたが、顎が二つある。音に寄る」
双顎狼――ツイン・メイル。群れで包囲し、蹄音に誘われて突っこむ習性。北境の古い記録の片隅に、その名だけ読んだことがある。
兵のひとりが舌打ちし、「罪人を置いて逃げりゃいい」と笑った。笑いというより、恐怖の行き場を探す音。空気が崩れかける。崩れた空気は凍えるより早く人を殺す。
私は荷台の縁に手をかけ、身を乗り出した。古軍道図の線を頭に浮かべ、目の前の尾根の線をそこに置く。風。煙。雪庇の癖。――三つの提案が、舌の先に降りてきた。
「火を――」
私の声は、自分の耳にも頼りなかったが、落ちる先はわかっていた。「あの尾根筋。矮松が帯になって残っています。雪庇は厚いけど、火は走らない。煙は風に乗って、あちらに流れる。視界を奪えます」
ハーゼンが私を振り返る。瞬間、私は恐れた。言い終わる前に遮られるのが怖かった。けれど、そうはならなかった。
「退避は……逆走しないで。半月です。左の凹地に沿って。雪が浅くて傾斜が穏やか。荷が軽く弾む。馬車をロープで繋いで、転倒を防いで」
誰も笑わなかった。私の喉の奥の震えより、距離と角度と時間の値の方が先に届いたのだと思う。
「それから――音。車軸の心棒に金属の欠片を結んで。規則的に打たせれば、奴らは音の中心を誤認します。偽の心臓を作るんです」
息を吸う音の合間に、ロウランの低い声が重なった。
「採用だ。火点は三つ。俺の合図で点火。護送車は半月陣。転倒防止、ロープで連結。斥候は側へ回り込み、足腱を切れ。……行け」
副官の命令が雪に弾け、兵たちの動きが一斉に流れを変える。舌の上で氷砂糖が解けるように、体のうちに凍りついていた恐怖の塊が小さくなった。
最初の一頭が音を破るように現れた。白い斜面を滑る影。顎が二つあるというのは、比喩ではなかった。上と下、互い違いに並ぶ歯列が、雪の破片を噛み砕きながら近づいてくる。
ロウランは馬から跳び降り、短槍を一歩で突き上げた。刃先が喉の柔いところを正確に射抜き、血の黒が雪に爆ぜた。斥候が左右から足の腱を切り、最初の個体は沈む。続く二頭目は煙に惑い、三頭目は音の中心に吸い寄せられ、空を噛む。
火点に火が走る。乾いた矮松がぱちぱちと高い音を立て、黒い煙は風に乗って、谷へ、狼たちの目へ、私たちの呼吸の隙間へと流れ込む。
輜重車の羊皮の覆いに火の粉がかかった。私は叫ぶより早く、マリルが水袋を叩きつけ、火はじゅう、と鈍い音を立てて消えた。
「左、間隔を狭めて! 輪にならないで、弧です――半月を保って!」
自分でも驚くほど、命令の語尾はぶれなかった。情けないことに膝は震え、指は冷えでうまく動かなかったのに、声だけが、誰かから一時的に借り受けた道具のように、目的通りに働いた。
数頭を斬り払い、煙の壁が濃くなると、群れはあっけなく退いた。音が遠ざかるのと同時に、私の耳鳴りが戻ってきた。自分の心臓の鼓動が、少しの間だけ、世界の心臓の鼓動と重なっていたのだと思う。
被害は軽微。だが馬が一頭、右前脚を痛めた。
戦闘の後には、必ず静寂が寄ってくる。雪が音を吸い、焚き火のはぜる音だけが空気に残る。
ロウランは手短に戦果を確かめ、血のついた槍先を雪に押し当てた。私は負傷馬の腿に触れ、冷たい雪と布で圧迫をして、蹄鉄の縁を目で追う。
「……釘の角度が揃っていない。雪を踏むたびねじれてます。次の休憩で打ち直したほうが」
副官が目を丸くした。「そんなところまで見えるのか、奥方……いや、エリシア殿」
奥方――その呼び方は、まだここには早い。わずかに私は首を振って、言葉の先を飲んだ。
指が冷たく、わずかに震えはじめる。歯の根が合わない。私は舌の根でそれを押さえようとしたが、おそらく震えは目にも見えていたのだろう。ロウランが無言で外套を脱ぎ、私の肩にかけた。革と樹脂と鉄の匂い。
「礼は要らん。体温の維持が最優先だ」
礼を言おうとして、やめる。代わりに問う。
「どうして王道を通らなかったのです」
彼は短く答えた。
「王道の補給は“誰か”が見ている。古軍道は、地図に残っていない橋脚が多い。壊されにくい」
壊されにくい。物語の中でこの言葉に出会っていたら、胸を刺すはずだった。いまは、胸の奥の、すでに何度も刺された場所のそばに、黙って置かれるだけだった。
「補給路を壊す者が、王都側にいる――そう見ておられる?」
「辺境に来ればわかる」
簡潔さは、彼の癖であり、私の救いでもあった。自分がいま持っていない語彙を、他人の沈黙が埋めてくれることもある。
凹地に焚き火がいくつも灯り、輪になって兵たちが座った。見張りは二交代。氷点下の空気が、火のはぜる音を大きくする。乾パンを割り、マリルと半分ずつ分ける。私の歯はまだほんの少し震えて、それがパンに当たって細かい粉をこぼした。
私は膝の上に小さなメモ帳を置いて、今日の地形と風の記録を走り書きした。王妃教育の筆ならしで覚えた無駄にきれいな字は、寒さで少し崩れて、むしろ本当の線に近づいた。
巡回の足音が近づく。ロウランが私の横で立ち止まる。火の光で、彼の影が私の手帳の端に落ちた。
「記録か」
「ええ。今日見た風は、昨日の風と違っていました。北西が強くなっている。谷を削る音が、少し低くなった」
「低い音は長い谷だ。吹き下ろす幅が広い」
短い応答は、会話というより、図と図の突き合わせだった。私は思い切って踏みこむ。
「ロウラン将軍。王太子殿下の側近と宰相派、どちらも北境の塩運用に関与しています。王都の新しい地図では補給所の位置が“帳簿上だけ”動いていました。私の家に残っている旧図では、別の場所です。今日の峠も、正規の補給点には“跡”がない。荷車の轍も、焚火の跡も。補給は別の倉から行われている。台帳上は王道、実際は古軍道沿い。……そこで塩が横流しされているのでは」
ロウランの眉が、ほんのわずか動いた。
「仮説としては筋が通る。証拠は」
「倉庫に残るはずの、塩の結晶の粒度。海塩と岩塩では付着の仕方が違います。北境の倉なのに、王都河港の海塩の粒が多ければ、不自然」
私が知っているのは、教本と厨房の二階部分の間にある、ほんの小さな世界の理屈だ。けれど、それは確かな匂いを持っている。塩の匂いは、どこで嗅いでも塩の匂いがする。
ロウランは火の粉を指で払った。
「……明日、砦に着いたら倉庫を見よう」
短い言葉が、氷の上に刻まれて、音もなく凍る。肯定は、長い演説よりも短い方が強い。私はようやく息を吐いた。吐いた息の白が火に溶ける。
マリルが寝床を整え、私の肩にさらに毛布を重ねてくれた。彼女が離れていくと、焚き火の向こうで兵たちが笑い声を立てる。遠い笑い声は、敵意よりも普通の音だった。
外套の匂いに、ふと気がつく。鉄と樹脂と冷たい革。血と汗の酸味の奥に、動物の体温みたいな残り香。
今朝までの世界では、私は装飾品のような存在だった。手を触れるたびに、誰かが拭い、磨き、置き直した。落ちないように。傷つかないように。
いま、私の言葉と判断が、命と隊を動かした。私の手は、馬の脚に触れ、釘の角度を数え、火の色合いを測った。
「……役に立てましたか」
自分でも、どうしてそんなことを問うのかわからなかった。承認が欲しいわけではないのに、言葉は出た。
「さっきの半月陣は良かった」
ロウランはそれだけを言った。足りない。けれど、足りないものがある方が、私は安心する。
氷のような心の表面に、ひびがひとつ入った。ひびの縁は痛む。けれど、その痛みには血の温度があった。私は慌てて顔を背け、滲んだ涙を親指で押さえた。泣き顔を見せたくない自尊心は、まだ残っていた。残っていてよかった。
夜半。封印紋がいきなり冷たく疼いた。皮膚の下の、細い骨だけを摘まみ上げられたみたいに、深く、嫌な痛みが走る。歯を食いしばる。吐息が歯の隙間から洩れて、白がこぼれ落ちた。
ロウランが気づき、外套の上から私の腰に手を当てる。熱を留めるような、ただそれだけの圧。
「朝一番で符医に見せる」
「……ありがとうございます」
痛みが去るのを待つ。封印紋は、王都の“再拘束”命令が出たときに反応する――そんな仕様を、私は知らないはずなのに、身体が先に知っている。身体は、否応なしに、言葉より早く世界と契約させられる。
火が小さくなっていく。空はさらに低くなる。眠りは浅く、雪に埋められる直前の音のように、簡単に崩れた。
見張りの兵が北西を指さしたのは、まだ夜明け前、交代の刻だった。
「……煙だ」
遠く、黒い狼煙が細く天へ。風に引き延ばされながら、針のようにまっすぐ上がる。
隊の空気が、弦を強く張りすぎたときのように、ぴんと張りつめる。
ロウランは地図を広げ、狼煙の位置に指を置いて、口早に三つの可能性を挙げた。
「砦外縁の監視小屋からの救援要請。密輸人の合図。……“古い習俗狼煙”――魔群の移動の知らせ」
私は風向と、先ほどの双顎狼の退却の方向を頭の中で合わせた。
「三つ目が高いと思います。風は北西。狼の退却は南東。煙は風上に逆らって立ち上がってます。意図的に、誰かが――」
言い終わる前に、ロウランが頷いた。
「明朝、斥候だけを出す。隊はこのまま移動。古軍道の“唄う橋”を渡る」
唄う橋。強風で鳴る古い木橋。地図の上でしか知らなかった名前が、目の前の空気に乗る。地名が声帯を通るとき、地形が喉を通っていく感じがする。私はその感覚を忘れないよう、胸の中に折り目をつけた。
空が薄く白んできた。氷原の縁で、世界がゆっくりと色を取り戻す。交代の兵があくびをしたそのとき、闇から一本の矢が飛んだ。
矢は輜重車ではなく、私の手元を正確に狙っていた。紙が裂ける音が、焚き火のはぜる音と重なって、やけに大きく聞こえる。メモ帳の束の半分が空へ解け、数枚が炎に落ちた。火は躊躇なく、ペンの跡を舐め、黒に変えた。
ロウランが即座に身を翻し、矢を叩き落とした。副官が追撃をかけたが、足跡は風に紛れて消えた。
「“観ている”者がいる」
ロウランの声は低かった。怒りよりも、確認の色が強い。
私は震える指で、残った頁を抱えた。焼け残った縁は、雨に濡れた花びらのように波打っている。
「……必ず記す」
自分に言い聞かせるように、声に出した。記録は、私だけの剣だ。剣を奪われることは、ここで死ぬことよりも怖い。
東の空が白む。氷原の向こうに、北境砦の尖塔の影がうっすらと立ち上がる。尖塔は、夜の背骨のように細く、まっすぐだった。
私たちはそこへ向かう。
私の記す言葉も、そこへ向かう。
そして――世界のひずみもまた、そこへと集まりはじめていた。
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第3章 砦の朝と塩の匂い(受け入れ)
夜明けが、氷の表面に爪を立てるようにゆっくりと広がっていく。灰色の空から落ちる光は、どこにも焦点を結ばず、世界を均一に冷やしていた。
北境の砦は、そんな朝の中に立っていた。石灰岩で積み上げられた城壁は風雪に削られて、ところどころ粉を吹いたように白い。近づけば、指で触れても崩れ落ちそうなほど、表面は脆く見える。けれどその立地は、峡谷の喉元を押さえ切るように狭く、確かな構造を持っていた。風化しているのは皮膚であって、骨は太い――その印象は、遠目より近くで見た方が強い。
見張り台から角笛の乾いた音が落ち、門前はざわついた。護送隊が到着した、と告げる声はすぐ静まり、代わりにいくつもの視線が、ひとつの点に集まった。
私に。
罪人令嬢。王都を追われた姫さん。
呼び名はいくつもある。人の口は器用だ。名付けることに慣れている。相手を理解するより、名札を貼って安心する方がずっと簡単だから。
「見栄えは立派だが、またお飾りか」
「王都の匂いがする」
好奇心と侮蔑。それはたいてい混ざり合って、雪のように冷えている。私は眉を動かさない。姿勢だけは崩さない。倒れない。倒れたら、いとも簡単に別の名前を貼られる。
マリルがそっと肩に寄り添って、小さな声で囁く。
「気にしなくていい。……ここからは、私が聞きます。お嬢様は前だけを」
彼女の指は昨日からずっと冷たい。けれどその冷たさは、私を現実に留めてくれる。温かい言葉は甘い。甘いものは飢えた心に染み込む。けれど、飢えを忘れさせもする。マリルの冷たさは、私がいま空腹であることを思い出させてくれた。
門の前に立ったロウランは、何も言わない。その沈黙は、命令よりも先に空気を並べ直す。
「門を開けろ。客人を通す」
短い声が響くと、小さく反発する声が一つ、二つ。
「罪人を客人呼ばわりとは」
続くはずの言葉は、ロウランの視線に切られて消えた。鋭い一瞥は、刃というより、冷水のようだ。熱を持った感情にかけられると、その場で湯気だけが上がって、後には何も残らない。兵たちは思い出す。氷刃の将軍がなぜ恐れられているのか。恐怖とは、彼の剣の鋼だけの話ではない。秩序を乱す温度を、容赦なく常温に戻す能力のことだ。
城門の影をくぐった瞬間、私の鼻腔に馴染みのある匂いが刺さった。
塩。
正確には、海塩の匂い。湿りを含んだ、ほんの少し生臭い気配。
北境で使われるのは、本来、乾いた岩塩だ。砦の調理場や兵糧庫に立ち込めるのは、もっと粉っぽい、乾いた匂いのはず。
「……塩の匂いが強すぎる」
思わず口から漏れた自分の声に、自分で驚く。
ロウランが横目で私を見る。問いは含まれていなかった。ただ「聞いた」という印の視線。
「この土地で海塩が常用されるはずがない」
言葉にすると、直感は輪郭を得た。輪郭は思考の足場になる。私は足場をひとつ得た。
午前のうちに、兵站官が食糧台帳を携えて現れた。頬にはひげの青みが濃く、書類の角を指の腹で何度もなでながら、早口で言う。
「昨日、王都の倉から補充がありました。麦、干し肉、油……在庫は安定しています」
ロウランが受け取った台帳を私は横から覗き込む。紙面の数字の配列が、私の目には少しだけ違って見えた。規則的すぎる。きれいすぎる。帳尻合わせの整然さ。
「ここ。麦の在庫が“偶数単位”で記されています。実際の俵数は奇数のはずです。俵ごとに紐の色が違うから、ふつうは端数が出る」
兵站官の目が一瞬泳いだ。
「……素人が口を挟むな。王都の娘に、こっちのやり方がわかるか」
口調は粗いが、目の奥にあったのは怒りではなく怯えに近いものだった。怒りは外へ向かうけれど、怯えは内側で自分に跳ね返る。彼は自分の身の振り方を恐れている。
私は床板の隙間に白い粒を見つけ、かがみ込んだ。指でつまむと、粒は湿りを持っていて、指先にわずかにくっついた。
腰の小さな携帯灯に火を入れて、その粒をそっと近づける。
じゅ、と短く鳴って、色がくすんだ。黒く焦げる――いや、正確には、含まれていた微細な有機物が焦げている。
「海塩です。湿気が混じっているから、こうして火で炙ると黒くなる。岩塩はぱちぱちと弾けるだけで、色は変わりません」
兵たちの視線が一斉に集まった。見世物を見る目ではない。答えを探す目だった。
ロウランが低く言う。
「二重底を確認しろ」
兵が床板を外す。釘抜きが木に沈んでいく鈍い手応えが、私の背骨にまで響く。板が持ち上がると、冷たい空気が地面の隙間から溢れた。薄暗い空洞の中に、小さな樽がいくつも詰め込まれている。
樽の側面に焼印――王都の商会の印。
兵站官が顔を強ばらせた。
「な、何故こんなところに……」
誰に向かっての“何故”か、彼自身わかっていないような声だった。
倉の中は、一瞬でざわめいた。
「……厄介なことに首を突っ込むな」
「証拠を見つけたって、揉み消される」
「王都の金に逆らって、生き残れると思うか」
声は低く、互いの顔を見ようとしない。顔を見ないのは、意思を結ばないという意思表示だ。士気は見えない形で下がり、床に残った塩の粒のように湿っていく。
私は唇を噛み、言葉を探した。
社交界で私は、言葉を刃にして使い続けてきた。相手の弱いところへ綺麗に刃先を入れる術は、嫌でも身についた。ここで必要なのは、きっと別の言葉だ。心に下支えをつくる言葉。刃ではなく、骨になるもの。
「……私は、自分を陥れた者に屈したくありません」
声にすると、胸の奥の塊が崩れていくのがわかる。「もし王都が私を罪人と呼ぶなら、せめてここでは、真実で戦わせてください。嘘に名前を与えて、それで終わりにしたくない」
兵たちの何人かが、視線を逸らした。
それは、拒絶ではない。外せない矢を、一度だけ避けて呼吸を整える仕草だ。小さな亀裂が、固い石の面に走った音がした。耳ではなく、胸の裏側で。
ロウランが一歩、前に出た。
「この件は、私の責任で預かる」
短い宣言が倉の空気を入れ替える。
「令嬢はここで保護する。居室を与え、警備をつけろ」
「しかし、将軍、それは――」
兵站官がうわずった声を上げる。ロウランは彼に目を向け、静かに告げた。
「不服があるなら、決闘で決めろ」
誰かが息を呑む音が聞こえた。
決闘――この砦ではまだ生きている古い規則だ。武に訴えるという意味ではない。責任の所在を個に引き受ける覚悟を示す作法でもある。
兵站官は口を閉ざし、唾を飲み込んだ。沈黙が行き場を失って、倉の壁に貼りつく。
私はその場で深く頭を下げようとして、踏みとどまった。
礼をするなら、場を整えてから。この瞬間に礼を言うのは、私を守るために矢面に立つ人の背に、余計な重みを載せるだけだ。礼は、後でいい。
それでも胸の中では、なにかがほどけた。王都から追放されても、まだ私を「守る」と宣言する声がある。その事実が、今日の寒さの中でいちばん温かかった。
居室は砦の内側の一角、兵の詰所と武具庫の間にあった。石の壁は夜の冷えを閉じ込めているが、小さな暖炉に火が入れられると、部屋はすぐに息を吹き返した。
窓は小さく、雪に磨かれた空が四角く切り取られる。王都の部屋の窓には、必ずレースのカーテンがかかっていた。ここには布ひとつない。けれど、いらないものがないのは、私にとって救いだった。
マリルが荷解きをし、私の寝台に薄い毛布を重ねる。その動きは丁寧で、王都で仕込まれた作法の名残と、辺境で生きるための実用がいい具合に混ざっている。
「お湯を持ってきます。手を温めてください」
「ええ。ありがとう」
返事をして、部屋の隅に寄せてある鎧立てに目が留まった。
ロウランの鎧だ。肩にかかる毛皮の留め金に、戦場の傷が浅い線を刻んでいる。鎧の隙間には雪が溶けて乾いた白い筋。手入れは悪くない。けれど、王都で見てきた、儀礼用の鎧の光沢とは違う。
私は棚から油布と布を取り出し、ためらいながらも、鎧の継ぎ目に指を滑らせた。布はすぐに金属の匂いを吸い、わずかに暗くなる。
王妃教育の一環として、私は王の装備に触れる作法も習っている。「主の命を守るものに触れるときは、主の皮膚に触れるつもりで」と、老練な侍従が教えた言葉が、場違いなほど鮮明に蘇る。
ここでそれを思い出すのは、滑稽かもしれない。けれど、役に立つなら、滑稽で上等だ。
飾りだった手が、いまは役に立つ。役に立つ手は、救いだ。
鎧の肩の部分を布で磨いていると、扉が音もなく開いた。
ロウランが立っていた。彼は一瞬、鎧と私の手を見比べて、目を細める。
「……なぜ、それを」
「婚約者教育の一環です。王妃は、王の装備に触れることもある、と」
自嘲するような響きが自分の声に混じる。けれど、ロウランはそれを拾わなかった。
短い沈黙のあと、彼は不器用に言った。
「助かる」
それだけだったが、私には十分だった。
「役に立つ」という言葉は、時に褒め言葉ではない。使い勝手のよさだけを指すこともある。けれど彼の言い方には「信頼して重ねる」という温度があった。
私は布を畳み、手を膝の上で重ねた。
「鎧の継ぎ目の革が乾いています。油を含ませておきます。明日の巡察で軋む音が減るはず」
「任せる」
会話は短かった。短い分だけ、余白が残る。余白は、安心でもある。
マリルが戻ってきて、湯の入った器をテーブルに置く。湯気が上がり、指先の感覚が戻っていく。
部屋の隅で、革の綴じ紐が小さく鳴った。外では、風が壁を叩いていた。何かが始まり、何かが終わる前の、しゃがんだ姿勢の音。
夜更け。マリルの寝息が、毛布の向こうで静かに上下している。私は窓の外の月の輪郭を指でなぞるように見ていた。
「私は、役に立てる」
声に出してみる。
「罪人と呼ばれても、ここでならまだ……」
言葉は小さく、部屋の空気に吸い込まれた。
王都では、私の価値は名札と同じだった。公爵令嬢、王太子の婚約者、薔薇の令嬢。名札を剥がされた途端、私はただの空きスペースになった。
ここでは、名札より先に手が動く。目が見て、鼻が嗅いで、舌が塩の味を覚える。
もう一度、生き直せる。
その意志が、月の光の下で初めて、自分のものになった。
――その夜の後半、私はまだ知らなかった。
砦の最上段の塔で、見張りの若い兵が望遠鏡を覗き込み、遠方に黒い旗を見つけたことを。
風に裂ける布の端が見せた紋章は、王都宰相派のものだった。
「なぜ北境に……」
彼は思わず声に出した。隣の老兵が黙って首を横に振る。
「将軍に知らせるか」
「まだだ。風が強い。見間違いの可能性もある」
判断は恐れと慎重の境目で揺れ、結局、報告は朝まで保留された。
砦は静かだった。静けさは、嵐の前にだけ現れる特殊な種類の静けさで、耳を澄ませば、空気が自分の形を忘れかけている音がした。
翌朝、砦の中庭は昨日より少しだけ温度が高かった。暖炉の煙が真っ直ぐ立ち上がらず、途中でふわりと緩む。
朝の点呼の後、ロウランが配置確認をしている間、私は調理場に回った。
鍋の縁には白い筋が残っている。指でこすると、濡れた爪の下に塩の粒が溜まる。味見をさせてもらうと、塩気の角が丸い。海塩の丸さだ。
「岩塩はありますか」
調理場の女が首を振る。
「ずっと海塩ですよ。王都の倉から来るのは、こればかりで」
言いながらも、彼女は私の目を真っ直ぐに見なかった。見ないのは罪ではない。生きるための癖だ。
私は礼を言って戻り、倉庫横でロウランに報告した。
「調理場も海塩です。王都の倉のまま」
「わかった。……兵站官に、倉庫の鍵を」
鍵はすでに私たちの側にある。けれど、鍵よりも重要なのは、開ける意志を誰が持つかだ。
午前いっぱいを使って、倉の棚卸しが行われた。兵たちは順番に俵を担ぎ、残量を声に出して読み上げる。数字は声になると、紙の上より正直になる。
床板の二重底から出した小樽は、印を写し取って封緘した。王都の商会に問いただすのは、今はまだ先だ。問いただす相手が、問いに答える用意をしていないとき、こちらの正しさは武器にならない。
兵たちの間には、相変わらず不安がさざめいていた。
「これを掘り返したところで、誰が守ってくれる」
「正義は飯にならない」
言葉は正しい。正しいことは大抵、寒い。
私はひとつずつ目を合わせ、言った。
「守るのは、私ではありません。ここに立つ、皆です。……でも、私も立ちます。立って、名前のないものに名前をつける。隠された穴に手を入れて、何が入っているか確かめる。それが怖ければ、一緒に怖がります。だから、逃げるときも、きっと一緒です」
すると、笑い声がひとつ、砦の空気に軽く跳ねた。
笑った兵は、肩をすくめて言った。
「奥方殿、逃げるときは俺が先に逃げます。背中は、頼みました」
冗談は、恐怖の角を少し削る。削れた欠片が、足元で音を立てて転がる。
午後、砦の外壁沿いを歩くと、風が石を撫でる音が耳の近くで鳴った。現実が近づく音だ。
歩哨の脇を通りすぎ、私は砦の中庭に戻る。ロウランが副官と何やら図を交わしていた。
彼の前に立つと、彼はわずかに顎を動かして、私に注意を向ける。
「倉の件は、いったん封じた。王都へ送る文は、俺の名で発する」
「ありがとうございます」
今日、何度目かの礼。そのたび、礼の意味は少しずつ違っていく。同じ言葉でも、中身は同じではいられない。
「……それから、部屋の鎧。革はどうだ」
「油を含みました。しばらくは軋みも減ると思います」
ロウランは短く頷く。「助かる」
また、その言葉。
その言葉に、私は救われ続けている。
夕刻。空気はさらに緩み、雪の表面から微かな水の匂いが立った。
食堂では簡単な夕餉が配られる。干し肉の煮込み、硬いパン、熱い茶。海塩の角がやはり丸い。丸い味は、飢えた身体には優しい。優しさはときに鈍さでもある。
マリルが私の向かいに座って、パンを割り、半分を差し出す。
「お嬢様、今日はよく食べてください。明日はきっと、もっと寒い」
「そうね」
短い会話のあと、静けさが戻る。
私はパンの欠片を噛みながら、今日の記録を頭の中で再びなぞった。数字の列、塩の粒度、床板の軋み。手帳は昨夜、矢で半分失われた。けれど残った半分に、今日のことをすべて書くつもりだ。
仮にまた燃やされたとしても、私の身体が覚えている。匂いも、音も、指の腹に残った粉の感触も。
記録は、私だけの剣だ。
夜。部屋の暖炉に火が入ると、石の壁の冷えがやわらぎ、眠気が急に重く降りてきた。
マリルの寝息が静かに整っていく。私は手帳を膝に置いたまま、窓の外の暗さを眺める。暗いという事実が、やけにくっきりと目に入る夜がある。今日がそうだ。
明日、なにが起こるのか。
わからない。
だからこそ、私は今日の終わりに「わかる」ものを書き留める。
私はここにいる。
私は、役に立つ。
私は、逃げない。
たったそれだけの言葉でも、眠りの前には充分だ。
――翌朝になって、塔の見張りの報告が上がった。
黒い旗。宰相派の紋章。
報告を受けた副官は一瞬ためらい、すぐにロウランの元に向かった。
私はその時、調理場で湯を分けてもらっていた。塩の匂いは今日も濃い。
砦は静かだった。静けさの奥に、遠いところからくる靴音のようなものが、もう聞こえていたのかもしれない。
嵐の前の、息。
胸の奥で、誰かが深呼吸をする音がした。
それが、自分自身の音だとわかるまで、ほんの少し時間がかかった。