花咲か爺さん殺人事件
序章
世界が変わってしまったのはいつからだろうか…。
子どもの頃は、自分の信じることを考えていれば、世の中はうまく行くと思っていた。何もかも不可分なく未来永劫続いていくと。しかし、それがいつからかそうではなくなった。世界が押し寄せてきた。世界は自分を思うようにはさせず、何らかの意図を持って干渉してきた。そして、いつのまにか私は自分が信じるものを失ってしまった。自分がそれを失ったことにも気がつかず世界はそれを奪いさってしまった。だか、最近、私は自分が何かを失っていたそのことに「気がつく」ことができた。
第1章 闇の中
劇団「黒猫」は都内で小さな劇場を持つ劇団であった。この劇団で人が亡くなった。それは劇団員ではなかった。夜中、脚本家の早乙女谷木が劇場を訪れたところ、観客席の通路のところで男が額から血を流して死んでいた。男は額を鈍器のような物で殴られ気を失った後、死亡。死因は首を絞められたことによる窒息死だった。まだ男の身元は分かっていない。
警視庁捜査一課の鈴木次郎は定年退職を間近に控えて、この事件の捜査にあたっていた。第一発見者である早乙女谷木の供述によると、その日、早乙女は何者かに呼び出されて劇場を訪れたという。時間は深夜零時。その日の夕方、自宅のパソコンに一通のメールが届いた。差出人の名は「conductor」。件名は「劇場に爆弾を仕掛けた。」内容は「今度、上演する予定の『花咲か爺さん』の公演を取りやめなければ劇場を爆破する。」というものであった。このメールを見た早乙女は一人で、深夜零時に自ら劇場に向かった。
「自分の目で爆弾というのを確認しようとしたんですよ。」
それが早乙女谷木の供述であった。深夜に行ったのは人に見つかりたくなかったから、一人で行った理由も同様であった。そして
早乙女は死体を発見した。
「早乙女谷木が犯人だろう。」
それが第一見解だった。早乙女谷木は深夜何かしらの理由で被害者の男性を殺してしまったのだろう。そして、自ら警察へ通報した。
「おかしくないですか?」
同僚の佐々正之が言った。
「それならなぜ早乙女は犯行を自供しないのでしょうか?それに凶器も現場からは見つかっていません。」
「恐くなって警察に通報したのはいいが、いざ捕まるとなると今度はそれが恐くなったんだろう。どっちにしても被害者の身元を洗えば、早乙女と繋がりがつくはずだ。」
数日後、被害者の身元が割れた。被害者の名前は「田中拓也」32才。
「役者志望です。」
「ほらな。おおかた劇団への入団を拒絶された被害者が早乙女に襲いかかって、逆に殺されたという話か。過剰防衛にはなるが、酌量の余地はあるだろう。被疑者にも伝えろ。」
勾留中の早乙女谷木にもそのことが伝えられたが、早乙女は田中拓也との面識はないと言った。
「他の劇団員の話は?」
早乙女の妻で劇団黒猫の劇団員でもある黒漆梨華も田中拓也という男は知らないと言った。ただ一人劇団員の鬼海三鮫が田中拓也のことを知っていた。以前、田中がアルバイトをしている居酒屋に鬼海が訪れたとき、お互い役者と役者志望ということで会話になったという。二人が会ったのはそれきりだったという。
「鬼海も怪しいですかね。」
「早乙女に罪を着せたか?犯行時刻の鬼海の行動は?」
「部屋で寝ていたといいます。」
「裏は?」
「一人で寝ていたので裏付けは取れません。ただ、朝、鬼海はいつもの時間に劇場にやってきています。これは現場にいた警察官が確認しています。」
「それでは裏付けにはならないな。」
第2章 金の臼
劇団「黒猫」の劇団員鬼海三鮫は重要参考人として呼ばれた。犯行時のアリバイはない。鬼海と早乙女。二人の共謀かとも思われた。
「早乙女の家宅から犯行に使われたと思われる鈍器が見つかりました。」
それは劇団の小道具に使う金の臼であった。
「金の臼?」
「『花咲か爺さん』で使うらしいです。」
その臼は両手で抱えられるほどのもので、重量は成人男性ならなんとか持てる物であった。
「純金か?」
「いえ。ただ金箔が外観に張られているだけです。中身はいたって普通の木の臼です。一部の金箔が剥げており、そこから被害者の血痕が検出されました。」
「早乙女の家宅のどこにあったんだ?」
「物置です。早乙女の妻の黒漆梨華が劇団の小道具である臼が物置にあるのを発見して、不審に思い調べたところ、血痕と思われるものを発見し、警察へ通報しました。」
「早乙女の妻の黒漆梨華がか…。夫婦関係は良好ではなかったのか?」
「お互い、別居状態、まあ同じ屋根の下ですが、にはあったようです。これは黒漆本人が証言しています。」
「夫婦仲は不仲だったということか。」
黒漆梨華に話を聞いた。
「私と早乙女と隅火は小学校の同級生でした。一度、私はあの二人とは離れてしまったのですが、偶然、大学の演劇部で彼らに出会いました。三人とも演劇に興味を持っていたのです。」
隅火とは劇団員の隅火與儀のことである。
「早乙女さんとはいつごろからご関係を?」
「大学の卒業式の日に早乙女の方から私にプロポーズをしてきて、結婚を前提にお付き合いをすることになりました。」
「ご結婚なされたのはそれからすぐ?」
「二、三年後でしょうか。」
「そのとき既に早乙女さんは劇団黒猫の脚本家を?」
「あの人は大学在学中に演劇部とは別に既に劇団を作っていました。それが今の『黒猫』の前身です。」
「隅火さんもいっしょに?」
「ええ。もともと、早乙女と隅火の二人が立役者でしたので。演劇部の先輩達からは別の劇団を作るということで、賛同して下さった方もいますが、中には嫌がらせをして来られた方もいました。」
「黒漆さんはあとから?」
「ええ。私はもともと演劇は趣味のはずでした。卒業したら一般の企業に勤める予定でしたので。」
「それが、卒業式の日に早乙女さんがプロポーズをして来たということですね。」
「ええ。卒業して、数年は一般企業で働いていましたが、早乙女との結婚を決めて、退職して、早乙女の劇団に入ることになりました。」
「劇団に入るのは不本意でしたか?」
「いいえ。どうしてそんなことをお聞きなさるのですか?」
黒漆梨華との話はそれまでとなった。調べてみると、早乙女はもともと才能があったのだろう。大学在学中に立ち上げた劇団は大学を卒業する頃には有名になっており、それなりに客も付いていたようだ。現在、劇団「黒猫」は言わずと知れた人気を持っているらしい。
「チケットなんかはすぐに売り切れるみたいですよ。」
「佐々は公演をみたことがあるのか?」
「そんなことないですよ。仕事なので調べただけですよ。」
第3章 同級生たち
隅火與儀の話を聞くことにした。
「隅火さん、早乙女さん、黒漆さんは同級生だったとか?」
「はい。」
「仲はよかったのですか?」
「どうなんでしょうかね。とりわけ仲がよかったというわけではないと思います。」
「それなのに早乙女さんと劇団を立ち上げたのですか?」
「もともと仲がよかったわけではないと。早乙女くんとはたまたま同じ高校に進学して、その中で、彼も演劇に興味があると聞いて。彼はもう何年も前から戯作や脚本を書いていたそうですが。僕は役者志望でした。そして、当然のごとく、同じ芸術大学に進学してという感じですかね。それに、彼は才能があったから。僕は彼のお供みたいなものですよ。」
「黒漆さんとは?」
「ああ。黒漆さんは中学校を私立のところに行ったそうで、高校も私立の高校で面識はなかったですよ。ただ、彼女も同じ芸術大学の演劇部に在籍してきてねえ。しかし、僕も早乙女くんも彼女のことはまったく覚えていなかった。話の中で、同じ小学校で、同級生だったことが分かっただけかな。付き合いはその程度ですよ。実際。」
「現在のご関係は?」
「現在の?というと?」
「普段、会われたりされますか?」
「プライベートで会うことはほとんどない。」
「早乙女さんとは?」
「主に会うのは二人とも、黒猫の中でですよ。」
隅火は帰っていった。
「鈴木さん、どうですか?」
「特に不審な点もないが。」
「黒漆と隅火の犯行時刻の行動は?」
「二人とも自宅で寝ていたという。なにせ夜中の零時だからな。臼からも指紋などの手がかりはないからな。」
「それでは早乙女が黒と?」
「状況から言ってそうなるな。」
第4章 花咲か爺さん
昔昔、あるところにお爺さんとお婆さんと犬が仲良く暮らしていました。あるとき、犬が「ここほれわんわん」と言ったところを掘ると宝物が出てきました。それを見ていた、隣のいじわる爺さんがその犬を連れ出して宝物を探すように言いました。いじわる爺さんは犬が「ここほれわんわん」と言うところを掘ると蛇や鼠、妖怪が出てきました。いじわる爺さんは怒って犬を殺してしまいました。お爺さんとお婆さんは犬のお墓を作って、その上に桜の木を植えました。あるとき夢に犬が出て来て、「桜の木で臼を作ってもちを作ってほしい」と言いました。お爺さんはその通りに桜の木を切って臼を作り、お婆さんといっしょにもちを作ると、その臼の中から、大判、小判がざくざくと出てきました。いじわる爺さんはその臼を借りてもちを作ると臼の中からは泥が出てきました。怒ったいじわる爺さんは臼を燃やしてしまいました。お爺さんとお婆さんはその灰を集めて、切ってしまった桜の木の周りに撒くと、桜の木はぐんぐん伸びて、きれいな花を咲かせました。そこにお殿様が通りがかり、お爺さんとお婆さんは褒美をたくさんもらいました。いじわる爺さんはお殿様に「あの桜を咲かせたのはこの私です。」と言うと、お殿様は「この大うそつきめ。」といじわる爺さんを牢屋に入れてしまいました。
「なにを読んでいるんですか?」
「花咲か爺さんだよ。」
「昔話のですか?」
「ああ。改めてどんな話だったかと思ってな。」
「昔話ってなんとなくは分かったつもりですけど、細かいところは知らないんですよね。」
「ああ。まったくその通りだよ。」
「どうでした?」
「このいじわる爺さんは、なんでいじわるをしたのかな?」
「それは仲良く暮らしてしたお爺さんとお婆さんを羨んでいたんじゃないですか?もしくはお婆さんに横恋慕とか?いや、たんに宝物を手に入れられなかった腹いせですかね。昔話って、意外とドロドロしているんですよね。今でいう隣人トラブルみたいなものですかね。」
「結局、昔も今も人間の性格は変わらないということだ。」
「そうですかね。」
「だから、このいじわる爺さんも彼の性格だったんだろうな。」
「ところで、こちらは?」
「劇団『黒猫』の台本『花咲か爺さん』だよ。」
劇団黒猫が上演するはずだった『花咲か爺さん』は昔話の花咲か爺さんを現代劇にアレンジしたものである。本当は既に上演される予定であったが、事件のせいで上演は中止となっていた。
「今回の事件は世間にも注目されてます。週刊誌なんかも嗅ぎ回ってますよ。」
台本
花咲か爺さん
男1役「隅火與儀」
女役「黒漆梨華」
男2役「早乙女谷木」
占い師「山猫三郎」
官僚「放務」
チンピラ「鬼海三鮫」
あるところに男1と女が仲良く暮らしていた。しかし、その女には過去の男がいた。その男は女を再び手に入れようと嫌がらせをする。女は占い師の助言により、株式や証券で大金を得て、地方へ移住する。男2は仲間のチンピラと、占い師を殺害、男1と女を追っていく。地方に移住した男1と女は小さなマイホームを建てて、占い師に言われたとおり庭に桜の木を植える。しかし、ニュースで占い師が殺されたことを知り、恐怖に震える。二人は地方の官僚に相談し、ことが収まるまで、山奥の小屋に身を隠すことにする。迫り来る男2。男1と男2は揉み合いの末に二人とも谷底に落下する。女は一人でマイホームに佇む。その庭にはきれいな桜の花が咲いていた。
「金の臼はどこに出て来るんです?」
「占い師が使う小道具のようだな。この劇の見どころは男1と女、男2の人間関係のドラマにあるらしい。」
「リアル花咲か爺さんってわけですか。」
「そういえば犯人から早乙女谷木に送られたというメールはどうなったんだ?『花咲か爺さんの公演を中止しろ』という。」
「あれは早乙女の自宅や携帯のメールを調べても確認されませんでしたので、早乙女の虚偽かと思われます。爆弾も劇場のどこからも発見されませんでした。」
「そうか。犯人に消去されたということは?」
「いや早乙女が黒でほぼ確実かと思われていたので、サーバーシステムまでは確認されてませんが。」
「公判までに確認しておいたほうがいいな。」
「すぐに要請しておきます。」
第5章 黒幕
「鈴木さん!メールが確認されました。」
「そうか。」
「早乙女の言ったとおりの内容です。犯行の翌日の午後1時57分に早乙女の自宅のパソコンから消去された跡がありました。その時間、早乙女は警察で取り調べを受けていました。」
「黒幕がいたか。メールが消去されたとき、早乙女の自宅には誰がいた?妻の黒漆梨華か?」
「はい。」
「やはり黒漆梨華が黒幕か?」
「あともう一人。」
「もう一人?」
「隅火與儀です。」
「隅火與儀?」
黒漆梨華が呼ばれた。
「事件翌日の午後2時頃、正確には午後1時57分、あなたは自宅で隅火さんと会っていましたね。」
「ええ…。」
「隅火さんとは何を?」
「彼は私を励ましに来てくれたんです。早乙女が警察に連れて行かれたけど安心してと。」
「彼は午後1時57分頃パソコンのある部屋へ行きましたか?」
「知りません。」
「あなたは何を?」
「正確に時計を見ているわけではありませんので、いつ何をしたかというのは知りません。私たちは二人でリビングで話をしていたので。」
「その間、二人が離れたときはありましたか?」
「覚えていません。」
隅火與儀が呼ばれた。
「事件翌日の午後1時から2時の間、早乙女さんの自宅で黒漆梨華さんと会っていましたね。」
「はい。それがなにか?」
「一体何をしに早乙女さんの御自宅に伺ったのですか?」
「彼女の様子を見に行ったんですよ。」
「午後1時57分にあなたは早乙女さんのパソコンを操作しましたか?」
「いいえ。」
「黒漆さんは?」
「彼女は僕と話している間も何度か席を立ちましたからね。パソコンを触ったかどうかは知らないが、その時間はあったかもしれないね。」
「あなたは、黒漆さんとはプライベートでの付き合いはなかったと言っていましたが?」
「同じ劇団員として、彼女の心配をするのはおかしいと?」
「いいえ。ただ彼女の話を聞くとあなたと親密だった感じが窺われたので。」
「向こうがどう思っていたかは分からないな。僕は親密というか普通の友達程度の付き合いはしていましたから。」
黒漆と隅火は帰っていった。
「どうですか二人は?」
「黒漆と隅火はたぶん恋人関係だろう。黒漆の様子を見ていれば分かる。彼女は隅火を庇うような発言をしていたからね。しかし、隅火は黒漆を庇うようすはなかった。むしろ彼女に罪をなすりつけようといった感じだったよ。」
「すると隅火がパソコンを?」
「おそらくはな。黒漆梨華が消去したとすると、わざわざ隅火がいるそのときにしなくても時間はいつでもあったはずだ。が確証がないな。」
「二人の共謀ということは?二人は恋人関係にあり、邪魔な早乙女を陥れようとした。」
「それなら早乙女を殺害しようとするんじゃないかな。どっちにしても確証がないと何も言えない。」
「早乙女は白ですか。」
「まだ完全に潔白ということにはならないだろう。」
第6章 三人
早乙女谷木、黒漆梨華、隅火與儀。三人が疑わしい。早乙女に話を聞くことにした。
「早乙女さんの言っていたメールが見つかりました。事件翌日の午後1時57分に御自宅のパソコンから何者かによって消去されていました。」
「ほう。」
「そのとき御自宅には黒漆梨華さんと隅火與儀さんがいました。」
「與儀が?」
「隅火さんは黒漆さんの様子を見に来たそうです。黒漆さんと隅火さんはどういう関係でしたか?」
「彼らは肉体関係を持っていた。」
「奥さんが不倫をしていたと?」
「不倫というか、私もそれは許容していた。彼女の方は私が知っていたことを知っていたかは知らない。」
「隅火さんは?」
「彼はどうだろうか。」
黒漆梨華を呼んだ。
「黒漆さんと隅火さんは肉体関係を持っていましたか?」
「いいえ。」
「早乙女さんが二人は肉体関係を持っていたし、自分はそれを許容していたと仰っています。」
「…。」
「どうですか。」
「認めます。」
「隅火さんと肉体関係にあったと。」
「はい。」
隅火與儀を呼んだ。
「あなたは黒漆さんと肉体関係にありましたね。」
「彼女が言いましたか?」
「早乙女さんもです。」
「早乙女くんもか…。ふふ。」
「認めますか?」
「認めましょう。しかし、それが今回の殺人事件と関係が?」
「それはまだ分かりません。」
黒漆と隅火の二人は数年前から肉体関係を持っていた。早乙女谷木と黒漆梨華の結婚生活は良好ではなく。早乙女は劇団や脚本のことしか考えなかった。黒漆梨華は子どもも欲しかったが早乙女が拒絶していたらしい。それらを隅火與儀に相談するなかで彼との関係ができていったらしい。
「早乙女とはいずれ別れようと思っていました。」
「隅火さんはなんと?」
「彼は早乙女を説得するからと言っていました。」
「あなたは黒漆さんと結婚する気がありましたか?」
「いいえ。まさか親友の妻を奪いとることもできないでしょう。僕はただ彼女の相談にのっていただけだよ。」
「ではなぜ肉体関係を持ったのですか?」
「肉体関係といってもほんの数回だけだ。僕は拒絶したが、彼女が求めてきた。大人の男女が二人でいれば、そういう空気になってしまうことはあるだろう。」
「彼女は早乙女さんとは別れようと思っていたということですが。」
「僕は何度も止めていた。刑事さん、個人的な興味関心で聞くのは感心しませんよ。」
「あくまで事件の参考として聞いているまでです。」
「では僕が犯人だという証拠は?」
「今のところありません。」
第7章 結末
難航するかと思われていた事件は意外にもあっさりと解決してしまった。重要参考人として押収した隅火與儀の携帯端末のサーバーシステムを調べたところ被害者の田中拓也へのメールを消去していたことが分かったのである。メールの内容は事件当日、劇場へ田中を呼び寄せる内容のものだった。
「隅火は被害者と面識があったんですね。」
「以前、隅火が一人で劇場にいたときに田中が来たそうだ。田中は鬼海を訪ねてきたらしい。おそらく、つてで劇団黒猫に入れないか営業に来たのだろう。そのとき隅火に連絡先を渡していったらしい。」
「結局、隅火がメールを消去してもサーバーシステムを調べれば分かるということを知らずに安心していたところから足がついたのですね。」
「まあそういうことになるがな。」
「どうかしましたか。」
「いいや。」
確かに事件は犯人の簡単な見落としから足がついた。しかし、事件の背景は「花咲か爺さん」の話のようでもあった。
隅火與儀は犯行を自供した。
「どこから話せばいいかな。」
「犯行の動機はなんですか?」
「動機?動機は、早乙女くんが好きだったからかな。」
「好きだった?」
「好きというより、慕っていたと言おう。彼も僕のことを好きだったし、お互い慕いあっていたんだ。」
「二人は恋愛関係にあったと?」
「恋愛というような低俗な感情ではないな。僕は彼のことを愛していたし、彼もそうだった。かつてはね。」
「かつては?」
「ああ。僕と早乙女くんはお互いの演劇を高尚なものに昇華させるべく、僕は役者、彼は主に脚本の方でお互い努めあっていたんだ。しかし、途中からあの女が入ってきた。ずうずうしくもね。」
「黒漆梨華さんのことですか?」
「ああ。黒漆さんはただ俺たちの同級生だというだけで、僕たちの高尚な間柄に入ってきた。」
「あなたは早乙女さんと結婚した黒漆さんに嫉妬していたのですか?」
「嫉妬ではない。そして、彼女にではない。彼女のことなど、どうでもよかった。ただ、彼女の存在が邪魔して、僕と彼との関係が崩れてしまったのだ。だから彼に復讐した。彼が許せなかったんだろうね。」
「早乙女さんを犯人に仕立て上げたと?」
「ああ。」
「田中さんとは?」
「彼はただの端役だよ。」
「端役?」
「利用した、いやさせてもらっただけだ。」
「早乙女さんへの復讐のために被害者を殺害したと?」
「それは重要ではないな。」
「は?」
「彼は端役だ。」
「…。話を変えましょう。早乙女さんの自宅に犯行に使われた金の臼を置いたのはあなたですね。」
「金の臼は本当は使う予定ではなかった。気づかれないうちに首を絞める予定だったのだが、いざとなると体格差があってね。そこでまず気絶させることにした。その場のアドリブだね。」
「質問に答えて下さい。早乙女さんの御自宅の物置に金の臼を置いたのはあなたですか?」
「そうだ。」
「それはなぜですか?」
「鬼海と名前はなんといったか端役の名前など覚えていないが、彼が知り合いらしくてね。鬼海が犯人になりそうだったから、シナリオを元に戻したのさ。」
「早乙女さんの犯行を確かなものにしようとしたわけですね。」
「そうなるのかな。」
「黒漆さんと肉体関係を持ったのも早乙女さんへの復讐ですか?」
「そうだねえ。」
「黒漆さんを利用したと。」
「彼女は初めから利用されていた。」
「あなたにですか?」
「早乙女くんにだよ。彼はもともと彼女のことを愛してはいなかった。それもそのはずだよ。彼が愛していたのは、僕と演劇だけだったんだから。彼は彼女を役者としてのみ認めていた。」
「それは早乙女さん本人が仰っていたのですか?」
「ああ。最初、彼が僕たちの劇団に彼女を入れたいと言ってきたとき僕は反対したんだ。しかし、彼は彼女の役者としての才能を見抜いていた。自分の劇団の役者にぜひ欲しいと言っていた。しかし、彼女は演劇を続ける気はなかった。そういうところが僕は気に入らないんだよ。才能があるのに余裕綽々と他のことをしようとする。人を小馬鹿にするような恵まれた女だ。」
「それはあなたの考えなのでは?」
「それはそうだろう。そして、早乙女くんは彼女を引き入れるために結婚をちらつかせたんだ。彼は卒業するときには既に劇団が成功していて、地位も名誉もあったからね。」
「早乙女さんと黒漆さんの夫婦関係は良好ではなかったということですが?」
「結婚して、劇団に入ってしまえばあとは用はない。というか彼が興味があったのは、役者としての黒漆梨華であってプライベートの彼女にではない。」
「そして彼女はあなたと関係を持ったと。」
「そういえば、黒漆さんとの肉体関係を聞いたとき彼女の方から誘ってきたといったが、最初は僕からだよ。彼女は思いとどまっていたようだが、しかし、そのあとは彼女の方から求めてきた。」
「早乙女さんへの復讐に利用したと?」
「彼女と結婚したあと彼は変わってしまった。僕にも目をくれず、脚本のことだけを考えるようになった。しかし、やはり彼も僕と黒漆さんとのことを知っていたか。ふふ。」
「いまいち理解できませんね。」
「『花咲か爺さん』の話は知っていますか?」
「ええ。」
「あれでいえば、私にとって黒漆梨華はいじわる爺さん、いや婆さんになるのかな。仲良く暮らしていた僕と彼の中に入ってきた邪魔者なのだよ。」
「黒漆さんを引き入れたのは早乙女さんですよね。」
「ああ。だから僕は、僕との中を壊した早乙女くんにも嫌がらせをしようと思ったのだよ。」
「それならあなたがいじわる爺さんになりますね。」
「ふふ。そうかな。早乙女と黒漆は仲良くなかったが世間一般的には夫婦関係の中に割って壊したいじわる爺さんになるのかな。」
「そうでしょうね。そして無関係の人物を殺した。」
「そうかな。」
第8章 めでたしめでたし
「サイコパスな被疑者でしたね。」
「隅火與儀のことか。常人には理解できないな。」
「劇団はどうなるでしょうかね。」
「さあな。」
隅火與儀が自供後、事件の真相を早乙女谷木と黒漆梨華にも伝えた。
「與儀がそう言っていましたか。」
「どこまでが被疑者の妄想でどこまでが本当なのでしょうか。」
「すべて本当のことですよ。」
「早乙女さんと隅火さんが愛し合っていたということも?」
「ええ。」
「黒漆さんを利用したこともですか?」
「僕はただ単純に彼女の役者としての才能を評価していた。そしてそれを手に入れるのに必死だったのですよ。」
「隅火さんは早乙女さんが黒漆さんとご結婚されたあと、自分自身にも興味を失ったと言っていましたが?」
「それは與儀だけでなく、我々は世間一般のことに興味をなくしてきたのかもしれませんね。」
「隅火さんのことをどう思われていましたか。」
「與儀は本当に情熱的な役者だった。学生時代からも。しかし、最近はその情熱が今も続いていたのかは分からないな。」
「もしかしたらその情熱は役者にではなく、あなたに向けられていたものだったのかもしれませんね。」
「…。」
早乙女谷木はしばらく沈黙した。
「そうなのかもしれません。そうなるとそれに気付けなかった僕は彼の言ったようにいつのまにか與儀の心を離れて、脚本のことしか考えなくなっていたのかもしれませんね。」
「いや。間違っているのは被疑者の方ですのであまり落ち込まないで下さい。」
「はい。」
「黒漆さんには今回のことはどうしますか?」
「真実をお伝えして構いません。私はもう既にそのような立場にはない。」
「最後にお聞きしたいのですが、早乙女さんは何故『花咲か爺さん』の脚本を書かれたのですか?」
「どういう意味ですか?」
「どういう着想を得て書かれたのかなと。」
「あれはただ昔話を現代風にアレンジしただけですよ。」
黒漆梨華にもことの次第を話したが、黒漆は驚く風もなく淡々と聞いていた。
「隅火與儀はあなたを個人的な復讐に利用していたということです。」
「そうですか。」
「早乙女さんはあなたの役者としての役割を評価していたということです。」
「知っていました。」
「早乙女さんと隅火與儀の関係はご存じでしたか?」
「いいえ。」
事件後、劇団黒猫は解散した。早乙女谷木と黒漆梨華も別れたらしい。早乙女谷木は脚本家を辞めて、黒漆梨華も役者を辞めたという。他の劇団員は他の劇団に移っていった。「花咲か爺さん」が上演されることはなかった。隅火與儀の刑事裁判は続いていた。
「早乙女谷木は本当は隅火與儀の気持ちに気付いていたのではないだろうか。」
「どうしてそう思うんですか?」
「あの『花咲か爺さん』の脚本、いじわる爺さんの役が早乙女谷木の名前になっていた。」
「早乙女谷木はもともと役者兼脚本家だったらしいですね。」
「しかし、最近はもっぱら脚本に専念して役者はやっていなかったようだ。それが今回の『花咲か爺さん』には役者として名前が上がっていた。お爺さんの役は隅火與儀、お婆さんの役は黒漆梨華だった。早乙女谷木はすべてのことを知っていて、彼ら三人の関係からあの『花咲か爺さん』の着想を得たのではないだろうか。そして、その中で、隅火與儀の気持ちを裏切った自分、黒漆梨華を利用した自分をいじわる爺さんになぞらえていたのかもしれないと思ったんだ。」
「それを示す証拠は?」
「あるわけないだろう。あと、たぶん黒漆梨華もすべて知っていたのだと思うよ。」
「すべてというと。」
「隅火と早乙女の関係も彼らが自分たちに抱いていた感情のこともね。」
「自分が利用されていると分かっていたということですか。」
「利用されているというか、すべてを承知の上で二人と付き合っていたのだろう。」
「そうなると、黒漆梨華は一番の役者でしたね。さしずめ男を手玉に取る『魔性の女』ってところですかね。まさに主演女優賞ですね。」
「彼女の役者の素質は早乙女谷木も認めていたし、隅火與儀もその才能に嫉妬していたようだしな。しかし、彼女が演じていたのは『魔性の女』などではなく、あくまで『花咲か爺さん』に出て来るお婆さんだったのだと思うよ。」