第111話 灯花庵から見る景色 心の波紋
長い軍議が終わり、私たちは灯花庵へ戻って休息をとることにした。
しかし、碧衣だけは長巴道の建設現場へ戻るという。
私は心配になって声をかけた。
「全然寝てないし、大丈夫なの?」
碧衣はそっと私の肩に手を置き、優しく微笑む。
「昨日から会議だったし、今日も休んだら二日も工事を止めることになるからね」
紗良も眉を寄せて言う。
「でも、一睡もしていないし……」
「大丈夫よ。銀の鉄扇で地底から柱を出して橋梁を組むだけだし、
それ以外の時間は寝て休めるから」
そんな会話をしていると、朝の陽光を反射しながらモノレールが近づいてきた。
「いけない、いけない……長巴道が完成したら、またゆっくりね!」
手を振りながら、碧衣は玄冥原駅へ駆けていった。
「行っちゃったね……尚香は江陵に戻るの?」
私が尋ねると、尚香は少し苦笑して頷いた。
「玄冥原の戦の準備で、ずっと舞台に立てていなくてね。
手紙では美優様も麓沙も大丈夫って書いてくるけど……
星歌の聖女がいて、星舞の聖女がいないわけにはいかないでしょ」
幼い頃から仲の良い紗良が、そっと声をかける。
「尚香は頑張り屋さんだから、あまり無理しないでね」
「あなたもよ」
尚香はにっこり笑い、手を振って駅へ向かった。
「さあ、私たちは灯花庵に行きましょうか」
紗良、琴葉、曹英、秦の四女神、星蓮が頷いたところで、
小喬が声をかけてきた。
「星愛様、今日は温泉施設の部屋がいっぱいみたいで……
私たちも灯花庵でお世話になっていいかしら?」
みんなで食事をするのは楽しいし、私は笑顔で答えた。
「もちろん、いいですよ」
「よかったー!」
小喬と貂糜が手を叩いて喜ぶ。
こうして、私たちはそれぞれの乗り物に乗り、灯花庵へ向かった。
「ふう……」
私はロクのシートに座り、思わずため息をついた。
するとロクが心配そうに声をかけてくる。
「星愛様、昨日から今朝までの軍議、お疲れさまでした。
ため息をつかれて……何かあったのですか?」
「うーん、漢中港の開発や防衛戦……みんな役割があるのに、
私だけ何もないんだよね」
「それでため息を?」
ロクは人が歩く速度で灯花庵へ向けて動き出した。
朝の空気は気持ちいいはずなのに、胸の奥が少しだけ重い。
「星愛様には、皆さまをまとめる大事な役割があるではないですか」
「えー、でも私もいろいろやりたいのよね。それに……」
「それに?」
「居場所が分かるようにしておいてほしいらしくて、
灯花庵にずっといなさいって、みんなに言われたの」
「あら、あら……」
「出かける時は燈姉妹に行き先を伝えないといけないんだって」
「まあ、全体の司令塔のような役割ですから、仕方ないと思いますよ」
「ええー、そんなのつまんなーい!」
「まあまあ、そう言わず……好きな本を読んで過ごすとか、
いろいろあるのではないですか」
「うーん、みんなと一緒が良いのに……
このやり場のない気持ち、どうしたらいいの?」
「削除してみてはどうですか」
「なに、その“削除”って……そんな簡単に気持ちは削除できないのよ」
そんな会話をしているうちに、灯花庵の屋根が視界に入ってきた。
私たちがロクや星馳から降りると、灯花庵の藁ぶき屋根のくぐり口から、
勢いよく手を振りながら駆け寄ってくる少女が一人。
そのまま私の腰にぎゅっと抱きついてきた。
「おかえり、星愛様!」
灯花庵の末っ子、燈澄だった。
私はその頭を撫でながら、「ただいま」と返す。
「もう、星愛様たち、昨日は帰ってこなかったから心配したんだよ!」
頬をぷくっと膨らませる燈澄が可愛らしい。
そこへ、長女の燈灯がゆっくり歩み寄り、
上品に頭を下げて皆へ声をかけた。
「お話は伺っています。朝餉の準備も整っておりますので、
まずはお腹を満たしてから、ごゆるりとお過ごしくださいませ」
軍議に出席していた女性たちから、ほっとした息が漏れた。
私はしゃがんで燈澄と視線を合わせ、尋ねる。
「ねえ、燈柚の姿が見当たらないけど……?」
燈澄は腰に回していた手を離し、ニッコリ笑った。
「今日は午前にミレイア先生の勉強会があるから、陣幕に行ってるよ」
「えっ、ミレイアって、みんなに勉強を教えているの?」
「うん。月・水は小さい子、火・木・金・土は大きい子。
もっと大きい子には、毎日午後に教えてるんだよ」
私は呆気に取られ、学術院で教壇に立つ星蓮へ視線を向けた。
星蓮は穏やかに微笑み、説明してくれる。
「ミレイアというよりは、澪様のお考えですね。
澪様は“学問は誰にも平等に受ける権利がある”とお考えで、
学術院に通えない子には、ドローンを使って授業をしているんですよ」
「えっ……そうなの? 私、知らなかった。
そういえばそんな書類を承認したような……」
そこへ曹英がそっと近づき、優しく肩に手を置いた。
「みんな、それぞれ民の将来を思って働いているんだね。
全部を把握するのは難しいけど……
こうして府民と触れ合うと、見えないところも見えてくる。
漢中の開発は私たちに任せて、星愛は府民と過ごす時間を大切にしてもいいと思うよ」
(……確かに、曹英の言うことは一理ある)
少し落ち込んでいた気持ちが、ふっと軽くなる。
同時に、ミレイアの仕事量の多さに驚きを隠せなかった。
そんな私の腰を、後ろから琴葉が軽く押す。
「さあ、朝ごはん食べに行こうよ」
「そうだよ、星愛にはそんな顔は似合わないよ」
紗良がそう言いながら私の右手を握る。
「寂しかったら、私がしっかり抱きしめてあげるわよ」
左手を取る曹英。
「抱きしめるのは私!」
紗良がむっとして言い返す。
後ろから秦の女神や小喬たちが微笑みながら続いてくる。
こうして、私たちはゆっくりと灯花庵へ入っていった。
私たちは母屋で朝餉を取り、お腹を満たした後は、
露天風呂で体の疲れと緊張を流した。
露天風呂から見上げる青空には白い雲がゆっくりと流れ、
漢中盆地は茶色へと色づき始めている。
遠くでは建物を建てる音が、心地よい響きとなって耳に届いた。
私は皆に今後の予定を聞いてみた。
「ねえ、紗良は明日からどうするの」
「私の出番はまだ先だから、夏口の防衛学術院に戻ろうかと思っているよ」
「えっ、そうなの。周瑜様に任せればいいんじゃない」
「そうもいっていられなくてね。私の方はずっと出っぱなしだったから。
でも、周瑜様がここに残るから安心できるよ」
紗良は優しく微笑んだが、私は何となく寂しい気持ちになり、思わず呟いた。
「うーん、そういうことではないんだけど……」
今度は曹英の方を向いて声をかける。
「曹英は明日からどうするの」
「私も一度長安に戻って、書類を片付けようと思うの」
「ふーん、書類をこっちに持ってきてもらったら」
「不備があったら説明しないといけないし……一度戻らないとね」
曹英が少し残念そうに私の顔を覗き込む。
視線を琴葉に移すと、琴葉はにっこり笑った。
「私はたくさんの爺とお茶を飲んでお話しするから、昼はここにはいないよ。
でも、夜は帰ってくるからね」
そう言いながら、琴葉は私の肩を軽く叩いた。
私は寂しさを隠すように、お湯に口元まで沈んでいき、
ブクブクと泡を立てた。
その様子を見ていた星蓮が、そっと近づいてきた。
湯気の向こうで、静かに微笑んでいる。
「……星愛様」
気づけば、背中から優しく抱きしめられていた。
「寂しい時は、寂しいって言っていいのですよ」
母に包まれるような安心感が胸に広がり、私は星蓮の腕にそっと頬を預けた。
隣の曹英が寄り添いながら呟く。
「もう、軍議の時の星愛よりこっちの方が可愛いね」
「そうだよ」と紗良が私の肩に頭を預けてくる。
琴葉が顔を覗き込み、くすっと笑った。
「あれー、顔が赤くなってるよ」
そう言いながら、琴葉が寄りかかってきた。
私は琴葉を抱きしめ、涙をごまかすように彼女の髪へ顔を埋めた。
(ずっと、このままでいたいな……)
――あなたも、まだお子様ね。うふふ。
華蓮の声が頭の中で囁く。
心を覗かれても怒る気になれず、私はただ黙っていた。
星蓮の腕の温もり、曹英の寄り添う気配、
紗良の重ねてくる体温、琴葉の柔らかな髪。
全部が胸の奥にじんわり染み込み、
堰を切ったように涙があふれた。
声に出したら泣きじゃくってしまう。
だから私は、ただ皆に身を預けていた。
――ああ、私はこんなにも、誰かに触れてほしかったんだ。
そう思った瞬間、また涙がこぼれた。
「……ありがとう」
小さく呟きながら、涙が止まるまで皆の温もりを感じていた。
「お姉ちゃんたち、冷たい飲み物用意したから出てきたらー!」
元気な燈澄の声が外から響く。
身体がびくんと反応し、琴葉が顔を上げて私を覗き込む。
燈澄と琴葉の表情が重なり、思わず吹き出してしまった。
「なによー、人の顔を見て笑わないでよー!」
琴葉が笑いながら声を上げると、
少し離れたところで見ていた小喬、貂糜、秦の四女神が微笑んだ。
曹英も私の隣で肩を震わせている。
私もつられて微笑み、皆に声をかけた。
「燈澄も呼んでるし、冷たいもの飲んで少し休もうか」
皆がうなずき、私たちは露天風呂の入り口へ向かった。
そこでは、燈澄が胸を張って飲み物を配っていた。
「ありがとう、燈澄」
声をかけると、彼女は誇らしげににっこり笑う。
「おねえちゃん、後でお部屋に行くね」
私は優しく頷き、やがて皆はそれぞれの離れへと戻っていった。
―――――
陽が傾く頃になって、ようやく目が覚めた。
上体を起こして周りを見渡すと、誰もいない。
(みんな、どこに行ったのかな……)
そう思った瞬間、風に乗って竈で肉を焼く香りがふわりと届いた。
窓を開けて中庭を覗くと、皆が楽しそうに料理をしている。
(ああ、もうそんな時間なんだ……お腹も空いたわね)
私は急いで着替え、中庭へ向かった。
気づいた曹英が手を振る。
「やっと起きたんだね。こっちにおいで」
隣に座ると、お茶を手渡された。
「川魚や野菜の串焼きをみんなで作って、今から焼くところなんだよ」
香りを楽しみながら一口飲み、私は囲炉裏の前で騒ぐ紗良と琴葉に目を向けた。
「あはあ、ほらほら!」
琴葉が火吹き棒に全力で息を吹き込むと、囲炉裏の灰が舞い上がる。
「ゴホッ、ゴホッ……琴葉、何してるのよ!」
顔をこすりながら怒る紗良。こすった手の下は墨で黒くなっていた。
それを見て琴葉はお腹を抱えて笑っている。
「もう、あの二人は何をやってるのかしら」
私はお茶を置き、二人のもとへ歩み寄った。
「貸しなさい」
火吹き棒を琴葉から受け取り、わずかに残る火種へそっと息を吹きかける。
みるみる火が広がり、炭へと移っていく。
燃え上がる火を見つめたまま、私は二人に言った。
「あんたたち、真っ黒よ。もう一度お風呂に行ってきなさい」
「はーい……」
しょんぼりした返事を背に、二人は露天風呂へ向かっていった。
その足音が遠ざかる頃、背後から別の足音が近づく。
「やっぱり火おこしは星愛に任せるのが一番だね」
曹英が肩越しに火を見ながら呟いた。
「許都を遠征した時の野営の火を思い出すよ」
私は静かに頷き、炭の奥で脈打つ赤い光を見つめた。
「うん、そろそろ串焼き焼き始めて大丈夫だよ」
囲炉裏から目を離し、皆に笑顔で声をかける。
「あの二人は置いといて、始めちゃいましょ」
こうして串焼きの宴は始まり、夜遅くまで続いた。
―――――
皆が寝静まったころ、私は露天風呂に入り、漢中盆地を眺めていた。
やや左下に目を移すと、南鄭城の篝火が点々と揺れている。
背後から静かに湯船へ入る気配がして振り向くと、
灯花のほのかな明かりに照らされ、湯けむりに霞む秦の四女神の姿があった。
四人はゆっくりと私に近づき、私と同じように漢中盆地を見下ろした。
右隣に座った亜亥が、湯面を見つめたまま呟くように言った。
「私たちも浮島夢咲には戻らず、ここに残ることになりました」
私は驚いて亜亥の顔を覗き込む。
亜亥は露天風呂の岩の縁に腕を置き、そこへ静かに頭を預けて私を見つめた。
「華蓮様の命令で、漢中の戦を最後まで見るのも学びになるので、
戦が終わるまでここに残りなさいと、言われました」
私は少しうれしくなり、亜亥から視線を外して夜空を見上げた。
(うふふ、やっぱり亜亥は優しい女神になりそうですわね)
――えっ、その声は……華蓮様?
(そうよ、わ・た・し。……亜亥は大ウソつきね)
――それは、どういうことかしら。
(私はね、こう言ったのよ)
私は遠くに見える山の尾根と星の境界に視線を移し、続きを待った。
(星愛は放っておくと竈の前に居座って一日中動かなくなり、
そのうちどこにも行かなくなるから、面倒を見なさいってね……
思いやりあるでしょ)
――華蓮様、あなたっていう人は……
その後、言おうとした言葉が出てこなかった。
図星だったのだ。
物心ついたころから、船団の指揮の取り方や学問に明け暮れ、
八歳の時には許都へ遠征し、人の生死を垣間見た。
星蓮府の星紙幣を考案し、灯花の灯りを全土に広げ、
今では劉備、曹操、孫権らとも対等に渡り合っている。
――私、走り抜けてきたのね……でも、何もないと何をしていいか分からない。
(うふふ、今日は素直なのね。戦が終わるまで、じっくり遊びなさい。
これは妃良や芳美からの思いでもあるのよ)
気づけば、私は呟いていた。
「……お母さん」
驚いた亜亥が私を覗き込む。
「どうしたの、星愛」
「ううん、何でもないの」
そう言った私の瞳は少し潤み、自然と微笑みがこぼれていた。
左隣にいた恬香が身を寄せ、北西の方を指さす。
「見えるでしょ、あの山の頂上の灯り」
私は静かに頷いた。
「黄忠の陣の灯りだよ。
これからゆっくり日数をかけて降りてきて、蛇のように灯りの列が伸びてくるよ」
私はその情景を思い浮かべながら、縁に腕を置き、
頭を乗せて遠くの明かりを見つめた。
「あの灯の列の先頭が定軍山の陰に隠れる時、無血開城の策が始まる」
ふと、華蓮と荀彧、徐庶の意地悪な笑顔が頭に浮かぶ。
「そして殿の灯りが定軍山に隠れて五日後、
劉備と曹操の本当の戦が始まる」
私はなぜだか他人事のような気持ちで頷いた。
(さて、明日から何しようかしら……燈澄を誘って玄冥原の街を歩こうかしら)
そんなことを考えながら、自然と笑みが漏れた。
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