三章
えー、そろそろ話は佳境ですが、皆さんお楽しみいただけておりますでしょうか? どうか、皆さんのお心のままに読んで下さい。何か感じていただけたものがあれば、それは作者としては『幸せ』の一言に尽きます。では、第三章をどうぞ。
〜さみしくさせていたね
凍える指を 暖めて
どこまでも
ふたつの足跡が 続いてく
――そうして、今に至る。
寒くなったね、と聞いて来た和泉は、あからさまにさっきまでの明るさを失っていた。
誰のせいか?
俺のせいなのか。
すっかり夜の帳の降りたビル街、その一角の、ホテルの片隅――壁に寄り掛かったままの和泉と俺は、交わす言葉さえ失くしてただ並んでいた。夜の中、ポツンと。
長い間、電飾と夜空のコントラストを眺め過ぎたらしい、頭がまるで上手く働かなかった。寒さに痺れた、とも思える。
実際は違うけれども自分でそう決め込んだ。
何故かその脳裏には、さっき一瞬間に見た和泉の格好がチラついて仕方なかった。
いくら取り去ろうと努力しても、脳自体がもう具合が悪いから、返ってチラつきから鮮明になって行く。
だから俺は気付かれないよう、そっと視線を隣りの和泉に注ぐ。
青いダッフルコート、それに合わせたグレイのマフラー。
特にコートは、夜目にも鮮やかでかつ原色よりも深い青色で、目についたら離れないくらい目立つ。現に、今夜待ち合わせた時も役に立った。
そして、その細っこい首元にマフラーをきっかり巻いて、赤らめた頬を埋めている。
そして、白地にスモーキィブルーで模様の入った、毛糸編みの帽子。カウチンキャップ、なんていう名前だったのを覚えている。
和泉はこの服装、特にこの帽子が特にお気に入りだった。
そうだった。
帽子のてっぺんで、ぼんぼりが寂しそうに風に吹かれているのを、俺はいつの間にか見入っていた……。
……何だよ。
これって、“あの日”とほとんど同じ服装じゃないか。
それが、偶然か和泉の意図なのかは、俺が知られることじゃなかった。
ただ、殊更に心底薄ら寒くなる心地で、俺はそれに気付いてしまっていた。
《イブの日、来れる?
それとも、わたしが
そっちに行こっか。
返事、よろしくね♪》
そんなメールが送られて来たのは、高二の冬、クリスマスイブの数日前だった。
……頭が色々なことでこんがらがり過ぎて、かえって空っぽのようになってしまったから、そんな昔のことも自然と脳裏に浮かんで来る。
中学の終わりから高校にかけて、俺と和泉は、毎年クリスマスイブには二人で出かけるようになった。
まぁ、世に言うデートというヤツにでもなるんだろうけど、どちらかと言えばまだまだ遊びに行くような感覚だった。
街中へショッピングに繰り出したり(そんな時は大概俺が和泉に付き合わされるんだが)、ある時は遠出して、近隣の遊園地に足を運んだりしたこともあった。
和泉が、今まで試したことがないっていうジェットコースターに乗ってみて、結果びーびー泣いてたのを覚えている。
二人っきりで海辺に、なんてませた時もあったっけな。確か、高一の頃だ……。
どれもこれも、今では懐かしさに笑えて来る想い出ばかりだった。
今思えば、あんなことよくできてたよな。
だからあの頃、よく和泉とペアにされて、カップルだとかお熱いだとか言われてたのか。
……でもな。
違うんだ。
俺と和泉はカップルなんてものにはなれない。
思い出す内に、俺は気分が重くなって来る。
それもこれも、始めに言ったあの高二のクリスマスイブの出来事が、その記憶が、心の底に厚く積もって溶けないでいるからだ。
「……冷たっ」
和泉がポツリと言葉を漏らした。
イルミネーションの遥か上の方から、白く冷たい欠片が舞い降り始めていた。
あの日も丁度、雪の日だった。
俺は、その数日前に和泉のメールをもらってから少し浮かれてたと言っていい。
仰ぐ限り真っ白の雪曇りの空。そこから雪が絶え間なく降る中、俺は鼻歌でも歌いながら自転車を飛ばしていた。あの、例の寺町の坂をだ。
和泉に会える。
久し振りに、和泉のヤツに会える。
何を言わなくてもペダルが弾んだ。
と言うのも、和泉は高二の夏から一時期、山を越えて隣りの県に引っ越していたからだ。
詳しいことは分からないが、お母さんとその実家の都合とのことだったらしい。
その和泉に会えると思うと。
だから、雪の坂道というデンジャラスゾーンであろうことか自転車を飛ばす、なんていう無茶をしていた訳だ。
ガッシャーン!!
……案の定。
俺は坂道の半分くらいで盛大にずっこけた。
しかも運のないことには、チェーンが。
「何だよ!? こんな時に!!」
完璧にイカれてしまっていた。
それでも、和泉が待っているのを思うとチェーンの一つ二つ、転んだどうこうなんて関係ないことだった。
俺は、痛む足で自転車を引きずり引きずり、何とか駅に辿り着いた。
が、奮闘も虚しく乗るはずの列車は数分前に出発した後。
俺は舌打ちして携帯を開いた。
『……あ、もしもし、和泉? 俺だけどさ』
『うん。どうかしたの?』
『悪りィ、乗る予定の電車乗り遅れたわ……次のヤツでそっち行ける』
『えっ!? 遅れちゃうの? もう、ひーちゃんドン臭い!』
『そんな言うなよ……でも、必ず行く。少し遅れるけど。だから、待ち合わせ場所変更。駅前の時計の下じゃなくて……そうだな、喫茶店とかあったかいとこ入って待っててくんないか?』
『……もぅ。普段はわたしのことトロいトロいって言ってるくせにっ』
『んあー……、ゴメン! いつもんは謝るから』
『フフッ。んじゃ、分かった。約束だよっ、必ず来てね!』
その和泉の明るい返事に安心して俺は、おう、すぐ行くからな、と大見得を切る。
その時はまだ、和泉に会える楽しみの方が強かったと思う。不安、よりは。
でも時間が経つにつれてそれどころじゃなくなって来た。
『……遅いよなぁ、進むの』
ただでさえ、隣りの県へは一山越えなけりゃならない。
それが、その時は雪が降っていた。
一駅、また一駅過ぎるのに驚く程時間がかかっていた。
『――只今降雪の為徐行運転しております、多少の遅れが予想されますので御了承下さい――』
無機質な車内アナウンスに、俺は耳の奥がジリジリしていた。
和泉が、向こうで待ってるんだ。
その一心で、もう座席に落ち着けないくらいだったのを確かに覚えている。
車内にも苛立った空気が流れていた。
また、やっとのことで一駅過ぎる。いつの間にか外は山の中、そそり立っている山肌が、一面杉林とそこに降る雪で冷たいくらい静かな景色だった。
ガタンゴトン。ガタンゴトン。
列車はもどかしいスピードでその合間を縫って行く。
後、県境まで一、二駅という所だった。
けれども現実はそう甘くはない。
『――只今、この先大雪により緊急の除雪作業を行っております、この列車は×△〇信号場にて一時停車致しますので御了承を願います。尚、×△〇信号場での下車はできませんので――』
思わず、ダンッと立ち上がる。
追い討ち、いやとどめを差すようなアナウンスだった。
停車?
ふざけんな!
こっちはすぐにでも行かなきゃなんないんだ……!
そんな叫びを、俺は拳を握って腹の中に飲み込み、座席に身を投げた。
でも、それを言った所でどうしようもなく、仕方がなかった。
普段から、その路線は山越えをすることもあって強風だの何だのでよく止まっていた。そんな、珍しい話でもない。
それを、俺は……。
この、白で埋め尽くされた空を見て気付くべきだった。
その時の俺がどんな表情だったか。今にして考えてみると、容易に想像が付く。
やる方ない怒り。
背後からやって来る焦り。
それから、今になって自分の浮かれ加減を恨む思いで、暗くなって震えた顔付きだっただろう。
『和泉…………っ』
俺は、膝の震えを止めることができないまま、感情なく降り積む雪に視線を向けていた。
『――えー、お待たせ致しました、〇□、〇□です。お忘れ物のございませんよう――』
そのアナウンスを、俺はどれだけ待ち続けたか。
ドアが開くなり俺は、ザアッ、と流れ込む寒気を無視して外へ一気に走り出す。肌に吸い付くぐらいの寒さだった。
結局、列車が目的地の駅に着いたのは暮れ時、午後五時を回っていた。都合三時間強の遅れだ。
俺は焦っていた。
あの和泉のことだ。一人でいつまでも、いつまでも待っているに違いない。例え、俺が待ち合わせにもう現れないとしても……。
『和泉……ッ!!』
居ても立ってもいられなかった。
和泉の名前を、心の中で何度も叫ぶ。何度も何度も。
駅構内や駅ビルの、喫茶店、ファミレス、暖かく休められる所を片っ端に探しては繰り返し叫んでいた。
探した。
探した。
探して探して、未だかつてないくらいに探し回った。
その時ばかりは、鈍青に澱み切った暮れの雪空や、暖かに灯がともって客が談笑する店々さえ苛立たしかった。
俺にそんな景色は関係なかった。
もし、後数時間、いや数十分早く来ていれば、その景色の中に。
もしあの時遅れていなければ。
もしあの時もう少し力を出して急いでいれば。
もしあの時、浮き立った気分でなかったなら……。
周りはもうまるで別世界で、俺の背後からは冷たい風ばかりが追い迫っていた。
探し回った挙句に和泉は見付からなかった。
息を切らし、立っていたのは改札前。もちろんそこにもいない。
『畜生っ……!! どこにいるんだよ……!?』
周りを過ぎ去って行く人の波と、アーケードの途切れた先の青黒い雪空を代わる代わるに見ながら俺は必死に考えた。
駅の中、どこを探し回っても和泉は見付からなかった。
もしかしたら、休めるような所が満杯だから別な所に? 有り得るかもしれない。今日はクリスマスイブだ。今まで見て回った所はほぼ全部満席状態だった。
駅前のデパート?
そこなら可能性はあるにはある。だけど、あの細かい和泉が俺にそんな大事なことを伝えないってあるだろうか?
第一俺は、ほとんど携帯の使えない列車の中だったが。
どこだ?
どこなんだ?
どこにいるんだっ?!
俺は、無駄だと知りつつも辺りを見回す。その視界のどこかに和泉がいやしないか……、と。
ただそこにいたとしたら、考えられるのは最悪の部類の展開。
結局……それは現実になった。
その時ふと、俺の目に付いたのはある『時計』だった。
駅前のバスプール。
そこに開けた広場の中央、細いポールの上に普通の丸い文字盤が付いただけの、何ら変哲もない時計。
それが目まぐるしく変わる視界の隅、蒼い硝子の大窓の向こうに文字盤の部品だけ、ポツリと見えていた。
俺は、妙に気になってそれを見詰めていた。
まさかな。
まさか、な。
まさかそんなこと……ある訳ないよな?
――刹那、凄まじい勢いである予感が俺の背を駈け上がる。
まさかな? そんなことはないだろうな。そうだよな、まさかないよなぁっ、和泉……!!
気付いた時には、俺は屋外へ向けて走り出していた。
最初の待ち合わせ場所って、あの時計の下だったよな!?
俺の中で、その最悪の予感はだんだん確信に変わり出していた。
俺がいくら待っても来ないから、それに加えて携帯に連絡しても通じないから。どうにもいられなくて、改札口に一番近い例の場所で……。
あり得る。
あり得る。
どうして気付かなかったんだ、長い間付き合って来て和泉の性格は分かっていたはずなのに。
今更、列車内だからって携帯の電源を切っていた自分に腹が立った。
こんなに和泉を待たせることになる、と知っていさえすれば……。
広場へ直通のエスカレーターはごった返していて、とても急いで降りられそうにはなかった。すぐさま階段へ踵を返しながら、ポケットの携帯を取り出す。
開いて、電源ボタンをこれでもかと押す。
『電源つけよ……早く……っ!』
階段を駈け降りながらそう思った。
実際、携帯の電源をオンにするのなんて一分とかからずにできる。でもそれが俺には、一生つかないんじゃないかというぐらい遅過ぎた。
でもそれも、ある意味無駄だったことになる。
携帯が電源オンのバイブを始める前に、俺は階段を降り切って薄暗い広場へ飛び出した。
駈け降りた勢いでふらつきながら、尚も前を睨む。
そして愕然とした。あの時計の細いポールの下に――街灯に照らされてハッキリと、青いコートの立ち姿が見えた。
……和泉?
全身の血が、一気に凍り付いた。
『和泉ぃーーーっ!!!!』
俺は、残った力の全てを振り絞って和泉の所に駆け寄る。
空間を隔てているような、灰色の雪の闇の向こう――和泉が力なく振り向いた。
『……ひー、ちゃん……』
風に消えかけたその一言は、今だって……鼓膜の奥にこびりついて離れない。
『い、和泉ぃっ……ハァッ、ハァ……何、やってんだよ!? 何でこんな、雪の、中で……』
駆け寄った時、和泉は目が虚ろで、すぐ消え入りそうな弱々しい笑顔を俺に見せてくれていた。
足下が定まらずに、ポールに寄り掛かったままで。
『ひ、ひーちゃんこそ……何かあったの……? 遅いから、どうしたのかな、って……』
だから、人の心配なんていいんだよ。
俺はその心配げな声さえ聞くのが辛かった。
『で、電車が、電車が遅れたんだよ……、除雪作業だからって。だから、だから……ゴホッ、ゴホッ……ずっと、電車の中にっ』
咳と息苦しさで、上手く言葉が出ない。
俺も実を言うと、駅の中をあちこちかけずり回ったので体力がほとんど切れていた。
でもそれがどうしたんだ。
和泉なんか、こんなに暗くなるまで俺のことを待ち続けてくれたんだぞ……!
俺は、膝に手をついてガタの来た体を落ち着かせることしかできずにいた。
『……そ、そう、だったんだ』
え?
『よかったぁ。ひーちゃんが無事でいてくれて』
その時。
俺はミリミリ言う首を無視して顔を上げた。
『な、何回……連絡しても……つながらないと、思、った――』
そこには、降りしきる雪をバックに、今まで見た中で一番儚げな和泉の笑顔があった。
それが、限界だったらしい。
和泉は次の瞬間、目をフッと霞ませて俺の肩口に倒れかかった。
『いっ、和泉?! おい、しっかりしろよっ、和泉っ、和泉っ……!!』
俺はすぐさま和泉を抱き抱える。
その時触れたんだけれども、赤くなった顔、額が異様に熱かった。逆に手は凍っているかと思う程冷たかった。
更に吐く息は不安定で荒い。
何より、苦しさに歪んだ表情が、和泉の容態をよく表していた。
ヤバい……!
俺は直感した。
そして、自分の疲労もその時の寒さも全てを忘れて、コートを脱ぐと和泉の背中にかける。
そのせいなのか、背中が凍みたように一気に冷えたけれども、それは何よりも俺の焦りと後ろに迫った恐怖がそうさせたのかもしれない。
そのまま俺は和泉を背中に乗っけて落ちないようキツく背負うと、足もおぼつかなく駅舎に向かって歩き出した。
その時点になると、もう歩くのが精一杯になっていた。
二三人、通行人が声を掛けてくれた気もするけど、そんな声ももはや俺の耳には入らない。
駅ビルの中なら、病院の一つ二つあるはずだ……。それだけを考えながら、歩く。
『ごめん……ね……ごめん……わ、わたし、は、だいじょぶ……だか、ら……』
コートの下。
熱ぼったい吐息と共に耳にかかるその震えた声に、俺は泣きそうになっていた。