第133話 激闘たらい船①
翌朝――。
柔らかな光が頬を撫で、私はゆっくりと目を開けた。
昨夜の喧騒が嘘のように、華蓮の寺院は静まり返っている。
(……ああ、よく寝ちゃった)
身体を起こすと、腕や腰にほんの少しだけ疲れが残っていた。
でも、それがどこか心地よい。
隣では紗良が布団を抱きしめたまま丸くなり、
曹英は髪をふわふわに乱して寝息を立てている。
亜亥はいつの間にか私の足元に転がっていた。
窓の外では、朝の風が竹林を揺らし、
遠くからは運河の水音が聞こえてくる。
(今日が……最終日か)
胸の奥が、静かに熱くなる。
私はそっと立ち上がり、まだ眠る仲間たちを見渡した。
「おはよ……星愛……」
寝ぼけた声で紗良が起き上がり、髪をかきあげる。
曹英も目をこすりながら伸びをした。
「ふぁぁ……今日、準決勝だよね……?」
「うん。そろそろ支度しよっか」
私たちは髪を整え、女官たちが用意してくれた温かい茶を飲み、
簡単な朝食をとった。
寺院の回廊には朝日が差し込み、白い石畳が淡く光っていた。
薄く焚かれた香の匂いが漂い、静けさの中に神聖な気配が満ちている。
奥の部屋からは、華蓮の衣擦れの音が聞こえた。
絵蓮は大きく伸びをしながら回廊に出てきて、にこりと笑う。
「おはよー。今日も楽しくなりそうだね」
女官たちが私たちの衣を整え、帯を締めてくれる。
その手つきは丁寧で、どこか温かかった。
寺院を出ると、運河沿いの道に朝の風が吹き抜けた。
昨日の屋台の名残りがほのかに香り、街はゆっくりと目を覚ましていく。
今日の準決勝──第七の試練の集合場所は、
昨日と同じ商業区の中央広場だった。
朝の冷たい空気の中、すでに多くの観客が集まり、ざわめきが広がっている。
「おお、やっと来ましたな!」
最初に声をかけてきたのは許褚だった。
大きな体を揺らしながら、こちらへ手を振ってくる。
「まだ試練の内容は発表されておりませんが、
女子であろうと手は抜きませんからな!」
私は微笑んで軽く頭を下げた。
「そうですね。私たちも手を抜くつもりは毛頭ありません。
決勝まで、ずっと一位を取り続けますよ」
そこへ郭淮が歩み寄ってくる。
「ところで星愛殿。今日の試練の内容は、
華蓮様から聞いていないのですか?」
私は首を横に振った。
「華蓮様は、そういうことをされるお方ではありませんよ」
「そうですよ、郭淮殿。ちょっと口が過ぎませぬか」
落ち着いた声が割って入る。
振り向くと、劉備陣営の馬岱が立っていた。
「みなさん、おはようございます」
続いて関平も姿を見せ、恭しく頭を下げる。
許褚が馬岱の肩を叩きながら笑った。
「これはこれは、馬岱殿と関平殿、
そして劉備の平岱さんの皆さま。
おはようございます。昨日の屋台の試練、見事な二位でしたな!」
「いえいえ。黄河の猪親子の皆さんも、
火鍋の追い上げお見事でした」
関平が丁寧に返す。
郭淮が目を細め、関平に声をかけた。
「おお、あなた様が関羽殿のご子息、関平殿ですか。
実に凛々しいお姿ですな」
関平は静かに一礼した。
そのとき、聞き慣れた声が響く。
「おお、みなさん、お早いお着きですね」
玄さんだ。手を振りながら近づいてくる。
「みなさ、たとえ星環府府長であろうと、将軍様であろうと──
冬の市の場では平等ですぜ」
「あら玄さん、たまにはいいこと言うのですね」
私が皮肉を返すと、玄さんはニヤリと笑った。
「へへっ。まあ、私たち玄さん一族が優勝を頂きやすから、
恨まないでくだせえな」
(漢中では劉備と夏侯淵が睨み合っているというのに……
冬の市の下では、政治も身分も関係ないのね)
そんなことを思っていると、
第七の試練を受ける班が揃ったのを見計らったように、
絵蓮が舞台の上に姿を現した。
その瞬間、広場中から大きな拍手と声援が巻き起こった。
「みなさん、おはようございまーす!」
相変わらずの元気な声が、中央広場いっぱいに響き渡った。
「さあ、智遊祭もいよいよ三日目──最終日だよ!」
「さみしー!」「もう終わっちゃうの?」
観客たちの声が一斉に上がり、絵蓮は満足げに頷いた。
「みんなの気持ち、よーく分かるよ……。
でもね、最終日にふさわしい試練を用意したから、
思いっきり楽しんでね!」
「ウォーッ!」
歓声と拍手が広場を揺らす。
「それじゃあ──第七の試練を発表してもいいかなー?」
絵蓮は耳に手を当て、観客の反応を待つ仕草を見せる。
「絵蓮様、お願いしまーす!」
四方から声が飛び、空気が一気に高まった。
「うん、じゃあ発表するね!
第七の試練は──『回る周る』だっ!」
一瞬、広場が静まり返る。
その後、ざわめきが波のように広がった。
私は思わず、智遊祭に詳しい玄さんへ視線を向ける。
しかし玄さんは口をぽかんと開け、目を丸くしていた。
(え……玄さんも知らない試練なの?)
再び絵蓮を見ると、会場の反応に満足したのか、
彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「そんなに驚かないでくださーい!
今回が初登場の試練なんだよ。
これから『回る周る』の試練の掟を説明するね!」
曹英が私に歩み寄り、そっと呟いた。
「回る周るって……何かしら……」
私は腕を組みながら答えた。
「多分、くるくる回転しながら走り回る競争じゃないかしら」
曹英の顔が暗くなり、うなだれた。
「やっぱり、そう思うよね……私、考えただけでも気分が悪くなってきた……」
私は曹英の肩を抱き、「大丈夫」と声をかけた。
曹英は額に手を当てながら、気弱に微笑む。
「ええ、大丈夫です……」
再び絵蓮に目を移すと、
舞台の下には大・中・小のたらいがずらりと並べられていた。
「はーい、このたらいを運河に浮かべて、
試練参加者には乗ってもらいます!」
「えーーーっ!?」
私が思わず声を上げると、他の班からも不安の声が広がる。
一方、観客席からは「うわー、面白そう!」と期待の声が上がった。
「大たらいには12名から8名まで乗船できまーす。
7名から3名は中たらいに乗船します。
そして、小たらいは2名または1名となります」
私は皆を集め、頭を寄せ合わせて絵蓮の次の言葉を待った。
他の班も同様に集まり、小声で話し合いを始める。
絵蓮がゆっくり歩き、たらいの前に立った。
「まずは、たらい船の説明をしますねー」
静まり返る会場。
私たちの視線も真剣に絵蓮を追った。
絵蓮が小型のたらい船に乗り、説明を続ける。
「まずは、この足漕ぎを使って漕ぐと水流が発生し、前へ進みまーす!」
合図とともに、たらい船が吊り上げられ、底の構造が見える。
「さあ、漕ぎますよー!」
絵蓮が足を動かすと、たらい船に取り付けられた水車が回転した。
「おお……!」
会場からまばらな拍手と感心の声が上がる。
「そして、操作棒を動かすと──」
水車が左右に動き、たらい船の向きが変わった。
「こうやって、たらい船を操作します。
ただし、運河には弱い流れがあるので、
逆走すると相当体力を使うから気を付けてね」
胸に手を当て、小首を傾げて微笑む絵蓮。
「絵蓮さま、可愛い!」「キャー!」
再び会場が盛り上がった。
私たちはそれぞれの開始位置へ向かって歩き出した。
「さて、続いて決めてもらいたいのは大将たらい……。
大将たらいには、三本の紙縄索で支えられた旗があります」
絵蓮が指さすと、大型たらい船の竿に吊るされた旗が風に揺れた。
「そして、攻め手のたらいを決めます!」
そう言った瞬間、白の小袖に朱袴の巫衣をまとった女官たちが現れた。
「攻め手はみんな、この巫衣姿になってもらいます。
そして、全員にこの竹水筒を持ってもらいまーす!」
絵蓮が竹水筒を押し出すと、水が勢いよく飛び、
女官の白小袖が赤く変色した。
「おお……!」
会場のあちこちから感嘆の声が上がる。
「白の小袖は、水がかかると朱色に変わります。
しばらくすると元の白に戻ります。
ただし、小袖が朱色の間は移動はできても、
竹水筒は使えません!」
「これって、全員が朱色になったら負けってことかしら?」
私が尋ねると、紗良が静かに首を振った。
「違うわ。時間が経てば白に戻るから、
また竹水筒を使えるようになるのよ」
紗良の声が聞こえたかのように、絵蓮は頷き、
今度は竹水筒を大型たらい船の旗に向けた。
水が勢いよく放たれ、紙縄索が一本、また一本と切れていく。
三本目が切れた瞬間、旗がはらりと落ちた。
「こうやって旗が落ちたら、新しい旗を立てます。
でも、この旗は三本まで!
三本全部落ちたら、その班は敗退でーす!」
碧衣が不安そうに眉を寄せた。
「大将たらい船は……逃げるしかできないの?」
「ここまでの話だとそうだけど、まだ続きがあるみたい」
そう言った瞬間、華蓮がゆっくり大型たらい船に近づき、
一本の傘を取り出した。
「守り手には、竹水筒ではなく三本の傘が渡されます。
この傘で水を防いでくださーい!」
「おお、これなら守り手の方が有利じゃな!」
許褚の大声が会場に響く。
しかし絵蓮は、傘を閉じながら左右に首を振った。
「この傘も紙製でーす。
水を浴びすぎると穴が開いて、いずれ守れなくなりまーす!」
私たちは顔を見合わせた。
「なかなか、守りに徹するのも難しいようね……」
碧衣が小さく呟く。
絵蓮は続けた。
「勝敗は、三本の旗が全部落とされたら敗退!
残り二班になったら終了で、その二班が決勝進出です。
もし敗退班が出なかった場合は点数勝負!
旗を落としたら五点、
攻め手に水をかけたら一点、
逆に旗を落とされたら五点減点でーす!
くれぐれも、逃げ切ろうなんて思わないでね?
逃げてばかりだと点数ゼロで、決勝には行けないよー!」
クスクス、忍び笑いが会場のあちこちから聞こえた。
「はーい、以上で説明終わりっ!
それじゃあ各班、開始位置へ移動してねー!
智遊祭最終日の大勝負、思いっきり楽しんでいこー!」
絵蓮の明るい声が広場に響き、観客席から再び大きな歓声が上がった。
私たちは顔を見合わせ、小さく頷き合う。
(いよいよ……始まる)
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