ヒーローは回想する
北原君目線です。
彼女は入学式のときから人目を惹いていた。
周囲の女子より頭ひとつ分は高い身長。冬の朝のようなきれいな顔。
初めての人を見た目で判断するのは良くないが、黒曜石のナイフのような人だと思った。
まさか同じクラスになって、一緒に日直をやることなるとは思わなかったけれど。
初めての日直当番の日は最悪だった。
登校中に犬には追いかけられるし、校内で迷うし、女子更衣室に間違って入り、先輩たちに見つからないように身を潜めていたら、放課後になっていた。
完全に当番をすっぽかしている。
兎に角まだ残っている可能性にかけて、教室へと急ぐ。
きっと怒られるだろうけれど誠心誠意謝るしかない。
先生に見つかったら確実に怒られるスピードで廊下を走り、教室のドアを開ける。
「ごめん芦川さん! 日直の仕事できなくて!」
「大丈夫。山崎さんに手伝ってもらったから。今度山崎さんに埋め合わせしてあげてね」
勢いよく開いたドアに何故か驚かず、声を荒げることもなく、穏やかな調子の返答に驚く。
それに思いもよらない名前を聞いた気がする。
息を整えるために下を向いていた視線を上げると、普段隠している素顔を晒し、髪をきれいに結われた唯花がそこにいた。
幼馴染みの自分でさえしっかりと顔を見るのはどれくらいぶりだろうか。
ずっと隣にいて、これからも一緒にいると漠然と思っていた子の見慣れぬ姿に、なにかいけないものを見てしまったような、羞恥にも似た感覚を覚える。
「え、唯花?」
どうしてここに唯花が?
それも芦川さんと一緒に。
いじめ、ではないよな。うん、それはない。
あんなに可愛くするいじめとか特殊過ぎるだろ。
唯花が慌ててなにかもごもご言っている。
そして芦川さんは髪型を元に戻すなんて勿体ないことを言い出した。
そのまま気持ちが声に出てしまい、恥ずかしい。
楽しそうに笑う芦川さんにもっと近くで見るかと促され、ちょっと唯花に悪いなと思いながら足下に注意せず踏み出したのが悪かったのだろうか。
引き戸のレールに足を引っかけ、そのままバランスを崩してしまった。
衝撃を覚悟した瞬間、柔らかいものにぶつかった。低反発のクッションみたいな触り心地だ。
遅れて後頭部に衝撃を受けて、手の中にある柔らかなものの正体に気付く。
状況を認識できてなかったとはいえ、ほぼ初対面みたいな女子の胸を揉んでしまった……
「ごめんなさい芦川さん、アキト君が」
慌てたような唯花の声で、さっきの後頭部の衝撃は唯花に引っぱたかれたのだと理解する。
無意識でもつまずいた自分を受け止めてくれた人の胸を揉んでたら、当然叩かれるよな。
「事故でしょ? 大丈夫だよ。北原君も大丈夫? 怪我してない?」
顔を上げて、今にも唇が触れそうな至近距離で見た芦川さんは、冷たい人なんかじゃなかった。
心配そうな顔を見て、顰みに倣うの西施を連想する。故事になるほどの美しい人はきっとこんな……
「……っごめん!」
瞳に吸い込まれるかと思った。
我に返って慌てて立ち上がり、教室を飛び出す。
あのまま見つめていたら危なかった気がする。
その日は芦川さんの顔と柔らかさと匂いが脳に焼き付いて、いつまでも残っていた。
どうやら芦川さんは俺が唯花に片想いしていると思っているらしい。
間違いではない、と思うけれど、自信がなくなってきた。
いつもいつまでも隣にいると思っていた女の子は、一緒にいるからそうだと思っていただけなんじゃないだろうか?
恋心と呼んでいい感情なのかわからなくなってしまったのは、芦川さんのせいだ。
唯花と話しているときの警戒心の欠片もないような無邪気な笑顔は普段の冷たい雰囲気と真逆すぎてどうにも気になってしまう。
流石にあの容姿なら校外に彼氏がいるから勘違いのしようがないが、直接向けられたらと思うと恐ろしい。
彼女は唯花のことを相談すれば他の男子より親しくしてくれるようだ。
まるでダシにしているようで心が痛むけれど、もっと知りたいと思ってしまったから、少しだけ唯花の力を借りよう。
……逃げるように飛び込んだ自室の片隅で、荒く浅い息を繰り返す。
目を閉じても残像がちらつく。
一体なにをしてしまったのか。
記憶はあるのに現実感が伴っていない。
夢を見ていたのだろうか。
助けて、と彼女は言った。
助けたい、と俺は思った。
彼女は慣れているように振る舞っていたけれども、痛みで一瞬強張った体と、事後に見たシーツは、冷静になってみれば初めてであると証明していて、あの振る舞いは夢中になってなにも見えなくなってしまった俺に気遣っていたのかもしれない。
なんて酷いことをしてしまったんだろう。
どんなに申し訳なくても次に顔を合わせたら、何事もなかったような顔で接しないといけない。
ただのクラスメイトで恋人なんかじゃないのだから。
細く、軽く、温かく、真白く、香しく、柔らかく、愛おしい。
ほんの少し前までこの腕の中にあった彼女の体を忘れないように抱きしめた。
再びこの中に彼女が収まることはないのだ。
久し振りに芦川さんが登校したのは見舞いに行った日の翌々日だった。
明るい教室で見る彼女は明らかに以前よりやつれていて、改めて罪悪感を覚える。
何日も臥せっていて買い物にも行けなかった女の子に、許されたからといって無理をさせてしまった。
唯花が知ったらありとあらゆる俺の悪口を芦川さんに吹き込むだろう。
大人しく控えめで交友範囲の狭い唯花だけれども、幼馴染の俺だけが知ってる唯花は、全く性的なことに免疫がない女子ではない。
小学校の飼育小屋でウサギの交尾をスケッチしようとして失敗したり、一緒に動物園へ行って臨戦態勢になっているオスを見付けると何故か嬉々として教えてくれる。
学校では教わらない知的好奇心を満たすものが好きなだけで、それだけが好きというわけではないけれど。
唯花にとって芦川さんは、新しい分野を切り開いてくれた最近一番のお気に入りだ。酷いことをしたなんて絶対に知られるわけにはいかない。
様子を見ながら以前と変わらない日々を過ごし、2度目の日直当番でようやく芦川さんとふたりで話す機会を得た。
週末に唯花と出かけることを知っていて楽しそうにしている。
デートだと思っているのだろうけれど、唯花が行きたい場所に付き添うのはたまの習慣みたいなもので特別でもなんでもない。
夢中になると視界が狭くなって危なっかしいからと唯花の母さんからも頼まれているのだ。
「告白するなら静かなところで相手によく聞こえるようにね」
「そんな告白とか、そんなのは」
……そうだ、唯花に告白しよう。
俺は芦川さんが好きだと。
協力してくれとは言わないけれど、相談できる相手は唯花しかいない。
「できたらするけど」
「頑張って」
今は全く意識されていないけれど、いつかちゃんと気持ちを伝えるんだ。
唯花と出かける日は朝からどんよりとした曇天で、折り畳み傘を2本カバンに入れてから唯花を迎えに行く。
今日も芦川さんからもらった水族館の水槽を思わせるようなバレッタを身に着けている。実際唯花の少し色素が薄い髪によく似合っているし、とても気に入っているのがよくわかる。
色が重なり合って水中に差し込む光を表現しているような部分なんて見るたびにいつも感心してしまう。
どう考えてもタダでポンともらっていいものではない。
だけど芦川さんは唯花に似合いそうなアクセサリーを作るとすぐに持ってきて渡してくれるらしい。
全部好みで嬉しいけれどなにも返せないから困ると言っていたから、芦川さんにとっても唯花は特別な存在なのだろう。
とても羨ましい。
リニューアルした水族館の海獣エリアで、唯花が夢中になってトドの下半身を注視している。
美少女なので傍目には普通に楽しんでいるように見えるけれど、視線ががっつりそちらの方向なので俺はごまかされない。
最後までこの調子なら告白するような雰囲気にならない気がしてきた。
「あれ、アッキーと唯花だ。偶然だね」
「そうだね」
わざわざこちらに近付いてきた麦野から気さくに声をかけられた。
どうやら下の弟妹総出で水族館に来たようだ。中学生の弟が小学生の弟ふたりを捕まえていて、麦野はまだ幼稚園に入る前の妹を抱っこしていた。
話題のスポットだし出会っても偶然感はあまりない。
「折角だし一緒に回らない?」
「いや、家族水入らずだから遠慮しておくよ」
「気にしなくていいのに」
それより全くこちらに反応してない唯花が気になるな。
トドの前はそんなに人がいないからいいけれど、どれだけ下半身を見れば気が済むんだ?
「唯花」
「なに、アキトくん? あれ、鈴ちゃんもいる。どうしたの?」
振り向いた唯花の顔に驚いたのか中学生の麦野弟の手が緩み、捕まっていた小学生たちが逃げ出した。
会ったことがないわけではないけれど、唯花の素顔を見るのは初めてだったか?
最近は見慣れたけれど、芦川さんの手で変わった姿を見たときはびっくりしたしな。
「さっき会ったから挨拶してたんだ。唯花はもう見足りた?」
「もうちょっと見ててもいい?」
「わかった」
まだ見足りてなかったのか、すぐに視線をトドに戻した。
「おねえちゃん、キラキラ、みる」
突然麦野の妹がなにかに興味をひかれたのか喋りだした。
手を伸ばしぱたぱたさせている先には唯花がいる。
振り向いたときに光って見えたバレッタ、かな?
「成実は唯花のバレッタを見たいの?」
「みるっ」
「そっか……じゃあ近くで見せてもらおう」
一瞬妙に険しい表情をしたあと、すぐにいつもの調子に戻り、麦野が唯花に近付いて行った。
唯花と麦野は高校に入学してから中学の頃より距離ができたように見える。
芦川さんが麦野のことを苦手そうにしているからだろうか。
麦野も芦川さんがいないところで冷たそうとか見下してそうとか言ってるみたいだし。
悪気無く人を下げることを言う人間と、言わない人間、一緒にいたいのは後者だから仕方ないな。
「いたっ」
唯花の悲鳴でとりとめなく流れていた思考が止まる。
「え、ちょっとナルちゃん、やめて、引っ張らないで」
バレッタを見るために近付いていった麦野の妹が唯花のバレッタをむんずと掴んでいる。
「こら成実! 手を放しなさい!」
抱っこしている麦野も妹を叱るが両手が塞がっているので剥がせないようだ。
慌てて駆け寄ってバレッタから小さな指を剥がそうとするが力加減を知らない幼児の握力なのかなかなか剥がれない。
仕方なくバレッタの金具のほうを外すと、ようやく唯花が自由になった。可愛くまとめていた髪が乱れてしまっているから、後で直してあげないと。
麦野の妹はバレッタを握りしめたままだ。下に妹を降ろした麦野がしゃがみ込んでバレッタを取り上げようとし始めている。
「成実、それを唯花に返しなさい」
「やだ」
「人のものを盗ったらどろぼうよ。おまわりさんのところに行く?」
「やだっ」
バレッタを握りしめたままぶんぶんと手を振って、麦野に取らせないように抵抗をしている妹を見て嫌な予感がした。
「あっ」
案の定小さな手からバレッタが飛び出して、少し離れた場所に落ちた。
そして騒ぎに我関せずと走り回っていた麦野家の小学生たちに踏まれていく。
パキンと割れる音が聞こえて、あの小さな水の世界が壊れてしまったのだと悟った。
すぐにその場へ移動してバラバラになってしまった世界を悼み、しゃがみ込んでハンカチに拾い集める。きっとこれはもう芦川さんでも直せないんだろうな。
あとはもう地獄絵図だった。
大泣きする麦野の妹と、大粒の涙を流しながらそれに詰め寄る唯花。
謝るしかない麦野と弟たち。
気持ちはわかるけれど小さな子相手に激昂している唯花を落ち着かせなければいけない。
「麦野、弁償とか謝罪とかは後にして今日は帰ってくれないか? もうお互い忘れて楽しめるような気分じゃないだろうし」
「……わかった」
「唯花も髪直すから、あっちへ行くよ」
興奮がおさまらない唯花を手を強引に引っ張っていく。
俺の手を振り払おうとする強い抵抗は現場からある程度離れると弱弱しくなっていった。
「……どうして? 私なにか悪いところあった?」
「どこにもないよ」
「鹿波ちゃんになんて言って謝ったらいい?」
「故意じゃないなら芦川さんは唯花のこと大好きだし許してくれるよ」
「……私は鈴ちゃんのせいじゃないってわかってるけど、鈴ちゃんたちを許せない」
「許せないのは仕方ないからしばらく距離をおこう。なにか必要なやり取りがあれば俺がやるから」
乱れた髪をブラシでとかして、芦川さんに習った簡単なヘアアレンジを実践する。
使うヘアゴムにも拙い出来だけど芦川さんの家で作ったレジンのチャームがついている。
今度もっと色々教えてもらおう。
「今日これから芦川さんのところに行って、バレッタが直せるか聞いてくるよ」
「私も行く」
「いや、そんな泣き腫らした顔の唯花連れて行ったら俺めちゃくちゃ芦川さんに怒られるって」
彼女が怒ったところは見たことがないけれど。
「……そんなにひどい?」
「唯花は真っ直ぐ帰って、腫れた目を冷やして。俺の身の安全のために頼む」
軽い調子で言ってみると、ようやく唯花の雰囲気が少し和らいだ。
「うん、鹿波ちゃんに心配かけちゃだめだよね」
案の定崩れていた天気の中、芦川さんを訪ねる。
ラフな服装で出迎えてくれた彼女はとても眠たそうな目をしていた。
かなりタイミングが悪かったかもしれない。
大まかに壊れてしまったバレッタのことを伝えて現物を見せると、やはり修復は無理だと言う。
予想通り怒ったりはせず、新しく作って渡すより唯花と一緒に作ったほうが気に病まないだろうと提案してくれた。
確かにそのほうが唯花は特別が増えたと喜ぶと思う。
そのまま少し唯花の話をしていると、眠たそうな目の周りに赤みがさしてきて、熱っぽい顔になってきた。
熱を出して休んでいたときと同じように見える。
指摘すると否定されるので、額に手を伸ばして確かめようとすると、ガードしようとした芦川さんの手と勢いよくぶつかってしまった。
「っつ」
これはちょっと当たりどころが悪かった。じんじんと骨に響く。
芦川さんも痛かっただろう。悪いことをした。
そう思い視線をやると、さっきまで熱っぽく赤みがさしていた筈の顔が、血の気が引いたように真っ白になっていた。
真白い顔のまま俺の手を握り謝り続ける芦川さんは、まるでなにかを恐れる幼い子供のようで、手を離したらそのまま死んでしまいそうで、思わず手を引き寄せ、この世界に繋ぎとめるように、どこにも行かせないように強く抱きしめた。
彼女はそれからも変わらなかった。
家に行く回数が増えても、週末に泊まり込んで寝かせなくても、それを拒むことはない。
変わることなく優しくて気が利いて、心の中には踏み込ませない。
下の名前で呼ぶようにしても、俺のことは苗字で呼ぶ。
抱きしめながら唯花の話をしても、嫉妬をする様子もなく花が咲いたように微笑む。
肌を重ねて夜を重ねても俺は唯花の付属品なのだ。
だから、俺は伝えられない。
朝、腕の中に収まって眠っている姿が好きだ。
魔法のように作品を作る柔らかい手で触れられるのが好きだ。
教えるときは真剣に向き合ってくれるところが好きだ。
スケッチブックにアクセサリーのデザインを描くときの鉛筆が走る音が好きだ。
教えてもらって出来上がったアクセサリーを見せたとき、我がことのように喜んでくれるところが好きだ。
もし伝えたら、その瞬間、全部失ってしまう。
俺は唯花の付属品でいないといけない。唯花を好きでいるふりをしないといけない。
牽制するように、どちらかに恋人ができたらもうしないようにしようと言われても、現実味がない。
学校で唯花と気になる男性の話をしているが、恐らく唯花のために用意したデコイだろう。
鹿波さんがその男に、唯花といるときのような顔を見せるとは思えない。
ただいずれ、その男ともこうやって枕を交わすと思う。
なんでもない顔をして、なんでもない日常の延長のように。
許せるだろうか。
俺にはなにひとつ権利がないけれど。
真白に赤い花を、ひとつ、ふたつ。大切に手折るように増やしていく。
彼女の心が手に入らないのなら、体は誰にも渡すものか。
色々元気だなあ。