表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

予感と崩壊

 

 その夜の神殿は、いつもより風が強かった。




 高窓の隙間から入り込んだ風が、灯を細く揺らす。


 壁にかけられた衣装が、かすかに音を立てた。





 わたしは寝台の上で目を閉じたまま、その音を数えていた。





 数えることは、落ち着きを保つための訓練だ。


 一度、十まで数えても、心は何も動かない。


 けれど今夜は、十を数えるたびに、なぜか胸の奥が小さくざわめいた。




 昼間、神官長が言っていた。

「山を下りる商隊が、帝国の使者を見たらしい」




 その言葉の意味はよく分からない。


 けれど、神官長の声がいつもより少し低かったことだけを覚えている。




 わたしは灯を消し、膝を抱えた。




 この神殿に来てから十年。


 眠る前に祈ることはあっても、考えることはなかった。




 けれど今夜だけは、なぜか――



 “明日は何かが起こる”



 そう思った。




 理由は分からない。ただ、風の音がそう思わせた。




 いつもなら気にしないのに、今夜は妙に胸に引っかかる。




 何が起こるのだろう。


 帝国の使者とやらは関係あるのだろうか。




 そんな思いが頭の中を渦巻き、眠ることができない。




 ミスト神様に変化はない。


 それなのに、わたしは変化している。




 こんなことは一度もなかった。


 いや、遠い昔にもあったような気がするけれど……気のせいだ。




 わたしは一体、どうしてしまったんだろう。







 ――結局、眠れないまま夜が明けた。




 いつもより重だるい頭を上げる。



 大丈夫。いつものように過ごせばいい。



 そう思って支度を始めようとした、その時。





 金属が擦れるような、短く鋭い音。







 ――鐘が鳴った。




 儀式の鐘ではない。非常を告げる音だった。



 扉が開く。リィナが駆け込んでくる。


 頬に煤がつき、息が荒い。


「巫女様、帝国が……! 神殿が燃えています!」



 燃える。



 その言葉を聞いても、頭の中には映像が浮かばなかった。


 ただ、遠くで何かが崩れ落ちる音だけが響いていた。





「こちらへ!」



 リィナがわたしの手を取る。


 その手が熱い。



 何年も誰かに触れられたことがなかったせいか、痛みに近い熱さだった。




 神殿の裏廊下を抜ける。


 石壁の向こうで叫び声がする。



 煙の匂いが鼻を刺した。


 嗅覚というものを、久しく意識していなかった。


 だが今は、はっきりと「焦げる」という言葉が胸に浮かんだ。



 ――知らないはずなのに。




「巫女様、こっちです!」


 リィナが壁を押すと、石が動き、狭い通路が現れた。



 地下の隠し道。


 村の伝承でしか聞いたことのない場所。



 ……こんな場所があったのか。




 何年も過ごした神殿に知らない場所があったことに驚きながらも、わたしは足を踏み入れる。


 だが、身体は進まなかった。



「……逃げる理由が、ありません」



 リィナが目を見開いた。



 自分の声を聞いたのは、どれくらいぶりだろう。


 喉の奥が震え、言葉が出た。


 その響きが、少しだけ人間らしくて、おかしい。




「何を言うのです。巫女様は我ら信徒の宝。至宝の存在。一番に助かっていただかなくては」



 ――まただ。


「巫女様は大切な存在だから」



 まるで、わたし自身なんか見ていないかのような言葉。


 いつもなら疑問に思わないのに、今日はなぜか、そう思ってしまった。


 炎のせいで、正常な思考ができないのだろうか。


 信徒も神官も、見ているのは「ミスト神様の巫女」というわたし。


 巫女でなければ、誰もわたしを見ようとしなかっただろう。



 ――こんなわたしなんて。




「でもね、巫女様」



 ふっと、その言葉に顔を上げた。



「私は、あなたに生きてほしいんです。他の誰でもない、あなたに」



 その言葉に、わたしは息を呑んだ。




「ずっとひとりで、孤独に、立派に頑張ってきたあなたこそ……私は救われてほしいと思うんです」




 わたしの目から、一筋の水がこぼれ落ちた。




 今日のわたしは本当にどうかしている。




「こんなことを巫女様に話すなんて――信徒失格ですね。ミスト神様を穢してしまいました」



 けれど、リィナの言葉が渇いた大地に水が染み込むように、わたしの中へ沁みていく。



 ずっと、その言葉を欲していたかのように。





「生きてください……巫女様」




 彼女はそう言って、両手でわたしの背を押した。



「っ、待っ……!」



 次の瞬間、通路の入口が閉じる音がした。



 リィナの姿は、もう見えなかった。



 けれど、煙の中に――



 彼女の笑みが、一瞬だけ残った気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ