天鬼空/1
5月――それは中だるみの季節。
まだ寝ていたい僕の気持ちなど勘定に入ってないように狐塚葉子は布団を引き剥がした。
「空にー、朝にゃー」
葉子がこうして起こしにくるのはいつものことだ。迷惑なことに1日だって忘れたことがない。たまにはイレギュラーを起こして忘れてくれたっていいのに、毎朝やかましいほど元気に起こしにくるのだ。
お寺の朝は早いって言うけど、ここは普通の民家である。一学生である僕が4時に起きてやる義理などどこにもないのだ。僕は枕に顔を押し付け、再び安眠に逃げようとする。
ガラガラと雨戸が開けられた。部屋が明るくなったのがまぶた越しでもわかる。どうやら太陽も平常運行で、怠けているのは人間だけだと言っているかのようだ。
それでも僕は抵抗する。仰向けになり顔を腕で覆い、起きる意志などないことを示す。
「……うっ」
葉子がお腹にのしかかってきたのだろう。馬乗りになった葉子は上下に揺れて僕の身体を揺さぶっていく。
「朝にゃー、起きるにゃー、ご飯だにゃー」
こうなってしまっては僕の安息の地は遠のくばかりである。あきらめて顔の上から腕をはずす。金髪、巫女服の幼女が目に入ってくる。
「葉子。これじゃ起きれない」
「お、おぉっ?」
黒い瞳を丸くし、間抜けな声を出して僕の上から下りる葉子の頭には狐耳がついている。金の頭に紅白衣装があまり似合わないなんて感想はとうの昔に捨てた。葉子はいつだってこの格好なのだから。
何度も言うがここは普通の民家である。山の中腹に位置していて学校に通うのは少し不便だが、普通の民家なのだ。お寺でもなければ、コスプレを売りに営業をしている店でもない。
葉子が巫女服である理由をしいてあげるというならば、それは“仕える”ということだろうか? 詳しいことは知らないが狐塚家は以前、天鬼家に仕えていたことがあったらしい。それにしても僕に仕える価値があるとは思えなかった。海外で働く両親についていったほうがいいに決まっているのだから。
「着替えがすんだら、朝食にするにゃー」
そう言って葉子は部屋をでていった。後ろで結ったポニーテイル、それからお尻についた狐の尾、2つの尻尾がふわふわ揺れる。
「あっ、二度寝したら、今度は美雨が起こしに行くにゃー」
廊下から呪詛のような言葉が投げかけられる。天鬼の家に住まうもう1人の幼女、滝河美雨は、人を起こすとき問答無用で雨を降らすのだ。あんな想いを2度としたくない僕は、眼鏡をかけ、おとなしく制服に着替えるしか選択肢がないのである。
居間に行くとすでに朝食は用意されていた。ご飯に味噌汁、焼き魚にお新香、そして煮物と実に健康的朝食だ。
「遅いにゃー、味噌汁が冷めちゃうにゃー」
葉子が箸で茶碗をたたきながら不満をこぼしている。僕は急いで葉子の隣に腰をおろし、テーブルを囲んだ。向かいに座った美雨はすでにご飯を口に運んでいる。部屋の中だというのに美雨は黄色い傘を差し、黄色い雨合羽に身を包んでいた。傘は、まるでこちらとの境界線を引くように前方に垂らされている。美雨が米粒を口に運ぶ度にちらちらとエメラルドグリーンの髪がのぞいた。
「いただきます」
「いただくにゃ」
僕と葉子も朝食にとりかかる。
朝食は葉子が作ったものだ。今は亡きおばあちゃんの味をしっかりと継承していて、毎朝この味を食べられる僕は幸せ者なのかもしれない。
「学校にはもう慣れたかにゃ?」
葉子が煮物をもしゃもしゃしながら話しかけてくる。正直、食事時に学校の話なんてやめてほしい。いや、食事時でなくても話題にしたくない内容である。
「まだ、1週間。慣れろというほうが無理あるよ」
僕は焼き魚をほぐしながら答えた。今の高校へは転入という形でやってきた。入学して1ヵ月で高校を変えなくちゃならなくなったのは、両親が海外へ働きに行ってしまったからだ。近くに親戚がいるという理由で、おばあちゃんが生前つかっていた家があてがわれた。もともと両親の仕事の関係で転校を繰り返していたが、入学後1ヶ月というのは最短記録である。はなっからこの家を使わしてくれていればよかったのに、と思うこともしばしば。
僕が学校に慣れるということはないだろう。1ヵ月月遅れで入ってきた新参者に社会は厳しかった。すでにグループが形成されていて僕の入る余地などなかったのだ。ましてや登校初日、雨など降っていないのに髪を気持ち悪く湿らして教室にやってきた僕には、“変な奴”というレッテルがはられた。そんな変質者をグループに入れようとするものは誰一人現れなかったのだ。
もっとも、今までの学校生活において、僕が何らかのグループに入ることなど一度もなかったのだけど……。
「ごちそうさまにゃー」
隣で葉子が食事を終えたのを見て僕は、残りをいっきに口へとかきこんだ。
向かいの美雨も食事を終え、無言で立ち上がる。美雨が立つ際、合羽の裾の隙間から青いスクール水着がチラッと視えた。どうしてこんな格好をしているかなんて、野暮なことは訊かない。葉子が年中巫女服なのと同様に、美雨は年中スク水に雨合羽なのだから。
美雨が台所からヤカンと湯のみを持ってくる。ちなみに僕の湯のみだけなかった。ヤカンに水は入っていない。しかし、美雨が手をかざしているだけでヤカンは水で満たされる。それを受け取る葉子は自分の手がガスコンロであるかのように火をおこしてみせるのだ。かくしてヤカンの中はお湯で満たされる。毎朝視る光景なのだが、この時ばかりはこの家の人間は僕だけなのだと痛感せざるをえない。
“化け狐”の葉子に“河童”の美雨。いわゆる“霊”というものである――
僕は俗にいう視えてしまう人で、以前通っていた学校で他者とのつながりができなかったのは、このことに原因があるらしい。
ここは普通の民家である。ただ、ちょっと住民が普通ではないのだ。それでも自分だけは普通だと思ってしまう僕は普通というものを履き違えているのかもしれない。
***
学校に向かう僕と葉子。自転車なんて便利な物をもってない僕は徒歩で一時間弱もの道を行かなければならない。別段それを苦だと思ったことはない。学校にいる時間の方が僕にとっては苦痛なのだから。
言っておくが葉子は学生ではない。こうしてついてくるのは僕がちゃんと学校に行くかを見張るためだとか。まあ、おかげで僕はひきこもりにならずにこうして学校に通えている。その点感謝しなければならないのだろうが、正直複雑だ。
学校の正門が視えてくる。
「ここまででいいよ」
後ろの葉子に振り返ることなく言った。
「今日はボクも教室までついてくにゃ」
「えっ?」
「大丈夫にゃ。ちゃんと霊体化するから、他の人間に気づかれることはないにゃー」
霊というものは本来人を化かす者で、人が視認することで始めて成立する。よって、霊というものは基本的に視認できる“実体化”と視認できない“霊体化”を使い分けるのだ。しかし、どういうわけか僕には霊体化した霊まで視ることができてしまう。そういう意味で、僕は視える人なのだ。
「さっ、早く行くにゃー」
僕は葉子の顔を一瞥し、ため息をついて教室へ向かった。僕は霊体化うんぬんを気にしているわけではないのだ。
教室に着くまでの間、葉子は校内をまるで水族館の魚を眺めるように視ていた。
「おおっ? ここが空にーの教室かにゃ。では……」
ドアに手をかけようとする葉子。僕は巫女服の襟をつかんでそれを制止する。
「にゃっ!?」
「お前はここまで」
周りの人間に覚られないようにぼそぼそと呟く。葉子が抗議の台詞をいろいろ並べてくるが全部聞き流した。廊下でわめき散らす葉子を置いて僕は教室に入った。
「ああ、勝手にドア開けるなよ。このドアは自動ドアじゃないから」
そう言って僕はドアを閉めた。少し乱暴に閉めてしまったが、僕に感心のあるクラスメイトなんていないから問題ないだろう。葉子が廊下で騒いでいるが気にしないことにした。
僕は仲間内で談笑するさまざまなグループの横を通り過ぎ、追いやられるように窓際の席についた。自分の席がここであることは不幸中の幸いだろう。だって、外を眺めていれば目のやり場に困らないのだから。
「おはよう、空君」
クラスで浮いた僕にも話しかけてくる人がいる。長月瞳、このクラスの委員長だ。黒髪ロングにレンズの小さい眼鏡、ビシッと着こなされた制服はまさに委員長にふさわしい。
「お、おはよ」
委員長だからといって皆にあいさつしなくてもいいのではないだろうか? とりわけ僕みたいなはみだし者はほっといてほしい。
「それにしても、廊下が騒がしかったわね。『空に、空に』って、空にUFOでも視えたのかしら?」
ドキリとした。霊体化した葉子の声が一般人に届くはずもないのだから。もしかしたら、委員長は……。
「今、UFOと言わなかったか? いいんちょ」
金髪のツンツン頭が現れる。赤と緑のオッドアイをしたイケメンがUFOという単語に敏感に反応した。
「あら、おはよう。乙坂君」
委員長は現れた身長180は越える大男にあいさつをした。乙坂竜、何もしなければみれるという残念なイケメンらしい。残念なというのはこういうオカルト思考なことをいってるのだろうか?
「ああ、おはよういいんちょ、そして転校生」
なぜだか、ついでにあいさつをされた。
「あ、おはよ……えーと」
「竜だ! 俺のことは竜と呼んでくれて構わない。俺も君の事は空と呼ばしてもらう。ふっ、空に竜。相性抜群ではないか。一週間観察してわかったよ。空は俺と肩を並べて歩くにふさわしいとね」
面倒なやつに捕まったと思った。委員長は、あまり変なこと吹き込まないでよね、なんて言っていてより僕を不安にさせた。
「俺のことが気になるかい?」
椅子に片足をのせた竜が探るような目で僕を視てくる。
「いいだろう。友達の空には少し俺のことを話しておこう」
いつの間にか友達というカテゴリに入れられてしまっていることに僕は眉をよせた。
僕が転校してきたときから竜は1人だった気がする。僕が1人でいるのとはまた違う感じだ。他を寄せ付けないオーラを放っていて、それは“孤高”という表現がぴったりだった。しかし、孤高というのは孤独と同義で、結局のところ僕たちは似た物同志なのかもしれない。そんなことを考えてしまうのは、どこかで僕も人との繋がりを求めているところがあるからかもしれない。それでも、僕にだって友達を選ぶ権利ぐらいあると思う。
竜は椅子に片足をのせたまま額に手をあてた。
「俺には次元と次元を結ぶ秘められし力が備わっている。境界の打破。世界と世界の橋渡しをする使徒なのだ」
言葉がでなかった。むろん、ひいたという意味だ。ああ、残念なのはこっちの意味か……。委員長の黄色い瞳も可哀想なものを視るようである。竜が僕の前の席に腰を下ろす。そこはお前の席ではないだろうに。
「さて、あいさつも済んだことだし。空にはこれを渡しておこう」
竜はひいている僕たちなどお構いなく、学ランのボタンを外し始めた。中にYシャツは着ていなく、Tシャツにあしらってあるアニメキャラが顔をのぞかせた。
竜は内ポケットから1枚のCDを取り出した。
「これを是非プレーしてみてくれ」
CDのパッケージには美少女キャラがあしらってある。
「ぼっしゅーです!」
突然大声を上げた委員長が竜の手からCDを取り上げた。
「あっ、何をするのだ、いいんちょ。これは俺と空の友情の証。いくらいいんちょでもそれを取り上げることは許さんぞ」
委員長は肩で息をして顔を紅潮させている。
「乙坂君。これの意味わかってるかしら?」
委員長が赤い顔でパッケージに書かれた“R‐18”の文字を指差す。
「ふっ、当然じゃないか」
そんなことは愚問だと言わんばかりに竜は答えた。
「あなた、今歳いくつかしら?」
「16に決まっている」
「2つ足りないじゃないのー」
委員長の顔がまるでリンゴのようになっている。
「何を言ってるんだ、いいんちょ。それはアルファベットの“R”は18番目ということを示しているのではないか。ちょっとした知識も示している。遊び心とでも言おうか。そういう点でもこのゲームは評価できる」
「とにかくこれは没収です!」
そう言った委員長はそそくさと教室からでていってしまった。きっと竜には何を言っても仕方がないということを委員長は知っているのだろう。僕にだってそういうタイプの人間であることは気づけるのだから。
「まったく。貸してほしいなら、そう言ってくれればよいものを」
委員長の背中を視ながら竜はそんなことを呟いた。僕は竜にあれは貸してほしいわけじゃなかったなどとは言わなかった。
竜が前の席から立ち上がった。僕はようやく解放されると淡い期待を抱いたのだが、単に窓から外を眺めるためで、僕の期待は裏切られた。結局、僕と竜の距離はたいして変わらない。
「なあ、空。金髪に巫女服ってどう思う?」
「えっ?」
金髪に巫女服なんて毎日視ている。どうして竜からそんな言葉が飛び出すのか? 校庭を見下ろすと、教室に入ることをあきらめた葉子が帰るところだった。振り返ってこちらを視てくる竜。今にも葉子のことを指摘されそうで気が気でなかった。
「いや、最近のゲームにはそういったキャラを取り入れる傾向があってだな。金髪だけではない。それこそ緑だったり赤だったりと多岐にわたっている。でもな、巫女服といったら黒髪だと思うわけだ。これは俺が閉鎖的考えすぎるだけなのだろうか?」
顎に手をあて考え込む竜。僕はこの問いに何と答えればいいのだろうか。
考える僕を助けるように予鈴が鳴った。
「おっと、時間だ。この質問はまた今度にするよ」
そう言って竜は自分の席へと戻っていった。教室に先生が入ってくる。その後ろから相変わらず顔の赤い委員長も入ってきた。
朝のホームルームの後、竜が職員室に呼ばれたのは言うまでもない。
***
学校が終わり竜に捕まった僕は2時間近く着エロというものを語られ、ようやく解放されたところだ。普段はすぐさま帰宅する僕が、ここまで学校に残っているのは初めてのことである。
日は暮れて空はすっかり赤みを帯びていた。歩いている者はほとんどいなく、この地が田舎であることを感じさせる。風によって揺れる草木が不気味なぐらいだ。
町の中心である八衢にさしかかる頃には人なんて見当たらなくなった。八本にわかれる道の中心で何者かの視線を感じる。心成しか風も強くなった。
自然と歩く足が速くなる。山の入り口である鳥居が見えてきた。ここまでくればもう少しで家である。
「動くな!」
突如、冷徹な声が僕に投げかけられた。僕の足は自分のものではないかのように動かなくなった。辺りを見渡すも声の主を発見することができない。代わりに発見できたのは空を埋め尽くすほど大量の鴉の姿である。その鴉の1羽1羽がやかましい鳴き声をあげていた。
シャンッという金属音が鳴り響く。わめき散らしていた鴉たちが気味悪いほどいっせいに鳴かなくなった。
「どこを視ておる」
鳥居の奥から声が聴こえてきた。目を凝らすと人影が近づいてくるのがわかる。
現れたのは山伏装束に身を包んだ少女だった。銀の長い髪が風を受けてふわりと広がる。右手には錫杖、左手には八手の葉を持ち、碧の瞳でこちらを視ている。
もう一度シャンッという音が鳴り響いた。この音は少女の持つ錫杖の音だった。
上空を旋回していた鴉たちが統率された動きで下りてくる。山道にいたる道の両脇に鴉が列を成して停まった。少女がこちらに向かって歩いてくる。少女が通った道の脇にいる鴉が次々に頭を垂れていく。目の前まで来て歩を止めた少女が僕の顔を見上げてきた。
「お主がこの山に最近越してきた人間か?」
威圧するような少女の声に僕は正直に首を縦に振った。
「ここは私の山だ。客人が許可なく住み着くことは不愉快でならん。即刻この山からでていけ」
意図はわからなかったが意味は伝わった。ようするに邪魔だから引っ越してくれと言われたみたいだ。少女は僕に背を向けもう一度錫杖を鳴らした。綺麗に並んでいた鴉がいっせいに飛び立った。続いて少女は八手の葉を横に振るう。ものすごい強風が起こるとともに少女の背から二枚の黒い翼が生えてきた。僕はこの風にこれ以上目を開けていることができず目を閉じる。
しばらくして風が収まる。目を開いた僕の前に少女の姿はなかった。
今日はつくづく変なやつにからまれる日だ。そんなことを考え僕は鳥居をくぐる。
山の木々が風もないのに揺れている気がした――