前編
涙は海に流れて枯れた。
——なぜこうなった?
あの日渡した短剣の冷たい重さが、今でも手に残っている。
——なぜこうなった?
きっとやりとげると信じていたのに。
——なぜこうなった?
かわいいあの子は帰らない。
◦◦◦
人魚姫が死んだあと、
うみのすべてが泣きました。
さけぶ者、怒る者、嘆く者、動けなくなる者。
波は荒れて塩からくなり、冷たさを増しました。
そしてすこうし、すこしずつ、
日常を取り戻していったのです。
……4番目のお姉さんをのぞいては。
◦◦◦
恋をして、夢を見て、犠牲を払って、裏切られた私の妹。
声に出して泣くことも許されなかったちい姫よ。
泡と散った姫の苦しみを、あいつは知らない。
許さない。
人間の分際で我が妹を死に追いやったあの男。
今度こそ私が手にかける——。
◦◦◦
4番目の人魚姫は、強い意志の持ちぬしでした。そして、とても激しい気性の持ちぬしでもありました。
その力強さは父である王さまが、これほど頼れる娘はいないとほめたたえるほどでした。
◦◦◦
ちい姫を人間に変えた魔女は、父王が罪をとがめて幽閉していた。
伝統ある人魚の掟で、永久幽閉は最上級の罰。なまぬるいと憤ることもあったが、今はその決まりに助けられる。
誰も近づかない暗い洞穴を深く進むと、年老いた女が見えた。格子のなか、小さく身を縮めて横たわっている。
弱々しい姿は前に見たときと別人のようだ。魔女にも孤独はこたえるものか。
「我は四の姫。おもてをあげよ」
魔女はぎろりと目線をよこすと、面倒くさそうに起き上がった。
「偉ッそうに。何の用だい」
「私に妹と同じ、人間の足をおくれ。その代わりここから出してやろう」
魔女は訝しげに尋ねた。
「お前にできるのか」
「父王の力を知っておろう? 私はその片腕となり政務を執り行っておる。王家の妖力に救われる、こんな機会は二度とあるまいぞ」
「……先にわしを出せ」
「出せば逃げるであろう? 足が先じゃ」
選択肢などまるでないのに、魔女は悩んでいるようだった。返事を待ちながら、じれったさに段々いら立ちはじめる。
口火を切ったのは同時だった。
「早よ…」
「この中からは魔術は効かぬ。防がれておる」
つまり条件を呑むということ。口元がにやりとゆるむ。
「では、方法を教えよ」
魔女は簡単な呪文といくつかの材料を石に書き記し渡してきた。
忘れてはならない、今度の場合、目的を果たせば人魚に戻れるように変更させる。魔女自身の魔法よりも効力は弱くなり、期限は二日目の真夜中までという。それまでに目的を果たすこと。目的は、もちろんあの男を殺すことだ。
「これで全てか?」
「ああ」
うなだれる老女。私はその石を両手に抱くと、尾ひれを返して出口へ向かった。
「こら! お前! 出せ!」
「ああ、やってみたが、すまぬのう。やはり父王にしか開けられぬようじゃ」
ぎゃあぎゃあわめく魔女を置いてすいと泳ぎ去る。
もう二度とここに来ることはあるまい。
ちい姫を泣かせたやつは、みな決して許さない。
◦◦◦
4番目の人魚姫は牢獄の魔女から、闇の魔術を手に入れました。
それはかわいい妹が得たのと同じ、人に変身するための魔法でした。
◦◦◦
「さて。浅瀬でやらねば溺れてしまうのだな」
深い海に住む人魚にとっては、浅瀬に行くことすら久しぶりだ。空気が軽く、ふわふわと浮いてしまいそうになる。太陽が、まぶしい。
“ほんとうにやるの?”
突然アルギネスがテレパスで話しかけてきた。どうやら後ろからついてきていたらしい。
このイルカはちい姫のお気に入りで、いつもあの子のそばにいた。ただひとり、計画を知る私の味方だ。
私はその背をなでると、すぐに戻るさと伝えた。
「アグセンタアマタタ、ミリヲガネ…」
呪文を唱えながら、作った薬を尾ひれに塗りこむ。ひれはピリピリと痛み、内側から熱を発しているようだった。
尾はやがて二本に分かれ、足の甲ができ、指が生まれた。続いてかかと、ひざ……。と、順調だった変身がなにやらおかしい。変化が止まった後も、足にはみっちりと赤い鱗が生えたままだ。
「魔女め! 図ったな!」
呪文が違うのか、仕上げの材料をあえて教えなかったのか、変身はそのまま中途半端に終わってしまった。
その上、足を動かそうとすると激痛が走る。爪先が水底に触れるたび、骨がみりみりと砕けそうになった。
ちい姫もこんなつらさに耐えていたのだろうか。枯れたはずの涙がまた込み上げてくる。
かならず仇を打ってやるから。
痛みに耐えながらとにかく岸へ向かったが、慣れない足でうまく進めない。よたよたと這うようにして、どうにか近くの岩につかまった。
◦◦◦
4番目の人魚姫は、妹のかたきである人間の王子とその花嫁がどうしても許せませんでした。
だから人間のふりをして、ふたりを殺すことに決めたのです。
◦◦◦
「どうなさったの?」
なんとか波打ち際まで這い出ると、頭の上で女の声がした。なんと好都合——仇の女ではないか。
こんなに早く標的に出会えるとは思っていなかった。でも、まだ殺すわけにはいかない。この女を通して男に近づき、油断したところで二人とも血祭りにあげてやる。
「大丈夫? お召し物を流されてしまったの?」
女は履き物が濡れるのも構わず、ずんずんこちらに近づいてきた。
「あら、おみ足も赤く腫れているようですわ」
……正体に気付かれてしまっただろうか。声を取られてもいないのに、言葉が出ない。なにしろ襲うことしか考えていなかったのだ。会話など検討もつかなかった。
「そうだ、わたくし、ちょうど手違いで服が余っておりましたの。よかったらもらってくださる?」
「あ…ああ」
とまどう私を、女は城へと連れ帰った。その間足の痛みに耐えきれず体にもたれかかるようにしても、文句ひとつ言わなかった。
城に着くと、召使いたちがあれこれ世話を焼いてくれた。
砂を払い髪をとき、ドレスを着て靴を履くと、姿見に映る自分の体が本物の人間のように見えた。それは決して気持ちのいいことではなかった。
◦◦◦
かたきである姫に、4番目の人魚姫は簡単に出会うことができました。
彼女にとってその偶然は、まるで天の神様のおぼしめしのように思われるのでした。
◦◦◦
連れられた後はてっきり下女か何かにされるものと思っていたが、女はまるで私の正体を知っているかのように丁寧に接した。
「お友達になってくださる?」
驚くことにそう言い出すと、足の不調を気遣ってわざわざ部屋を訪れては菓子やら茶やらをすすめてくる。根が話好きらしく、放っておくと好きな音楽や詩について一人熱く語り続けた。
「わたくし、この城に来たのは最近ですの。似た年頃の女性がいると聞いて楽しみにしていたのだけれど、わたくしと入れ違いの時期にいなくなってしまったらしくて」
どきん、とした。
「いまはあなたとこうしてお話しできるのが、とても嬉しいわ」
私もお前が隙だらけで嬉しいぞ。しなやかで細い首。今にもたやすく手折れそうな……。
白い首筋に指を伸ばそうとした瞬間、話しかけられてはっとした。
「いきなりごめんなさい。失礼でしたわね」
「いや、聞きとれなくて」
そうだ、早まってはいけない。男に近づくまで、あと少しの辛抱だ。
「あなたには、恋慕う方がいらっしゃるのかしら、って」
「何者かに心を乱されることは、あまり好きではないな」
「そうですの。わたくしの夫は——」
女が口ごもる。なにか弱みを握れるだろうか。
「悩みがあるのか?」
「いえ、そんなたいしたことでは……。王子はわたくしと話しているときも、ときどき目線が遠く——ほかの世界を見ているようなことがあるのです」
「…気のせいではないか」
声が震えた。ほかの世界——…まさかちい姫のことを? それは買いかぶり過ぎだろうか。
女は悲しそうに首を横にふる。
「わたくしではない誰かを求めているのでは、と感じたこともあります。けれど今おそばにいるのはわたくしだし、これからもともにいたいのです」
たとえば……、
「たとえばもし、そのために誰かが不幸になっても?」
「わたくしが王子を愛することが、人を不幸にしてしまうのですか」
女は顔をしかめて考え込んだ。
「では、その方と話し合いますわ。みなでしあわせになる道があるかもしれませんもの」
夕日に照らされた横顔がちい姫に重なって見えた。意志の強い、恋する瞳。素直で真っ直ぐ、純粋な——。
こいつは殺せない、そう思った。
死ぬのは男だけでいい。
「ねえ、明日はあなたの絵を描かせてくださる? わたくし、絵が大好きなの」
小さな約束と笑みを残して、女は部屋を去っていった。
◦◦◦
4番目の人魚姫は、王子の花嫁を見逃してやることにしました。
その心根が、真珠のように美しいことに気づいたからです。
◦◦◦
夜が更けた。
城中が寝静まったころ、私は壁を伝いながら目的地を目指していた。昼間案内をうけたところによると、この先突き当たりが王子と姫の寝室だ。
広い広いベッドに二つの人影。迷わず大きい方に向かう。
聡明そうな顔立ち、がっしりした体躯、日に焼けた肌。間違いない、この男だ。諸悪の根源。憎み続けてきた我が仇。
やっと思いを遂げられる——。持ってきたナイフでひと思いに突こうとしたそのとき、
《おやめください!》
一瞬手元に風が吹き、そんな声が耳を流れたように思った。甘やかな、鳴るような響き。あれは風音か? それとも——。
ふとベッドの反対側に目線を移すと、女がきれいな顔をして眠っている。
明日もしあわせな日常が続くと信じている顔だ。
絵を描くとか言っていたっけ。その日常にはもしかすると、私の姿もあるのかもしれない。
男を殺せば、この女はどれほど悲しむだろう。これからの人生をひとりで生きることになる——。ナイフを持つ手が少しゆるんだ。
愛する者を失うことはひどくつらい。その事実を、私は残念なことに知りすぎていた。
あと一日。せめてあと一日やろう。この人間のために。
先延ばしにする苦々しさを心の中にかみしめながら、私は来たときと同じように、あてがわれた部屋へと戻っていった。
◦◦◦
王子の寝室へと忍び込んだ4番目の人魚姫でしたが、あとすこしのところで一日目の機会をのがしてしまいました。
それにしてもあの風は、一体なんだったのでしょう。
◦◦◦