尻軽女の霍乱
ぱっちりした大きな目が真剣に刺繍糸を選んでいる。
危ないからと上げさせた前髪も夢中になって気にならなくなっていそうだ。
前年度の活動費はほぼ刺繍糸になっていたのではと疑うくらい教材用ではない刺繍糸が大量に残っていたので、しばらく刺繍を多めにすれば今年の活動費は抑えられそうだ。
理想の色が見つかったのか目を輝かす唯花ちゃんを、隣で針を動かしている北原君がちらちら見ている。普段と違う横顔に見惚れているのかもしれない。
針を持っているので集中してほしいけれど、指を刺す様子は全くないので器用なのか不必要な怪我はしない主人公補正なのか。
目の前に広がるくすぐったい空気を全く気にすることなく、私の隣で高梨さんが手芸の本のミサンガのページを開き、手順を確認しながら机に張り付けた刺繍糸を編んでいる。
誘ってみたらすぐ乗り気になった北原君と何故か高梨さんが入部したことにより、手芸部は幽霊部員含め5名となんとか部活らしい部員数になった。
高梨さんはこの前の会話で手芸に興味を持ったのだろうか? なんて半ば無意識でスタンプワークの花びらを組み合わせながら考えてみる。
なお、おのおの好き勝手やっているように見えるけれど、本日のテーマは『刺繍糸に親しもう』なので問題ない。家庭科の授業じゃ使わないからね刺繍糸。
「鹿波ちゃんが作ってるお花ってなにに使うの?」
「まだ何も考えてないけど、台座に縫い付けてブローチとか、金具を使ってイヤリングとか……」
鞄を漁ってなにかないか探してみる。
普段使いのカチューシャがあるからこれがいいかな。
「大きく作って、こういうカチューシャのワンポイントにしたりとか」
布張りされた紺色のカチューシャに作りかけの花を合わせて見せると、唯花ちゃんがわあっと声を上げた。
なんだか、ちょっと懐かしい。
生前の手芸を始めたころ、おじいちゃんとおばあちゃんに作ったものを見せると驚いたり褒めてくれたりしたんだよね。
今思えば始めたてで下手くそだったし、おじいちゃんおばあちゃんのほうがずっと器用だったから孫可愛さの反応だったのかもしれないけれど、それが嬉しかったからもっと色々作ろうって気持ちになったんだ。
久しく人前で作業をすることがなかったから、そういう部分を随分と忘れてたみたい。
「唯花ちゃんなら、どんな感じにする?」
「うーん、小さく種類を沢山作って、ビーズと長く繋げて一緒に揺れる感じの?」
「いいね。頭に飾っても首にかけても、ベルトみたいに巻いても良さそう。北原君だったら?」
「花じゃなくて蝶々にして、お団子ヘアの上に被せるネットみたいなやつに付けるかな」
「立体が映えるものを選択するのもいいね。素敵だと思う」
「普段使いできるものに付けたいけれど、いいのが思い浮かばない」
「高梨さんなら……付け替えして色々楽しめるものかな」
手の中で出来上がった刺繍の花を可動域の広いクリップ台座に仮留めしてみる。
「こういう感じにして、飾りの少ない帽子に付けたり、籠バッグとかも合うかな。あとガーランドみたいにして部屋を飾るとか。別に目的が無くても作りたいと思えば作っていいのよ。私も作った後から用途を思い付くことがあるし」
全く用途が思い付かなくて無駄にするとかもよくあるし。言わないけど。
練習作を持て余し後々処分に悩むのなんてのもよくある話だ。私は未練が残らないように全部勢いよく捨てるようにしているが。
わいわいと作ってみたいモノの話で盛り上がり始めた風景を眺めて、穏やかな幸せを感じる。
ここは私がずっと取り戻したくて探していた場所になってくれるだろうか。
「鹿波ちゃんからもらったバレッタと似たものは学校だと作れないの?」
「うちにある機材と材料を持ってくればできるけれど、できれば機材は手芸部の備品として購入したいな。毎回学校に持ってくるのは面倒だし」
そんなに重い物じゃないけれど、ランプとレジン液とパーツを持って登校するとなると、なかなか重労働になると思う。すごくやりたくない。
今はランプ購入の申請を出しているけれど、買えたとして消耗品の材料費は各自でいいのかな? 今月のネットショップの売り上げが初回にしてはまあまあ良かったので、初回体験分として多少私物を持ち出しても懐に負担はないけれど……百均にすらレジン液が置いてある時代なのだし、売るわけじゃないなら各自用意でいいか。
来月くらいにはランプの購入許可出るといいな。
「今日時間あるなら、部活の後にうちに来る? 簡単なものでいいなら実際にどんな風に作るのか見せられるけど」
「いいの?」
「両親が長期の出張で今はひとり暮らしみたいなものだし、気軽に来ていいよ」
ちらりと視線を高梨さんに向ける。彼女も来るかな?
「私はこの後習い事があるから、残念だけどまたの機会に」
「また今度来てね。それじゃあうちに来るのは唯花ちゃんと北原君ね」
「アキトくんも?」
「帰るころには暗くなるだろうし、唯花ちゃんをひとりで帰らせるのは心配だもの」
もっともらしいことを言ってみるが、元々唯花ちゃんにヘアアレンジするような機会があったときは北原君を呼ぶという約束を守っただけである。
私の言う通りだと言うように肯いている北原君はややうざい表情をしている。
いずれ無事にカップル成立したら、唯花ちゃんのついででも誘わないことにしよう。
私だって折角できた女友達なんだから独占できるならしたい。
まだ知り合って間もないからお互いなにも知らないけれど、私はもっと知りたいし仲良くしたいのだ。
ちょっとくらいは唯花ちゃんも同じように思ってくれていないかしら……
突然視界がぐらりと揺れた。
座っていなかったらそのまま倒れていたかもしれない。
はて、貧血だろうか。血が足りない、という気持ち悪さはない。
もしかしたら疲労が溜まっているのかもしれないな。
思えば生前のことを思い出してからひと月くらいが経っていて、その間なんだか駆け足で色々やってしまった気もする。
しばらくはスピードを緩めるつもりで寝る前に根を詰めて作業をするのはやめておこう。
その時点でもう手遅れだったのかもしれない。
もしかしたら友達を家に招くという出来事にはしゃぎ過ぎたのが決定打だったか。
うちに来た唯花ちゃんたちを玄関先で見送って、ドアを閉めた瞬間、またあの眩暈がして、その後熱が出始めた。
なんとも妙な熱だ。
体温はずっと高いまま、解熱剤は効く様子がない。
頭はぼんやりとしていて思考がまとまらない。
ぐつぐつと煮込まれているような熱さを体中から感じるけれど、不思議と痛みや気持ち悪さはなく、ただひたすらだるい。力が入らない。
病院では、多分環境が変わったことによる疲労でしょう、と言われたのですぐに下がるだろうと思ったのだけど。
既に数日学校を休んでいる。そんなことはないとわかっているけれど、戻ったときに私の居場所は残っているだろうかと心細い。
気付けば清涼飲料水のストックが切れそうだ。こんなに長引くと思ってなかったからなあ。
米と水はあるから、炊飯器に入れておけばお粥には困らないのだけど。
汗は結構かいてるし、やはりただの水だけで水分補給というのはやめておいたほうがいいかな。
あまり気は進まないけれど……背に腹は代えられないか。
本当は負担をかけたくなかった唯花ちゃんに渋々メッセージを送ることにした。
現在交友がある中で私の家を知っているのは唯花ちゃんと北原君だけだ。どう考えても頼める人が唯花ちゃんしかいない。
代金は払うので学校帰りに買い物して玄関に置いてほしい旨を書いて送る。
しばらくすると何故か北原君からメッセージが返っていた。
学校からのプリントもあるし、買い物も重たいので、唯花ちゃんの代わりに北原君が来ると言う。
確かに大きいペットボトルを女の子に持たせるのは良くないな。
プリントもあるなら玄関先に置いてもらうのもまずいか。
最寄り駅に着いたら連絡してくれれば鍵を開けておくと返す。
さて、もうひと眠りして、起きたら一度シャワーを浴びておこう。
「ペットボトルは冷蔵庫に入れればいい? 余裕を持って買ってきたから沢山飲んで」
「ありがとう」
「熱っぽい顔してるし辛そうだけどご飯は食べられてる? なにか口触りのいいもの作ろうか?」
「大丈夫」
北原君はこんなに甲斐甲斐しいキャラクターだったろうか?
両手にスーパーの袋を提げて、てきぱきと運び込みながらこちらを気遣ってくれる。
「本当は唯花も連れてきたかったんだけど、体ちょっと弱くて風邪ひきやすいから結構強引に役目引き受けてきたんだ。芦川さんも唯花に会いたかったと思うからごめんね」
「感染ったら困るから我慢するよ」
会いたかったけれど仕方ない。原因不明だから風邪かもしれないわけだし感染したら可哀相だ。
早く熱下がらないかな……会えなくて寂しい。
「芦川さん!」
またあの目眩がして、ゆらりと崩れた私の背を北原君が咄嗟に支えてくれた。
立ちっぱなしだったのは良くなかったかもしれない。
「ごめん、立ちっぱなしだったのに気付いてなかった。ちょっと失礼」
そう言って北原君は私を斜めにして、持ち上げた。
え、なにこれ。
お姫様抱っこっぽい……っていうか北原君私より背が低いのに無茶なことを。
そういうのは唯花ちゃんにやるべきですよ。
「部屋まで運ぶから我慢して」
「あ、うん」
あまりの出来事に脳が追いついていない。
でも実際力が入らないので、素直にお世話になっておこう。
先日来たばかりなので私の部屋はまだ覚えていたらしい。
私を運ぶ北原君は真っ直ぐ部屋に入り、そのままベッドに座らされた。
運びながら全くぐらついたりしなかったけれど、見た目より力があるんだな。
「ごめんなさい。重かったでしょ?」
「いや全く。軽いくらいだよ」
事もなげにそんなことを言う。なんだろう、主人公補正か?
ベッド脇の小物入れをごそごそ漁って、合鍵を北原君に渡す。今日はもうこのまま寝かせてもらおう。
「帰るときそれで鍵閉めて、その後ドアポストに入れておいて」
「わかった。でも帰る前に買ってきた飲み物をこっちの部屋にも置いていくからちょっと待ってて」
そう言って部屋を出て行く背中を見送って、とても気が利くなあ、と思う。
高校入学したてでこれだけできるならそりゃモテるわ。
優しさだけで勘違いするような若さはないのでありがたさのほうが強いけれど。
感覚的にはもの凄く年下だからね同級生たち。
「お待たせ」
ほどなくペットボトルを手に戻ってきた北原君が、部屋の中でなにかに足を取られつまずいた。
そうだ、この人よく転ぶ設定だった。
慌てて立ち上がりサイドテーブルへキスしてしまいそうな彼を受け止める。
そこまで勢いはなかったけれど、人の重さ分の衝撃のあとに、電撃を受けたような痺れを感じ声をあげてしまった。
「んぅっ」
強い刺激を逃がしたいときの喘ぎ声のような声に自分で驚く。
初めて唯花ちゃんと話したあの日のように、北原君の手は私の胸を掴んでいた。
あのときと違うのは、私が、私の熱が、それを甘やかなものとして脳に伝えてしまったこと。
そうだ、この熱が上がって頭が働かない感じ、とてもよく知ってる。
私になってからは初めてだけど、私は沢山覚えてる。
なにもかも後回しにして、欲望に忠実に、本能に正直に。
誰かに悪いとか、明日のこととか、邪魔なものとして思考から通り抜けていく。
今欲しいのはこの熱を鎮めるすべ。
どうしてなのか私は確信を持って、答えが目の前にあると思い込んでいる。
「ごめん!」
慌てて手を引く彼の手首を掴む。
だるくて力が入らないはずだったのに、行先不明な手首はすんなり捕まえることができた。
「ねえ」
体が熱くてたまらないの。
ここに別の熱を放り込んで、今すぐ冷まさなきゃいけないの。
薬も休息でもない、足りないものが欲しいのよ。
「お願い。ただの練習だと思って……私を助けて」
先日首と腰に鍼を打たれました。そんなに痛くないなんて言葉は信じてはいけない。