第116話 灯花庵から見る景色 流れゆく灯花
二百十七年(建安二十二年)十月二十八日
『秋灯帰魂の夜』前日
露天風呂からは、開通した長巴道に灯された明かりが
漢中盆地へ向かって一本の光の帯を描いていた。
私の隣に碧衣が来て、長巴道を眺めながら感慨深げに言う。
「これで、長安と巴東……言いかえれば長江と黄河を結ぶ大動脈ができたね」
私は碧衣に少し寄りかかりながら頷いた。
「うん。モノレールの運転は、明日の秋灯帰魂の夜に合わせてだね」
曹英が肩を寄せてきて、柔らかく笑った。
「灯花の光が綺麗だね……長安の開発も終わったし、
これからは星愛と一緒に居られるね」
その後ろから紗良の声が届く。
「周瑜さんが夏口の学術院を見るから、
私は漢中で指揮を取れって言われたの。だから星愛と一緒に居られるよ」
私の肩越しで睨み合う二人の気配を感じていると、
その間に恬香がすっと入り、私へ声をかけた。
「劉備と曹操、しばらくは大きな衝突はなさそうね」
私が大巴山脈へ視線を移すのを待って、恬香が続ける。
「大巴山脈には兵糧輸送のための駅亭が整備されて、兵站が強固になっている。
それに、劉備軍は南鄭城に五千、定軍山に二万、陽平関に四万。
この布陣では、攻めるにも決め手を欠くわね」
紗良が頷き、言葉を継いだ。
「そうね。夏侯淵をおびき出す策がいつ動くか……
この様子だと、睨み合いは長期戦になりそうだよね」
大巴山脈の西側には駅亭の篝火が点々と灯り、
山を上り下りする松明の列が揺れていた。
左下の南鄭城では、城内と劉備軍の陣に灯された火が揺れ、
右奥の定軍山では、劉備と諸葛の陣営の光が山影を浮かび上がらせている。
さらに北奥、山間に隠れる陽平関は、
橙色の光で静かに山肌を照らしていた。
黄姉妹が露天風呂の端で、定軍山の浮かび上がる影を見ていた。
「あそこに夫がいるのね……無事であって欲しい」
黄婉貞が呟くと、そっと肩を抱き寄せて月英が声をかけた。
「あの人は、あなたを一人にしないから大丈夫よ。それに……」
「それに?」と、不思議そうに月英を見つめる婉貞。
「私が華蓮様にお願いしておくわ。あの人の無事をね」
華蓮の聖女となった姉の言葉に、
婉貞は目を丸くし、やがてクスッと微笑んで「そうね」と答えた。
月英が私の方へ向き直り、柔らかく声をかけてくる。
「いよいよ明日ですね。流し灯花の準備は万全なので、明日の夜が楽しみです」
私は小さく頭を下げ、微笑んだ。
「本当に……月英さんと婉貞さんの協力がなければ、
間に合わなかったかもしれません」
月英はにっこり笑い、首を傾げて言う。
「いえ、澪様が残された図面があったからこそですよ」
婉貞が続けた。
「そういえば、従車座はどうでしたか? ロックモービルと接続できました?」
私が答えようとしたその時――
バッシャーン!
琴葉と燈澄が勢いよく湯に飛び込んできた。
「月英さん、婉貞さん、ありがとー!
従車座のおかげで、毎日星愛お姉ちゃんと一緒に遊べてるよ!」
燈澄が嬉しそうに言うと、黄姉妹は顔を見合わせてクスッと笑った。
(私が答えるまでもなかったわね)
こうして、灯花庵の夜は静かに更けていった。
―――――
翌朝、私たちは陽が昇る前に目を覚まし、玄冥原駅へと足を運んだ。
今日から、長安と巴東を結ぶ線が正式に開通する。
駅に着くと、巴東からの始発のモノレールが、
山の背を車内の灯りで照らしながらゆっくりと登ってくるのが見えた。
反対側の漢中盆地では、南鄭駅へ向かう車両が
高架橋を淡く照らしながら走っていく。
やがて巴東からのモノレールが駅に入り、
多くの乗客を降ろして長安へと出発していった。
駅は一気に民で溢れ、静寂が破れる。
秋灯帰魂の夜に参加するのだろう、親子連れの姿が多い。
混雑が落ち着き、山から鳥の鳴く声が聞こえ始めた頃、
今度は長安からのモノレールがゆっくりと駅に入ってきた。
こちらも乗客が多く、皆が玄冥原駅で下車していく。
私は碧衣の方へ振り向き、声をかけた。
「これで、本当に開通したね」
碧衣はにっこり笑い、頷く。
「ほんと。今日の日に間に合ってよかったよ。
これからこのモノレールは、たくさんの人や物を運ぶんだね」
感慨深げな碧衣の言葉に、曹英も頷いた。
「そうね。このモノレールは、何世代にもわたって働き続けるんだよ。
すごいことだよね」
私は遠い未来を走るモノレールを想像し、胸が熱くなった。
その時、琴葉が玄冥原の方を見ながら声をかけてくる。
「灯も増えてきたし、そろそろみんな動き出すんじゃないかな」
私は頷き、皆に声をかけた。
「これからもっと人が来るし、私たちは神殿へ向かいましょう」
「そうね」「行きましょうか」
皆が頷き、私たちは神殿へと歩き出した。
―――――
神殿へ向かう途中、広場が設けられ、陣幕が整然と並んでいた。
一般の民も一晩を過ごせるよう、さまざまな配慮が施されている。
奥には夢咲舞踊団の仮設劇場が立ち、灯花の灯りに浮かび上がっていた。
中央では炊き出しが始まっているらしく、すでに人だかりができていた。
湯気とともに漂う香りが、ふわりと鼻腔をくすぐる。
その様子を眺めながら、私は思わず呟いた。
「お昼には、ここも人で溢れかえるのかしら……」
曹英が炊き出しの列を見ながら答える。
「一万人の来場を見込んで設置しているから、混乱はしないと思うわ。
炊き出しも、今日の朝から明日の昼までの分を用意してあるしね」
「えー、そんなに……夢咲は大丈夫なの」
琴葉が心配そうに尋ねると、曹英はにっこり笑った。
「大丈夫よ。夢咲にはしっかり貯えがあるからね」
二人の会話を聞きながら、私は思った。
祭礼を毎月行い、民に還元するという意味もあるのだろう、と。
広場を抜けると、灯花が整然と並ぶ道が現れた。
その先には、灯花の光に照らされて白く輝く大理石の神殿が静かに佇んでいた。
神殿に足を踏み入れた瞬間、奥から聞き慣れた声が響いてきた。
声にいち早く反応したのは琴葉だった。
「お母さーーん!」
そう叫ぶと、勢いよく駆け出していく。
私と紗良、曹英、碧衣は顔を見合わせ、思わず苦笑した。
神殿の女神像の前にはテーブルが用意され、
女神たちがそこでお茶会を開いているようだった。
琴葉は美優に抱きつき、頬ずりをして甘えている。
「もう、琴葉ちゃん。そんなに甘えないで」
と言いながらも、美優は優しく抱きしめていた。
紗良は理沙に、碧衣は妃良に一礼し、静かに隣の席へ座る。
私は芳美に微笑みかけ、芳美も微笑み返しながら曹英の手を引いて席に着いた。
テーブルの下で、私はそっと芳美の膝に手を置く。
芳美がその手に自分の手を重ねてくれた。
続けて、曹英の手を私の膝に乗せ、私はその上に優しく手を添えた。
曹英は頬を赤く染め、私の顔を覗き込む。
その表情に、今度は私が驚いて呟いた。
「えっ、だって私たち家族同然でしょ」
そう言うと、曹英は嬉しそうに微笑み、こくりと頷いた。
そんなやり取りをしていると、
紗良と亜亥が怖い顔でこちらを睨んでいるのに気づいた。
(えっ、なんで怖い顔されるの……)
――あなた、鈍感ね。亜亥は別として、紗良と曹英とは何年一緒にいるの
華蓮の声が頭に響く。
(えっと、紗良が十七年、曹英は九年になるわね)
――星愛って、天然なんだね
絵蓮が割り込んでくる。
――ホント。多分この天然、一生続くわよ
華蓮は頭を左右に振りながら、口角を上げて私を見つめていた。
――それに、紗良に曹英……沙市での私と月英のこと、まだ頭に残っているみたい。
紗良が盗み見たのは女神の行為なんだけど。
人の子には真似できないのだけど、二人とも斜め上をいっている……
この二人も天然ね。
絵蓮がにっこり笑い、亜亥の方を見た。
――亜亥も天然の素質持っているわね、えへへ
私と亜亥の心の声が重なった。
(な、なんなんですか、天然って!)
――うふふ、『天然娘トライアングルに囲まれた私が、ゆっくり人生満喫して何が悪い』
なんて、人形劇みたいで面白いわね
華蓮が私の顔を見て、腕を組みながら口角を上げて笑った。
私は華蓮と絵蓮、亜亥との心話に夢中になっていて、
お茶会の会話に意識が向いていなかった。
その時、魯粛の声が私たちの心の会話に割って入ってきた。
「いまのところ、私たちは夢咲で行われる祭礼について話し合ってはいます」
妃良が魯粛と星蓮を見て尋ねる。
「どこまで決めたのかしら」
魯粛が星蓮に視線を送ると、星蓮は小さく首を傾げ、微笑んだ。
紅茶を口に含み、カップを静かに置いてから口を開く。
「十月はこれから行う、玄冥原の『秋灯帰魂の夜』……
十一月は襄陽で『冬の市』を行う予定にしています」
魯粛が頭を下げ、言葉を継いだ。
「十二月以降の祭礼については、私と星蓮を中心に、
夢咲の軍師たちと共に検討を進めています」
(あら、祭礼の話をしていたのね)
私はここでようやく、お茶会で話されていた内容に気付いた。
華蓮は襄陽で行われる『冬の市』の話題に、満悦の表情を浮かべていた。
この後のお茶会は、十二月から翌九月までの祭礼の話題で過ぎていった。
気付けば陽は山々の向こうに沈み、玄冥原には冷たい夜が迫っていた。
「おねえちゃん、来たよ」
手を振りながら現れたのは、燈澄だった。
その後ろには、長女の燈灯と二女の燈柚が手を繋ぎ、
そろって神殿の奥の間へ入ってくる。
「おねーちゃん」
そう言って燈澄が抱きついてくる。
私はその頬を軽くつまみながら、燈灯に声をかけた。
「今晩から長丁場になるけど、よろしくね」
燈澄は一瞬、女神たちの多さに圧倒されたように目を丸くしたが、
すぐに笑顔を取り戻し、力強く頷いた。
「初めに聞いた時は驚いたけど、大丈夫。私たちに任せてね」
私は芳美と理沙の方へ振り向き、お願いをする。
「お母さんたち、この子たちにトガを纏わせてもらえますか」
芳美がにっこり微笑み、頷いた。
「ええ、いいわよ。あそこの部屋にある祭事用の夢咲絹のトガでいいのよね」
「ええ、お願い」
「さあ、そろそろ準備を始めないと間に合わなくなるわね」
私が声を上げると、皆が頷き、それぞれの持ち場へと静かに散っていった。
神殿の奥には、絵蓮、芽衣、ヘカテの三体の女神像が静かに並んでいた。
その手前には五脚の玉座が設けられ、
左から美優、芳美、妃良、理沙、そして華蓮が鎮座している。
さらに玉座の前には、大きな皿状の炉が三つ据えられ、
私はその中央の炎を守る役目を任されていた。
炉の背後には、三女神がそれぞれの位置に座し、
儀式を見守るように静かに佇んでいる。
炉の前には灯花庵の三姉妹――燈澄、燈灯、燈柚が神子として立ち、
炉の炎から流し灯花へと光を移す役目を担っていた。
この場には、実に十一柱もの女神が集結していた。
やがて帳が降り、人々の列が神殿へと向かい始める。
列は三つに分かれ、神子が灯した灯花を一つずつ手渡していく。
神殿の中は高貴な気に満たされ、誰ひとり声を上げる者はいない。
聞こえるのは衣擦れの音、人々の足音、そして煌々と燃え上がる炎の揺らぎだけだった。
灯花を受け取った人々は静かに頭を下げ、玄冥原の駅へと歩みを進めていく。
全員に灯花が行き渡った頃には、
神殿から玄冥原の駅へ向かって三列の灯火が、美しい光の道を描いていた。
その光の道の間を、女神たちがゆっくりと、音もなく駅へと浮遊していく。
駅では、長安行きの路線に曹英と琴葉が、巴東行きの路線には紗良と碧衣が待機していた。
零時を知らせる鐘の音が、夜の冷気を震わせるように響き渡る。
その音は静かな台地を伝い、神殿の奥にも届いた。
残っていた三姉妹に私は声をかける。
「始まったね」
三人は静かに頷いた。
駅ではちょうど、曹英や紗良たちが人々から灯花を受け取り、
雷磁盤の上へと乗せ始めている頃だ。
常温超電導の底板を備えた灯花は、雷磁盤の上でふわりと浮かび、
低周波の雷流に合わせて、ゆっくりと長安へ、巴東へと流れ始めているだろう。
「ねえ、星愛お姉ちゃん。ここにいてもやることないし、帰ろうよ」
燈澄が無邪気な顔で訴えてくる。
私と燈灯、燈柚は顔を見合わせ、思わず笑った。
「そうね。灯花庵の露天風呂から、流し灯花を見ようか」
そう声をかけると、燈澄は満面の笑みで大きく頷いた。
こうして、私と三姉妹は一足先に灯花庵へと戻ることにした。
―――――
私たちは露天風呂の、漢中盆地を望む縁に腰を下ろし、静かに灯花の流れを眺めていた。
私の前に座る燈澄が顔を上げ、そっと呟く。
「星愛お姉ちゃん、灯花がゆっくり線になって流れていくね……綺麗」
左側にいた燈灯が、私の肩に頭を預けながら続けた。
「ご先祖がきっと、あの灯花に乗っているのね」
燈柚も小さく頷く。
「そうね。通過する駅では香が焚かれて、冬物の衣を纏うのよね」
そう言って、彼女もそっと私の右肩に頭を寄せてきた。
「うん。このあと長安をぐるっと回って、明日の夜に帰ってきて……
最後に神殿へ灯花を奉納して終わりだね」
そう言いながら西の方角へ目を向けると、
灯花の静かな光とは対照的に、山腹の松明が揺れ、
南鄭城や定軍山、陽平関の松明は山並みや城を淡く浮かび上がらせていた。
私は燈澄を抱き寄せる。
――この子たちだけは、あの業火の種火から必ず守る。
そう心に誓いながら、流れゆく灯花を見つめ続けた。
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