第106話 灯花庵
趙高との戦の時には蜩の声が響いていた玄冥原も、今は夕日に照らされた蜻蛉が自由に飛び交っていた。
「ねえ、曹英、そろそろお腹空かない?それとも温泉で身体を癒す?」
ロックモービルにへたり込んでいる曹英に声をかけると、彼女は頭だけを傾けて私を見つめた。
「星愛……私もう駄目。ご飯なんか喉を通らない……」
琴葉が曹英の背中をさすりながら顔を覗き込む。
「もう、大丈夫?夜は冷えるから、陣幕に行こうよ」
曹英はゆっくりと頷き、ロックモービルのハンドルを掴んで身体を起こした。
髪は乱れ、土埃で少し黒くなった顔は疲れ果てている。
紗良が心配そうに声をかけた。
「陣幕にお風呂あったかな……このまま温泉施設に行ってみる?」
曹英はだるそうに首を横に振る。
「私、まずは横になりたいわ……」
琴葉が曹英の肩を軽く叩き、私たちに向き直った。
「曹英がこんな状態だし、今日は陣幕で一息入れようよ」
紗良も同意し、私に視線を向ける。
私は首を横に振り、高台を指さした。
「ううん、あそこを見て」
皆の視線が、玄冥原の高台にある竹柵に囲まれた一軒の庵へと向いた。
琴葉が不思議そうに尋ねる。
「あの大きな庵がどうしたの?」
耳が少し熱くなるのを感じながら、私は答えた。
「えへへ……碧衣に無理言って作ってもらったの。私たちの温泉保養所」
紗良が目を丸くする。
「えっ、まさか……あの建物、私たちのための物なの?」
「うん。これから漢中開発で忙しくなるし、物思いに耽りたい時もあるでしょ……」
曹英の虚ろな瞳が私を見つめた。
「星愛ちゃん……あそこが、私と星愛ちゃんの庵なの?」
その言葉に、紗良がきっぱり否定する。
「あそこは、私と星愛、そしてみんなの庵だよ」
周りのみんなが苦笑いを浮かべた。
「今日はお披露目ということで、皆さんで一緒にどうですか?」
私が声をかけると、
「お願いしまーす!」「行きまーす!」「楽しみです!」
と歓声が上がった。
私は孫尚香、秦の四女神、そして星蓮に向き直り微笑む。
「皆さんも、あの建物を自由に使ってください。
今日は大勢だけど、仕事のことを忘れてゆっくりしませんか?」
星蓮が小首を傾げながら尚香に尋ねる。
「そうですね。四女神もまだ女神としては赤子同然。少し疲れているようですし……
尚香様もご一緒しませんか?」
尚香はふっと微笑んだ。
「そうね。玄冥原の戦から働きづめだったし、皆と楽しむことにしようかな」
私たちはロックモービルとキャタピラ星馳に分乗し、灯花庵へ向けて移動を開始した。
走りながら、琴葉が楽しそうに声を上げる。
「ねえ、あそこの庵の名前は決めたの?」
「うーん、まだ決めてないかな」
「じゃあ、『秘密の砦』とかどうかなあ!」
すると、ぐったりしているはずの曹英の声がインカム越しに飛んできた。
「もちろん、星愛と私の名前から『星英の巣』に決まっているでしょ」
すかさず紗良が反論する。
「いやいや、『愛良の月詠みの灯』だよね」
その後も、
『瞑想の庵』、『女人の城』……
と、いろいろな案が飛び交った。
琴葉が私に問いかける。
「星愛はどんな名前がいいの?」
私は少し息を吸い、胸の奥にある想いを言葉にした。
「私ね……漢中の灯花が増えていくのを、ここから見守りたかったの。
だから……“灯花庵”なんてどうかな。
みんなの灯りが増えていく場所を、ここから一緒に見たいの」
曹英が弱々しく笑う。
「私と星愛の巣じゃないのは残念だけど……私も、ここから灯花が増えていくのを見たいな」
紗良も優しく頷く。
「月詠みの灯りもいいけど……灯花庵かあ。未来が想像できて、心が温まる名前だね」
琴葉はまだ諦めない。
「えー、ぜーったい秘密の砦だよね!」
すぐに反対の声がインカム越しに飛ぶ。
「それは斜め上です!」「琴葉様、真剣に考えてください」「もう見えてるのに秘密じゃないです!」
琴葉は大きくため息をついた。
「あー、まったく……灯花庵かあ。秘密の砦の次にいい名前だし、灯花庵で決定ね」
「よかった」「普通に考えてそうよね」「正統派」「灯花庵いいわね」……
賛同の声が次々と上がる。
こうして、玄冥原の私たちの庵は“灯花庵”に決定した。
名前の話が終わる頃、私たちは灯花庵の入り口へ続く石段の前に立っていた。
孫尚香が石段の下から庵を見上げ、私に声をかける。
「なかなか、趣のある建屋だね」
「でしょ。とにかく安らぎが欲しいって、碧衣にお願いしたからね」
星蓮も周囲を見回しながら穏やかに言った。
「最近は豪勢な建物ばかりで、こういう田舎風の造りだと懐かしい気持ちになるわね」
「でしょ、でしょ」
思わず紗良や曹英と話す時の口調が出てしまい、尚香と星蓮が顔を見合わせて笑った。
私もつられて微笑む。
灯花庵の入り口では、待女の三姉妹が迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、星愛様」
三人はそろって深く頭を下げる。
私は真ん中の燈灯に向き直り、頬を赤らめながら苦笑した。
「ごめん、突然来て……しかも大人数連れてきちゃった」
頭を掻く私に、燈灯は柔らかく微笑む。
「大丈夫ですよ。皆様のお帰りをお待ちするのが、この庵の役目ですから」
左隣の燈柚が楽しげに付け足す。
「でも、最大の定員は三十名までですよ」
すると右隣の燈澄が慌てて姉を窘めた。
「もう、燈柚お姉ちゃんったら、そんなこと言わないの!」
私が困った顔をすると、燈灯が二人を静かに諭す。
「ほら、星愛様がお困りですよ」
二人は顔を赤くして私に頭を下げた。
「ごめんなさい」
「気にしなくていいわよ。あなたたち三姉妹の雰囲気、家に帰ってきたみたいで好きなの」
そう言うと、燈柚が「でしょ」と得意げに言いかけ、燈澄に視線を向けたので、
また言い合いになりそうで私は慌てて話題を変えた。
「燈灯、この庵の名前だけど……灯花庵に決めたよ」
三姉妹は一斉に私を見て、嬉しそうに微笑んだ。
「灯花庵。星愛様らしくて、とても良い名前です。さあ、中へどうぞ」
燈灯が先に立ち、私たちはその後に続く。
燈澄がそっと私の手を取り、一緒に長け作りの門をくぐった。
幼い手の温もりが伝わり、胸の奥がふっと和らぐ。
屋根は藁ぶきで、夕風にそよぐたびに柔らかな匂いを運んでくる。
木組みの壁は温かく、どこか懐かしい気配が漂っていた。
庭には白い砂利が敷かれ、緑の木々がところどころに植えられている。
その一角には屋外用の竈と囲炉裏が据えられ、静かな庵に生活の息づかいを添えていた。
奥へ目を向けると、竹柵に囲まれた温泉から湯気が立ちのぼり、
夕暮れの光を受けて淡く揺れているのが見えた。
皆が私たちの後に続き、感嘆の声を漏らす。
「ここはね、皆の憩いの場よ。
庵の中では女神様も五華も関係なし。皆、友達でいいでしょ」
「うん」「当たり前でしょ」「ここは憩いの場だもんね」……
一斉に声が重なり、庵に温かな響きが広がった。
「それで、一つ問題があって。庵は別荘みたいなものだから、料理は自炊なの。
無駄な経費は使いたくないから、燈三姉妹に母屋に住んでもらって管理を任せているの」
琴葉が首を傾げる。
「えっ、それってどういうこと?」
紗良が私の代わりに答えた。
「自分たちの食べるものは、自分たちで用意するってことよ」
「うん」「面白い」「いいんじゃない」「早く準備しようよ」……
皆の声を聞いて、私は胸の奥がふっと安らいだ。
「じゃあ、準備は班分けしようか」
そう言うと、みんなが一斉にこちらを向いた。
「まず、食材調達班。琴葉と紗良、陣幕に行って徐庶さんと孫瑜さんに
食材を分けてもらってきてくれる?」
「はーい!任せて!」と琴葉。
「了解。必要な量は私が判断するね」と紗良。
「ただし、灯花庵は男性立ち入り禁止だから、軍師たちはここまでね」
「えー、入りたいのに……」と琴葉が笑うと、
紗良が肩をすくめる。
「軍師たちが入ったら庵の意味がないでしょ」
「次に、火起こし班は……私がやるわ」
「星愛様が?」と星蓮が首を傾げる。
「うん。火を見ると落ち着くの。それに、ここは私が作ってもらった庵だし、
最初の火は自分で起こしたいの」
「食器の準備は燈三姉妹にお願いするね。
人数は少ないけど、灯花庵のことは一番よく知っているから」
燈三姉妹は楽しそうに微笑み、静かに頭を下げた。
「そして料理班は……星蓮と秦の四女神にお願いしたいの」
「わ、私たちが?」と四女神が目を丸くする。
「大丈夫。簡単な料理だから。鉄板で焼くだけよ」と星蓮が微笑んだ。
「パエリア、焼きそば、串焼き……湯上がりにぴったりだね」と琴葉が嬉しそうに声を弾ませる。
こうして、灯花庵での最初の夜の準備が始まった。
―――――
皆が準備に奔走し、やがて囲炉裏を囲んだ。
火がぱちぱちと音を立て、夕暮れの灯花が揺れている。
星蓮が皆に頭を下げ、楽しげに語った。
「今回の漢中の交渉は秦の四女神にお願いしましたが、成功したのは皆さんの力添えのおかげだと思います」
女子たちが一斉に拍手を送る。
「そして、私たちの気持ちとして、今日は宮廷料理に挑戦してみます」
「いいですねー、楽しみです!」と琴葉が声を弾ませる。
紗良や尚香も満面の笑みを浮かべた。
「いいわね、ずっと非常食だったから嬉しいわ」と尚香が期待の目を星蓮に向ける。
「では、私が蒸し鶏を作りますね」と星蓮。
「羊肉は任せてください。昔、よく食べていました」と扶美。
「炒餅は私がやろう。こういうのは火力が命だ」と恬香が鉄板を握る。
斯音は静かに米を研ぎ、香草を刻んでいた。
星蓮が鍋を覗き込みながら微笑む。
「これは……御膳什錦飯に似ていますね。宮中でもよく作らせていました」
鉄板を振りながら扶美が斯音の鍋を覗き込む。
「具が多い炊き込み飯か。懐かしいな」
星愛は笑って答えた。
「これは夢咲風に言うと“パエリア”みたいね……御膳什錦飯って言うんだね」
私は目を輝かせ、亜亥に尋ねた。
「この甘い香り……何を作っているの?」
亜亥が微笑んで答える。
「蜜炙果よ。果物に蜂蜜をかけて炙るの。宮中でも人気の甘味なんです」
「絶対おいしいやつじゃない!」と琴葉が串を握りしめた。
琴葉は串焼きを振り回し、紗良は全体の段取りを整え、星愛は火を見つめながら微笑んでいた。
「……いいね。こういうの」
灯花庵の最初の夜は、温かな香りと笑い声に包まれていった。
夜の帳が下りるころ、料理は完成に近づいていた。
その頃、ずっと私の膝で眠っていた曹英が目を覚ます。
「なに、この良い香り……お腹が空いてきた。でも、このまま星愛の膝枕で寝て幸せを噛みしめたい気持ちもあるし……」
紗良が耳元に口を寄せ、大きな声で言った。
「心の声、駄々洩れなんですけど!」
「キャッ……そんな大きな声出さないで」
耳を押さえながら体を起こした曹英は、周りの情景を見て驚いた。
「えっ、なにこれ、みんなで囲炉裏を囲んで、おいしそうな料理があって……」
琴葉がジト目で曹英を見つめ、肩を軽く叩いて言った。
「曹英が星愛の膝で伸びている間に、みんなで準備して作ったんだよ」
曹英は少し寂しそうに呟く。
「えっ、何で起こしてくれなかったの?」
私は曹英の肩を抱いた。
「今日は慣れないジャイロモービルで難所の峠を登ってきたんだから、私が起こさないでって皆にお願いしたの。不満だったかしら?」
「ありがとう星愛。気持ちは大切に受け取っておくね」と曹英が答えた。
こうして、楽しいみんなでの食事は夜遅くまで続いた。
―――――
(今日は楽しかったな……みんなと食事をして、温泉に入って)
私は隣で寝ている紗良の顔を見て、反対側で眠る曹英の顔を見た。
(玄冥原の戦から漢中の開発交渉まで、みんな、本当に頑張ったよね)
紗良と曹英を越さないようにして上半身を起こすと、隣で大の字になって眠る琴葉が目に入り、思わず「クスッ」と笑った。
皆を起こさないように静かに立ち上がり、一人露天風呂へ向かう。
夜空には天の川が流れ、庭には灯花がほんのりと揺れていた。
露天風呂の入り口に立つと、湯気に揺れる灯りの中に一人の人影が浮かび上がる。
「はあ……」
大きなため息が耳に届いた。
湯船に身を沈めると、人影が気配に気づき振り向いた。
「あっ、星愛様!」
「あら、亜亥様……」
私はゆっくり亜亥の横に移動し、共に漢中盆地を見渡した。
盆地は闇に沈み、右手の南鄭だけがわずかに明るく浮かんでいた。
「あそこが南鄭ですね」
私が声をかけると、「そうね」と上の空の返事が返ってきた。
構わず話を続ける。
「玄冥原の戦のあと、この岩場に立ったんです。そして漢中盆地を望み、いつかこの盆地を灯花の灯りで埋め尽くすと誓いました」
亜亥は虚ろな目で遠くを見つめていた。
「だから、この岩場に庵を立てたの。ここから漢中を見守るためにね」
「はあ……」
再びため息をつく亜亥。
「亜亥様、どうされたんですか」
尋ねると、亜亥は泣きそうな面持ちで私を見つめた。
「私だけなの、交渉しなかったの。扶美も、恬香も、斯音も成果を出したのに……私は何もできなくて、皆から置いていかれそうで」
そう言って私の肩に顔を乗せ、震える亜亥。
私はそっと肩を抱き、揺れる湯を見ながら落ち着くのを待った。
「亜亥様、漢中の開発は星蓮様、扶美様、恬香様、斯音様、そして亜亥様にお願いするつもりです。決して置いていかれることはありません」
「そうよ、そんなことはないわ」と力強い声が響いた。
振り向くと、星蓮、扶美、恬香、斯音、そして紗良、曹英、琴葉、尚香が湯に浸かっていた。
「私たちには亜亥の力が必要なのよ」と扶美が近づいてくる。
斯音は静かに言った。
「まったく、つまらないことで悩まないの」
「秦の四女神は四人揃って一柱の女神。亜亥は欠かせない存在なの」と星蓮が続ける。
紗良、曹英、琴葉、尚香も私の隣に並び、亜亥を見て微笑んだ。
露天風呂から十人の顔が並び、漢中盆地の暗闇を見つめる。
亜亥が突然「クスッ」と笑った。
「そうだね、私つまらないことで悩んじゃったみたい。みんなありがとう」
その声には涙を含みながらも、未来を見つめる力強さが宿っていた。
十の頭上を、一筋の流れ星が静かに流れていった。
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