始まり
森は燃え、空は赤く染まっていた。
灰が舞い落ちる中を、わたしはただカイードの後を追う。
湿った土の匂い、焦げた木の匂い。
普段なら意識することのない感覚が、今は胸の奥まで届いてくる。
眠っていた感覚がようやく目を覚ましたかのように、頭は冴えていた。
「……ティアル、大丈夫か?」
後ろから声がかかる。
「……はい」
かろうじて返事をする。
口を開くたび、喉が震えた。
何度か声を出しているのに、どうしても言葉に慣れない。
喋ってはいけないと教えられてきたから、声を出すのが怖い。
けれど――逃げるには声を使うしかない。
それに、わたしも自由になったのだから、声をもっと使っていきたいという思いがあった。
「そうか。よし、急ごう。帝国の兵がこの山を焼き払ってる。立ってると巻き込まれるぞ」
言葉の意味は半分も理解できなかった。
ただ、胸の奥で「焦る」という感覚が確かに波打つ。
恐怖なのか、緊張なのか、それさえ区別できない。
今まで自分がどれほど「感じて」いなかったのかがようやく分かり、愕然とした。
けれど、これからはその感覚を取り戻していこうと思った。
ミスト神様から自由になると決意してから、わたしは驚くほど吹っ切れていた。
捨てるなら、捨て切ろうと思ったのだ。
今までの習慣があるから、完全にとはいかないだろうが……。
石が崩れる音、木の枝が折れる音。
自然の音さえ、戦火にかき消されていく。
わたしはただ、カイードの手を握り、足を動かした。
彼の手はリィナの手よりも荒々しく、熱く、けれど確かにわたしを導いていた。
「大丈夫か? 雪も灰も混じって滑りやすいから、気をつけろよ」
カイードの声には、不思議な安心感があった。
その声に、わたしはずっと励まされている気がする。
神殿から逃げるときも、ミスト神様から自由になるときも。
――いや、それよりも。
誰かがわたしを見ているという事実が、初めて心を少しだけ軽くした。
「こっちだ。山の向こうに抜け道がある」
わたしはカイードの後ろをついて、森の中を進む。
灰が降り積もった枝の間から、夜明け前の空が覗く。
赤と黒が混じり合うその景色に、胸がざわついた。
美しいのか、恐ろしいのか――判断はつかない。
森の中、枝が折れる音が次々に響く。
それが怖いわけではなかった。
むしろ、久しぶりに音に敏感になった自分を、奇妙に思った。
神殿の中では、いつも静寂だけが支配していたからだ。
「こっちを見ろ」
カイードが枝を払いながら、森の奥に小さな空間を見つける。
「隠れながら進むぞ。帝国の連中がまだ周辺をうろついてるかもしれねぇ」
彼の背を目で追う。
森の光は少ないが、彼の存在が道しるべのように感じられた。
自分の足だけでは進めないと思った瞬間、なぜか安心もしていた。
火と煙の匂いが薄れる場所まで歩き続ける。
抜け道は狭く、足元の土は柔らかく、時折根や石に躓く。
何度も倒れそうになったが、カイードはそのたびに手を差し伸べてくれた。
その手の温度に触れると、身体が少しだけ緩む。
やがて、狭い空き地にたどり着いた。
灰と煙は少しずつ薄れ、夜明け前の淡い光が木々の間を縫って差し込んでいた。
「ここで少し休もう。帝国が追ってくるかもしれんが、もうすぐ明るくなる」
カイードは小さな焚き火を起こし、わたしに手を振った。
「さ、座れ。動きっぱなしじゃ体がもたねぇだろ」
わたしはゆっくりと膝を抱えて腰を下ろした。
初めて、自分の意思で座ることができた気がした。
いつもは祈りや書の間で、許可が与えられた時にしか座れなかったのだ。
今、こうしてただ火を見つめている自分が、妙に新鮮だった。
「……火って、温かいのですね」
思わず口に出してしまう。
言葉が出た瞬間、胸の奥に小さな振動が走った。
恐怖でも痛みでもない――ただ温かい感覚。
それは、初めて知る「感情」のひとつだった。
カイードは火のそばで薪をくべながら、にやりと笑う。
「当たり前だろ。生きてりゃわかるさ。お前、初めてなんだろ?」
わたしは小さく頷いた。
祈りと書写の間に閉じ込められていた自分を、ようやく自覚する。
命の温もり、風の冷たさ、火の熱さ。
それらを意識するのは、初めてのことだった。
カイードを見上げる。
剣を背負い、火の粉を浴びた外套を羽織るその姿は、戦火の中でもどこか無邪気で、そして頼もしかった。
「ねぇ、あなたは……なぜ助けてくれるの?」
初めて自分から尋ねた。声はまだ震えている。
カイードは肩をすくめ、笑った。
「なぁ、ティアル」
彼は火のそばで、真っすぐわたしを見つめる。
「怖いか?」
胸に手を当てる。鼓動が確かに動いていた。
「……はい。少し、怖いです」
「そっか。そりゃそうだよな。帝国が神殿を焼き、森は燃えてる。こんな中にお前一人じゃ、誰だって怖いさ」
その言葉には重みがあった。
カイードはただの冒険者と言ったけれど、わたしには守ってくれる人ができた。
そのことが胸の奥に、小さな光を灯す。
「でもな、ティアル」
カイードは少し真剣な目をして言った。
「俺はお前が生き延びるのを見届けたい。逃げ延びるだけじゃなくて、ちゃんと"生きろ”」
その言葉に、胸の奥がひどくざわつく。
生き延びる。生きる。
それだけのことなのに、これまで祈りのためだけに存在してきたわたしには、未知の感覚だった。
火の熱が頬を照らす。
ティアルという名を持ち、声を出し、恐怖を感じ、そして少し笑う自分。
胸の奥に芽生えたこの小さな感情――それを何と呼べばいいのか、まだ分からない。
「……ありがとうございます」
思わず声が漏れた。
カイードは肩をすくめ、いつものように笑う。
「へっ、別にいいって。お前が普通に生きてりゃ、それでいい」
その無邪気な言葉が、不思議な安心感を生む。
孤独ではなかった。
わたしには、もう一人――誰かがいる。
それだけで、心が少し軽くなる。
夜が深まるにつれ、火は小さく揺らぎ、森の音が耳に届く。
ティアルとして初めて、自分の意思で目を閉じた。
胸の奥で、微かに鼓動が響く。
生きている。確かに、生きている。
そして初めて――恐怖も、喜びも、安堵も、すべてが入り混じった感情を、わたしは受け入れようと思った。
「……カイード。あなたと一緒でよかった」
火の揺らぎの中で、カイードは笑った。
「そうか。そりゃ、よかった」
森の中の小さな焚き火。
二人だけの世界。
ここから、わたしたちの物語が始まる――そんな予感がした。




