第135話 激闘たらい船③
朝の陽が運河に反射し、眩しい光が水面を跳ね返す。
足に力を込めて漕ぎ出すと、思った以上に重かった。
たらい船はゆっくりと前へ進み、速度が乗るにつれて軽い力で漕げるようになる。
左回りの流れに乗り、船は滑るように前へ進んだ。
「さあ、各船が一斉に動き出しました!」
絵蓮の声が音響器から襄陽府全体に響くが、
運河の上では、水を切る音と漕ぎ手の呼吸だけが耳に届く。
「ふぅ……ふぅ……ふぅ……」
まだ冷たい空気を鼻で吸い、口で吐く。
息を乱さないよう、一定のリズムを保つ。
(うん、なかなかいい感じに前へ進んでくれる)
「星愛、いいわよー! その調子!」
同乗している射手の琴葉が声を張り上げ、私も微笑みながら答える。
「みんなも、逆鋒矢の陣形を崩さずに、先頭の紗良の船に追従してね」
「うんうん、みんな調子いいみたいね――」
琴葉が言い終わる前に、船が突然回転し始めた。
「キャーー!」
私の悲鳴とともに、たらい船がコマのように回り出す。
「えっ、え、どうしよう!」と私が戸惑う横で、
「きゃははは!」とはしゃぐ琴葉。
私は必死に舵を回転方向と逆へ切る。
私の声に気づき、仲間のたらい船が方向を変えて近づこうとした、その瞬間――
「あら、面白い。こんなふうに回転できるのね」
「あー、斯音ったら、遊ばないでね」
「いや、恬香……この操作法、今のうちに知っておいたほうがいいと思うわ」
余裕の声が聞こえるのは、秦の四女神の船だった。
「あっ、こうなるのね」
「うん、上手にできたわね! さすが燈灯ね」
遊撃の碧衣と燈灯も余裕の表情を見せていたが――
「いやーーー! 回ってるー! とまんなーい!」
「曹英、しっかりなさい! 漕ぐ方向を逆にして、舵を逆に切ってー!」
「こぐほうこう……かじ……? えいっ、やあっ、とーーーっ!」
「曹英、そんな掛け声はいらないわよ」
「えーー、でも止まったでしょ!」
一番騒がしかったのは、曹英と燈柚の船だった。
そして、一番操船が上手かったのは――
「おーい、だいじょうぶー?」
「お姉ちゃんたち、力任せはだめよ……
たらい船の操船は、漕ぐ力と舵の繊細さが大事なのです」
狩射手の紗良と燈澄の船だった。
いったん私たちはここで話し合い、
少し蛇行しながら操船に慣れることにした。
そんな私たちの様子を、火の見櫓の上にいる絵蓮は見逃さなかった。
「灯花庵の偉い人のたらい船、いきなり回転しだしたと思いましたが……
今度は蛇行しながら進んでいるようですね」
「そうですわね。たらい船の操船が繊細だということに気づいたのでしょう」
「なるほど、敵との衝突前に少しでも慣れておくということですね」
「そうですの……ほら、ご覧なさい」
「おっとー! 今度は豪快に水しぶきを上げて回転する許褚の船だー!
こ、これは……豪快に笑っている声がここまで聞こえてきたー!」
「あら、嫌ですわね。絵蓮まで興奮する必要はなくてよ。
他もご覧なさい、どの船も回転を始めましたわよ。うふふ」
「ということは、操船が繊細だと一早く気づいた
『灯花庵の偉い人』が一歩先に行ったことになりますね!」
「結果はそうかもしれませんけれど、
誰よりも小さい燈澄が気づいていたことに、
大人たちは称賛の拍手を送るべきではなくて?」
「そ、そうですね! 最年少の燈澄に声援と拍手をーー!」
『でんちぇーーん!』『いいぞー!』『いけいけー!』
運河の上で放送が聞こえない私たちは、
突然の燈澄への声援に思わず顔を見合わせて驚いた。
燈澄は満面の笑みを浮かべつつ、耳の方はみるみる赤くなった。
「皆さんの声援が、小さな燈澄にも届いているようですー。
さて、まだまだ衝突までは時間がかかりそうですね」
「この段階だと、まだどこで衝突するかは見えませんわね」
「そうですね。でも、各班の布陣は見えてきました」
「ええ。灯花庵の偉い人は、秦の四女神が六人乗りのたらい船。
そして残りは、漕ぎ手と射手の二人乗りが四艘」
「守りも一回り小さい船で、攻め手と漕ぎ手で一艘……
攻めも守りも機動力がありそうな構成ですね」
「そうですわね。遊撃攻撃型ですわ。
守りの傘が四人なので三本を乗じて十二本……やや少ない感じですわね」
「あらそうかしら。傘の本数を埋めるだけの機動力があると思いますわよ。
はっきり言って、強いと思いますわ」
私たちは蛇行を繰り返しながら運河を北へ進んでいると、
今度は灯花庵の偉い人への声援と拍手が川面に届いた。
(えっ、何!? 放送で何か言っているのかしら……)
――ええ、ええ、そうですの。あなた方の布陣を誉めて差し上げましてよ。
感謝なさい。
(褒めてくださいなんて頼んでいませーん!)
――うふふ。あなたたちの戦い方が楽しみですわ。
そう言い残し、華蓮は再び放送の会話に戻った。
「では、今度は黄河の猪親子ですが……ここは極端ですね」
華蓮は苦笑いを浮かべているかのような声で続ける。
「そうですわね。許褚一人で旗を守り、傘は三本。
残り十一人が十一艘で攻める……攻め極振りですわ」
「あらー、華蓮様、極振りがきましたね」
「ええ、ええ。でも侮れませんわ」
「そして、劉備の兵隊さんは守り六人、攻め六人の完全な均等振りですね」
「そうですの。可もなく不可もなく……
良さげですが、攻めに弱く、守りも中途半端。
残るかもしれませんが、勝てない。
二位狙いの布陣ですわね」
(華蓮様と絵蓮様の話し声が聞こえるようになってきましたが……
随分と酷いことを言っているんですね)
――あら、私は本当のことを言っているだけですのよ。
ちょっとあなた、私と絵蓮の声が聞こえるって……
星愛、また赤い瞳が暴走するのではなくて?
(それは分かりませんが、まだ視界は赤くなっていません)
――あら嫌ですわ。“まだ”だなんて。やはり暴走するのかしら。
先に言っておきますけれど、銀糸は使ったら駄目ですわよ。
使ったら反則負けにしますわ。
(な、何ですか、その私規則は……)
――残念だねー。でも、そうじゃなくちゃ面白くないよね!
じゃあ、まだ放送があるので、まったねー!
(ちょっ、絵蓮様まで……待ってください!)
華蓮と絵蓮の返事はなく、二人は再び放送へ戻った。
「華蓮、最後の解説は玄さん一族だね……
ここも特別な布陣ですねー」
「ええ。これは守り極振りですわね」
「ま、またしても極振り! しかも今度は守りだー!」
陸から大きな歓声が川面に乗って届いてきた。
そして華蓮と絵蓮の声が、音響器ではなく頭の中で響く。
「ええ。玄さん一人が攻めに回り、残り十一人が守りを固める」
「じゅ、十一人ということは……旗を守る傘は三十三本!」
「そうなりますわ。守り限定の極振りですわね。
間違いなく固いわ。崩せるとしたら攻め極振りの黄河の猪親子だけですわ」
「もう、これは極振り二強の構図が見えてきました!」
「あら、そろそろ動きそうですわよ……
灯花庵の偉い人が北東の角に入りましてよ」
絵蓮の実況に合わせるように、私は皆に声をかけた。
「さあ、話した通りの布陣をするわよ!」
私が声を張り上げると、皆のたらい船が一斉に集まってきた。
ゴツン――。
船同士がぶつかり合い、中心へと寄り集まる。
たらい船は内側へ傾き、お互いを支え合うようにして輪を作った。
私は真ん中に手を差し出し、皆が次々と手を重ねていく。
最後に、攻めの要となる沙良の手がそっと重なった。
瞳を合わせ、全員でうなずき合う。
「まずは、劉備の兵隊さんを潰す!」
私の言葉に、皆がにやりと笑う。
曹英が目を細めて言った。
「星愛らしくない言葉だね」
碧衣も静かに闘志を燃やす。
「潰すのよ」
琴葉はニコニコ顔で叫んだ。
「つぶす! つぶす! ぶっつぶす!」
そして沙良が声を張り上げる。
「私たちが一番だーー!」
「おおー!」
掛け声とともに、私が手を押し上げると、皆の手が空へと舞い上がった。
五つのたらい船が花びらのように散り、それぞれの持ち場へと滑っていく。
その光景を見ていた絵蓮が実況を入れた。
「まるで灯花庵の梅の花のように咲いたたらい船の花!
十二本の雄しべと雌しべが揺れ、散りゆく花びらのように運河へ広がった!」
華蓮が続ける。
「まずは、灯花庵の偉い人と劉備の平岱さんがぶつかりますわね」
「やはり、灯花庵は待ち伏せをするようです!」
実況に合わせるように、私たちは持ち場へ散っていった。
北側の運河には、私と曹英のたらい船が並ぶ。
少し下がった中央には、碧衣を乗せた燈柚の船。
さらにその後方には、旗を掲げた秦の四女神の中型船。
恬香と亜亥が傘を広げて旗を守り、斯音と扶美が漕ぎ手を務めていた。
そして――東側の運河から死角になる北東の角。
そこには、燈澄が漕ぐたらい船が静かに浮かんでいた。
その船の上で、狩射手の沙良が両足を開いて立ち、水竹筒を構えていた。
私は静かに運河の奥を見つめた。
遠くに影が揺れ、少し離れた位置で横並びになっている曹英のたらい船が視界に入る。
曹英も気づいたようで、小さく頷く。
私は手を上げ、船をわずかに前へ進めた。
後ろを振り返ると、燈灯の船に立つ碧衣が、
静かに水竹筒を構え、劉備の平岱さんが射程に入るのを待っていた。
運河の流れに乗り、劉備軍が加速してくる。
私の頭上では、琴葉が大竹筒を構え、息を潜めている。
操舵桿を握る手に自然と力が入った。
「まだよ……まだ。もっと引き付けるわよ」
琴葉が頷く気配を感じながら、私は静かに時を待つ。
たらい船に当たる水流の音が、逸る気持ちをさらに煽った。
やがて、相手の布陣がはっきりと見えてくる。
六艘の一人乗りのたらい船が、鶴翼の陣形を描いて迫ってくる。
その後ろには、六人乗りの中型船――関平の姿があった。
(あと少し……あと少し)
私は流れに逆らうようにゆっくりと漕ぎ、深呼吸する。
鶴翼の中心――関平の姿を捉えた。
「行くわよ!」
私の声に、琴葉が短く返す。
「任せて」
操舵桿を左へ切り、力強く漕ぐ。
船体がぐいっと九十度回転し、一瞬だけ逆方向に漕いで舵を戻す。
「いっけー!」
私は大声を上げ、再び前進方向へ力いっぱい漕ぎ出した。
琴葉の声が返ってくると思ったが、彼女は姿勢を崩さず、
ただ静かに射程へ入る瞬間を待っていた。
水面を滑る音だけが耳に残り、胸の鼓動がやけに大きく響く。
「外した!」
琴葉の声が聞こえ、私はすぐに自分の水竹筒を手渡した。
その瞬間、曹英の船が一気に動いた。
二列目右側のたらい船へ向けて、勢いよく漕ぎ出す。
相手は慌てたのか、力加減を誤り、たらい船が激しく回転した。
「キャー!」
悲鳴が水面を滑って曹英の船へ届く。
曹英は難なく接近し、射手の燈柚が間近から水を放った。
「冷たーい!」
同じ声が再び響き、思わず私はにんまりした。
すぐに曹英の船が追いつき、私の船の内側へ並走する。
私と曹英は鶴翼の左側――一列目と二列目へ向かって必死に漕いだ。
運河の流れに乗り、たらい船はどんどん加速していく。
ぐんぐんと関平の船が近づく。
私と曹英はその鼻先をかすめるように前を通過した。
そして――
静かに水竹筒を構える碧衣の姿が、関平の視界に入った。
関平の表情が変わる。しかし、気づくのが遅かった。
碧衣の水竹筒から放たれた水が、朝日にきらめきながら弧を描き、
見事に関平の衣装を赤く染め上げた。
「うぬがーー!」
悔しがる関平の声が、戦いの場に響き渡った。
関平の声と、私と曹英のたらい船が迫ってくる勢いに驚いたのか、
左側一列目と二列目のたらい船が操作を誤り、激しく回転した。
「止めてーーー!」「ま、まずい!」
回転する二人の悲鳴が川面に広がる。
「関平と馬岱以外は、戦慣れしていない人たちで構成したみたいね」
私が言うと、曹英が肩をすくめた。
「そうみたいね。こうもあっけなく……」
言い終わる前に、回転する二艘へ接近し、
私たちは容易く水を放ち、二人の衣装を朱色に染め上げた。
「いやーー!」「だめだー!」
悲鳴を背に、私と曹英、そして燈灯のたらい船は素早く戦線を離脱する。
こうして一度の奇襲で、右側一艘と左側三艘を止めることに成功した。
私たちは顔を見合わせ、ほほ笑む。
だが、まだ攻撃手のたらい船が二艘と、
馬岱を乗せた守りのたらい船が残っている。
「よくも、やりやがったなー!」
残った二艘の攻撃手が、秦の四女神の守り船へ向かってくる。
「待て! 待つんだ、罠だ、罠だー!」
馬岱が必死に叫ぶが、攻撃手たちは聞かず、
背を向けて逃げる四女神の船を追い始めた。
秦の四女神のたらい船は、水竹筒の射程に入るか入らないかの距離を保ちながら逃げる。
そして――北東の角を抜けた瞬間。
沙良の水大筒が火を噴いた。
「えっ、嘘でしょ……」
二艘の攻撃手は、自分の衣装が赤く染まるのを呆然と見つめた。
劉備軍の攻撃手が全員止まったのを確認し、私は声を張り上げた。
「さあ、劉備の平岱さんの守り手を潰しに行きます!」
「こういうのは、禁止ではありませんよね」
斯音がにやりと笑い、たらい船を力いっぱい漕ぎ出す。
ぐんぐんと、劉備軍の守り船へ迫っていく。
ドカン――!
斯音と扶美のたらい船が、守りの船に激突した。
激しい揺れに、守り手たちは怯む。
「怯むな! 旗を守れー!」
馬岱の声が虚しく響く。
琴葉が軽やかに走り、守り船へ飛び乗った。
至近距離から水を浴びせ、一つ目の旗があっけなく落ちる。
琴葉は素早く私の船へ戻った。
続いて、少し距離を取った四女神の船が再び勢いよく突撃する。
ドカン――!
守備兵たちは尻もちをつき、傘で旗を守っているのは馬岱だけになった。
そこへ沙良と碧衣の水大筒が放たれ、二枚目、三枚目の旗が次々と落ちる。
三枚の旗が落ちた瞬間、攻め手の衣装の赤色が白へと戻った。
だが時は遅く、すべては終わっていた。
残るは――玄さん一族と黄河の猪親子。
私たちは顔を見合わせ、静かにうなづき合い、
たらい船を次の戦場へと漕ぎ出した。
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