第81話 急転直下
私たちは翌日の早朝に蕪湖の政庁の大広間にいた。
窓から差し込む午後の光が、机に広げられた地図を柔らかく照らしていた。
昨日の孤児院での笑顔がまだ胸に残っていて、私は自然と穏やかな気持ちで孫瑜に向き合っていた。
「孫瑜殿。昨日、孤児院で子供たちと過ごすお姿を拝見して、私は確信しました。
あなたは人を育て、未来を信じる方です。
だからこそ、蕪湖に夢咲の拠点を築きたいのです」
私は地図の上に指を置き、蕪湖の位置を示した。
「ここに浮島を築き、『夢咲学術院』を設立します。
孤児院と学校を一体にし、子供たちが学び、民が集い、文化が育つ場所にしたい。
交易の拠点であると同時に、未来を照らす灯花に――」
言葉を重ねるうちに、胸の奥が熱くなり、自然と声が震えた。
孫瑜はしばし目を閉じ、やがて静かに頷いた。
「……私も同じ夢を見ていました。
九江は軍事と防衛の要、蕪湖は交易と文化の要。
二つが揃ってこそ、人々の暮らしは守られ、未来は育まれる。
星愛殿、あなた方となら、その夢を現実にできるでしょう」
紗良が微笑み、柔らかく言葉を添える。
「太守でありながら子供たちと同じ食卓に座るあなたなら、きっと人々も安心して心を預けられるはず。
蕪湖に学術院ができれば、未来を担う子供たちが羽ばたく場所になるでしょう」
孫尚香は誇らしげに兄を見つめ、笑みを浮かべた。
「兄さまが星愛殿を信じるなら、私も迷いはありません。
蕪湖は必ず栄えるわ」
孫瑜は三人を見渡し、深く頷いた。
「よろしい。私は蕪湖の拠点設置を承認します。
そして九江での交渉にも同行しましょう。
魯粛殿に直接話を通し、夢咲の志を伝えるのです」
その言葉に、胸の奥が温かく満たされていくのを感じた。
――この人となら、未来を築ける。
前夜の語らいを終えたあとも、胸の奥には温かな余韻が残っていた。
孫瑜という人物が、ただの武人でも太守でもなく、未来を見据えて人を育てる志を持つ人間だと知ったからだ。
その信頼は、もはや揺るぎないものとなっていた。
私は親しみを込めて微笑み、言葉を紡いだ。
「孫瑜さん、蕪湖の拠点設置から九江の同行まで申し出て頂き、感謝します。
私たちの先祖のギリシャ料理を孤児院に振舞い、
その後九江に向かうのはどうでしょうか?」
孫瑜の顔に柔らかな笑みが広がる。
「それは、きっと子供達も喜ぶでしょう」
こうして、私たちは孤児院でギリシャ料理を振舞った後、九江へ向かうことになった。
昼下がりの孤児院。
大きな机の上には、私たち夢咲の船乗りが用意した料理が並んでいた。
オリーブの香り、焼きたてのパンにチーズと蜂蜜を添えた皿。
子供たちは目を輝かせ、次々に声を上げた。
「わあ、こんなの初めて!」
「甘いのにしょっぱい、不思議な味だ!」
笑顔が広がる中、孫瑜は子供の頭を撫で、穏やかに言った。
「異国の味を知ることも学びの一つ。
食は文化を映す鏡だ。君たちが大きくなった時、この経験がきっと役に立つだろう」
私はその言葉に頷き、柔らかく微笑んだ。
「文化の交流が未来を豊かにする――私たち夢咲も、同じ志を抱いています」
二人の視線が交わり、温かな共鳴が生まれた。
―――――
やがて出発の時が来た。
桟橋に立つと、孤児院の子供たちが駆けてきて、元気いっぱいに手を振った。
「太守さま、いってらっしゃい!」
「また帰ってきてね!」
その声に胸が熱くなり、私は心の中で誓った。
――この子たちの未来を守るために、必ず道を拓く。
孫瑜も子供たちに向かって力強く答える。
「必ず戻る。だからしっかり学び、元気に待っていてくれ」
船が川面を滑り出すと、子供たちの声がいつまでも背中を押してくれた。
―――――
夕刻、九江の港に入ると、普段より兵の動きが慌ただしい。
私は眉をひそめ、小声で呟いた。
「……何かあったのかしら」
その時、砂煙を上げて早馬が駆け込んできた。
先頭に立つのは魯粛。
彼は馬を降りると、息を整えながら声を掛けてきた。
「港に大艦隊が入ると聞き、急ぎ参った。
まずは腹を満たしながら話しましょう。落ち着いて語る方が良い」
(赤壁で交渉していた頃の魯粛さんと、何も変わらないわね)
私が懐かしさに微笑むと、魯粛は気付き、深々と頭を下げた。
「これは星愛様に紗良様……立派になられましたな」
「魯粛、私を忘れてはなりませんぞ」
孫尚香が含み笑いを浮かべる。
「おお、これは尚香様。お変わりなく」
変わらぬ魯粛の姿に、私たちは顔を見合わせ、自然と笑みがこぼれた。
―――――
夕餉の席。
温かな灯花の下、食卓を囲んで交渉が始まった。
魯粛は慎重な面持ちで杯を置き、静かに言葉を選ぶ。
「九江は国境の要。軽々しく外の勢力に拠点を許すわけにはいかぬ」
場に緊張が走る。
しかし孫瑜が穏やかに口を開いた。
「魯粛殿。九江は軍事と防衛の要、蕪湖は文化と交易の要。
二つが揃ってこそ、人々の暮らしは守られ、未来は育まれるのです」
私は続けた。
「魯粛さん、こうして会うのは赤壁の戦以来ですね。
夏口の夢咲防衛府と同じものが、ここに築かれることを想像してください」
(少し眉が動いた……もう一押しかしら)
「孤児院で見た子供たちの笑顔を、どうか思い出してください。
九江の防衛と蕪湖の学び舎があれば、この地に光が広がります」
魯粛はしばし黙し、やがて深く息を吐いた。
そして、初めて柔らかな笑みを浮かべる。
「……なるほど。あなた方の言葉に偽りはない。
よろしい、九江に夢咲の防衛拠点を置くことを許しましょう」
その瞬間、場の空気が和らぎ、食卓に温かな安堵が広がった。
―――――
翌朝、空は重く垂れ込め、雨脚が川面を叩いていた。
私たちは孫瑜を蕪湖に送り届け、桟橋で別れを告げた。
「開発の時にまた会えるのを楽しみにしています」
そう言って手を振る孫瑜の姿は、雨に霞みながら次第に小さくなっていく。
その背中を見つめるうちに、胸の奥に熱いものが込み上げた。
――心なしか小さく見えるその姿に一抹の不安を覚えた。
やがて流星は静かに川を離れ、黄海へと進み出した。
ミレイア制御の静止衛星が導く自動航行は確かで、30ノットの速度で荒れた海を突き進む。
だが船内は不思議なほど静まり返り、誰もが明日開く手紙のことを思い、言葉を失っていた。
流星は1日かけて浮島夢咲に到着した。
夢咲島に戻った私たちは、雨に濡れた衣を乾かす間もなく、会議室に集まった。
星愛、紗良、曹英、碧衣、琴葉――全員が揃い、静かな緊張が漂う。
窓の外では、まだ雨音が絶え間なく響いていた。
机の上に置かれた封筒。
ペルセポネの名が記されたその手紙を前に、誰もが息を呑む。
私は深く息を吸い、封を切った。
紙を広げる音が、やけに大きく響く。
そして、声を張ることなく、淡々と読み上げた。
「――一週間後、孫瑜は急性白血病により命を落とす」
その瞬間、部屋の空気が凍りついた。
誰も声を発せず、ただ雨音だけが響いている。
私の声は震えず、静かに続けられる。
「……ただし、劉明が開発した多能性獲得細胞による骨髄移植で、救える可能性がある」
読み終えたとき、ゆっくりと手紙を伏せた。
誰もが言葉を失い、ただ互いの顔を見つめ合う。
淡々とした読み上げだからこそ、その内容の重さが胸に深く沈んでいった。
手紙を読み終えた後、部屋には雨音だけが響いていた。
誰もすぐには言葉を発せず、それぞれの胸に重い思いが沈んでいく。
紗良は私の隣で、唇を強く噛みしめていた。
「……一週間」
その短さに心が追いつかない。
けれど、彼女の瞳には涙ではなく、鋭い決意が宿っていた。
「絶対に助ける。どんな手を使ってでも」
曹英は腕を組み、深く俯いたまま動かない。
「病で倒れる将……そんなもの、受け入れられない」
低く呟く声には、怒りと無力感が入り混じっていた。
碧衣は両手を胸に当て、祈るように目を閉じていた。
「運命が定める死……でも、私たちには抗う術がある」
彼女は静かに息を整え、仲間を見渡す。
「奇跡ではなく、選択の結果として孫瑜を救いたい」
琴葉は震える指先で机をなぞりながら、かすかに笑みを浮かべた。
「……あの人、子供たちに『必ず戻る』って約束したんだよね」
その声は弱々しいが、確かな希望を含んでいた。
「なら、私たちがその約束を守らせてあげなきゃ」
私は皆の言葉を聞きながら、手紙を胸に抱きしめた。
淡々と読んだはずなのに、心の奥では嵐のように感情が渦巻いている。
「これは運命じゃない。未来を選ぶための試練」
そう言い聞かせるように、ミレイアを呼び出した。
「ミレイア、これはどういう事?」
ミレイアは静かに姿を現し、澪の分身のような口調で答えた。
「記録を解析してみたわ。
ペルセポネの手紙に記された内容は、未来予測アルゴリズムと医療データベースに基づくものよ。
孫瑜の血液情報から急性白血病の兆候が検出され、余命は一週間と推定できる」
彼女は一拍置き、わずかに口元を緩めた。
「ただし――完全な死の確定ではないわ。
劉明が開発した多能性獲得細胞による骨髄移植を行えば、生存確率は大幅に上昇する。
つまり、この手紙は『運命の宣告』ではなく、『選択の提示』ということね」
私は頷き、声を整えた。
「貂蝉、劉明、貂糜、小喬を呼び出して。ミレイアから説明してもらえるかしら?」
ミレイアはニヤリと笑った。
「もちろん説明するわ。あなたたちは蕪湖に戻るのでしょう?――急ぎなさい」
私たち五人は顔を見合わせ、力強く頷き合った。
次の瞬間、流星へと足を運んでいた。
―――――
翌日の昼、私たち五華は再び蕪湖に戻った。
しかし桟橋に孫瑜の姿はなく、代わりに側付の兵が涙を浮かべて立っていた。
「……太守さまが、お待ちです」
震える声に胸がざわめく。
急ぎ屋敷へ向かうと、部屋の前には孤児院の子供たちが集まっていた。
皆、目を赤く腫らし、私たちが来るのを待っている。
扉を開けると、そこには床に伏す孫瑜の姿があった。
顔色は蝋のように白く、額には汗が滲んでいる。
呼吸は浅く、時折苦しげに咳き込み、枕元には血の滲んだ布が置かれていた。
腕には青黒いあざが浮かび、手の甲には小さな赤い斑点が散っている。
――急性白血病。
その症状が、容赦なく彼の身体を蝕んでいた。
私たちは言葉を失い、ただその姿を見つめるしかなかった。
孫瑜は浅い呼吸を整えながら、側付の兵にかすれた声で命じた。
「……子供たちを、ここへ」
やがて、涙で目を赤くした孤児たちが部屋に入ってきた。
彼らは孫瑜の姿を見るなり声を上げそうになったが、必死に堪え、枕元に集まった。
孫瑜は最後の力を振り絞り、上体をわずかに起こす。
その眼差しは弱っていながらも、確かな光を宿していた。
「……これからは夢咲を頼り、おのれの研鑽に励みなさい。
学び、強くなり、未来を切り拓くのだ」
子供たちは涙を流しながらも、声を揃えて答えた。
「はいっ……! 太守さま!」
その気丈な返事を聞いた瞬間、孫瑜の表情に安堵の色が浮かんだ。
彼はゆっくりと星愛に視線を向け、かすかな笑みを浮かべる。
「……あとは、頼みましたぞ」
その言葉を最後に、孫瑜の身体は力を失い、静かに枕へと沈んでいった。
部屋の空気が凍りつき、子供たちのすすり泣きだけが響いていた。
孫瑜の身体が枕に沈んだ瞬間、私たちは顔を見合わせた。
迷いはなかった。
「……運ぶわよ」
紗良の短い言葉に、全員が頷く。
看護師が布団の端を押さえ、私たち五華も力を合わせて孫瑜を持ち上げた。
その身体は驚くほど軽く、病がどれほど彼を蝕んでいたかを思い知らされる。
雨に濡れた廊下を駆け抜け、外に停めていた星馳へと運び込む。
車輪が軋む音と共に、星馳は桟橋へと急いだ。
桟橋には流星が待機していた。
私たちは息を合わせて孫瑜を乗せ、看護師がすぐに処置の準備を始める。
「出航!」
誰かの声と同時に、流星は雨の川面を切り裂き、浮島夢咲へと向かって走り出した。
時間は残されていない――その思いが、全員の胸を強く締めつけていた。
―――――
流星は雨に煙る川面を抜け、やがて黄海へと出た。
外は荒れ狂う波と風。だが船内は不思議なほど静かだった。
誰もが声を潜め、ただ孫瑜の寝息と、機器の低い駆動音に耳を澄ませていた。
窓越しに暗い海を見つめ、胸の奥に重いものを抱えたまま黙っていた。
紗良も曹英も、碧衣も琴葉も、それぞれの思いを胸に秘め、言葉を交わさない。
沈黙そのものが、緊張を際立たせていた。
その時、通信機が小さく点滅し、ミレイアの声が響いた。
「こちらミレイア。衛星回線は安定しているわ。航路に問題なし。
ただし、波高は通常の二倍。速度を維持するなら、船体に負荷がかかる」
曹英は机の端に手を置き、震える指先を必死に抑えていた。
「……病で倒れる将を、ただ見ているしかないなんて」
その声は怒号ではなく、静かな悔しさに満ちていた。
「知識も学も持ちながら、何もできない自分が歯がゆい……」
彼女の言葉は、力強さではなく理知的な無力感を帯びていた。
だがその瞳には、必ず方法を見つけ出そうとする才女の光が宿っていた
再び沈黙が訪れる。
雨が船体を叩く音と、時折の揺れが、皆の心をさらに引き締めた。
しばらくして、またミレイアの声が届く。
「夢咲島まで残り十二時間。
医療班の準備は整えてある。……間に合うかどうかは、あなたたち次第よ」
その言葉に、誰も返事をしなかった。
ただ互いに視線を交わし、強く頷き合う。
静かな緊張感の中、流星は荒れた海を突き進んでいった。
やがて浮島夢咲のふ頭に泊まる星馳が死人できた。船は着岸した。
孫瑜は担架に乗せられ、医術院の白い扉の奥へと運ばれていった。
私たち五華はその場に立ち尽くし、ただ祈るように見送るしかなかった。
手術室の中では、貂蝉、貂糜、小喬、そして劉明がすでに待ち構えていた。
白衣に身を包んだ彼らの表情は険しく、しかし迷いはなかった。
「輸血ライン、確保」
「骨髄移植の準備を」
「心拍数、安定しています」
短く鋭い声が飛び交い、器具の金属音が響く。
劉明は冷静に指示を出し、貂蝉が素早く処置を進める。
小喬は細やかな手つきで薬剤を調合し、貂糜は患者の容態を見守りながら補助に回る。
孫瑜の顔は蒼白で、呼吸は浅い。
だが、その胸は確かに上下していた。
「まだ間に合う……」
そう信じるように、医師団の手は一瞬たりとも止まらなかった。
扉の外で待つ私たちには、雨音と心臓の鼓動だけが響いていた。
時間の感覚が失われ、ただ祈りと不安が交互に胸を締めつける。
やがて、扉の向こうから劉明の声が響いた。
「――移植、開始する!」
その言葉に、私たちは互いに顔を見合わせ、固く手を握り合った。
運命を変える戦いが、今まさに始まったのだ。
―――――
骨髄移植後、孫瑜は三日間眠り続けた。
深い闇の中、孫瑜は自分が海に沈んでいくのを感じていた。
冷たい水が全身を包み、意識は遠のいていく。
その時――潮騒の音に混じって、柔らかな風が頬を撫でた。
「……孫瑜」
波間に差し込む光の中、ひとりの人影が立っていた。
白い衣を揺らし、穏やかな微笑を浮かべる周瑜。
海風が彼の髪を撫で、まるで天と海が彼を迎えているかのようだった。
「兄上……? 私は……もう、死んだのでは……」
孫瑜の声は波に溶け、震えていた。
周瑜は静かに首を振り、風のように柔らかな声で告げる。
「まだだ。お前は生きている。
そして、これからは夢咲の人として歩むのだ。
志を授け、また受け取り、共に未来を築いていこう」
その言葉と共に、波が静かに寄せ、孫瑜の胸に温かな潮流が流れ込む。
彼は涙を浮かべながら頷いた。
「……私の志は、人を育て、学びを広め、民を守ること。
それが夢咲の志と重なるのなら、私は喜んで一員となりましょう」
周瑜は満足げに微笑み、光と風に溶けていった。
残されたのは、潮騒と風の音だけ。
孫瑜はその余韻に包まれながら、再び生の岸辺へと歩み出していった。
こうして孫瑜は、死を越え、夢咲の人として新たに生まれた。
その瞬間、夢咲の未来は、ひとつの新しい光を得た。
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