第102話 南鄭交渉
幕内には、玄冥原の開発を進める慌ただしい音が満ち、その合間に蜩の鳴き声が遠慮がちに響いていた。
明日は南鄭城に入り、曹洪との開発交渉が予定されている。
今回の交渉には、曹操側の切り札として長安より急遽曹英を招集し、劉備側の切り札として劉明にも漢中開発交渉に参加してもらうことにした。
「いよいよ、明日から漢中盆地の開発交渉が始まります。
まずは、南鄭について徐庶殿より説明していただきます」
私が会議の趣旨を伝え、徐庶に視線を送る。
徐庶は静かに頷き、卓上に広げられた漢中の地図を見ながら立ち上がった。
渋みのある低い声が幕内に広がると、自然と皆の視線が彼に集まった。
「南鄭は漢中盆地の中心都市で、城郭に守られています。
周囲には豊かな水田や畑が広がり、人口は数万人規模。民は農耕と交易を基盤に暮らしています。
夏の盛りを迎え、稲や麦の収穫期に入りましたが、戦乱の緊張の中でも生活は続いている状況です」
徐庶は地図上の南鄭を指し棒で軽く叩き、一息置いた。
私は彼に軽く頭を下げ、立ち上がって夢咲南鄭府構想の説明を始める。
「城の周囲には田畑が広がっていますが、五キロほど離れると畑は点在する程度です。
さらに南鄭城から東へ八キロの位置には、大巴山系を水源とする川が流れています。
この場所に夢咲南鄭府庁と漢中南鄭駅を建設する計画です」
駅建設予定地を指し棒で叩くと、乾いた紙の音が幕内に広がった。
建設地についてはすでに何度も打ち合わせてきたため、誰も質問する者はいなかった。
「では、実際の開発許可の交渉について、魯粛殿より説明をお願いします」
私が席に腰を下ろすと、魯粛が立ち上がり、会議の出席者を見渡して話し始めた。
少し懐かしさを感じさせる高めの声が室内に広がる。
「さて、南鄭城には曹洪が入っています。
漢中攻防戦で劉備軍を退けた忠義の武将です。
魏の利益や補給・防衛の安定を重視する堅実な人物です。
交渉に臨む際は軍の補給よりも、民への食糧や生活物資の支援を前面に押し出すのが良いでしょう」
魯粛の言葉に続いて、徐庶が腕を組みながら問いかけた。
「曹洪はやや吝嗇であったと記憶していますが……」
曹英が柔らかな表情で頷く。
「あの従兄はケチで、出し惜しみすることで有名でした」
琴葉も笑みを浮かべて付け加える。
「曹操おじさまや程昱おじさまはいつもお茶菓子を出してくれるのに、曹洪のところへ行っても水すら出してくれないのよ。ほんと、ケチなの」
会議室のあちこちに忍び笑いが広がった。
私も頬を緩めながら、扶美(元は始皇帝の長男扶蘇)に声をかける。
「扶美様は今回交渉の担当ですが、魯粛や徐庶と対応を話し合ってきましたか」
呼びかけに応じて扶美は堂々と立ち上がり、胸を張って凛とした声を響かせた。
「はい、曹洪殿の……」
その言葉を星蓮が遮る。
「扶美様、いけません」
扶美は一瞬身を震わせ、深く頭を垂れた。
「申し訳ありません。会議の雰囲気に呑まれ、人の子であった頃の癖が出てしまいました」
星蓮は優しくも厳しく言葉を返す。
「今は女神様です。常に品位を持って行動してください」
その声に場が和み、皆はもう一度話し直す扶美を温かく見守った。
扶美の説明によれば、長安と南鄭間の穀物輸送費を割安にする提案を持ちかけるということだった。
説明が終わると、明日の曹洪との会談に向けた最終確認が整い、会議は閉じられた。
―――――
夜、高台から南鄭城を眺めながら一人過ごしていると、曹英がやって来て私の座るロクの後ろの座席に腰を下ろし、背に頬を寄せてきた。
「どうしたの、曹英」と星を見上げながら声をかける。
「実はね、私、曹洪と婚姻を結ぶ予定だったの。生まれた時から決まっていたの」
「そうだったの……顔を合わせるのが辛いかな」
「ううん、大丈夫。呉から抜け出して南州夜影賊衆に拉致され、星愛と出会い、こうしてあなたの側にいる。これからもずっと一緒だから」
曹英はしばらく背中に身を預け続けた。
背中越しに曹英の温もりが伝わり、心地よさが広がっていく。
「いよいよ、明日から漢中攻略が始まるね」
私が声をかけると、曹英は静かに「うん」と答えるだけだった。
「あー、ここにいた!」遠くからロックモービルの音と琴葉の声が響く。
「曹英、あなた星愛と何をしているの」
紗良の大きな声に場の空気が一気に和み、いつもの日常が戻る。
碧衣もすぐに駆けつけ、皆で南鄭城を眺めながら青写真を語らい、夜は更けていった。
―――――
七月の朝、玄冥原にはまだ夜露が残り、草葉が淡く光を放っていた。
東の空は白み始め、山の稜線の向こうから陽が昇ろうとしている。
小鳥のさえずりが谷間に響き渡り、出発の時を告げていた。
幕舎の前には仲間たちが集まり、荷を整え、星馳やロックモービル、ジャイロバイクの点検を終えている。
誰もが口数少なく、緊張と期待を胸に秘めていた。
今日、南鄭城に入れば曹洪との交渉が始まる――その思いが空気を張り詰めさせていた。
玄冥原駅の建設に携わる碧衣が私に声をかける。
「きっと、交渉はうまくいくわよ」
「そうだね。曹操にも劉備にも漢中開発の許可は得ているし、失敗はないと思う。
後は領主がどのような条件を出してくるかによるだろう」
紗良が「さあ、行こう」と声をかけた。
私は碧衣に微笑み、ロクの風防に向かって話しかける。
「ろくちゃん、今日はジャイロバイクと星馳も一緒。
皆が走りやすい道を選んで、南鄭城の城門までお願いね」
「星愛様、任せてください」
ロクがゆっくりと走り出し、それに続いて星馳、ジャイロバイク、ロックモービルが列を成す。
玄冥原の高台を進むロクから見下ろすと、谷間に川と原野が広がっていた。
そこは、やがて夢咲農園が拓かれる予定地。
朝靄に包まれたその土地は、未来の息吹を静かに宿していた。
ロクは大巴山の下り坂を安定した走りで進んでいく。
南鄭城へ続く道を降りると、眼下には城郭の白壁と点在する田畑が広がる。
さらに東の川沿いには、まだ何もない原野が広がっていた。
だがそこは、未来に夢咲農園が築かれる場所――新たな拠点となる土地だった。
玄冥原から南鄭城までの距離はおよそ四十キロ。
本来なら一日を要する道のりだが、星環機の群れは一時間半で城門へと到着した。
城門を守る兵に声をかけた。
「曹洪殿に夢咲の星愛が来たとお伝えください」
「はい、今しばらくお待ちください」
城門の兵が待機している兵に目配せすると、やがて緑色の狼煙が天へとゆらりと立ち昇った。
ほどなく迎えの兵が馬に乗り現れた。
「お待ちしておりました、星愛さま」
両手を組み深くお辞儀する兵に声をかける。
「乗り物で城内に入ってもかまわないでしょうか」
兵は頭を上げ、「大丈夫です」と一言告げた。
私は後ろを振り向き、手を上げる。
迎えの兵が馬に跨り、「私に続いてください」と声を張り上げた。
私たちはゆっくりと馬に続き、城内へと入っていった。
南鄭には三万人ほどが暮らし、漢中防衛の要とされていた。
城内の人々は足を止め、じっと星環機の列を見送っている。
「ねえ、ろくちゃん、何となく静かだと思わない」
「そうですね、城内に一万人以上住んでいるはずですが、騒音の数値が低いようです」
「空気も何となく張りつめているような気がする」
そんなことを話していると、槍を持った小隊が城門へと向かっていった。
「今通り過ぎていった兵だけど、麻の野良着に皮の胸当て、頭巾や簡素な兜の姿だったね。夢咲と比べるとずいぶん粗末じゃないかしら」
「夢咲が恵まれすぎているとも言えますね」
「そうなんだ。夢咲の兵は皆職業兵で、周瑜や紗良が考案した戦闘服や武器、防具を身につけているけど……」
「どの国も夢咲のようには潤っていません。兵士たちは自前で装備を整え、名を上げて少しでも収入を得ようとしているのです」
「皆、生きるのに必死なんだね」
そんな話をしていると、ひときわ大きな建物が姿を現した。
建物の前の広場には兵糧を積んだ荷車が並び、汗を流す人夫たちが米俵を蔵へと運んでいる。
「あの大きな建物が官衙かしら」
「そのようです」
やがて前を歩いていた兵が馬を降りたので、私たちも星環機から降りた。
「ろくちゃん、おとなしく待っていてね」
「はい、お待ちしております」
ロクに声をかけ、私もロックモービルを降りた。
官衙の前では左右に兵が並び、三人の男が立って待っていた。
私と扶美が先頭に立ち、紗良、曹英、琴葉、星蓮が後に続く。
入り口に近づくと、三人の男は両手を組み、深々と頭を下げた。
私が頷くと、真ん中の男が「ついてきてください」と一言だけ告げ、先を歩き出した。
―――――
槍を持った小隊が城門へと向かっていくのを見届けた後、私たちは会議室へと通された。
すでに左側の中央の席には曹洪が座していた。
私と扶美が右側の中央に座り、扶美の隣には星蓮と琴葉。
私の隣には曹英、紗良の順に並んだ。
曹洪の右側には軍事担当官、左側には補給担当官、民生担当官が座している。
簡単な挨拶を交わすと、すぐに本題へと移った。
琴葉が机の中央に持参した地図を広げる。
紙の音が会議室に響き、場の空気が引き締まった。
扶美が指し棒を手に取り、静かに立ち上がる。
「では、夢咲の漢中計画について説明いたします」
曹洪は腕を組み、値踏みするような視線を扶美に向けて口を開いた。
「扶美殿と申したな。若いのに務まるのかの」
扶美が目を細め、曹洪を睨み返す。
「何か言ったか。そもそも……」
その瞬間、隣の星蓮が扶美の足を踏んだ。
扶美は一瞬背筋を伸ばし、言葉を飲み込む。
(あちゃあ、扶美様、男の素が出そうになった……
でも値踏みするような目で見た曹洪さんも悪いわね)
私は背筋を伸ばし、曹洪に微笑みながら話しかけた。
「曹洪殿、扶美様は私たちの優秀な女官です。
それとも、今回の交渉を扶美に任せたことに落ち度があるとお考えですか」
言い終えた瞬間、視界が淡く赤に染まった。
(華蓮様……まさか、見ているのですか)
驚きの声を心の中で上げると、頭の奥に華蓮の声が響いた。
(あら、やっぱり玄冥原で神核融合してしまったみたいね)
戸惑いながら問いかける。
(華蓮様の声が、はっきり聞こえるのですが……)
返ってきたのは、いつもの投げやりな調子だった。
(細かいことは気にしなくていいわよ。
それより、目の前の男に強く言ってお上げなさい)
私は目を細め、曹洪を睨む。
赤い視界の中で、彼の心臓が激しく鼓動しているのを感じ取った。
(華蓮様……心臓の動きまで伝わってきます。これは、あなたの神能なのですか)
華蓮も初めてのことなのか、言葉を選びながら答えた。
(うーん、多分ね……あなたには神能はないでしょう?
それなのに無意識に神能を使おうとすると、私の力の一部が反応するみたい)
曹洪の様子が気になり、声をかけた。
「曹洪殿、顔色が優れないようですが、どうされましたか」
すると、胸のあたりに灰色の玉が震えているのに気付き、華蓮へ問いかける。
(華蓮様、曹洪の胸に灰色の玉が揺れているように見えます)
華蓮はさらりと答えた。
(それが人の魂よ。決して潰してはなりません)
一方、曹洪は額の汗を拭い、声をわずかに震わせながら応じた。
「いえ、私も気付かぬうちに失礼なことを申したようだ。
ささ、扶美様、ご説明をお願いします」
扶美は昨日玄冥原で話した内容を曹洪に伝えた。
予想通り、曹洪は腕を組み、首を縦には振らなかった。
その時、華蓮が笑みを含んで囁いた。
(曹洪って、吝嗇が染みついていますわね。
いいことを教えてあげる。灰色の玉を優しく撫でてごらんなさい。
腰を抜かして、すぐに交渉がまとまりますわよ……うふふ)
(私は華蓮様のやり方は選びません。扶美様を信じます)
そう心に誓い、立っている扶美の顔を見上げた。
少し間を置き、反応を示さない曹洪に扶美は優しく微笑み声をかけた。
「曹洪殿、一つお聞きします。
いま、米を一俵長安まで運ぶのにどのくらいの費用が掛かっているのですか」
曹洪は隣の補給担当官に目配せし、担当官が静かに答えた。
「米一俵を長安に送るには、千数百銭、夢咲の紙幣で六百星になります」
扶美は予想通りの答えに静かに頷いた。
「そうですか、中程度の絹であれば一反。かなり高価なお米になりますね……
これでは民に十分行き渡らないでしょう」
補給担当官は困り顔になった。
「はい、一般民にとって漢中の米は手の届かぬものになります」
扶美は同調するように何度も頷いた。
「これでは、売れる者も売れず、腐らせることになってしまいますね」
補給担当官はため息をつきながら答えた。
「おっしゃる通りです」
扶美は寄り添うような優しい表情を浮かべた。
「長安までは何日かけて届けているのかしら」
調査官が俯き加減になり、補給補佐官が答えた。
「馬に二俵積んで、二週間になります」
「それでは、僅か数千俵しか漢中から運び出せないですね」
「はい、肥沃な台地があるのに畑が少ないのは、その理由もあります」
「兵士は一月に一俵必要。漢中では数千の兵しか養えない計算になります。
結局、長安に十分な米を送れないのは痛手ですね」
扶美と補給補佐官の話が途切れたのを見計らい、私は曹洪を見ながら言った。
「穀倉庫と言われる割に、無駄が多いようですね」
曹洪は唇を噛みながら私の言葉を聞き、吐き捨てるように言った。
「山越えがあるのに仕方がなかろう」
扶美は優しい微笑みを浮かべ、米の輸送について提案した。
「私たちにはリニアモノレールがあります。
貨物専用車両であれば、一度に四百八十俵を長安まで二時間で運べます」
曹洪と補給担当官が口を揃えて驚きの声を上げた。
「そんなことがあるものか!」
二人の言葉を聞き、私は二人を見つめた。
「今まで、夢咲が嘘をついたことがあるとおっしゃるのですか」
曹洪が慌てて訂正した。
「いや、驚きのあまり出てしまった言葉だ。容赦くだされ」
その言葉を受け、扶美が畳みかけるように話を続けた。
「いまは四百八十俵の米を送るのに二十八万八千星の費用が掛かり、しかも一週間の日数を要していますね」
補給官が頷き、静かに「左様です」と答える。
扶美の視線が曹洪を捉えた。
「これが二時間で送れる。それだけでも価値があると思いませんか」
曹洪は腕を組み、言葉を選ぶように答えた。
「うむ、仮に一日一回、毎日送るだけで一万四千以上の兵士が養える米が届く」
扶美はゆっくり目を閉じ、少し間を置いた。
そして再び目を開き、美しい瞳を曹洪に向ける。
「どうでしょう、夢咲のリニアモノレールによる輸送を二十万星で請け負います」
曹洪は扶美の瞳にのまれたのか、明るい表情を浮かべた。
「うむ、これならば曹操様もお喜びになると思う」
扶美の瞳が『南鄭土地開発の協定書』を見つめる。
「ただし、一つ条件があります」
曹洪は案ずるなと言いたげに胸を張った。
「分かっておる、土地開発の許可だな。
全面的に許可致そう」
こうして交渉は終わり、双方が『南鄭土地開発の協定書』に目を通し、署名して契約は成立した。
この交渉劇を見て、星蓮は満足げに微笑み、曹英と紗良は一瞬どや顔を見せ、琴葉は会議中に生あくびをしていたのを私は見逃さなかった。
会議が終わり、星環機のところまで戻ってきた。
「思ったより早く終わったね」
私がそう言うと、琴葉が笑いながら言った。
「玄冥原の温泉が完成するって碧衣が言っていたし、玄冥原に戻ろうよ」
皆が笑顔になったので、ここでの野営はせず玄冥原に戻ることにした。
帰り路、私は視界が薄く赤く染まったことを思い返していた。
もう視界は赤くならず、華蓮との会話もできなくなっていた。
「ねえ、ろくちゃん。私ね、襄陽にいる華蓮と心の中でおしゃべりしたり、華蓮の深奥の一部を体現したんだけど、どうしてできたのかな」
「私にも分かりませんが、こうして私と話していることと同じかもしれませんね」
「ふーん。私たち神から生まれた人の子だけど、琴葉は蜘蛛、紗良は月弓、碧衣は銀の鉄扇を使えるでしょ。
今まで私は何もできなかったけど、さっき体現したのがそうなのかしら……」
「答えは分かりませんが、いつか分かる日が来ると思います」
「そうね。赤い瞳のことを言っていたけど、エレシュキガル様とも関係あるのかしら」
ロクの自動操縦に任せながら、そんなおしゃべりをしているうちに玄冥原の台地が見えてきた。
不思議なことはあったが、満ち足りた一日だった。
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