百聞は一見にしかず(二)
宮廷には、人も物も良いものだけが揃っている。
瑞英は、そういうものだと聞いて育った。
直接見たことではない。
すべて、噂でしか聞いたことがない話ではあるが、この国の頂に立っている皇帝がいる場所なのだから、そうに違いない。
庶民の暮らしぶりより簡素なわけがないし、すべての中心。
とくに現在の皇帝は、嫡子である息子――――悠信の父が生まれてすぐに、東宮が将来過ごす場所だとして、東宮殿の改築を指示していたはずだ。
つまり、東宮殿はその当時で一番良いものをかき集めて造った場所である。
それが孫の代になってしばらく経つとはいえ、ここまで歪んでいなんて、瑞英はやはり何事も百聞は一見にしかずなのだなと思った。
「どういう意味だ? 東宮殿に何かあるのか?」
「……歪んでいるんです。そして、臭い。もしかして、この東宮殿の庭のどこかに墓でもあります?」
「墓……? いや、聞いたことがないが――――」
悠信は歩鹿に視線を向けたが、彼も聞いたことがないと首を横に振る。
「東宮殿の庭に墓だなんて、あり得ないですよ。とくにこの東宮殿の庭は、三年前に亡くなられた梨樹妃様が自ら花や植物を育て、手入れをしていたと聞いています」
南方の町の出身であった現在の東宮の最初の妃は、十二歳で東宮妃となった。
東宮がまだ幼い妃のためにと、生家の庭に咲いていた花や植物を取り寄せ、妃を喜ばせようと庭のつくりを変えたという話は、美談として有名である。
そんな庭に、墓だなんてあり得ない。
「そうですか? それじゃぁ、誰かが密かに何か埋めているのかもしれません。そういう気持ち悪い臭いが、花の香と一緒に混ざっているように思えます。きちんと供養されずに埋められた墓の近くでは、悪いものを引き寄せるんですよ。怨念が呪詛と混ざって力を強めたり……」
瑞英にそういわれて、悠信は鼻から空気をいっぱいに吸ってみる。
しかし、花の甘い香りがするだけで、気持ち悪い臭いなんてまるで感じられなかった。
「この他にも、なんというか悪いものが溜まりやすいようにできている気がしますね」
(とても高貴なお方が過ごすような場所には見えない。礼部の方でお祓いをしたらしいけど……何の効果もなかったのかしら?)
少し見渡しただけでも、この場所が異常であることはすぐにわかる。
朱雀大門や玄武大雪山と名がついているということは、帝都が風水を利用して造られていることは明らかだった。
そんな帝都にある宮廷で、次の皇帝となる東宮が過ごす場所にしては、明らかにおかしい。
東宮が好んでいる色なのか、建物の屋根や壁の装飾に黄色や褐色が多く使われている。
木の気である東に、この色を使うのはよろしくない。
(そもそも、誰も指摘する人はいなかったのかしら?)
まるで、わざとそうしているのではないかと疑いたくなるくらいだ。
庭に生えている大きな桜の木も、もう満開になっても良い時期のはずだが、蕾一つついていなかった。
すでに根元の方が腐っているのではないだろうかと瑞英は思った。
桜の季節になる度に詠心が「あたしが人生で見た桜の中で、一番美しいと思ったのは東宮殿の桜の木だ」と、言っていたのは、この桜の木のはずだが、一体、いつから花をつけなくなったのだろうか。
(いつか見てみたいと思っていたのに……)
「こんな場所に人が住んでいるなんて、信じられないです。その叫ぶ蝶を見るのは歴代の妃様だけだったということですが、東宮様ご自身の体調はどうなんですか? これだけ酷い場所であれば、他にも影響が出ていそうですが……」
東宮殿は東宮が住んでいるから東宮殿である。
後に即位すれば移るとはいえ、今の主は東宮だ。
妃だけではなく、主である東宮が無事に過ごせているはずがない。
「兄上か? そうだなぁ、確かに最近少しお痩せになったような気はするが……――それは、立て続けに妃に妙なことが起こっていることによる心労ではないかと医が言っていたな」
まぁ、もともと少し太りすぎていると医から言われていたので、ちょうどよくなったような気もするが……と、悠信はつぶやいた。
弟から見ると、東宮はとても大人しい性格のようで、食べ物や飲み物、嗜好品など、誰かに進められると断れないのだという。
東宮として他国の貴族や高官たちと会食をすることが多かったせいもある。
「陛下はそんな兄を、気が弱いとよくお叱りになるが……私は優しすぎるからだと思っている。昔からそうなのだ。なんでも私に譲ってくれた。しまいには、東宮の座を譲ろうとまでしている――――優しい人だからこそ、私は兄上にこそ東宮にふさわしいと思っているのに」
今の皇帝は、とても厳しい人だ。
幼くして即位し、とっくに隠居してもいい年齢である今でも、東宮がいずれ立派な皇帝になれるようにと厳しく教育をしている。
そうこうしている間に、在位期間は歴代最長記録を更新し続けていた。
「建国から数百年が過ぎても、今だに奪国と揶揄され、侵攻を受けた時代を生き抜いた陛下の後を継ぐのは、兄上だ。無事に新たな妃を迎え、子供のころのように笑顔を取り戻して欲しい」
悠信にとって、兄は優しく寛大な人だ。
そんな兄に、問題があるだなんて人々に噂されているこの状況が許せなかった。
誰かが兄を落としれるために、東宮妃に呪詛をかけているのであれば、早くなんとかしなければ……と、自ら元宮廷巫女である詠心を訪ねたほどである。
(なるほど、この人はお兄さんのことが大好きなのね)
世の中には、いがみ合ってどうしようもない不仲な兄弟というものも存在する。
瑞英の従兄弟がまさにそれで、兄弟仲がかなり悪い。
同じ女性の取り合いなんてこともあった。
「お二人は、とても仲の良い兄弟なのですね」
「あたり前だろう? 血を分けた兄弟なのだから」
少し照れたように悠信がそう言うと、ちょうどそこへ内官が駆けより、声をかける。
「殿下、戻られたのですね」
「ああ、たった今な」
「東宮様は公務が終わり次第、戻られますので、中でお待ちいただくようにと――――……って、あれ? 巫女様は?」
一緒に来ているはずの巫女の姿がなく、代わりに見覚えのない男の姿があったため、内官は首をかしげる。
東宮からは、弟が巫女を連れてくるとは聞いているが、この男のことは聞かされていない。
「ああ、こちらが巫女様だ。わけあってこの姿――――それも、本人ではなく代わりに来た孫だがな」
状況を理解した内官に案内され、瑞英は東宮殿の内部へ。
待っているように通された部屋には、これまた、金色の屏風や何に使うかわからない金属製の置物など、東に置いておいては風水的にまずいものばかり並んでいて、ぞっとする。
(これ、絶対わざとよ! 誰かが意図的にしているんだわ)