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前編


 まずいな、とリンツは思った。


 彼は同僚のチェリーと夕食を共にしているところである。そもそも、どうして彼女と食事をすることになったのか、もはや思い出せなかった。


 今、チェリーとリンツはさり気ない世間話を交わしているが、テーブルを挟んだこの距離にいても、彼女の考えていることは、はっきり感じ取れた。


 「金曜日にはいつも主任がね……」(この人と寝たい)


 冗談ではない。リンツには、サイラという恋人がおり、それは公になっている筈なのだ。チェリーが何故そのような欲望を持つに至ったのか、それを知ることができないことを、リンツは非常に残念に思った。


 とにかく、チェリーに触れないようにしなければならない。リンツは何気ない風を装いながら、チェリーの話を刺激の少ない方向へ誘導し、なおかつ多くのやりとりの間に彼女との距離を充分とるようにした。


 おかげで、巷に評判の料理の味は、さっぱりわからなかった。チェリーの食欲は旺盛で、リンツが残した料理もたいらげた。彼女の食べっぷりを見ながら、リンツは、この先待ちうける多くの危険箇所を思い浮かべて、さよならを言うまでに自分の身が安全であるという自信を失いかけた。


 触れる前から、自分に暗示をかけてはいけない。


 何とか、己に言い聞かせて立ち直ると、さり気なく伝票を取って席を立った。


 「トイレに行ってくるよ」


 チェリーの視線が一瞬、伝票の上に落ちて、リンツに微笑みかけた。まるで、伝票など見なかったかのように、無邪気な表情を浮かべた。


 「いってらっしゃい」(ラッキー)


 リンツはレジに向かった。トイレも、その辺りにあった。レジには先客がいる。リンツはスマホを取り出した。

 素早く、簡潔な短文でメールを打つ。


 スマホをしまった時には、レジには誰も待っている人はいなかった。素早く支払いを済ませ、席へ戻ると、チェリーがにっこり笑って待っていた。


 「行きましょうか」


 リンツはチェリーのためにコートをかけてやりながら、出口の方を見透かした。レジは植木の陰になっていて、よく見えなかった。多分、チェリーも見ていないだろう。


 チェリーに触れないように、苦労してコートを着せると、2人で店の外へ出た。


リンツは不自然でない程度に、チェリーとの距離をとった。そして、不意を突いて腕組みなどされないように、神経を張り詰めた。コートを着せるときにもチェリーの強い意識が感じられて、下手をすると押し流されるところであった。


 それほど遅い時間ではないのに、通りを行き交う人間は少なかった。

 この辺りはオフィス街で、朝早くから営業している飲食店は、早くに店閉めをしてしまう。人通りの少ない道をなるべく避けながら、リンツは足早に駅へ向かった。最寄駅へ出るには、公園を一つ抜けなければならない。


 寒空の下、暗がりに紛れて無数のカップルが、お互いの情熱で身体を温めていた。植え込みの合間にある、ダンボールやビニールシートが、街灯の反射で白く光る。オフィス通りでは何やかや話し掛けて来たチェリーも、視界の効かない中に多く人の気配を感じたせいか、公園に入ってからは黙って歩いている。

 リンツとチェリーは、横並びになって、黙々と歩き続けた。


 やがて、公園の出口が見えてきた。駅前の華やかな灯りが、公園の中にまで漏れてきている。

 人々のざわめきが、もう耳に届きそうであった。


 「リンツ……」


 いきなり腕を掴まれた。しまった、油断した、と思ったが、もう遅い。それが、リンツ自身の最後の思考であった。チェリーの顔が目前に迫り……


 ばしっ。


 リンツは何かに弾かれてアスファルトの上に転がった。側頭部がじんじんと痺れを訴えている。

 そっと顔を持ち上げて、チェリーの姿を探すと、鮮やかな金ラメのハイヒールが目に入った。そこから伸びゆく白い脚。持ち主の顔が判明する頃までには、チェリーの強烈な性的願望はすっかり洗い流されていた。


 「間に合ったか……」


 安堵のため息をつく間もなく、みぞおちにハイヒールの蹴りが入った。喉がグエエッと鳴る。あまり詰め込まなくてよかった、とリンツは思った。よろけながら逃げて行くチェリーが、ちらっと見えた。


 「人を呼んでおいて、一体何やってんのよ」


 サイラは、辺りはばからず大声を出した。

 散在するダンボールたちが、ガサゴソと動き、黒い頭がぽこぽこと盛り上がった。

 リンツは胃を押さえて立ち上がった。ピチピチのカジュアルスーツに身を包んだサイラが、目を三角にして立つ。


 「ごめん」


 リンツが真面目に謝ると、サイラの目つきがふいっと和らいだ。


 「で、どこへ連れて行ってくれるの?」

 「おいしいカクテルのお店を見つけたんだ。晩御飯食べた?」


 サイラはリンツの腕をとった。8cmもあるハイヒールを履くサイラの方が背が高い。サイラの手がリンツの頬に触れる。ひりひりと痛んでいる。


 「あーあー。痣になるかもねー」

 「仕方ないよ。おかげで助かったんだから」

 「わけわかんないこと言う人ねえ」


 こうして直接手を触れられていても、サイラの意識はリンツには読めない。


 サイラは、リンツがその思考に流されない唯一の人間だった。

 サイラといる時だけ、リンツは普通の人間と同じように、自分の感情で行動することができる。

 必ずしもサイラと同じ気持ちでいられる訳ではないが、他人の考えを推測しながら、自分の心の動きを見つめながら行動するのは、面白かった。多分、サイラと付き合うようになったのは、それが主な理由だ。


 電車の窓に、リンツの顔が映った。夜目にもわかるほど、こめかみの辺りから腫れつつあった。サイラが傷の部分をぺロリと舐めた。



 薄暗いカクテルバーの片隅で、リンツとサイラは向かい合って座っていた。テーブルにはオレンジと紫のグラスが1つずつ置かれていた。リンツの顔はこわばっていた。


 「だから、あなたが嫌いになった訳じゃないんだってば」

 「でも、その男と付き合うことにしたって……」

 「あら、あなただって、今日のことと言わず、さんざん他の女と遊んできたじゃないの」

 「あれは、向こうが迫ってきただけで、僕は」


 サイラは、パンッとテーブルを叩いて席を立った。


 「これも、向こうから迫ってきただけよ」


 テーブルを回って、リンツの隣へ来た。肩に手をかけて、耳元で囁く。


 「あなたが別れたいっていうなら、構わないわよ」


 リンツは、一瞬返事を躊躇った。リンツにとってサイラは特別な人間だ。しかし、同時に2人の男と付き合おうと言い出すとは。


 「ど、う、な、の?」


 耳たぶに、爪が食い込んだ。リンツは観念した。


 「いいよ。僕達はこれまで通り付き合おう」

 「ふふっ。いい返事」


 サイラはリンツの耳から手を離して、隣に腰を下ろした。柔らかい感触がリンツの身体を震わせる。


 「愛してるわ、リンツ」


 冷たい炎のような瞳で、真っ直ぐリンツを見つめて言う。その言葉が真実かどうか、リンツには知ることができない、しかし。


 「愛してるよ、サイラ」


 リンツは陶酔していた。

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