出会い
わたしは隠し通路の中で、ただ立ち尽くしていた。
逃げる理由がない。行くあてもない。
この身はミスト神様に捧げられたもの。
それなのに、神殿はもう存在しない。
――なら、わたしはどこへ祈ればいいのだろう。
ただ、リィナにもらったこの命だけは、失ってはいけない気がした。
だから、わたしは歩き出すことにした。
その先に何があるのか、わからないまま。
どれほど歩いただろう。
湿っていて、カビ臭い匂いの通路を抜けると、僅かな光が見えた。
わたしは光に向かって歩く。
そこは地上へ続く小さな出口だった。
外に出ると、森が燃えていた。
夜明け前の空は赤く染まり、雪が灰をまとって降っている。
わたしはただ、その光景を眺めた。
胸の奥が確かに何かを感じていた。
けれど、それが「美しい」のか「恐ろしい」のか、わからなかった。
森の奥で、枝が折れる音がした。
反射的に振り向く。
その音は近づいてくる。
靴底が湿った土を踏みしめる音。
「……おい!」
低い声だった。
聞いたことのない響き。
神官の声とも、村の祈りの声とも違う。
暗闇の向こうから、一人の男が現れた。
背には剣を背負い、外套の裾が焦げている。
それでも、その瞳だけは澄んでいた。
「お前……こんなとこで何してんだ?」
わたしは答えなかった。
口を開けば、世界が乱れる――そう教えられてきたから。
男は怪訝そうに眉をひそめ、わたしの前に立つ。
「……逃げてきたのか? 神殿のやつ?」
彼の目が、わたしの髪と瞳をとらえた。
白銀の髪。アクアマリンの瞳。
その瞬間、彼の目が見開かれた。
「まさか……お前が、あの“巫女”か?」
言葉の意味は分からなかった。
けれど、その声音の奥に混じる「驚き」だけはわかった。
わたしは小さく首を傾ける。
それだけで、男は息を呑んだ。
「……嘘だろ。巫女が生きてるなんて。こりゃ面倒なことになったな」
彼は頭を掻きながら、深く息を吐いた。
「帝国軍がこの山を焼き払ってる。ここにいたら巻き込まれるぞ」
その言葉の意味も、半分しか理解できなかった。
でも、彼の声が「焦っている」ことだけは、はっきりわかった。
焦る――
それがどんな感情なのか、わたしは知らない。
けれど、胸の奥で何かが揺れた。
「……もういい。どうにでもなれ。今なら見逃してやる。早く逃げろ」
そうしておかなければならないことはわかっている。
このままでは命を落としてしまう。
ミスト神様の巫女が死ぬことは、あってはならない。
それに――リィナに、頼まれたから。
でも、どこへ行けばいいのかわからない。
「……はぁ、仕方ねぇな。ここから出る道が先だ。ほら、行くぞ」
男がわたしの腕を掴んだ。
熱い。
リィナの手よりも、ずっと強くて、乱暴な温度。
身体が思わず跳ねた。
「や、やめて……!」
声が、出た。
自分でも驚いた。
男も目を丸くする。
「……喋れんのか、お前」
喋れた――その言葉の意味を胸の中で転がす。
声を出してはいけないのに。
でも、出てしまった。
どうして?
男はわたしの表情を見て、ポリポリと頭を掻いた。癖なのだろうか。
「……悪かった。無理に引っ張ったな。だけどここは危ない。山の向こうに抜け道がある。案内してやるよ」
案内――
誰かと一緒に「行く」ということ。
そんなこと、わたしの人生にあっただろうか。
「死にたくねぇなら、一緒に来い」
「……………………あなたは、誰ですか」
それが返事の代わりだった。
声が震えた。
風のせいではない。
男は少し笑った。
少年のような、無邪気な笑顔で。
「カイード。ただの冒険者だよ。お前は?」
答えようとした。けれど、わたしには名前がない。
「……ミスト神様の巫女です。名前は、ありません」
「へぇ。なんか、聞くだけで息苦しくなりそうな宗教だな。……でも、もう解放されていいんじゃねぇか?」
そう言いながら、カイードは背後を振り返った。
夜空が赤く染まり、遠くで神殿が崩れる音が響いた。
……確かにそうだ。
わたしの祈る場所は崩れ去った。
もう、巫女としての役割は果たさなくていいのかもしれない。
その言葉が、なぜか救いのように思えた。
「……はい」
――申し訳ございません、ミスト神様。
わたしは自由になります。
今後も祈りは捧げますから。
どうかお赦しください。
「さ、行こう。生き延びたいならな」
“生き延びる”。
その言葉が、胸の奥でひどく重く響いた。
生きる理由を、わたしは知らない。
それでも――なぜか、この背中を見ていたいと思った。
カイードが歩き出す。
わたしも、一歩だけ踏み出す。
足元の土が柔らかく沈み、草が揺れる。
生ぬるい風が頬を撫でた。
初めて、自分の足で「外の世界」を歩いている気がした。
その一歩が、何かを変える気がして。
――風が吹いた。
神殿の方角から灰が舞う。
それがまるで、祈りの残骸のように見えた。
カイードが振り返る。
「そうだ、お前の名前……ティアルってのはどうだ? 古代語で“水”って意味なんだ。お前の目、水みたいに透き通ってるし」
――ティアル。
いい名前だな、と素直に思った。
「あ、嫌だったか? でも、呼び名ないと不便だし……ほら、ずっとお前ってのも落ち着かねぇしさ」
その声に、わたしは小さく首を振った。
「いいえ。とても……とても気に入りました」
慣れない「自分の意志」。
けれど、どうしても伝えたかった。
「わたしの名前はティアル。元巫女のティアルです。これから、どうかよろしくお願いします」
夜の森に、初めて自分の意志で放った言葉が響いた。
それは、風よりも確かに存在していた。




