天鬼空/2
家の扉を開いた僕を出迎えるものはいなかった。いつもなら葉子が出迎えてくれるのだが、今日は出迎えてくれない。竜やよくわからない少女に捕まったせいで帰宅時間が遅くなってしまったことが影響しているのだろうか?
「ただいまー」
……返ってくる言葉はなかった。台所の方から包丁の軽快なリズムが聞こえてくる。なんだ、ちゃんといるじゃないか。
僕は台所に顔を出し、もう一度あいさつをした。台座にのって料理をする葉子は無言だった。
背後から何かでつつかれるのを感じる。振り返るとそこには美雨が立っていた。
「何かあったのか? 葉子」
僕は葉子に覚られないようにぼそぼそと美雨に尋ねた。
「……邪魔」
質問の答えは返ってこなかったが、代わりに僕に対する不満が返ってきた。僕は、台所の入り口をふさいでしまっていることに気づく。あわてて道を空けた僕の横を美雨はため息をついて通り過ぎていった。葉子は相変わらず包丁でリズムを奏でている。
美雨からはいつもこのような扱いを受けているが、葉子まで僕を邪険にしようというのだろうか? 家の中で僕の肩身が狭くなっていくのを感じる。台所の中には僕の居場所なんてないかのようだ。
そういえば今朝、僕は葉子を教室に入れなかったっけ。ああ、なるほど。怒らせるには十分すぎる理由があるではないか。
美雨が葉子の袖をひっぱっている。
「ええ、わかってるにゃ。視られてるにゃ」
包丁の音が止まる。葉子は振り返り台座から降りた。
「気をつけるにゃ、空にー。何者かに監視されてるにゃ」
僕はほっとしていた。監視されていることよりも、葉子が僕を邪険にしていたのではないとわかったことが先行してしまっている。葉子は外敵を察知して感覚をそちらに向けていたのだ。
家の外から鴉の鳴き声が聞こえた。窓からは風が吹き込んでくる。
「いい加減姿をみせたらどうかにゃ?」
台所の中心に小さな旋風が起こった。風とともに木の葉が舞う。
「単なるバカ狐だと思いきや、なかなかいい感覚をもっているではないか」
風の中から姿を現したのは帰り道に会った少女だった。少女は葉子と正面から対峙している。
「……鴉、天狗」
葉子が少女を視て呟いた。少女はそんな葉子を気にすることなく僕のほうを睨んだ。肩越しにむけられる視線が鋭くて僕はまた動けなくなる。
「出て行けと、言ったはずだがな」
さっきの今で出て行くのは無理だろうなんて反論は意味を成さない気がした。
「どうして空にーが出て行かなきゃならないのかにゃ?」
「この山は私の山だ。私の許しもなしに住み着くなどありえない。バカ狐も同じだ。一緒に出て行くがよい」
少女は葉子のほうに向き直り、僕は再び動けるようになった。
「はぁあ? どうしてここがバカラス天狗の山になるのかにゃ?」
「ふっ、私を誰だと思っておるのだ?」
少女は葉子の頭の上を越えてまな板に飛び乗った。少女の勝気な顔が僕らを見下ろす。
「私の名は秋葉・K・クラマ。よもや、知らないとは言うまい」
全然知らない名前だった。鋭い声や視線に身体を固まらせた自分が惨めになった。僕の無知が伝わったのか「これだから新参者は困る」、などと呟いている。
「あなた本当にこの山の持ち主なのかにゃ?」
「当然だ! まったく、お前らのようなやつがいるから、供え物がなくなるのだ。そもそも社を山頂から下ろすとか何を考えておる。こっちはいい迷惑だ。毎日の食事もままならん」
最後のほうは嘆きに近かった。以前山頂にあった社は、参拝の不便さから山の下へおろされたらしい。葉子が痛い子を視るように秋葉のことを視ている。
「悪いことは言わないにゃ。働いたほうがいいにゃ。霊にだって人間に紛れて生活を営む者もいるにゃ」
葉子の言葉は憐れみだった。葉子は秋葉のことを可哀想な子と判断したのだ。だが、働かざるもの食うべからず、なんて言葉もあるくらいだ。葉子の主張は実に的を射ている。
「鴉天狗に仕事があるわけないだろう!」
それは心からの叫びだった。一瞬にして僕たちの空気が凍りついた。
「いや、訂正しよう。仕事ならある。そうだな、人間の言葉で言うなら『自宅警備員』というやつだ。職務中の私はお前達を追い出さなければならない。ああ、忙しい」
話が少々脱線したが結局僕らは追い出されそうになっているらしい。そして、自宅警備員は職業ではない。
「そもそもだ。そこのバカ狐は、その男にくっついていれば飯にありつけるでわないか。そんなバカ狐に私の気持ちがわかってたまるか」
秋葉は葉子に錫杖を向けて言い放った。葉子の肩が震えている。部屋の気温が上がった気がした。
「ふっ、ふふふふっ。わらわは久しぶりに頭にきましたわ」
葉子の黒い瞳が赤くなっている。葉子の尻尾が1本、また1本と増えていく。髪を結っていたゴムがはずれ金のセミロングが広がる。
「剣も持たないひよっこバカ天狗がどこまでついてこれるかしら?」
葉子の尻尾が9本になった。こうなった葉子は別人である。感情の高ぶりがこの状態を引き起こすらしい。口調も性格も変わる。暴走状態とでも言うのだろうか。
「あら? バカ狐が私とやり合おうって言うの?」
秋葉が葉子を文字通り上から挑発する。
「誰かが登場の際にばらまいた木の葉で料理が台無しになっているわ」
なべの中には木の葉が何枚か浮いていた。
「今夜のメニューは焼き鳥に変更ね」
葉子が立てた人差指の上に火球が灯る。僕は心配でならなかった。二人の今にも始まりそうな戦いのことではない。葉子の炎でこの家が全焼してしまう心配をしているのだ。
「ふんっ、バカ狐をばらせば10日は食に困らなそうね」
秋葉は八手の葉を葉子に向けた。引く気は一切ないと言っているかのようだ。葉子の火球はどんどん大きくなっていく。
「おい、美雨。何とかしてくれよ。いや、何とかしてください美雨様」
僕の今後の生活がかかっているのだ。断られようが、無視されようが、僕には他に頼れるやつがいない。自分で何とかすることもできない。
秋葉がまな板から飛び出そうとする。
葉子が火球をとばそうとする。
次の瞬間、台所には大雨が降りだした。秋葉が顔から床に墜落する。葉子の火は消え元の一尾にもどる。僕のところだけ降水量が多い気がするが気にしないことにした。
皆が皆びしょ濡れになる中で、一番濡れても問題のない格好の美雨だけが濡れていなかった。いつでも傘を差しているのだから当然なのだが……。
雨が上がる。秋葉はおでこを押さえながら立ち上がった。葉子はすっかり脱力してしまっている。
そして僕は、竜の2時間にもおよぶ抗議の意味を理解した。巫女服や山伏衣装は下着をつけないらしい。そして、両者の濡れ姿。ああ、僕は早くも竜に毒されている。
自分の姿を確認した秋葉は顔をいっきに紅潮させる。そして、僕をキッと睨むと最速をもって窓から飛び出していってしまった。
「空にーはえっちだにゃー」
片や葉子のほうは余裕の表情で僕を見つめてきた。葉子の服も透けていて、今度は僕のほうが恥ずかしくなり自分の部屋に駆け出した。途中で先に行くべきは風呂だと考え、ターンを試みるも濡れた靴下は床をよくすべり、僕は秋葉の二の舞を演じた。