四章
〜肩の向こうに ほら
ひろがる 銀世界
過去も 未来も
包み込んでく
……あの時の雪は、何て冷たく見えただろう。
冷たさを越えて、冷酷にさえ思えていた……あの蒼い雪の闇は。
それに比べて、今降り出したこの雪はまだ空をチラチラとよぎる程度の粉雪。
なのに。
イブの雪って言うと、必ずあの日の雪と同じものに見えて来る。
怖かった。
あの日のことが、まだ頭から消えて行かない。
俺は、ポケットを探って携帯を取り出した。
そして開いて見る、受信メールボックスの一番下のフォルダ。
『7件』……数字が浮かび上がる。
思い出して、自分の情けなさ加減に息が出た。隣りの方を、俺は見ることができない。
――あの後、俺は和泉を駅ビルの小さな内科医院に運び込んだ。
病院の先生方は突然のことに目を丸くしていたけれども、俺が息絶え絶えの説明すると、苦しそうに唸っている和泉を見てすぐ対処を始めてくれた。
どうやら、長い間氷点下近くの外に立ちっ放しでいたせいで、急激に衰弱したらしい。それに、軽い風邪もひきかけているとのことだった。
俺は、和泉がもしも重態になったら、このまま……だったら、などと待合室で一人頭を抱えていた。けれどもその説明を聞くなり力が抜けてしまって、こっちが死んだようだった。
それと同時に、目が奥底の方から熱くなった。後から後から涙が溢れて来て、すぐ前の方さえ見えなかった。
彼女のご両親は一応読んどくから、と言う医者の先生に連れられて、和泉のいるベッドのそばまで行く。
正直行きたくない気持ちもあったけれども、そこの所は覚悟をつけたつもりだった。
奥の部屋、暖かなベッドの上で和泉は、点滴を受けながら小さな寝息を立てていた。
それから数分――いや十数分だったかもしれない――俺はその寝顔を見詰めて、ただ立ち尽くしていた。濡れた目許も拭わないままで。
元から子供のように小柄だった和泉。でもそうして横になった姿は、思ったよりも小さく見えて仕方なかった。
和泉は生まれ付き、その小柄さが示しているかのように体があまり強い方じゃなかった。
俺は、コイツとは長い付き合いだ、それもイヤなくらい知っていたはずなのに……。
それでまだ下まぶたが濡れる。拭っても仕方ないはずだった。
こんなことをやらかしたんだったら、和泉のお母さんお兄さんからは、当分会わないでほしいなんて言われるだろう。頭のもう一方では、そう漠然とは考えていた。
余程心配なんですね、そう医者の先生が後ろから声を掛ける。
なるべく、そばにいてあげて下さい、今親御さんは呼びましたので、少なくともそれまでは。
優しい口調で言ってくれはしたが、少し、チクリと来なかったと言えば嘘になるか。
俺は、ベッド脇にしゃがんで和泉の手をそっと握る。
俺の両手で、スッポリと包んでしまえるような白い手。トクトクと、微かに脈打つのが手の平に分かった。
……もう。
そうしているとそれだけで後も先もなく泣けて来て。無言で涙を流していた。
と。
『……泣かないで、』
静かさの満ちる部屋に、そんな声が響く。
ハッ、と我に返ってみると、和泉が微笑んでこっちを見ていた。
『……泣かないでよ。こっちが悲しくなっちゃう』
見られてたのか。
俺は意味もなく強がってみて、泣いてなんかないってーの、と目をこする。
『ずっとそばにいてくれたんだ』
和泉は、柔らかく笑った。
『……ありがと』
俺はこの時初めて、和泉は笑うとエクボができる、と気付いた。
『……な、一つ……聞かせてくれるか、一つだけ』
『なぁに?』
『……どうして待っててくれたんだ? 電車の遅れだって、知ってたんじゃないのか』
和泉は、ゆっくり首を振る。
『ううん、知らなかったよ。だって、ひーちゃんいつ来るか分かんないでしょ? だから、待ち合わせ場所は離れちゃいけないだろうなぁ、ひーちゃんの分かんない場所にいたら迷惑かけるだろうなぁ、って』
『…………。そうか』
それから二十分ぐらい後だろうか。
医院に、和泉のお母さんお兄さんが血相を変えて飛び込んで来た。
それは風邪だろうが何だろうが倒れたと知ったんじゃ来ない訳がない。
お母さんは、ベッド脇まで来るなり和泉の手にすがって、よかった、よかった、とボロボロ泣き崩れていたし、お兄さんはしきりに大丈夫か、大丈夫か、と声を掛けていた。
――もう、ここにはいられないな。
俺は静かに、隣りの部屋に移ろうとする。
だってそうだ。
和泉をこんな目に遭わせた張本人が一緒にいるなんて、その家族からすれば許せるはずがない。
俺は、骨の軋む足を引きずって出て行こうとする。俺もさっきまでの汗が冷えたのか、全身から冷えていた。
『――ね、お母さん』
でも。
『ひーちゃんのこと、怒らないでね』
……え?
『わたしが、雪降って寒い中はしゃいでたのがいけないの』
背中越しに、聞こえる言葉。
……何だよ?
何……何を言ってんだよ、和泉?
俺は、ハッとして振り返る。
ベッドの上から俺に向けて、そっと切ない視線が注がれていた。
『疲れてるのに。必死でわたしをここまで運んでくれたのも、ひーちゃんだもん』
その言葉と共に、一際淡い微笑みが覗く。
何だよ……バカ言ってんじゃねーよ。
何で?
何でそんなに俺を庇うんだよ……!?
バッカじゃねーか……和泉……。
俺は動けなかった。
和泉のお母さんはそれを聞くと、ありがとう、ありがとうと絞り出すような声でその場に泣き伏せった。
和泉のお兄さんは、黙って俺を見ていた。
俺は。
俺は、そんな、この場にいられるような人間じゃないんだ。
何で泣かれなきゃいけないんだ。
やめてほしい。
やめて下さいよ……!
俺は、俺は……!
もう、出せる言葉もなかった。
俺は、ただ乾いた口を半開きにして、立ち尽くすしかなかった。
俺はしばらく茫然自失としていた。
和泉のお母さんは診察室で、医者の先生の話を聞いている。和泉は、ベッドで安静を余儀なくされていた。
和泉のお兄さんは、黙って俺の隣りに腰掛けると、言う。
『…………なぁ。俺は、啓久を恨む気持ちはない。蔑む気持ちも、全くない』
その態度は、いつもと変わっていなかった。これから雑談の一つ二つでもしそうな、何気ない雰囲気だった。
『……突然過ぎて悪いんだけどな……、本当のことを、教えてほしい』
でも声と目は違かった。
その目は、厳しさこそなかったけれど、痛いくらいに真っ直ぐで。
俺は、前も言ったけど和泉のお兄さんには長くお世話になっている。昔っからだ。
でも、その目はその長い間に一度も見たことがないような目だった。
『…………はい』
返事は自然に出た。
きっとさっき、俺の方を黙って見ていた……あの時にはもう気付いてたんだろう。
断ったって今更何になることもないし、そして何より拒む気持ちは一切なかった。
それから、俺は数分を話に費やしたと思う。
ありのままに、電車が遅れたこと、その電車は乗るはずだったのを乗りそびれた結果に乗車したものだということ、その前に雪道で浮かれ切って派手に転んでしまったことさえ言った。
お兄さんは、うなずくでも言葉を差し挟むでもなく、ただ耳を傾けていたようだった。
震え出す俺の肩や、膝に置いた握り拳を見、時には情が高ぶって泣きそうになる俺をなだめてくれもした。
『……なるほどねぇ』
それで俺の言葉が詰まって途切れた辺り、少し間を置いてそう呟いた。
そして、長椅子にボソンと寄り掛かると。
『分かった。それだけ言ってくれれば。ありがとな』
俺は一瞬、えっ、と声を洩らしかけた。
高校を出たばかりなのに、妙に痩せて線の細い横顔が、天井を見詰めていた。
『何も……言わないんすか』
俺がそう、驚いた声を出すとお兄さんは寂しげに笑った。
『あぁ。今の話じゃ、まぁ未歩を待たせることになって、仕方ないっていやぁ仕方ない。これから気を付けろよ』
『……でも、』
『何だ、珍しく気弱だな? ……まぁ、許せるかどうか、って言うと実は微妙なんだな』
よっこらしょ、と椅子から立つと、お兄さんは一つ背伸びをする。モスグリーンのダウンジャケットを羽織った背中が大きく見える。
『それじゃ、』
『だから、弱くなんなって。な? 俺は、啓久が本当のことを話してくれたから、こう言うまでだ』
俺は、動揺し切った頭で上手く考えることができなかった。見上げるだけで。
『……もし。もしだ、啓久が、俺が尋ねた真っ先に言い訳でもしようもんなら、俺は誰が止めようと殴りかかってボコボコにしていたさ』
背中を向けたまま、振り向きはしない。
『でも啓久はそうはしなかった……まぁ、長い付き合いだからな、グチグチ言い訳なんかするヤツじゃないってことは分かってんだけど、な』
そして振り返って、ニイッと笑う。
『それにだ、未歩があんだけ庇うんだから許してやんない訳にはいかないだろ? 後から、お兄ちゃんのバカァ、何で聞いちゃったのっ? なんてボカスカ叩かれた日にはたまったもんじゃない』
俺は。
何も言えず、ただホケーッとしていたのを覚えている。
『……ま、そういう訳だから、母さんにも黙っとくし、他の誰にも言わない。もちろん未歩にもだ』
そして、お兄さんは身をかがめて、拳で俺の胸の辺りをトントンと突く。
『……どうやら。未歩のヤローはお前の"ここ"にホレたらしいからな。責任取れよ? さしずめ、それが罰って所だ』
『"ここ"にホレた』……か。
昔が次から次へ脳裏に蘇って来る内に、そんな言葉がぼんやり浮かんで来ていた。もう、嫌な出来事に紛れて忘れかけていたけれども。
俺は、まだ雪の闇夜を見上げている。
その後、俺は和泉のお母さん運転する車に乗せられて家路に就いた。
和泉は、途中に家で降ろされて、お兄さんがその看病をすることになっていた。それが、和泉が珍しくイヤと言ったというか駄々をこねて、俺の送り届けに付いて行くことになった。
その車中でも、お母さんは始終ありがとうね、本当にありがとうね、とお礼をし続けていたし、お兄さんは始終、意味深な笑い方をしていた。
和泉は和泉で、何重にも毛布をかぶって暖かなのに頬がずっと赤いままだったし、俺は俺でその隣りで……だんまりを決め込んでいた。
多分、和泉と似たような表情をして。
車の中はのぼせないくらいほのかに暖房が利いていたんだけれども、軽自動車の狭さで俺と和泉はほとんどくっついた状態で、まるでサウナだった覚えがある。
家に帰ってからは、父さんと母さんにこっぴどくどやされはした。
けれども、また驚いたことに和泉自身が説得に出てくれて、そうなったら二人とも情負けするしかなかった。
とりあえず円満な形で一件落着した訳だった。
たった一つの心残りを除いて。
……それは未だに残りっ放しだ。胸の奥の方のしこりになって取れないでいる。
和泉が、俺に?
んなバカな。
そんな疑問と否定が、脳細胞の間をグルグル回っている。
恋愛のれの字も似合わないような子供っぽいヤツだぞ、和泉は。
いくら、いくら大学生になったからって……なぁ。
あり得るはずが……ない、よなぁ。
そうに、決まってる。
そうだ。
うん。
そうだ。
うん……。
……。
……。
……何で俺は今、和泉をチラ見したんだ。
見る必要もない。
ウン。
……と、思っているそばで俺は、肋骨の奥辺りが妙に騒いで居心地が悪いのを感じていた。
居心地が、悪い。
とてつもなくだ。
何だって今、と、脳内で俺は自分のことを殴り付ける。
これは今まで感じたことがない感触だった。
高校時代だって、この間あった激励会の時だって感じはしなかった!
あえて言えば、メール受け取った時――家で和泉からのメールを受け取った時、初めて感じ取ったとも言える。
そういえば、何であの時、ここに来るまで俺は何であんなに必死だったんだ?
和泉を待たせたら悪いからか?
それとも……?
あ゛〜、何だよ『それとも』ってッ?!
俺はやたらと首を横に振って、無闇に空を見上げた。
和泉はうつむいているらしく、声の一つすら出さない。
疲れたのか?
そりゃま、一時間近く夜寒の中で待ってて、それからこうしてずっと立ちっぱなんだからな。
帰る時は送ってった方がいいか。幸い俺の自転車はママチャリで、後ろに荷台があるから十分に和泉を乗っけられる。
そう、あの日の二の舞にならないように、な。
あの日の二の舞に。
あの日の、な。
二の舞に。
あの日の……。
散々。
散々和泉にはバカだのトロいだの何だのって言って来たが、一番バカなのは俺だったらしい。
それは、和泉をあんな目に合わせちまったのがまだどこかに引っ掛かっている、っていうのが一つある。
加えて和泉のこの心配性だ。俺がそばにいようもんなら、この先も、ひーちゃん、ひーちゃん大丈夫? なんて気を遣い続けることになるのは簡単に予想が付く。
去年だってそうだ。
和泉は実は前のイブにも、出かけようよ、とメールを寄越していた。
だが、よく考えてみてほしい。
その年はこうして浪人している一年前。そう、高三も大詰めの受験期真っ最中だった訳だ。
何言ってんだよ、お前も大学受けんだろ、なんて苛立って返信をしていたのをハッキリ覚えている。
ちょっとして、それじゃあ一緒に勉強しよ、と来る。
その一二文を見た時……流石に俺は、胸にたまったモヤモヤに俄かに火がついた。
悪いけどできない。
少しは考えろよ、文系の俺と医大だかどっかを目指してるお前が一緒に勉強したって何になるんだよ。
勉強の仕方だってテキストだって、それ言ったら目標だって、和泉とは全部違うんだぜ。
今日家にいた時のように、多量の本と紙の山を目の前にしながら俺は、送信ボタンをきつく押した。
これがアイツの為にもなるんだ。
詳しくは知らないが、和泉が受験した医大(そして今通っている所でもある)が『難関』の二文字に評されることぐらい、俺は知っていた。
それなのに何だ。
タイヘンだよ、なんて言ってなかったか? それとも何か、実は余裕に合格圏で、ただ自慢がしたいのか?
とっくに擦り切れたような俺の頭には、そんな文句ばかりが次から次へと浮かんだ。携帯も机の上に放った。
それが、和泉からの返信で俺は余計具合が悪くなった。
《 そうだよね。
考えたらそうかも。
ひーちゃん、
頑張ってね。 》
乱暴に携帯を掴み取って開く。
でも次の瞬間に、あっさりとしたこの三文がその時妙に目から離せなくなった。何分もそれを見ていたと思う。実際は数十秒だろうけど。
俺は、その長ったらしい数分の果てに、投げやりにディスプレイを閉じる。
それでも今度は携帯が手放せない。
俺は、薄ら冷えて青みがかった部屋の景色の中で、ただ携帯を固く握り締めていた。
これが和泉の、為なんだ。
和泉は俺のことばかり気にして、自分のことなんかまるっきりほったらかしじゃないか。
そう。和泉のことを、思えば……。
俺はそう頭の中で繰り返し自分に言い聞かせながら、その片隅に降って湧いた後ろ暗さを強く飲み込んだ――でもそれは喉に刺さった小骨のように、いつまでも取れずに残ったままでいた。
その時、黙っていることができないくらいに寒かったことが、記憶に鮮やかに残っている。
和泉のメールのせいなのか、それとも俺が悪いのか。
俺にそれは分からなかった。
和泉の為、和泉の為、ってセカセカ動き回っては、時に和泉を叱りもした俺だった。
でも今、それがよかったのか俺は判断できなくなっていた。むしろ何でやったのかすら。
去年のイブ、和泉の誘いを断ったのだってそうだ、分からない。
あれだって、大学受験がどうこう言ったが、『クリスマスイブ』に『和泉』の組み合わせが単に嫌に思えたのもある。怖かった、そして嫌いだった。
何か行動したり口から言葉を吐き出したりしたその後はいつでも、吹いて来る風が体をすり抜けて、体腔を揺さぶるようなうそ寒さが後に残っていた。
――丁度今の風のように。
腕時計のデジタル表示は、もう『23』の数字を示した。
庇の下まで吹き込む雪は、相変わらず小さな旋回を描いて音もなく落ちて来る。
コートの肩を滑る。
フードもかぶっていない頭の上を滑って行く。
地面には積もることなく、黒い湿ったまだらを残して消える。その内、向こうまで続くブロック敷きが黒々と冷たく濡れ通るだろう。
……隣りの和泉は何をしてるんだろう。
俺はそう思ってはみるものの、天邪鬼に顔を空に向ける。
闇の彼方から来る白い欠片が、額や鼻の頭に冷たい。
俺は、自分が何を考えているのかも掴めずにそうしていた。
背中の石柱も、周りの高層ビル群も、いよいよ冷たい。そういう暗い色味に染まされて、通りも何も、往来がなくなる。車の行き来さえも。
何か俺、さっきから冷たい冷たいばっかり言ってるな。もう周りの全部が『冷たい』みたいだ……。
……和泉。
お前はこれ見て何思ってるんだ? 隣りにいて分かんないのがバカらしいよ。
黙ってるけどさ、何か喋ってくれよ。和泉。
でも、そう思った所でどうにもならないか。大体、俺がそれを知ったって何になる。
迷惑かけるだろうなぁ……か。
それは、俺が言いたいんだ。
聞いてもいい。
俺、お節介だろ?
迷惑、になってんじゃないのか?
そう、だよな。
和泉にとってはな。俺がどう考えたって、実際和泉がどう受け取るかなんて和泉次第だ。俺に分かる訳のない、まるで一方通行だ。
『知りたい』、って望んだってムダなこと。
第一、何で俺はそう思い始めたんだ?
俺は、いつでも和泉の迷惑になるんだって。分かってるのに。
もう、今じゃ住む世界も違う。和泉は和泉で、目標だった道へ進んでいける。俺は、大学へ進んで……えーっと、何やるか。
自分の大学生活を話してくれた時の顔な、すごく輝いてたぞ、和泉。
そこは褒めてやる。トロかったお前がな、眩しくてまるで見えやしなかったんだ。
俺は瞼を閉じる。目をつぶる。
固く。
何も見えないように。
和泉はもちろん、深過ぎる夜空の闇だって、散り落ちる雪が目に染みて見えない。
例え、それが言い訳がましくても、俺は目を開けていられなかった。
俺は、疲れたようになって、もう柱に寄り掛かりきりだった。
ポケットに突っ込みっ放しだった手を、ふと動かしてみる。長い間同じ姿勢でいて、軽く痺れている。
布の隙間から、ヒュッと冷気が滑り込む。
気付けば、ポケットの中で携帯を握りっ放しだった。いつかのように、固く。
俺は開きかけて、ためらってやめた。
『7件』――この数字が目に入りそうだったからだ。
送信者は七件全て『和泉未歩』。
……捨てるに捨て切れない。消すに消せない。
何度、『はい』と『いいえ』の画面で迷っただろう。そして、その度にフォルダ内削除はできなかった。
あの日――和泉が待ち合わせに来ない俺を心配して送ったメールはそれ程の数にもなっていて、それに俺が気付いたのはその二三日後だった。電話の着信数は、もうそれ以上だった。
例えこれを消すことができたって。あの日の出来事はなくならない、永遠に。
俺の中だけでなく、和泉の中からも。
もう、それを思うと和泉の隣りは、ただひたすらに居苦しい場所でしかなかった。
「……どうかしたの……?」
和泉が聞いて来る。
多分、俺がしきりに携帯を出したり眺めたりしていたからだろう。
「いや……もう、十一時過ぎたんだ、ってな」
答えにはなっていなかった。やっぱり、隣りには目を向けないで言う。
「そう…………」
和泉も、そう返すきりだった。言葉にはならないような微かな声だった。
俺には、その声さえもう聞きたくなかった。
聞きたくなくて、見たくもなくて。
俺は勢いを付けて背中を壁から剥がした。
「……帰るわ」
「え……?」
肩越しに、和泉の声が途切れて降りかかる。
長い間柱に背中を付けていたせいだろう、冷え切った真夜中の空気が肌の上を覆って行く。
「もう、遅いしな……帰って、冬期講習の予習とかしないとな」
誰に聞かせているのか分からない言い訳だった。
俺は、寒さに一瞬立ち止まって、顔を上に向ける。降り続く粉雪が、目に染みようが。
そうもしないと、惰性でまたここに居続ける気がした。
「でも…………、」
「時計見てみろよ。もう一時間以上経ったんだ」
それ以上、言葉は言えずに。
俺は固く凝った足を急いで繰り出した。
「……じゃな」
その、最後の台詞に決めた一言が、和泉に届いたかどうかなんて俺は知らない。
頭上の雪曇りは、空へ伸びるビルの間に重く深く、際限知れない闇でいた。
粉雪は――いつかと同じ無表情で――俺とホテルとを隔てて行く。
動く影が全て消えたホテル脇は、石造りの壁、イルミネーションがささやかに光ってばかりの街路樹、そして白くなりかけたブロック敷きの道……そればかりが青黒い空気が染み付いて続いていた。
風が吹いていた。
もう、来ないさ。
来れやしない。
その内、全部忘れてしまうから……。
……その時だった。