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リィナの1日

 



 朝が来る。


 鐘が鳴るより早く目を覚ますのは、巫女様の世話係として当然のこと。


 巫女様は夜明けとともに目を覚ます。


 だから、わたしが遅れてはいけない。


 巫女様のお目覚めの瞬間に、神殿の空気は完全でなければならない。


 わたしは香を焚く。


 白檀と水草を混ぜた特別な香。


 煙が立ちのぼるたび、胸の奥が静かになる。


 香を吸うとき、神の言葉が内に流れ込むのだと神官長は言っていた。


 だから、わたしは一日に七度、この香を吸う。


 頭の奥が軽くしびれ、考えが澄み渡る。


 それが、正しい感覚。




 巫女様が部屋を出てこられるとき、わたしは目を伏せる。


 見てはいけないからだ。


 巫女様はこの世の人ではない。


 神の御心を宿す器だ。


 それなのに、たまに、指先を見てしまう。


 その手は、人と同じ温度をしている。


 けれど、それは“試練”だと教わった。


 神の器に人の影を見るのは罪。


 だから、見えたと思っても、すぐに心を鎮める。


 香の匂いを吸い込めば、すぐに静まる。




 本殿への道を進む巫女様の後ろ姿を、わたしは一定の距離を保ってついていく。


 白衣が床を擦る音すらしない。


 まるで、歩くという行為さえ祈りの一部のようだった。


 その姿を見ると、胸の奥が震える。


 それが何の感情なのか、分からない。


 敬意か、憧れか、恐れか――


 でも、どれもきっと、神のためのものだ。



 本殿の扉が閉じられると、巫女様は祈りに入られる。


 その間、わたしは外で控えている。


 風の音も、鳥の声もない。


 神殿の中では、世界が止まっているように思える。


 それでも、泉の水音だけは絶えず響く。


 “時の音”だと神官長は言った。


 わたしには、それが“神の息”のように聞こえる。




 祈りが終わると、わたしは巫女様の筆を整え、書の間へ案内する。


 巫女様は無言のまま、経文を写される。


 その姿を見るのが、わたしは好きだった。


 ……好き、という言葉は正しいのだろうか。


 神を“好き”と呼ぶのは不遜ではないだろうか。


 でも、見ていると胸の奥が温かくなる。


 香を焚くと、すぐにその温かさは薄れる。


 それでいい。温もりは、人のものであって神のものではない。


 昼時。


 巫女様に供える白粥と水を用意する。


 わたしは味見をしない。


 味を知れば、欲を覚える。


 神官長がそう言っていた。


 “欲”はこの地を穢れさせるもの。


 巫女様の御心を曇らせてはならない。


 午後。


 神官長が祈祷の確認に来る。


 「巫女様の目が曇りなきこと、何よりだ」

 そう言う彼の声を聞くたびに、心が安堵で満たされる。

 わたしは正しく仕えている。

 巫女様もまた、正しいお姿である。

 正しいこと、それが何よりの幸福。


 夕刻。


 巫女様が外へ出られる時間。


 わたしは決して巫女様の後をついてはいけない。


 それが掟。


 ただ、扉の隙間からわずかに見える背中を、息を殺して見送る。


 光の中に溶けていく白衣。


 その姿を見ると、心の奥で何かが軋む。


 涙が出そうになることがある。


 けれど、それもまた試練だ。


 涙は弱さ。弱さは罪。



 夜。


 巫女様が休まれる部屋の灯を消す前に、わたしは最後の香を焚く。


 神官長に教わった通り、香を深く吸い込む。


 少し頭が霞む。


 けれど、その霞の向こうに、心地よい声が聞こえる。


 「リィナ、おまえはよく仕えている」


 ――あの声は、神官長のものだっただろうか。


 それとも、もっと深いところから響いているのだろうか。



 わたしは目を閉じる。


 その声が心に満ちるたび、余計なことを考えなくてすむ。


 巫女様が神であることに、疑いを持たなくてすむ。


 それが、幸福だと思う。


 けれど――


 ほんのときどき、夢を見る。


 巫女様が“笑う”夢。


 見たことのない表情。


 その笑顔を見た瞬間、胸の奥が痛む。


 その痛みが何かを知る前に、目が覚める。


 そして香を焚く。


 香を吸えば、すべては消える。

 

 消えていく。


 それが正しい。


 わたしは神に仕える者。


 巫女様を、神として愛している――。


 そう、正しいはずなんだ。






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