第107話 劉備動く
巴東の劉備陣営が動きだしたという報がもたらされたのは九月上旬。私たちが灯花庵でしばしの休息を楽しんだ翌日、歴史の歯車は静かに回り始めていた。
朝の光が、飾り扉の鳥の影を布団に映し出していた。
ゆっくり目を開けると、気持ちよさそうに寝ている曹英の寝顔が目に入った。
目を擦りながらゆっくり上体を起こすと、紗良も目覚めたのか目を擦り私を見た。
琴葉を見ると、大の字になり片足を紗良の足に乗せ熟睡しているようだった。
「おはよう、紗良」
私は、起きたばかりの紗良に声をかけた。
「ふあー……おはよう、星愛」
「久しぶりによく眠れたわ。紗良は?」
「うん、碧衣はいないけど、こうやってみんなとゆっくり眠るのは久しぶりだよね」
そう言いながら、紗良が私の膝に頭を乗せて顔を見上げてきた。
「こんな日がいつまでも続くといいよね」
私が紗良の髪を撫でながら言うと、紗良の表情が強張った。
「な、に、が、続くの――?」
「えっ?」
驚いて後ろを振り向くと、怖い顔で曹英が紗良を見つめていた。
私は苦笑いを浮かべて、「おはよう、曹英」と声をかける。
「おはよー、星愛!」
そう言いながら曹英が勢いよく抱きついてきた。
「きゃー!」
そのまま私と曹英は紗良の上に倒れ込んだ。
「ぐふっ……」紗良のお腹から声が漏れる。
「もう、みんなは何やっているんですかー!」
突然、琴葉が私たちの上に飛び乗ってきた。
「もう、琴葉ったら……」
私たち四人は顔を見合わせて笑い合った。
「さあ、着替えて母屋に朝食を食べに行こうか」
私が言うと、みんなが一斉に抱きついてきた。
「さんせー!」
私たちは服に着替え、母屋へと向かった。
母屋の入り口で立っていた燈澄が私を見つけると、走り寄ってきた。
「星愛さまー!お待ちしていました」
そう言って抱きつき、私の手を取って一緒に歩き出す。
「星愛様と皆さま、おはようございます」
「燈澄、おはよう」紗良がにこやかに挨拶し、曹英も続いた。
琴葉も同じように挨拶をし、一言付け足した。
「お二方は、相手が子供だとあまり気にならないみたいですね……
でも、余裕を見せていると、燈澄に取られてしまいますよ」
「ははは――」
紗良と曹英は笑顔を浮かべたが、目は冷たく琴葉を睨んでいた。
その空気を子供ながらに感じ取ったのか、燈澄の小さな手が私の手をしっかり握った。
「もう、琴葉は分からないことを言わないの。燈澄が怖がっているわよ」
私が諫めると、琴葉はじっと私を見て言葉を返した。
「分からないのは、燈澄の他にもう一人いましたね」
意味ありげに口元を吊り上げる琴葉だった。
突然だんだんが声を上げた。
「あっ、そうだ。言わないといけないことがあったの」
燈澄の顔が真剣になり、言葉を続けた。
「ミレイア先生からの伝言で、『朝食が終わったら五華と秦の四女神、孫尚香と星蓮は残りなさい』って言っていたよ」
「ありがとう、燈澄」
私は燈澄の頭を撫で、他の三人と頷いた。
(わざわざ朝食の後に残れと言うなんて……きっと重要な話ね)
私はミレイアの話の内容を考えながら母屋へと入っていった。
―――――
朝食を終え、私たちは食堂でミレイアが現れるのを待っていた。
窓から差し込む陽光が部屋を温め、心地よい静けさが漂っている。
やがて、他の者たちが退席したのを見計らったように、
ミレイアのホログラムがふわりと姿を現した。
「みなさん、おはよう」
私たちは頷き、声をそろえて挨拶を返す。ミレイアは柔らかく微笑んだ。
「一晩だけど、少しは休めたかしら」
琴葉が笑顔で答える。
「うん、とても楽しかったよ」
私もつい口にする。
「もう少し休んでいたいくらいです」
その瞬間、ミレイアの表情が引き締まった。
「気持ちは分かるわ。でもね、時は待ってくれないの」
私は小さく息を吐いた。
「やっぱり、何かあったのですね」
心配が顔に出たのか、ミレイアは慰めるように頷いた。
「夜明け前に、劉備が動いたわ」
紗良の表情が固くなる。
「玄冥原に来る前から、巴東城では兵糧や武器を集めていましたね」
孫尚香が腕を組み、真剣な眼差しを向ける。
「劉備軍の規模は、どれほどなのですか」
ミレイアが白壁へ視線を向けると、そこに映像が浮かび上がった。
巴東城の門が開き、槍を担いだ兵士たちが次々と行進していく。
列は途切れることなく、まるで大河のように流れ続けていた。
思わず声が漏れる。
「……凄い数ね」
私の呟きに気づいたのか、ミレイアは静かに頷いた。
「騎兵一万、歩兵五万。合わせて六万の兵を投入したわ」
紗良が映像を見つめながらミレイアに尋ねた。
「漢中までは、どの道を使うか分かるかしら」
「出陣したばかりだから、まだ断定はできないわ。
いま言えるのは、大巴山脈へ向かっているということだけね」
漢中では小さな衝突が続き、空気には緊張が漂っていた。
私は腕を組み、首を傾げ、片手を頬に当てながらゆっくり考える。
「普通なら、これから冬に入る時期は避けたいところ……
でも、漢中で曹操の陣営が固まれば、攻略は難しくなる」
紗良が私を見て頷き、言葉を継いだ。
「漢中を押さえられると、中原への道は閉ざされる。
長江を下るにも、呉の孫権が行く手を阻む」
曹英が「曹操が内陸の蓋を」、孫尚香が「孫権が水路の蓋を閉じる」。
最後に琴葉が「つまり、劉備陣営は封じられるわけね」とまとめた。
そのやり取りを聞いていた恬香が目を輝かせる。
「劉備陣営としては、今動かなければ未来は開けない。
曹操十五万、劉備六万……兵力差は大きいようでいて、
それでも戦えるのは、優れた軍師がいるからでしょうね」
私は恬香の言葉に頷き、ミレイアと琴葉に声をかけた。
「明日の朝までに、玄冥原の陣へ来るよう、
夢咲の軍師たちに連絡してもらえるかしら」
「ええ。浮島夢咲にいる龐統と荀彧、
それから夢咲夏口防衛学術院の周瑜で良いのね」
「はい。徐庶殿と孫瑜はここにいるので、その三人にお願いします。
琴葉は劉備陣営の情報収集を任せるわ」
「うん、任せといて」
琴葉は楽しげに返事をし、煙を残して姿を消した。
―――――
夜の露天風呂から立ちのぼる湯気が、星空を淡く霞ませていた。
秋の虫の声が静かに響き、耳に心地よい。
私と紗良、曹英、そして明日の会議のために玄冥原へ来ていた碧衣の四人で、
灯花庵の露天風呂から漢中盆地を眺めていた。
「早く、この盆地いっぱいに灯花の灯りを灯したいな……」
私が呟くと、左右にいた曹英と紗良がそっと頭を寄せて頷いた。
紗良の頭越しに、碧衣が私へ視線を向けて微笑む。
「長巴道の工事は順調よ。年内には開通するわ。
そうなれば、ここから灯花の列がずっと続く夜景が見られるはず」
その光景を思い浮かべ、私は頬を緩めた。
「いいわね。じゃあ、来年の収穫に向けて耕地の開拓もしっかり進めないと」
今度は昼の稲や麦が風に揺れ、波のように広がる景色を想像する。
曹英が暗い漢中盆地を見つめながら呟いた。
「来年の秋から漢中盆地を穀倉地帯にするなら、開拓だけじゃなくて、人も集めないとね」
紗良が私の頭越しに曹英へ視線を送り、頷く。
「そうだね。夢咲星環府が大きくなるほど、人手不足は深刻になるわ」
「ふう……そうよね」
私は漢中盆地から視線を外し、露天風呂の岩に背を預けるように向きを変えた。
その視線の先に、こちらへ飛び込もうとしている少女の姿があった。
「うっひょー!」
「キャー!」
ザバァンッ――。
灯花の灯りが水しぶきを照らし、湯面には大きな波が広がる。
私たち四人は一斉に波の中心へ目を向けた。
白い湯気の中、得意げな笑顔を浮かべる女子が立っていた。
「琴葉――!」
私たち四人は声を揃えて非難の声を上げた。
「もう、あなたって子は……もう少しお淑やかになれないの」
紗良が大きな声で問いかける。
「えへへ、これでいいのよ。変わる気はないわ」
琴葉の返事に、曹英が肩をすくめる。
「考え方が、あなたの上司の華蓮様に似てきたわね」
「ええ、そうかなあ……」
華蓮に似てきたと言われ、琴葉は嬉しそうに頬を染めた。
(琴葉は華蓮のことが好きなのね……蜘蛛の姿のとき赤い瞳だったし、何か関係があるのかしら)
私は顔にかかった湯を指で払い、琴葉に尋ねた。
「思ったより帰りが早かったわね。劉備軍の詳細は分かったのかしら?」
「うん、必要な情報はちゃんと仕入れてきたよ」
琴葉の言葉に呼応するように、巨大な蜻蛉のような影が夜空を横切った。
ブーーン――。
低く唸るような音が露天風呂に響き渡る。
私は思わずみんなを庇うように湯から立ち上がった。
その背後から、紗良の声が聞こえる。
「あっ、ドローン」
「なによ、そのドローンって!」
思わず聞き返すと、紗良は湯に浸かったまま説明した。
「えっとね、夏口防衛学術院で最近、防衛や諜報活動に試用を始めた星環機みたいなものだよ」
曹英が私の腰のあたりからそっと顔を出し、空を見上げる。
「あんな小さい物に、人が乗れるわけないでしょ!」
「いやいや、人は乗ってないよ」
「何をわけのわからない――」
曹英が言いかけたところで、ミレイアのホログラムがふわりと現れた。
「あなたたち、本当に面白いわね……それに、星愛、丸見えだけど」
「キャー!」
私は慌てて胸を両手で隠し、湯に顔まで沈めた。
「あらあら」
ミレイアは意地悪そうに微笑む。
そして、琴葉へ視線を向けた。
「琴葉ちゃん、劉備陣営の様子を教えてくれるかしら」
ホログラムのミレイアが首を傾げる。
「うん、教えるのはいいけど……ねえ、なんでミレイアはお風呂で服を着てるの?」
琴葉が首を傾げると、ミレイアは冷たい視線を向けた。
「私の創造主・澪様が、人の子に肌を見せることを許していないのよ」
琴葉はジト目でミレイアを見つめる。
「はいはい。それで、何を知りたいの?」
「まずは軍の人数と、行軍に参加している将軍を教えなさい」
琴葉は両手を頭の後ろに組み、得意げに笑った。
「どうしようかな……ミレイアは口の利き方を知らないみたいだし」
ミレイアの目つきが鋭くなる。
「本当に……華蓮はあなたにどんな教育をしてきたのかしら」
二人の子どものような言い合いに、碧衣が苦笑しながら割って入った。
「もう、あなたたちは仲が良いのか悪いのか……。
私たちも劉備軍の情報は知りたいの。のぼせる前に話してほしいな」
碧衣が優しく微笑むと、琴葉は肩をすくめた。
「まあ、碧衣の頼みなら仕方ないか……。
人数はミレイアの言ってた通り、騎兵一万、歩兵五万。
それと、山岳越えになるから兵糧の輸送隊として三十万の農民が動員されてるみたい」
ミレイアは自分の見積もりが正しかったことに満足げに頷いた。
「参加している将は誰かしら」
「主力は劉備、諸葛亮、法正、黄忠、張飛、趙雲、魏延、馬超。
補助で雷銅と呉蘭がついてるよ」
私は馴染みのない名前が混じっていることに気づいた。
「法正、黄忠、魏延、馬超、雷銅、呉蘭って……私、知らないのだけど」
その問いには紗良が答えた。
「ああ、その人たちはね……劉備陣営の中でも特に名のある将たちだよ。
法正は軍略家、黄忠は老いてなお最強の弓の名手。
魏延は勇猛で、馬超は西涼の英雄。
雷銅と呉蘭は益州で劉備を支えた武将だね」
ミレイアが頷き、琴葉にもう一つ尋ねる。
「ところで、どの道を通って陽平関に入るかは分かったかしら」
琴葉はニヤリと笑い、胸を張った。
「秦嶺山脈を越えて、漢水の支流に沿って行軍するみたい。
まずは陽平関を突くつもりだよ」
私と曹英は思わず視線を交わし、複雑な表情になった。
どちらの陣営にも、懇意にしている将が多いのだ。
一方でミレイアは、欲しかった情報を得られたことに満足したように頷いた。
「もう浮島夢咲や夢咲防衛学術院から将が巴東に入ったわ。
明日は午前からの会議でいいかしら」
胸の中でいくつもの思いが渦を巻き、私はただ頷くしかなかった。
「うん、十時から軍議を開きます」
「分かったわ。私から各将に、今の情報と軍議の時間を伝えておくわね」
そう言い残し、ミレイアのホログラムは消え、ドローンは暗闇へと飛び去っていった。
私と曹英は再び目を合わせ、言葉を失った。
「ほらほら、このままだとのぼせちゃうよ」
琴葉の明るい声が沈黙を破る。
「そうよ。明日は漢中での夢咲の方針を決める大事な会議なんだから」
碧衣が私の肩を軽く叩き、紗良も曹英の肩に手を置いた。
三人に促され、私と曹英は露天風呂をあとにした。
灯花庵の離れに戻ると、三姉妹の末っ子・燈澄が布団を用意して待っていた。
私たちの姿を見るなり駆け寄ってきて、私の腰にぎゅっと抱きつく。
「皆さん、お風呂長すぎですよ」
私は腰を下ろし、燈澄の小さな両手を包み込むように握り、瞳を見つめた。
(この庵の三姉妹も、戦災の孤児だったわね……)
気づけば、握る手に力がこもっていた。
「星愛様、どうしたの?」
「あっ、ごめんね……寝床の準備、ありがとう」
そっと抱きしめると、燈澄は嬉しそうに頬を赤らめた。
「これからミレイア先生のお勉強会があるの」
「そっか。お勉強は大切だよね」
私は優しく微笑み、彼女の頭を撫でた。
「えへへ」
誇らしげに笑い、「また明日!」と元気に手を振って母屋へ走り去っていく。
灯花に照らされる小さな後ろ姿に手を振りながら、私は静かに呟いた。
「私たちは、夢咲府民に手を出す者を決して許しません」
他の四人も、静かに頷いた。
その夜、燈澄が整えてくれた寝床に入り、
私たちは同じ天井を見つめながら、夜更けまで明日の会議について語り合った。
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