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創世神話Ⅰ 女神たちが紡ぐ三千五百年物語  作者: ゆみとも
第一章 神婚の儀

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第117話 はじめての旅行


二百十七年(建安二十二年)十一月二十三日


私は露天風呂の縁に身を寄せ、静かな漢中盆地を見下ろしていた。

長安行きのモノレールが定軍山駅へ向かい、夜気の中に細い光の軌跡を残していく。

その高架の下を長巴道が走り、灯花の外灯が道を挟むように並びながら、

遠く秦嶺(しんれい)山脈へと続いていた。


『秋灯帰魂の夜』から三週間あまり。

あの夜の余韻がまだ胸に残る一方で、漢中盆地の景色は少しずつ姿を変えつつあった。


灯花庵からは木々に遮られて南鄭駅こそ見えないが、

その先に広がる農園予定地はよく見える。

外灯が区画に合わせて規則正しく並び、整地された茶色の大地を照らしていた。

まるで巨大な碁盤のようだった。


長巴道の灯りを目で追うと、定軍山駅の影が浮かび上がる。


私の膝に抱えられるように座っていた燈澄(デンチェン)が、私を見上げて声をかけた。


「ねえ、星愛お姉ちゃん」


小さな指が定軍山駅の方を指す。


「あそこに見えるのが、学術院なの」


私は返事の代わりに、燈澄の頭にそっと顎を乗せた。


「そうよ。来年の四月からは、ここからあそこまで通うのよ……通えるかしら?」


「うん、大丈夫だよ。だって、燈柚(デンヨウ)お姉ちゃんが一緒だもん」


「そうね。でも、燈灯(デンデン)は洞庭湖の学術院に行くことになるけど……

寂しくはないの?」


燈澄は少し考えてから、ぱっと笑顔を見せた。


「うん。それに、燈灯お姉ちゃんは“け・ん・ち・く”を学びたいんでしょ」


「そうね。漢中の学術院は薬学と医術が中心だから、

建築学は洞庭湖の学術院だけだものね」


十一歳の燈澄(デンチェン)は、燈灯(デンデン)の夢をしっかり理解しているようだった。


「あっ、いたいた」


振り向くと、琴葉が湯気を揺らしながら露天風呂へ入ってきた。


「温かくて気持ちいいねえ……」


肩までゆっくり浸かり、そのまま器用に私たちの方へ近づいてくる。


「あれ、琴葉、一人なの?」


私が尋ねると、琴葉は首を左右に振り、にっこり笑った。


「そんなわけないよ。他の三人に、秦の四女神も来るよ」


言い終わる前に、灯花の光に照らされた湯気の向こうで影が揺れた。


「もう、ずるいわよ、星愛。

行くなら行くって声をかけてくださいね」


地が出た亜亥が頬をふくらませ、泳ぐように近づいてくる。

その頬を琴葉が指でつついた。


「琴葉、頬で遊ばないでください」

「そんなにふくらませたら、突きたくなるでしょ」


琴葉はそう言いながら、亜亥の両頬をそっと挟む。


尖った唇のまま亜亥が「もう、弄るのはやめてください」と抗議すると、

琴葉は「えへへ」と笑って手を離した。


その後ろから、むすっとした顔の紗良と曹英が入ってきて、

私の両隣に腰を下ろす。


「もう、あなたたちったら……」


私が苦笑すると、碧衣、灯花庵の残りの二姉妹、

そして秦の女神たち三柱が続いて入ってきた。


湯気の中に次々と姿が現れ、露天風呂は一気に賑やかになった。


紗良が私の隣で呟いた。


「いよいよ明日から旅行だね」


私はさらに視線を移し頷いた。


「まさか、あんな手紙が来るとは思わなかったよ」


碧衣が、私の後ろで言葉を継いだ。


「そうよね、まさかのまさかね、でもいい息抜きができるんじゃない」


隣の曹英も頷く。


「こうやって、仕事関係なくみんな揃ってお出かけするの、初めてでしょ」


琴葉が満面の笑顔で声を上げた。


「みんなで、旅行だよ。楽しみー!」






そう、それは一週間前に届いた華蓮からの手紙にさかのぼる。


私は灯花庵の母屋で腕を組み、目の前の一通の手紙を見つめていた。


「ねえ、曹英……華蓮様が手紙をくれるなんて、おかしいと思わない?」

曹英も難しい顔で頷く。

「そうよね。飛んできて話せば済むし、その方が早いはずだわ」


琴葉は手紙を覗き込み、目を輝かせていた。


「早く開けちゃおうよ!」


慎重な扶美(ふみ)が、少し不安そうに私へ声をかける。


「内容がちょっと心配ですが……開けないことには始まりませんね」


私はゆっくり頷き、黒い封筒を手に取った。

封を切る紙の音は上品で、同時に高貴な花の香りがふわりと立ちのぼる。


――――――――――――――――――――


星愛(ティア)


襄陽の冬は、ようやく澄みきった空気を取り戻しましたわ。

あなたのことですもの、どうせ竈や囲炉裏の炎と

静かににらめっこでもしているのでしょう。


そんなあなたへ、私からの贈り物を届けます。


来たる十一月二十五日、襄陽にて『冬の市』を執り行います。

『秋灯帰魂の夜』に続き、『冬の市』も負けずに澪工房の協力もあって、

襄陽のどの祭りよりも華やかな祭礼となる予定ですの。


冬の市は、民にとって一年を締めくくり、

新たな季節を迎えるための大切な儀です。

あなたにも、その光景をしっかりと見届けていただきたいの。


公の客としてではなく、紅瞳(こうどう)姉妹として――

あなたのための“特別席”をご用意しておりますわ。

拒否権はありませんので、心得ておきなさい。


それから、少しばかり楽しい余興を考えておりますの。

そうね、二人以上十五人以下でお越しなさい。

ただし、妃良、芳美、理沙、美優、

そして知識に偏りのある貂蝉を呼ぶのは禁じ手といたします。


身体を自由に動かせる軽装も忘れずに。

あなたがどんな顔を見せてくれるのか、今から楽しみですわ。


襄陽の街で、お待ちしております。


華蓮より


――――――――――――――――――――


読み終えると、一同の視線が自然と合い、同時に頷いた。


「華蓮様だわ……」

「わー、華蓮の手紙だ」

「間違えないようね……」


間違いなく、華蓮からの手紙だった。


「ねえ、この手紙、最初の方は良いのだけど……

最後のくだり、どう思う?」


私が皆に尋ねると、恬香(しずか)が静かに口を開いた。


「二人以上十五人以下でお越しなさい、と書かれていたわね……

班になって何かをするのかしら」


曹英が頷き、眉を寄せながら言葉を継ぐ。


「それに、軽装って何かしら……

走り回らされるとか、嫌な予感しかしないのですけど」


紗良が腕を組み、曹英の言葉に頷いた。


「冬の市は澪工房も全面協力しているみたいだから、

屋台が立ち並んで歩き疲れるってことかもしれないね」


碧衣が小さく首を振り、呟く。


「それだけで、この手紙にはならないと思うの」


皆の表情が不安に染まっていくのを見て、私はゆっくり口を開いた。


「最初の文章を読む限りは好意的よ。

最後は……演出好きの華蓮様らしいだけで、他意はないと思うわ。

好意的に受け止めていいと思うの」


私の言葉に皆が一斉に頷いたので、続けて言った。


「じゃあ、楽しい慰安旅行くらいの気持ちで行きましょうか」


その瞬間、皆の目がぱっと輝き、視線が私に集まる。


(うーん、みんなを連れて行かないわけにはいかないわよね……

でも、夏侯淵が動いた時、曹英がいないと策が失敗するし)


――大丈夫だよ。来年まで夏侯淵は動かない。


(えっ、その声……絵蓮様?)


――うん、私だよ。

   それに、曹英の反応も楽しそうだし、連れてきなよ。


(なに、その“楽しそう”って)


――いや、何でもない。


(何でもないわけないでしょ)


――じゃあ、襄陽で待っているよ。


(待って、絵蓮様!)


絵蓮との心話が途切れた瞬間――


「星愛、……星愛!」


肩を揺すられ、私は慌てて周囲を見回した。


「大丈夫? 星愛」

亜亥が心配そうに顔を覗き込んでくる。


「あっ、ごめん……人選だったね」


皆が再び真剣な表情で頷く。


「私と紗良、曹英、碧衣、琴葉の五人。それに秦の四女神」


そこまで言うと、燈澄(デンチェン)が泣きそうな顔で私を見つめた。

私は微笑みを返し、続けた。


「それと、灯花庵の三姉妹もどうかな」


碧衣が頷く。


「これから定軍山の開発で、医術・薬術専門の貂蝉様や劉明、貂糜が

灯花庵に入る予定だから……留守は任せていいと思うの」


曹英が不安そうに尋ねた。


「でも、夏侯淵が動いたら私は交渉に動かないといけないから……

一緒に行って大丈夫なの?」


私はにっこり笑い、絵蓮の言葉をそのまま伝えた。


「うん、来年にならないと夏侯淵は動かないみたい。

絵蓮がそう言っていたから、間違いないわ」


曹英の表情がぱっと明るくなる。

私は皆を見回し、小声で囁いた。


「このことを他に話すと気が緩むから内緒ね。

ただ、私たちが旅行に出ることに不安を感じるかもしれないから、

軍師たちには夏侯淵の件だけ伝えておくわ」


こうして、二週間前に襄陽行きが決まった。





湯気の向こうで、現実がゆっくり戻ってくるようだった


「さて、明日は早いからそろそろみんなお風呂出ない?」

皆が私を見て、頷いたので私たちは湯船に火照った身体を夜気で冷やさないように、

衣を羽織りそれぞれの離れ家に戻って行った。


―――――


翌朝、白い息が一段と濃くなり、もう冬と言っても過言でない季節になっていた。


玄冥原の空は、まだ暗く、空を見上げると紫の空に星々が輝いていた。


「寒い……でも、なんだかワクワクするね」


琴葉が肩をすくめながら笑う。

その横で、燈澄(デンチェン)が私の袖をぎゅっと握っていた。


「星愛お姉ちゃん、ほんとに五時のモノレールに乗るの?」


「ええ。始発に乗らないと、巴東での乗り継ぎが間に合わないからね」


玄冥原駅のホームには、私たち以外にも旅支度の民がちらほらと集まっていた。

皆、襄陽の冬の市へ向かうのだろう。

灯花の外灯がホームを淡く照らし、霜を帯びた床が光る。


やがて、遠くから低い振動音が近づいてきた。

山の稜線に沿って、モノレールの車内灯が一本の光の帯となって滑ってくる。


「来たわね」


曹英が小さく呟く。

その声には、旅への期待と、ほんの少しの緊張が混じっていた。


モノレールが静かに停まり、扉が開く。

私たちは乗り込み、窓際の席に腰を下ろした。


発車の合図とともに、車体がわずかに揺れ、玄冥原駅が後ろへ流れていく。

外はまだ暗いが、長巴道の灯花が線のように続き、

その先で秦嶺(しんれい)山脈の影がゆっくりと姿を現し始めていた。


深い藍色の天に、東の端だけがわずかに白み始めている。


「見て、空が明るくなってきたよ」


燈灯(デンデン)が指を伸ばす。

夜明けの光が山肌を淡く染め、霧が谷間に溜まって雲海のように揺れていた。


「綺麗……」


碧衣が思わず息を呑む。

その横で紗良は、窓に映る自分の顔を見つめながら呟いた。


「こうして見ると、漢中って本当に大きいね……」


モノレールは山を越え、谷を渡り、巴東へ向けて滑るように進んでいく。

やがて、東の空が紫から、徐々に青色に染まり始めた。


―――――


巴東に着く頃には、すっかり朝日が昇っていた。

港には白い水蒸気が立ち上り、澪星型客船の船体が朝日に照らされて銀色に輝いている。


「わあ……速そう」


燈柚(デンヨウ)が目を丸くする。

その通りだ。澪星型客船は長江を七十ノットで駆ける、夢咲の誇る高速船だ。


私たちは乗船し、甲板に出た。

船が動き出すと同時に、風が頬を切るように流れ、長江の水面が鋭く裂けていく。


「速い……! 川なのに、空を飛んでるみたい!」


燈澄(デンチェン)が歓声を上げる。

水面の光が跳ね、船体の影が長く伸びていく。

川沿いの村々が一瞬で後ろへ流れ、山々が次々と姿を変えていった。


「これなら夏口まであっという間ね」


曹英が髪を押さえながら言う。

その表情は、どこか子どものように楽しげだった。


長江を駆ける風は冷たいのに、胸の奥は不思議と温かかった。

戦も政治も何も考えない旅は、私たちにとって初めてだった。

きっとそのことが、皆をわくわくさせていたのかもしれない。


―――――


夏口に着くと、空気がわずかに湿り気を含んでいた。

市場の匂い、船着き場の喧騒、旅人たちの声が重なり合い、

長江とはまた違う活気があった。


「ここで乗り継ぎね。急ぎましょう」


紗良の声に皆が頷き、次の澪星型客船へ向かう。

再び船が動き出す頃には、太陽はすでに傾き始めていた。


夕陽が長江を赤く染め、川面が金色に揺れる。

水鳥が低く飛び、船の影が水面に長く伸びていく。


「もうすぐ襄陽だよね」


燈澄(デンチェン)が私の袖を引く。


「ええ。あの先に見えるのが、襄陽の城壁よ」


遠くに、夕陽を受けて輝く城壁が浮かび上がった。

その姿は、まるで金色の影が川面に漂っているようだった。


胸の奥がじんわりと熱くなる。

旅の終わりと、新しい物語の始まりが同時に胸に満ちていく。


――華蓮が待つ街へ。

――冬の市が始まる街へ。


私は三姉妹の肩をそっと抱き寄せ、静かに呟いた。


「さあ、襄陽に着くわよ」


船はゆっくりと速度を落とし、夕暮れの襄陽へと滑り込んでいった。



ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!

初めての投稿ですので、いただいたご感想や評価は次回作品づくりの大きな力になります。

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更新は偶数日の朝7時過ぎを予定しています。

引き続き楽しんでいただけると嬉しいです!

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