3.混乱
「黒……?白……?」
何を言っているのかよくわからないけれど、静かな泉に立ったさざ波のような静かなその笑顔に安心感を感じ、先ほどまでの怖さが一気に静まっていった。
「さあ、精霊水晶が君を呼んでいる。恐れることはない、水晶に触れてごらん」
後ろから包み込まれるように抱き留められて、青年の大きな手がノイルの右手をやさしく取る。
つま先が壇上から浮いているようなふわふわとした、それでいて水晶に引き付けられるような不思議な感覚。
青年の導くままに水晶に向かって手を掲げたことに気づいたギーゼが怒鳴り声をあげるが、ノイルの耳にはもう届かない。
「おい貴様!聞いているのか!貴様に選定に参加する資格など――」
雑音が遠ざかる。
不思議な感覚に導かれ手が水晶に触れた。
指先から白い光がポッと広がり、やがてそれが水晶のすべてを包み込み、そしてホールのすべてを覆わんばかりに輝き始めた。
校長と来賓の面々がガタリと椅子を飛ばして立ち上がるが、それももうノイルには見えていない。
(綺麗……)
魔力を吸われるだるさを感じながら、意識を手放した。
*****
(ここ……どこ……)
おなじみの社畜時代の夢を見ずに目が覚めるのは久しぶりだ。
しかし、瞼を開いた瞳にうつったのは、前世でも今世でも見たことがない豪華な天蓋だった。
公爵家に住んでいるだけあって、前世知識と今世知識合わせても実家はずいぶんとお金持ちだし豪華な家に住んでいたと思う。だが、今目の前に見える光景はそれをはるかに超えている。
起き上がって周りを見渡してみると、青と白と金を基調としたベッドに寝かせられていた。
いい香りのする清潔なシーツ、羽毛のたっぷり詰まったふかふかのクッション、金の縁取りがされた水色の天鵞絨張りのベッド。
上からは精緻な刺繍の施された天蓋とカーテンが下がっていて、外からの視線を隠している。
(えーっと、確か聖女選定の儀で精霊水晶に手をかざしたところまでは覚えてるんだけど――)
それ以降の記憶がない。
すごく魔力を持っていかれる感じがしたから意識を失うかなにかしたんだと思うが、だとしてもどこじゃあここは、と混乱が止まらない。
もともと貴族らしい上品な口調であったノイルだが、前世の記憶が戻った現在は庶民丸出しである。
ずいぶんといい環境で寝かされている事から害意はないと感じるのだが、果たしてベッドから抜けて外に出るべきなのか、それともここで寝たふりを続行すべきなのかとチキンハートと相談を続けていると、不意にコンコンと扉をノックする音が響いた。
「お目覚めでしょうか、聖女様。」
――は?
今聖女という言葉が聞こえたような気がするんだが、気のせいだろうか。
それとも自分は、この部屋にいる聖女様を差し置いて爆睡してしまっていたのだろうか。
もしかしたら、自分が倒れた後に続けられた選定の儀で聖女様が見つかったのかもしれない。
とってもマズイことになっているかもしれない気配を察知して、いそいそとベッドから降りる。
天蓋をめくった先にあるのは、これまた青と白と金を基調とした美しい部屋だった。
だが、そのどこにも聖女様らしき人影は見えない。
「聖女様?失礼してもよろしいでしょうか」
扉の向こうの人物は、控えめながらもいぶかしむ様子で問いかけてくる。
もしかして、何かの手違いで聖女が来るはずだった部屋に運び込まれてしまったのかもしれない――
それであれば、すぐに誤解を解かなければ。
「あのっ、私――」
ガチャリと内側から扉を開けると、そこには初めて見る侍女らしき服装の人物が立っていた。
年のころは二十代後半ほどで、品のよさそうなやさしい顔立ちの美女だ。
「あら!聖女様、お目覚めになっておられたのですね。わたくしは聖女様担当となりました侍女のニアと申します。よろしければ、お目覚めのお手伝いをさせていただいてもよろしいでしょうか?」
内側から扉が開いたためか少し驚いたような表情でニアと名乗った侍女の横には、洗顔用の温かいお湯が入っているであろう盥が乗ったワゴンがあった。
「少し混乱されていることと思いますけれど、このあと魔導士団長様のほうからご説明があるそうでございます。
応接間の方にお通ししておりますので、準備が済み次第お話をさせていただけたらとのことでございました」
さ、身支度を整えましょうね、とやさしい笑顔をたたえたニアがワゴンを押して入ってくる。
状況はよくわからないけれど、ひとまず身を任せてみるしかないようだ。
洗顔のお手伝いをされながら、ノイルは思考することを放棄したのだった。