第68話 夢咲学術院
私たちは劉備たちを送りだした直後、琴葉に孫尚香に江陵府から夏口区に来るように伝言を頼み、私も孝感区に芳美を残し、曹英と碧衣、澪と黄婉貞を伴い夏口区へと澪星に乗船し移動した。
九月は大きな時代の転換期となる月で、孔明が以下のような手記を残していた。
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二百八年九月の孔明の手記より
長坂坡を後にした私たち一行は、漢水の流れに沿って南下した。
夏の盛りを過ぎたとはいえ、川面を渡る風はなお湿り気を帯び、疲弊した兵と民の顔には長旅の苦労が刻まれていた。
やがて一行は孝感に至り、夢咲星環府の厚いもてなしを受け、濁流を越えて、夢咲の最先端の艦で対岸へと渡る。夢咲の技術水準はこの世の物とは異なる神の領域にあるように思えたが、川を渡りきった時、孝感の街を見てそれは確信へと変わった。誰もが胸の奥に安堵と、これから待ち受ける新たな局面への緊張を抱いた。
夢咲の申し入れで、私は澪と最愛の妻である黄婉貞、そして私たちを頼ってついてきた難民の中から、夢咲星環府への移住を希望する民、二万五千人を孝感区に残し、そこからさらに進み、夏口の地に到着する。
城下にはすでに夢咲星環府の孫尚香と孫権配下の魯粛が待ち受けており、劉備と私は会談の席に着いた。
魯粛は温厚な笑みを浮かべつつも、その眼差しには鋭い光が宿っていた。
曹操の大軍が迫る中、ここでの言葉一つが天下の行方を左右する。
劉備は「民を思う仁」を、星愛は「夢咲の力」を、そして魯粛は「孫権の決断」を背負い、静かに言葉を交わし始めた。川を越えた先に開かれるのは、赤壁へと続く運命の道であった。
建安十三年九月末日 諸葛亮孔明記
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孝感区から夏口区はおおよそ十八里(約70㎞)、難民を伴った足だと四日はかかる距離だが、澪星で川を下れば一刻(約2時間)で到着する。
また、尚香のいる江陵府から夏口区までは50里(約200㎞)で三刻(約6時間)あれば、余裕で到着できる距離だった。
(劉備たちが夏口に来る前に、十分に裏工作ができるわね……)
「ウフフフフ……」
私は思わず口角を上げて、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「星愛ちゃん、いつから華蓮みたいに笑うようになったの?」
澪が私に尋ねてきた。
私は両手で頬をおさえ、ニッコリ笑った。
「もう、笑ってごまかさないの……
星愛は華蓮のようにはなれないから、あまり策を弄さないように気を付けなさい」
と私は澪に忠告された。
と同時に自分も策を弄する立場になりつつあるのだと自覚した。
漢川の川面には、反射する光と赤とんぼが舞い交わり、長閑な光景が広がっていた。
その長閑な光景が、嵐の前の静けさであることを、まだ誰も知らなかった。
◇◆◆ 夏口区庁舎十層・執務室 ◆◆◇
陽が沈みかけ、執務室には灯花の灯が優しく部屋を照らしていた。
尚香が到着し、孫権と劉備の対応について私たちは話し合いを始めた。
まずは私の考えを皆に話した。
「このまま曹操が武力で呉を吞み込んだとしても、劉璋や他の諸侯が黙っていないと思います……再び戦乱の時がこの国を覆うことになるでしょう」
皆が頷き、美優が口を開いた。
「孔明が天下三分の計について言っていたと聞いたことがあります……
これは、国を三つに分け、国力を貯え、漢王室を復興することを目的にしたものだそうですが……今、曹操が行おうとしていることと同じ、いずれは破綻すると思います」
私は腰を上げ、両手を卓に置いて身体を支え、前のめりになりながら……
「三国の力の均衡を守り、それぞれの国の民の安寧を作り……合議制の国として、お互い助け合うのが民の安寧の近道。
その、橋渡し役として夢咲連環府が働きたいと考えています」
常に現実を見て考えている曹英が私を見つめて問いかけてきた。
「理想論に聞こえるけど……星愛様が言うなら、夢咲がその信頼を勝ち取れるように努力するしかないですね」
『孫権の妹』という立場と『美優の聖女』という使命を両立させている、孫尚香は私の提案に強く共感するように、両手を組みながら深く頷いた。
「夢咲が橋渡し役になるなら、私も兄と劉備の間を繋ぐ役目を果たします」と言った。
美優はすでに『天下三分の計の限界』を指摘していたので、私の提案に賛同はしたものの。
「星愛の考えは正しいと思う。ただ、合議制は制度だけでは成り立たない。互いを信じる心を育てなければ、また争いに戻ってしまうでしょう……
そしてこの時代の人の子はそこまで成長していないと思います」
と冷静に補足し、合議制の難しさを説いた。
私は腰を下ろし、両肘を卓に立て両手を組み合わせて顔を支えにこやかに微笑んだ。
「実は私も合議制はできないと考えています……
でも、ここにいる人は皆、今は国を分けたまま、それぞれの国が国力を貯えるべきだと、思っていると感じました」
私は理想を掲げることで皆の心を一つにできることを実感した。
そして、皆が頷くのを確認してから、美優と孫尚香に話を持ちかけた。
「孫尚香様には孫権さんと劉備さんの仲を取り持って欲しいのです……」
私がそう言うと、
「でも、そのことをよく思わないものが出てくると思うよ」と紗良が忠告した。
私は頷いて、「表向きは劉備と婚姻を結んでもらいます」
私の発言に対して尚香が美優の方を見ると、美優は優しい微笑みを作り静かに頷いた。
「私は兄の妹である前に、美優様の聖女です……人の子との婚姻は本来できません。
ただ、形だけなら、これが夢咲のためになると言うのであれば、この役目を演じることは吝ではありません……
兄の妹としてではなく、美優の聖女としてこの役を果たします」
と尚香が答えた。
私は尚香を見て深く頷く。
「尚香様ありがとうございます。
先ずは、孫権さんと周瑜さんを欺き、婚姻の話を持ちかけてください――
きっと、孫権さんは承諾すると思います」
「それは、劉備と手を組みたい孫権にしてみれば当然の流れですね」
と美優も同じ意見を述べた。
「ただ、今回の交渉役の孔明と魯粛、そして劉備には本当のことを話す必要があります。
劉備たちがここに来る三日後までには、孫権や周瑜に婚姻の同意を貰って、魯粛をここに連れて来られますか?」
私は尚香に尋ねると
「兄上は別として、周瑜、魯粛には嫌とは言わせないわよ」と答えた。
こうして、私たちは孔明、魯粛の会談の段取りを整え……
美優と尚香に夏口区の守備を任せ、洞庭湖へと向かっていった。
夏口の街に残る灯花の光が、これからの交渉の行方を静かに見守っているようだった。
◇◆◆ 洞庭湖・夢咲学術院予定地 会議室 ◆◆◇
湖面を渡る風が窓を揺らし、夕陽が水面に反射して会議室を黄金色に染めていた。
外では工事の音が遠く響き、未来の学び舎となる建物の骨組みが少しずつ姿を現している。
私と妃良が中央に座り、周囲には澪、黄月英と黄婉貞の双子、劉明、貂蝉と貂糜、碧衣、そして紗良が並んでいた。
これから始まるのは、夢咲の未来を形作る「学術院設立会議」である。
貂糜は、かつて劉備の正室・糜夫人であった。
長坂坡で命を落としかけた彼女は、貂蝉の治療で一命をとりとめた。
拾われた命を無駄にせぬため、彼女は「糜夫人」の名を捨て、貂蝉の姉妹として、そして助手として人命を救うことを誓い、新たに「貂糜」と名乗っていた。
その眼差しには、過去を背負いながらも未来を切り拓こうとする強い決意が宿っていた。
私は全員を見渡し、会議の開始を告げた。
「戦乱の世にあっても、未来を担うのは子供たちです。夢咲はただ戦うだけでなく、学びの場を築き、民に希望を示さなければなりません。今日はその形を決めたいと思います」
妃良が頷き、議題を示した。
「初等部・高等部・学術院部の三段階教育を基本とし、入学は一月、卒業は十二月。初等部は義務教育、高等部と学術院部は入試制とします。では、各分野の意見を伺いましょう」
工学・建築学について黄月英が真っ先に手を挙げた。
「都市計画や水利工事は、民の生活を支える根幹です。
高等部から基礎を学ばせ、学術院部では実地演習を取り入れたい。
橋や堤防を設計できる人材がいれば、戦乱の世でも民は飢えずに済みます」
隣の黄婉貞も続ける。
「建築はただの技術ではありません。街並みは人の心を形作ります。
夢咲の理念を体現する都市を築くことが、未来への最大の贈り物になるでしょう」
私は今まで開発してきた街を思い出し、深く頷いた。
「夢咲の街並みそのものが、希望の象徴になるのですね」
私は皆を見渡し、歴史・法学について意見を求めた。
劉明が眼鏡を押し上げ、手を上げたので、私は劉明を見て頷いた。
「制度と記録を整えることは、戦乱の世を超えて未来に理念を伝えるために不可欠です。
歴史を学ばなければ、同じ過ちを繰り返すでしょう。法を学ばなければ、力ある者が弱き者を踏みにじることになる」
妃良が補足する。
「夢咲の理念を後世に残すためにも、記録官や法学者を育てる必要がありますね」
私が「続いて、教育学について意見を聞かせてください」
と言うと、澪が少し照れながら発言した。
「初等部と高等部を設けるなら、教える人材を育てることも大切です。
知識を持つだけでは教師にはなれません。
子供たちの心に寄り添い、導ける人を育てる学問が必要です」
貂蝉が優しく微笑んだ。
「澪の言う通りです。
教育は未来を紡ぐ糸。学術院部に教育学を置き、教師を育てる仕組みを作りましょう」
「では芸術・文学についての意見をお願いします」
私が言うと碧衣が手を上げ、静かに口を開いた。
「戦乱の世にあっても、人は歌い、物語を語り続けます。芸術や文学は心の糧であり、民を一つにまとめる力を持っています。学術院部に芸術・文学を置き、文化を育てることが必要です」
黄婉貞が頷く。
「科学や建築だけでは人は生きられません。心を潤すものがあってこそ、未来は輝きます」
「続いて医学・薬学についてお願いします」
貂蝉と貂糜が手を上げて並んで発言する。
「戦乱の世では負傷者が絶えません。
医学と薬学を学ぶ場を整え、医師や薬師を育てることは急務です。
学術院部では臨床実習を取り入れ、実際に人を救える人材を育てましょう」
劉明も補足する。
「生物学の知識と薬学を結びつければ、新しい治療法も生まれるはずです」
「最後は防衛学について忌憚ない意見をお願いします」
最後の私の問いかけに紗良が真剣な表情で口を開いた。
「夢咲が平和を望むからこそ、防衛の学問が必要です。
星環機の操作、戦術、諜報活動……
これらを体系的に学ばせることで、無用な戦を避ける抑止力となります」
私は少し考え、静かに答えた。
「力を持つことは恐ろしい。
でも、正しく学び、正しく使うなら、それは民を守る盾になる。
防衛学は夢咲の理念を守るために必要ですね」
妃良は皆の成長が嬉しかったのか、微笑みながら頷き、会議のまとめに入った。
「では、初等部は義務教育として読み書き算術と基礎学問を。
高等部は入試制で、工学・歴史・教育・芸術・防衛の基礎を学ぶ。
学術院部は洞庭湖に置き、専門分野を深める場とする。
入学は一月、卒業は十二月とし、制度を整えましょう」
全員が頷き、会議室に静かな熱気が満ちた。
私は立ち上がり、皆を見渡した。
「夢咲学術院は、戦乱の世にあっても未来を築く灯花です。
ここから始まる学びが、やがて天下を照らす光となることを信じています」
窓の外、洞庭湖の水面に映る夕陽が、まるで新たな時代の幕開けを告げるかのように輝いていた。
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