プロローグ
おしっこがしたい。
人間は尿意を催してから、3〜4時間は我慢できるらしい。
だが、俺には──あと5時間、このフライトシミュレータの副操縦士席から立てない理由がある。
それは俺が「航空会社のパイロット」であり、今まさに定期審査の真っ最中だからだ。
審査では、離陸・着陸・緊急操作などを次々とこなす必要があり、常に高い集中力と正確な操作が求められる。
現在、シミュレーター上の機体は巡航から降下に移行し、まもなく最終進入フェーズに入る。
そして今、とてつもなく、尿意に脳が支配されつつある。
さっきまでは脳内の5%程度だった尿意というノイズは、いまや70%まで占領域を広げている。
この審査で不合格になれば、パイロット資格のはく奪――それだけでもチビりそうになるというのに。
頼む、持ってくれ、俺の膀胱。
操縦と尿意のせめぎ合いに意識を削られながら、機体はいよいよ着陸のための進入段階へ。
滑走路から17マイル手前。視程は皆無。
外のスクリーンに映るのは真っ白な世界。よくあることだ。
こうなると、目前の液晶計器に映し出される情報だけが頼りになる。
速度OK、高度OK。計器上の数値を素早く交互に確認し続ける。
そこに、不意に襲いかかる尿意のノイズ。……頼む、邪魔しないでくれ。
そんな俺の煩悶などお構いなしに、険しい顔をした管制官役の審査官が、後方から航空無線を模擬した指示を出す。
「オールジャパン001、クリアード・フォー・ILS Z、ランウェイ34Rアプローチ」
(滑走路34Rへの精密計器進入を許可します)
淡々と発せられるその声に、背筋が伸びる。
そう、これは審査だ。チョンボひとつで、俺は空を失う。
気合を入れ直し、最終進入コースへと機体を旋回させる。
右からの横風15kt。だが、対応は上手くいっている。
「Flaps 15, Gear Down」
指示を出し、フラップとギア(車輪)を展開する。
ゴゴゴ……と風切り音。機体は最終の着陸形態に移行。
機首を下げ、降下姿勢へ。
現在の速度から最適な降下率を割り出し、昇降計を目安に適切な進入角度へ調整を加える。
ILS進入では、縦の角度( グライドスロープ )と横のコース( ローカライザー )の2つの指針が計器に表示される。
それらを正確に一致させ続けることで、正しい進入が確立されるのだ。
俺は微調整を繰り返し、集中して、精密にコースを維持する。
機体は、完璧だった。
だが、尿意だけは制御不能だった。
脂汗が流れる。
これは緊張なのか、尿意なのか。
機体は順調に進入を続ける。
1000ft、500ft……そして、接地。
シミュレーターがわずかに振動し、接地の感覚を伝える。
逆噴射とブレーキで、機体は停止した。
着陸は、完璧だった。
だが俺の尿意は、現場の空気を完全に破壊した。
「すみません、ちょっとトイレに行かせてください!」
そう言って席を立った俺は、
その一歩で“飛ぶ資格”を失うことになった。