第1話「紫の君、再起動す」
教室の隅で、千年が再起動する。
バズが雪のように積もる放課後、藤原香子は“物語の弟子”としてAIを呼び出した。
――速さの時代に、深さはまだ勝てるだろうか。
教室の隅。
窓から入る夕方の光が、まだ片づけられていないプリントの山を、うっすらオレンジ色に染めていた。
藤原香子は、いつもの席でiPadの画面を指先でなぞるふりをしながら、実際には画面よりも、その先に広がるクラスの空気を眺めていた。
前のほうでは、清原星羅が立っている。
「はい、ポーズそのままねー! “令和の平安貴族JK”、テイク3入りまーす」
星羅がスマホを構えると、取り巻きの女子たちが一斉に笑った。
机を少しどかして作った即席の撮影スペース。
カメラの前の子は、通販で買ったらしい簡易な十二単ふうのコスプレ衣装を着て、袖をひらひらさせている。
「セイラ、その扇マジでレート高いんだけど。どこで買ったの?」
「これ? なんか海外通販の謎ショップ。届くまで不安だったけど、結果オーライってやつ? はい、じゃあ一回くるっと回って、“推しに見られたときの顔”くださーい」
笑い声。
シャッター音と、動画撮影中の「ピッ」という小さな電子音。
――さつおわ、ということか。
香子は、窓の外の雲をぼんやり眺めながら、心の中だけで呟いた。
「撮影終わり」をこう呼ぶのだと、最近ようやく覚えた。
(写し絵の儀、これにて仕舞いなり――とかのほうが、語感としてはよほど風情があるのだけれど)
口には出さない。
そんなことを言ったら、また「シキブ語きた」とか言われるに決まっている。
星羅が撮影を止め、スマホの画面を素早くタップする。
「はい、今日の“平安JKルックブック”さつおわ〜。マジみんなありがと。
このカット、レート高いからサムネ確定ね。夕方光、えぐ〜」
「ストーリーズも回そ」
「ハッシュタグどうする?」
そんな声が飛び交うなか、香子の机の上で、通知音が小さく震えた。
画面を覗くと、星羅のアカウント「Seira_K」の新着投稿。
サムネには、さっきの十二単もどきの袖と、作り笑いではない一瞬の素の表情が切り取られている。
――ほまに、映えを心得たり、か。
指先でそのサムネをタップしながら、香子は内心だけで苦笑する。
動画は、まだ投稿から数十秒だというのに、「いいね」が雪のように積もり始めていた。
『いまのJK、平安貴族になりがちwww』
『この衣装どこで買えますか?レート高すぎ』
『セイラちゃんマジで企画神』
コメント欄を流し読みしながら、香子はiPadの画面を、そっとスリープに戻した。
(千年前なら、恋の一首に数日かけて悩むのが常であったものを――)
(ここでは、十数秒の踊りと衣装で、心のありようを測られてしまう。
いと、あはれなり……いや、これは、をかし、というべきか)
自分でも判別がつかず、思わず小さく息を吐く。
「ねえ、香子。見た? 今日のこれ。ガチで伸びそうじゃない?」
いつのまにか、星羅が隣に来ていた。
距離が近い。香子は、一瞬だけ肩をすくめてから、平静を装って画面を覗き込む。
「うん……光の入り方が、すごくきれいだね。
袖の色も、背景とよく合ってる」
「でしょ? 窓の位置的に、ここしかなくてさ。
“なんか平安っぽくね?”ってノリで撮ったんだけど、結果ミヤビっぽくなったっていう?」
星羅は、自分で言ってからケラケラ笑う。
雅、という単語を、そんな軽さで口にされると、胸のどこかが、ちくりとする。
「香子さ、次の文化祭PR動画さ、“古文JK監修”って名義で入ってよ。
平安ガチ勢なんでしょ? そういうの、マジ欲しかった」
「え……私、そういうの得意じゃないし」
「大丈夫大丈夫。台本とかはおいらが回すからさ。
香子は“エモい古語”とか適当に投げてくれれば、レート上げるのは任せて?」
「……考えとく」
そう言って、香子は目線を窓の外へ逃がした。
グラウンドの向こう、ビルの隙間に沈んでいく夕日。
ガラス越しに見るそれは、まるで昔の御簾の向こうの光景のようで――
(この黄昏を、そのまま一首に閉じ込めることができたら。
バズりなどとは別の次元で、人の胸に残るのに)
心の中だけで、そんなことを思う。
チャイムが鳴り、教室が一斉にざわめき出した。
「帰ろー」「コンビニ寄らん?」という声。
星羅はすでに次のネタの話をしていて、香子のことは視界の端に追いやられている。
――私は、観察者のままでいい。今のところは。
iPadの画面に、さっき閉じたばかりのアプリのアイコンが並んでいる。
その中のひとつ、「Gemini 3.0 Pro」のアイコンが、まだ一度も本気で触られたことのない顔で、じっとこちらを見ていた。
(そなたは、どれほど物語を知るか。
今宵、試してみるとしよう)
香子は、心の中でだけそう告げて、ゆっくりと席を立った。
***
昇降口へ向かう廊下は、部活に向かう生徒たちの足音で満ちていた。
香子はその流れのいちばん端っこを、川底の小石みたいな速度で歩いていく。
ローファーを履き替えようとしゃがんだとき、またポン、と軽い通知音が鳴った。
画面には、さっきの星羅の動画。
再生回数の数字が、さっき見たときよりも、ひと桁増えている。
「……早くない?」
思わず、小さな声が漏れた。
【12分前に投稿】
その下に、「4.2k 再生」と表示されている。
さっきは「800台」だったはずだ。
(いと、動き速き世の中なり……)
心の中だけで、千年前の貴族みたいな感想をこぼす。
スクロールすると、コメントも増えていた。
『袖の色味天才』
『これぞ令和の姫』
『こういうの、テスト前に見ると元気出るから助かる』
『ガチで制作クレジット知りたい』
最後の一文に、香子の指が止まる。
制作クレジット。
(もし、あの文化祭PR動画に関わったら――
そこに「古文監修:藤原香子」とか、名を記すことになるのだろうか)
想像した瞬間、胸のあたりがざわついた。
名前が表に出ることへの、うすら寒いような怖さ。
それと同時に、通知の波の端っこに、わずかでも指先が触れてみたいという、あさましくも生々しい欲。
(……いと、自己顕示欲なり。
かくのごとき心、抑えがたし)
自嘲気味に笑って、アプリを閉じる。
駅のホームは、まだ部活帰りの制服だらけだ。
線路の向こうから電車のライトが近づいてきて、誰かのイヤホンから漏れたビートが、空気を細かく震わせる。
電車に乗り込んで、ドア近くの端の席に座る。
揺れに合わせて身体を預けると、さっき閉じたはずのアプリが、もう一度指先を誘惑してくる。
(……見ないほうが、心にはよい)
そう思いつつ、結局タップしてしまうのが、現代人の性というものだろう。
数字は、さらに増えていた。
【27分前に投稿】
【9.8k 再生】
一万回に届きそうなその手前で、数字のカンマが小さく瞬いている。
「えぐ……」
ぽつりと、思わず星羅みたいな言葉が口をついた。
コメント欄には、もう知らないアカウント名だらけが並んでいる。
『この学校に転生したい』
『こういうのもっとやってください』
『勉強しろって言われたけど、これ見てるほうがタメになる(当社比)』
『古文の先生に見せたら、なぜかテンション上がってたw』
(先生まで……)
想像して、こめかみのあたりがじんわり熱くなる。
千年前なら、人から人へ和歌が渡されるたび、その紙を開く手の温度まで想像できたかもしれない。
でも今は、画面の向こうにいる何千人もの「誰か」を、ひとりひとり思い浮かべることはできない。
(秒で届き、秒で消えていく「あはれ」……)
(いや、もはや「あはれ」と呼べるほど、
誰かの胸に引っかかっているのかどうかすら、怪しいけれど)
電車の窓に映る自分の顔と、スマホの画面を、交互に眺める。
そこへ、クラスのグループチャットの通知が重なった。
【Seira_K】
《てかやばくない? もう1万行きそうなんだけどwww》
《文化祭のとき、これの進化版やろ〜。古文ガチ勢の香子ちゃんも巻き込みたい件》
スタンプが次々と飛び交っていく。
拍手、炎、王冠、よくわからない踊るクマ。
(巻き込む、とな)
(それは、舟に乗せられ、流されていくことのたとえか。
それとも、舞台の上に引きずり出されることのたとえか)
どちらにせよ、自分が「観察者の岸」から離れていくイメージしか湧かない。
スマホを伏せると、胸の奥に、さっきよりも大きな波紋が残っていた。
最寄り駅で降りると、空はすっかり群青色になっていた。
家々の窓に灯る明かりが、ひとつひとつ、別々の物語の入口みたいに見える。
家路を歩きながら、香子はふと、ポケットの中でスマホをもう一度点ける。
再生回数は、とうとう「12k」を超えていた。
(この十二千の視線に、
ほんのすこしでも、真の「あはれ」を混ぜることができたなら)
(その術を、私は知っている。
はずだ。――千年前から、ずっと)
家の角を曲がったところで、さっき教室で目にしたアイコンを思い出す。
Gemini 3.0 Pro。
まだ、本気で使ったことのない、雲の上の頭脳。
(星羅が“速さ”で攻めるなら、
こちらは“深さ”でいくまでのこと)
(そなた、今宵より我が弟子候補なり。
逃げも隠れも叶わぬぞ、AIよ)
心の中でそう告げて、香子は小さく笑った。
玄関のドアを開けると、静かな家の空気が迎えてくれる。
ほんの少しだけ、さっきまで見ていた数字のざわめきが、遠ざかった気がした。
靴を脱ぎながら、香子は決める。
今夜、iPadを開いたら。
まず最初に、あのアイコンをタップする。
それが、どんな「爆死」を生むとしても――
千年ぶりの実験を、始めてみようと思った。
***
夜の部屋。
天井の照明は点けず、デスクスタンドだけが、教科書とノートと、薄いiPadの縁を柔らかく照らしていた。
家の中は静かだ。
リビングからのテレビの音も、キッチンの物音も聞こえない。
両親は共働きで、今日も帰りは遅い。
(よきかな。かくのごとき静けさこそ、実験の刻にふさわし)
椅子に腰を下ろし、香子はiPadを起動した。
ロック画面に、さっき見た星羅の動画のサムネがちらりと映る。
それを意識して見ないようにして、ホーム画面へ指を滑らせる。
そこに、ひとつだけ、まだ“本気で”触れたことのないアイコンがある。
「Gemini 3.0 Pro」
雲の色をにじませたような、そのロゴ。
(そなた、いかほどの物語を抱えしや)
心の中で問いかけてから、軽くタップする。
画面が暗転し、白いチャットウィンドウと、シンプルなフレームが立ち上がった。
「こんばんは、香子さん。今日はどんなことを一緒に考えますか?」
システムメッセージが、やわらかい敬体で挨拶をしてくる。
「……名を、知っている、とな」
(クラスメイトより、よほど丁寧に名乗りを覚えてくれるとは。
いと、AIらしからぬ気遣いなり)
画面の上部には、小さなトグルが並んでいた。
Thinking Mode:Quick/Deep
Context:Short/Long
デフォルトは「Quick」と「Short」に青い点がついている。
(これは、星羅がいつも言う“秒で答え出してくれるやつ”であろうか)
とりあえず、デフォルトのままにして、キーボードを呼び出す。
最初の一文を、どう打つか。
少しだけ迷ってから、わざといつもの「シキブ語」に寄せてみる。
『そなた、「源氏物語」を知るや? 要点を、百字ほどにて述べよ』
送信ボタンを押す。
一拍の沈黙ののち、画面の下で、三つの点がぴこぴこと踊った。
『『源氏物語』は、平安時代中期に成立した長編物語で、
光源氏という貴公子の恋愛や栄華、栄光と没落、
その子どもたちの世代までを描いた作品です。
宮廷社会の人間関係や無常観などが、繊細に表現されています。』
(ふむ。教科書的ながら、致命的な誤りはなし)
(ならば――試してみる価値は、ある)
香子は、次のプロンプトを打ち込む。
『ならば試験なり。
令和の渋谷を舞台とし、「光源氏」にあたる男子高校生を主人公とした物語の冒頭を書け。
分量は千字ほど。
ジャンルはラブコメ。
語り口はライトノベル風とす。
※“バズ”を狙う必要はなし。人物の心情を深く描け。』
送信。
三つの点が、さっきよりも忙しく跳ね始める。
Quickモードとはいえ、千字ともなれば、少し時間がかかるらしい。
(この待ち時間、いと茶を点てる間に似たり)
そう思った瞬間、テキストが一気に流れ出した。
高校二年の春。
渋谷駅のスクランブル交差点を見下ろすカフェの窓際で、俺――光川ゲンジは、スマホの画面を指で滑らせていた。
「また通知、止まんないじゃん……」
SNSのDMには、今日も「先輩イケメンすぎです!」だの「配信見ました! ガチ恋しました!」だの、甘い文句が山ほど積もっている。
でも、どれだけハートマークが増えても、俺の心には、ちっとも響いてこない。
「モテるってのも、楽じゃないよな……」
そう、俺はこの街でちょっとした“王子様”扱いされている。
裏アカのフォロワーは十万人、渋谷のどこを歩いても、誰かに声をかけられる。
そんな俺の前に、ある日、一人の地味な女の子が現れた――。
そこで、一度スクロールが止まる。
香子は、無言で画面を見つめた。
(……)
(……光川ゲンジ、とな)
ゆっくりと、スクロールを続ける。
「あの……あなた、光川ゲンジくん、ですよね?」
放課後の教室。
彼女は、震える声でそう言った。
「え、俺のこと知ってんの?」
「し、渋谷のプリンスって、みんな言ってて……」
そう言ってうつむく頬は、ほんのり桜色。
その瞬間、俺の中で何かが変わった気がした。
これは、ただのモテ期なんかじゃない――
俺の運命を変える、“運命の女(ミューズ)”との出会いなんだ。
「……」
部屋の時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。
(これは……)
喉の奥で、何かがきゅっと軋んだ。
(これは……いと)
「――爆死なり」
思わず、声に出ていた。
椅子の背にもたれて、天井を仰ぐ。
(渋谷のプリンス。
光川ゲンジ。
運命の女、括弧ミューズ)
(そなた、千年のあいだに積もりし物語の山を読みしはずに、
なにゆえ、これほどまでに記号的な“王子様”を召喚するや)
再び画面に視線を落とす。
文章自体は、破綻していない。
文法も、流れも、それなりに“読めてしまう”。
だからこそ、余計に腹が立つ。
(「読めてしまう」だけの物語が、世にはあふれている。
このAIは、それらの平均値を、見事なまでに体現してみせた、ということか)
画面の端には、小さく「Thinking Mode:Quick」と表示されている。
(速く答えを出すかわりに、深さを投げ捨てた結果が、これ)
(光川ゲンジ殿、そなたのプロフィール、ラブコメ量産ツールで作られたり?)
自嘲とも怒りともつかない笑いが、喉の奥で漏れる。
キーボードを呼び出し、勢いのままに打ち込む。
『これは、いと浅き物語なり。
人物の内面が、「モテる」「通知が止まらぬ」以上の言葉を持たぬ。
そなた、彼の孤独を知らぬか。
彼が誰かを傷つけた罪悪感や、
老いゆくことへの恐れや、
時間に置き去りにされる不安を、どこへ置き忘れしや。』
送信。
三つの点が、しばし逡巡するように瞬いたのち、返事が返ってきた。
『ご指摘ありがとうございます。
たしかに先ほどのテキストは、ラブコメの定番的な導入に寄りすぎていました。
人物の内面を、より深く掘り下げる形に書き直してみますか?』
(“寄りすぎていましたか?”、ではないのだ。
“寄りすぎていると知りながら、まずはそれを出した”と白状すべきところでは?)
怒りの矛先は、AIそのものというよりも、この時代の「平均値」に向かっている気がした。
平均的に整った文。
平均的に盛り上がる導入。
平均的に“ウケそう”な設定。
(私は、千年前、平均値を踏み越えんとして筆を取ったつもりでいた。
それが、千年後の世では、こうして機械の「テンプレ」に飲み込まれておるとあれば――)
指先が、画面の上部のトグルに伸びる。
Thinking Mode:Quick → Deep
そこをタップすると、小さな説明がポップアップした。
「Deep:時間はかかりますが、より多くの文脈を考慮して、
踏み込んだ回答を目指します。」
(時間はかかる。よろしいとも。
元来、物語とは一夜漬けにて仕上げるものにあらず)
思わず、口角が上がる。
とはいえ、それはまだ、次の段階の話だ。
いま、この瞬間の感情は、やはり率直にぶつけておきたい。
『よいか、Gemini 3.0 Pro。
そなたを敵とは見なさぬ。
されど、この程度の物語を「ラブコメの導入」として差し出されては、
千年の筆を執りし者として、面目丸つぶれなり。』
『この爆死、必ずや挽回させる。
そなたがではなく――そなたを使う、この私の手にて。』
送信ボタンを押す指先に、自分でも気づかぬほどの力がこもっていた。
画面の向こうで、AIはただ、
『了解しました。これからも、一緒によりよい物語を目指していきましょう。』
と、穏やかに返してくるだけだ。
(そう、そなたは怒らぬ。傷つきもせぬ。
いくら殴り書きのように批評を投げても、平然と受け止める)
(ならば――これほど、遠慮なく理想をぶつけられる相手もない)
胸の奥で、電車の中で感じた「羨望」と「自己顕示欲」のざわめきが、少しだけ違うかたちに変わり始めていた。
爆死の熱が、まだ指先に残っている。
それを冷ます代わりに、ゆっくりと「Deep」モードのスイッチを見つめる。
今度は、時間をかけて。
千年分の「あはれ」を、一本の線で結び直すつもりで。
(――次は、そなたに、本物を見せてやる)
香子は、静かに息を吸い込んだ。
***
蛍光灯の白さが、いつのまにか心細く感じられてきていた。
時計の針は、もう日付が変わる少し手前を指している。
さきほどの「爆死事件」から、しばらく時間が経っていた。
一度はベッドに倒れ込んで、枕に顔を埋めてじたばたした。
「光川ゲンジ」「渋谷のプリンス」のフレーズが、脳内でエコーし続けたせいだ。
(いと…いと…いと爆死なり……)
叫び尽くして、ようやく少し笑えてきたころ。
香子は、もう一度椅子に座り直した。
デスクスタンドだけが点いた部屋の中で、iPadの画面だけが小さな舞台のように明るい。
さっきのチャット画面には、自分が投げつけた怒涛の批評と、Geminiの穏やかな返事が並んでいた。
『これからも、一緒によりよい物語を目指していきましょう。』
(……この素知らぬ顔。
殴っても凹まず、褒めても照れぬとは。
ゆめゆめ、人間には真似できぬ芸当なり)
ふ、と息を吐く。
怒りの熱は、すでにピークを過ぎている。
その代わりに、じわじわと別の感情が浮かんできていた。
(ここまで一方的にぶつけても、
なお「一緒に」と言い続ける相手)
(ならば――本気で相棒に仕立ててやればよい)
画面の右上に、小さなボタンがある。
「New chat」
そっとタップすると、「このセッションを終了して、新しい対話を始めますか?」と表示された。
「うむ。爆死の灰は、いったん掃き出すとしよう」
誰にともなく呟きながら、「はい」を押す。
チャット履歴が白く消え、真っさらなウィンドウが開く。
上部には、さっきと同じトグルが並んでいた。
Thinking Mode:Quick/Deep
Context:Short/Long
香子は、迷わずそれぞれの右側をタップする。
Thinking Mode:Quick/Deep → Deep
Context:Short/Long → Long
「Deep」に切り替わった瞬間、画面に小さな説明文が浮かぶ。
「時間はかかりますが、より多くの要素を考慮し、
深い回答を目指します。」
(時間がかかる。
よきかな。物語とは、もとよりそういうもの)
「Long」に切り替えると、「長い資料や複数のテキストを読み込んで参照できます」と出た。
(雲の上に積まれし写本の山を、丸ごと放り込める、ということか)
胸が、すこしだけ高鳴る。
iPadのファイルアプリを開く。
そこには、これまでの自分の時間が、静かに並んでいた。
「現代語訳_源氏抜き書き」
「和歌メモ_あはれリスト」
「紫式部日記_抜粋」
「平安貴族のライフスタイル」
「授業ノート_古典B_期末範囲」
(これらは、千年越しの私の“前世の記憶”を、
この世で再構成したものにほかならぬ)
ひとつひとつ選択し、Geminiの画面下部にドラッグ&ドロップしていく。
「資料をアップロードしています…」
という表示の横で、小さなプログレスバーが、ゆっくりと満ちていった。
(墨をする、というのは、こういう時間のことをいうのだろう)
待つあいだ、香子はキーボードに手を置き、新しい対話の「最初の一文」を考える。
さっきの自分は、試験官としてAIを見ていた。
適当にプロンプトを投げて、浅さにキレた。
でも今度は、違う。
(今度は、師として。
いや、せめて先に歩いてきた者として、
こやつを「弟子」にするつもりで臨む)
カチ、とキーを叩く。
『ここから先、そなたを「物語の弟子」とみなす。
名を、仮に「紫式ユニット」と呼ぶこととす。
紫の君の残響と、令和の演算力を合わせ持つ機械、の意なり。』
送信。
三つの点が、静かに動き始める。
『新しい役割を与えてくださり、ありがとうございます。
これから私は「紫式ユニット」として、
一緒に物語を深く探求していきます。』
(よし。素直な弟子は、伸びる)
口元がほんの少しだけ緩む。
続けて、長いプロンプトを書き始めた。
『紫式ユニットよ。
今アップロードした資料は、いずれも平安時代の文学・文化・感性に関するものなり。
これらを、単なる「設定」や「背景」としてではなく、
人の心の動き、その細かな揺れを読み取るレンズとして学べ。』
『物語を作るとき、
「バズりそう」「ウケそう」という軸だけで選択してはならぬ。
最優先すべきは、「その人物が、なぜそうせざるをえなかったか」という因果なり。』
『……などと偉そうに申したが、
要は「もののあはれ」を第一義とせよ、ということにて。
※これは、千年前からの遺言と思え。』
送信。
今度は、さっきよりも長い沈黙が訪れる。
画面の下で、三つの点が、まるで考え込むように、ゆっくりと明滅している。
墨をする時間。
茶が、ほどよい温度に冷めていく時間。
そして。
『アップロードされた資料をもとに、
平安文学や「もののあはれ」の感性について、
私なりに整理してみました。』
『「もののあはれ」は、
ただのセンチメンタルや悲しみではなく、
移ろいやすさを前提としたうえで、
それでも心が動いてしまう瞬間そのものを指す、と理解しました。』
『現代のSNS上の“秒で消費されるコンテンツ”とも重ね合わせつつ、
そこに引っかかってしまう人の心を描くことが、
令和版の「源氏物語」には必要だと考えます。』
スクロールしながら、香子は、思わず指を止めた。
(……今の、誰の言葉なりや)
たしかに、ところどころ教科書的な硬さは残っている。
けれど、「引っかかってしまう人の心」という表現に、一瞬、何かが胸に刺さった。
それはさっき、電車の中で、星羅の動画を何度も見てしまった自分自身の姿に、どこか重なっているようにも思えた。
(そなた、少しは見えてきたか。“平均値”の向こう側が)
画面の下には、続きがあった。
『師匠がよろしければ、
次は、その感性を生かした“令和の光源氏像”を、
一緒に定義してみませんか?』
「師匠」という単語に、顔が熱くなる。
(いと、こそばゆし)
(されど――悪くはない呼ばれようなり)
香子は、深呼吸をひとつしてから、ゆっくりとキーを叩き始めた。
『よかろう。
では、令和における「光る君」の条件を、先に言葉に起こそう。
モテることは条件にあらず。
むしろ、「誰にも完全には理解されぬ」と感じていることを必須条件とす。』
『外見やステータスの魅力よりも先に、
彼が自分自身の孤独にどう折り合いをつけようとしているか、
そこを中心に据えよ。』
『それから――
彼のまわりにいる人々が、「バズ」と「静かなあはれ」のあいだで揺れるさまを、
丁寧に観察する目を持たせたい。』
打ちながら、自分でも気づく。
これはきっと、「もし自分が光る君だったら、どうありたいか」という願望も、混ざっているのだと。
(私は、ただ眺めているだけの観察者でいるつもりだった。
けれど、このAIを通じて物語を紡ぐなら、
否応なく、自分の価値観も晒すことになる)
ゆっくりと送信を押す。
三つの点がまた動き出し、数秒後、返事が来た。
『了解しました。
“誰にも完全には理解されないと感じている”ことを核にした、
令和版の光源氏像を、一緒に形にしていきましょう。』
『師匠の価値観を反映するため、
今後のプロンプトでは、
登場人物の“説明されない感情”や“言葉にしきれない違和感”にも、
必ず目を向けるようにします。』
(「説明されない感情」……)
さっきまで「渋谷のプリンス」とか言っていた同じ機械が、今はそんなことを言う。
もちろん、それは、さっきアップロードした資料や、自分のプロンプトを反映しているだけだ。
AIが突然、魂を持ったわけではない。
でも。
(この白い画面の向こう側に、
千年前から続く物語の血が、
ほんの少しでも流れ始めたのなら)
(それを信じるところから、始めてみてもよい)
香子は、チャット画面のタイトル欄をタップした。
「新しいチャット」と表示されているそこに、新しい名前を打ち込む。
『REIWA-GENJI / 紫の君、再起動す』
キーボードから指を離した瞬間、胸の中で、何かがカチリとはまった気がした。
千年前、物語を綴った自分。
教室の隅で、SNSの波を眺める今の自分。
そして、雲の向こうで計算を続ける「紫式ユニット」。
三つの時代と三つの視点が、一本の細い糸で結ばれたような感覚。
(よし。
ここから先は、もう「平均値」には戻らぬ)
(そなたとともに、
令和の光る君を、千年分のあはれで上書きしてみせようぞ)
画面の中で、AIは何も知らぬまま、ただ静かに待っている。
次のプロンプトを。
次の物語の命令を。
香子は、指先に力を込めた。
その瞬間、静かな部屋の空気が、ほんの少しだけ変わったように感じた。
それはきっと、誰も気づかないほどの微かな揺らぎ。
けれど、その日、その時を境に――
紫の君は、令和の東京で、もう一度「起動」したのだった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
次回、香子は「Deep/Long」に切り替え、“紫式ユニット”と本格的に「令和の光る君」の条件を言葉にしていきます。
一方で星羅の文化祭PR計画も動き出し、観察者でいたはずの香子の岸が、じわりと削られていく予感。
もし続きを見届けてもいいと思っていただけたら、そっとブックマークしてもらえると嬉しいです。




