中編
課長が出張で留守のため、部長とエレベータに乗ったのはリンツだった。
部長は仕事熱心であり、リンツも一緒に仕事をしていて楽しくなる相手であった。部長の思考に支配されても、仕事は滞るどころか、部長のレベルでどんどん進むからである。
出張中の課長には愛人がいて、課長が仕事中に逢引の作戦を考えたために、リンツは危うく愛人と関係を持つところであった。あの時も、サイラのおかげで助かった。
「今日のお客様は、大手の取引先だ。いつもは課長が応対しているのだが、出張中だからね。課長補佐にやってもらうよ。まあ、君なら大丈夫だろう」
部長はリンツの肩を叩いた。途端に、リンツの思考は部長のそれに支配された。
(今日の相手は、年間取引額がわが社の総売上の5パーセントを占める。担当は気難しい男だと聞いている。厄介だな。煙草はだめ、コーヒーは砂糖1匙、ミルク3匙だったな。秘書に予め言っておかないと)
相手方は未だ到着していなかったため、リンツは部長と打合せした。部長は秘書に、コーヒーの淹れ方について指示した。
内線電話が入った。
「なに、見えた。わかった」
受話スイッチを切った部長は、リンツに向かう。
「第一応接室へお通ししてある。私は、自分の部屋へ戻るから、何かあったら内線で呼びたまえ」
部長がいなくなると、部長の思考がすーっと流れ出してしまい、リンツは不安な面持ちとなった。身体の中には、部長の思考の残滓がまばらにあるのみである。
「まあ、何とかなるはず」
リンツは呟いて、応接室へ足早に向かった。
「お待たせして申し訳ありません。本日、担当が出張で不在にしておりますので、代わりに私が……」
ドアを開けながら一気に畳みかけようとしたリンツを、相手は片手を上げ軽く押し止めた。
「おやおや、困りましたね。実は、私も代理なのですよ」
まだ若い男であった。出世株と言われているリンツと年齢に差がない。なかなかハンサムであり、にこにこしながらリンツをさり気なく観察している様子から見ても、それなりのやり手と知れた。
「と、言っても、来年度からこちらを担当させていただくことに決まっておりましてね。いわば、引継ぎ中といったところです」
男は名刺を差し出して、ぺこりと頭を下げた。
「なにぶん、若輩者ですので、至らない点など多々あるかと存じますが、こちらとも長いお付き合いをさせていただきたく、よろしくお願い致します」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
相手の名刺を受け取りつつ自分の名刺を渡し、なおかつお辞儀をするという高度なことをしながら、リンツは幾分へどもどして答えた。どうも、相手の方が上手のようである。名刺を渡す時、焦って相手の掌に押し込むようにしてしまい、はずみで相手の指に触れてしまった。
たちまち、リンツの思考は相手のそれに支配されてしまった。
(参ったな。担当がいないようでは、話は進みそうにない。しかし、この男はどうやらやり手らしいから、よしみを通じておくのも悪くなさそうだ。まあ、今日のところはさっさと終わらせて、折角ここまで来たのだからサイラとデートしよう)
はっ、とリンツは我にかえった。相手の思考に漬かっている状態で、覚醒するのは非常に珍しい。それほど、サイラの名前が強烈だった。
「あ」
「えっ、違ってますか?」
取引品目の売上表に目を走らせていた男が、パッと目を上げた。リンツは慌てて首を振った。
「いえ、見間違いでした。問題ありません。続けましょう」
「はあ。じゃ、120-Baから」
その後の時間の経過は、やけに遅かった。リンツは、気力を仕事に集中させるのに必死で、出来まで考えている余裕がなかった。
相手が帰り、部長への報告を簡単に済ますと、リンツは自分の席へ戻る前に廊下へ出てサイラへ電話をかけた。
「はい。あら、リンツ」
「今夜は空いてる?」
「だめよ。先約入っちゃった」
サイラの声は屈託がなかった。明るく宣言する。
「ほら、この間話したでしょ。私と付き合いたいって言ってきた人。彼と、初デートなの」
「ギドーとかいう奴か」
「あら、よく知ってるわね。大丈夫よ、ちゃんとあなたのことも話すから」
それは却ってまずいんじゃ……と言いかける声を遮って、通話の途切れた音が大きく鳴り出した。