尻軽女は有耶無耶に日々を過ごす
これは、なしよりのありかな。
すっかり冷えた頭でそんなことを考える。
熱は下がったけれど、今日も休むか。
心は初めてでなくても体は初めてだったので、初回からの複数回はなかなかハードだった。
草食系に見えてもそれなりに男子高校生なんだね。
最後のほうはよく覚えていないけれど、彼は私が疲れて眠っているうちに帰ったのだろうか。
起きたときには不完全ながらパジャマを着て布団の中にいたから、律義に色々処理していったようだ。
完全ではないのであれこれ洗濯しないといけない。その前にシャワーかな。
強い衝動に突き動かされたとはいえ、友達の想い人と寝てしまうのはナシだ。
ただふたりはまだ付き合っているわけではないし、私の心情に変化もない。
口止めはしてないけれど向こうも言いふらすような人間ではないだろうから、私の胸に収めておけば何事もなかったように過ごせると思う。
好きな人がいるなら多分北原君もノーカンにしたいでしょ。
ぬるいシャワーで感触と余韻を洗い流しながら、あの熱の正体について考えてみる。
少なくとも作中でこんな展開はなかった。
本当に?
なにか見落としとか、すぐ忘れてしまうような描写の中に、ヒントがあったりしなかっただろうか?
今回はどうにかなったけれど、すぐに再発したら困る。
だけど鹿波というキャラクターに注目して読んでいたわけではないから、頑張って思い出してみてもなにも思い当たらない。
そうなると再発したときのために対策を練るほうがいいかもしれない。流石に次回があっても北原君には頼めないし。
未成年であることを考えると盛り場には行けないし、都合のいい男を探すのも大変そうだな。
翌日、随分ウエストに余裕ができてしまったスカートをベルトで締めて久し振りに登校した。
元々細身だったけれど、姿見に映る姿は痩せたというよりやつれたと言うべき様相で、見るからに病み上がりだとわかりやすい。
久し振りの教室に入ると私に気付いた唯花ちゃんが顔を綻ばせて駆け寄ってきてくれた。
することをしてしまったのだから流石に唯花ちゃんと顔を合わせれば罪悪感のひとつでも浮かぶかと思ったけれど、びっくりするほどなにも感じなかった。
自分の根っこにあるものは生まれ変わっても変わらないのだとわかり、少しがっかりだ。
唯花ちゃんの後ろでなにもなかったような顔をしている北原君と同じような顔を私もしているんだろうな。
土日を挿んだので随分長く休んでしまったけれど、いない間のノートを唯花ちゃんや高梨さんが貸してくれたので昼休みにコピーさせてもらう。
軽くお昼を食べてからコピー機のある図書室に向かうと、本の整理をしていた司書さんに物珍しそうに見られた。室内を見回して、この時期の図書室は滅多に生徒が来ないのだろうと結論付ける。
まだテストとかやってないから各先生の出題傾向はわからないけれど、全てをコピーする時間はないので教科書そのままの授業を行う教科は後回しで、板書が多い教科のノートをコピーだな。
後回しにした教科も、教科書に進んだ範囲の付箋を貼って後からチェックしよう。
罪悪感は感じないのに、教室にいると息が詰まる感じがして、今やっと学校で呼吸ができた気がする。
ぴったりとくる言葉は見つからないけれど、今の感情に近い言葉を当てはめれば、恐らくこれは不安と呼ぶのだろう。
だって体調不良の原因も、治った理由も結局わからないのだ。きっと同じことがまたある。
鹿波の行動を物語の通りになぞったら回避できるのだろうか?
運動部に入って、北原君に暴力をふるう?
そんなの気乗りしない。やりたくない。
できる限りなぞるなら、日常的に運動する時間を少し増やすくらいしかできないけれど、とりあえずそれでしばらく様子を見てみよう。
例え気休めでも今は信じるものが欲しい。
そしてゆっくりとぎこちなく、日常は戻ってきた。
手芸部の活動方針を話し合ったり、正絹の端切れで作った帯留めを高梨さんに渡したり、北原君とふたりで遊びに行くことになった唯花ちゃんを着飾ったり。
見えないところでふたりの仲はちゃんと親展しているようだ。
一応部員とは言え活動してないので話すこともそうない麦野さんがなんとも言えない表情で教室でのふたりを見つめていたので、動向に注意が必要かもしれない。邪魔をするにしても大したことはできないと思うけれど。
そして2度目の日直当番が回ってきた日、久し振りに北原君とふたりきりになった。
今回は前回の反省を踏まえ当番の仕事をちゃんとやるつもりらしい。
「週末、唯花ちゃんと遊びに行くんでしょ? どこに行くの?」
「ちょっと遠出して水族館まで」
「いいね。最近リニューアルしたんだっけ」
「そうそう。それで唯花が気になってるみたいだったから」
そのままいい雰囲気になって告白してしまうのかな?
告白シーンって上手くいきそうなタイミングで邪魔が入ったりするのだけど。
「告白するなら静かなところで相手によく聞こえるようにね」
「そんな告白とか、そんなのは……できたらするけど」
「頑張って」
私が軽い調子で応援すると、北原君は少し考えるような素振りをみせた。
「……あのことは」
「私が熱でおかしくなってただけだから気にしなくていいよ。誰かに言うつもりもないし。私は唯花ちゃんと北原君が上手くいったほうが嬉しい」
彼も彼なりに気になっていたのだろう。
説明もなく突然同級生と寝ることになるとは普通は思わない。
「そっか」
「信用してくれるの?」
「だって芦川さんは、俺より唯花のことのほうが好きでしょ?」
「当たり」
よくわかってるね。
そんなやり取りをして、あの日の後始末は終わった気がする。
きっとこれからは前と同じように北原君と気兼ねなく話せたりするだろう。
土曜は朝から暗い色の雲に覆われて、空が不機嫌そうな顔をしていた。
十中八九、午後か夕方から雨だろうな。
少し唯花ちゃんの心配をしたけれど、水族館は屋内だし、帰りは相合傘でもしてくるでしょ。
お約束のように告白しようとしたら雨が強くなったり、雷が落ちたりするのかな。
少女マンガでもよくあるよね、そういうの。
もうストーリーからは展開が大きく外れているし、意外と上手くいったりすることもあるのかしら?
もしかしたらと思ったら少し気が急いて、夏のアクセサリーデザインをスケッチブックに描き始める。
上手くいったなら唯花ちゃんが次のデートにつけていけるようなアクセサリーをお祝いにプレゼントしたいな。
そういうのは彼氏の役目かもしれないけれど、北原君ならごちゃごちゃ言ったりはしないだろう。
コットンパールと貝殻を使って人魚姫みたいなブレスレットを考えてみる。唯花ちゃんの白くて細い手首なら、大ぶりなパーツをじゃらじゃらさせないほうが良さそうだ。
あれこれと唯花ちゃんに似合う色合いや配置で根を詰めていたら軽く眩暈を感じたので少し休憩することにした。
スケッチブックを抱えたまま、ずり落ちるようにソファで横になり微睡んでいると、窓の外から強めの雨がさあっと降り始めた音が聞こえる。
思ったより早く降ってきたな……予報だと夜まで止まないんだっけ。
静かな部屋に響く雨音に落ち着く。このままよく眠れそうだ。
遠い雨音を切り裂くようなドアチャイムの音で目が覚めた。
時計を見ると結構しっかり寝ていたみたいだ。
のそのそと起き上がりインターフォンのモニタを見ると、唯花ちゃんと出かけているはずの北原君が映っていた。
これはなにかあったんだろうなあ。
軽く手櫛で髪を整えてから玄関に向かう。アポなし訪問はいただけないですよ。
「ひとり?」
五月雨の中、傘をさしながら玄関に立つ彼は少し落ち込んでいるようにも見える。
「まあ、とりあえず入って」
今日は上手くいかなかったんだろうな。
温かいお茶で少し雰囲気が和らいだ北原君は、トラブルがあってデートが中断した旨を教えてくれた。
手渡されたハンカチ包みの中から出てきたのは真っ二つに割れたバレッタだ。
唯花ちゃんと初めて話した日に渡して、その後もちょくちょく着けていたから結構気に入っていたのだと思う。今日も着けていったんだね。
「これは……唯花ちゃんに怪我はなかった?」
金具の曲がり具合を見るとかなり強い力がかかったように見える。
ぶつかったのか、踏んだのか。多分後者かな。
落として、他の人に踏まれたとか、そういう事故があったんだろう。
「それは大丈夫。でも芦川さんからもらったバレッタが壊れたことに落ち込んで……これは元通りに直せる?」
「台座から割れてるから、これは新しく作り直すしかないね」
私が微塵も悩む素振りも見せなかったせいか北原君が残念そうな顔をする。
唯花ちゃんは作った私に悪いと気にしてたのかもしれない。
「物はいつか必ず壊れるから、私があげたものが壊れても気に病まなくていいって唯花ちゃんに伝えておいて」
「わかった」
「それで今度はうちで代わりのバレッタを一緒に作ろう。私が新しく作って渡すより、一緒に作ったほうが唯花ちゃんも気が楽でしょ」
「本当に、なにからなにまでフォローありがとう」
そんなトラブルがあったら告白どころじゃなかっただろうね。
北原君が唯花ちゃんのためにその足で私のもとにやってきたのも納得だ。
「感謝してね。もし私が唯花ちゃんの恋愛対象だったら、きっと簡単に奪えてるよ」
「俺の目の黒いうちはそんなことさせないよ……って、あれ? 芦川さん熱っぽい顔してる」
「え、本当?」
頬に触れてみると確かに熱い。意識してみれば少し前のあの妙な体の熱さに似ている。
そういえば前に体調崩したときも、目眩から始まったんだっけ?
もうすっかり治ったと思ったのに……同じやつだったら嫌だなあ。まだ都合のいい人、見つけてないのに。
「……そんなことより、大体わかってるけど今日は告白できたの?」
「無理だったってわかって聞いてるでしょ」
「やっぱりね」
予想通りでほっとしている自分がいる。
付き合ってないならまた頼んでもいいだろうと、どこかで思っているのだろうか。
いやいや有耶無耶のなかったことにしたのに元の木阿弥でしょうと理性は言う。
「大丈夫? ……この前と同じ、辛そうな顔してるけど」
「平気よ」
嘘を吐いて、虚勢を張って、心配から伸ばされた手を思わず振り払う。
勢いがつきすぎたのか、振り払うときにぶつかった手がじんじんと痛い。
だけど、なんだろう?
北原君が痛がった瞬間、さっきまで脳を浸食しようとしていたピンク色の靄がすっと晴れた気がする。
熱はまだ灰の中で燻っているけれど、さっきより切羽詰まってなくて、それはつまり……鹿波が北原君に暴力を振るっていたのは、鹿波にとっては本当に必要だったの?
それってどんな体質なのよ私。どこにもそんなこと描いてなかったじゃない。
過剰に暴力を振るわないと普通に生きられない子なんて、ちゃんと描いてくれないとわからないでしょ!
考えている通りなら、私は随分と難儀な人間に生まれてしまったのかもしれない。
褒められるような生き方をしてなかった生前を考えれば、それに相応しい地獄が用意されたのかもしれないけれど。
望ましくない選択肢が目の前に並ぶ。回避しても回避してもこの先ずっと目の前に突きつけられる選択肢だろう。
どちらかを絶対に選ばないといけないなら私は迷わない。
普通に生きるために誰かに暴力を振るうくらいなら、前と同じ尻軽女のままでいいや。
女友達と和やかに過ごすなんて、贅沢な願いだった。
親友が欲しいなんて烏滸がましかった。
もし唯花ちゃんとふたりきりでいるときに同じ熱が出たって、唯花ちゃんを殴るなんて絶対にできない。それなら嫌われて距離を取られたほうが安心できるよ。
離れていればいつ私の頭がおかしくなっても傷付けないもの。
「ごめん、痛かった? ごめんね」
振り払った手を取って、ぎゅっと強く握ると北原君の体が強張った。
一度離してからゆっくりと指を絡めて、軽く爪を立てる。
私の口がごめんと繰り返すのは、誰のためだろう。
きっと自分のためだね。
暴力を振るうくらいなら、ピンク色の靄の望むまま、私は愚かに成り果てる。