第73章 まだユーゴーは「レ・ミゼラブル」を書いていないんだけど
今回は少し痛快です。芝居とは言えやはり荒事がなくっちゃね。
「ボンジュール、ヴィドックさん!きょうは仲間も連れてきました。」アンカの生粋パリジェンヌの挨拶。
「やあ、嬢ちゃん,パリには慣れたかね?」
「はい、お部屋も借りて住んでますよ。」ユメカの鼻母音も冴え渡っている。
「そうか、それは良かった。ところでこないだもらった薬だけど、効果抜群だな。湿疹痒み、食べ過ぎ飲み過ぎの胃腸薬、つらい二日酔い、何でもピタリと治った。使った分を補充したいので、金は払うから今度持ってきてくれ。あと、これは薬箱を所望している連中のリストだ。届けてやってくれ。みんな金払いは良いやつらだ。」
「ありがとうございます。これでパリの生活を満喫できますわ。」ミラの破顔一笑。
「ところで、先日コメディー・フランセーズで大騒動だったな。」
「ええ、私たちちょうど現場にいました。」ピアのフランス語も安定してきた。
「『エルナニ』の観劇に出かけていたんです。ヴィクトル・ユーゴー氏から招待されたもので。」天寿は負けてなるものかと鼻母音と完璧なRを発音した。
「ほう、怪我はなかったかね?」
「はい、こう見えてわれわれはなかなかの手練れですから。」
「うむ、探偵稼業なのでそのあたりは一瞬で見て取った。」
「恐れ入ります。」
「あの大騒動はな、古典派とロマン派の大喧嘩だ。古典派というのはギリシャ・ローマの伝統を受け継いで厳密な詩学の規則を遵守して作品を作るべきと信じている連中だ。片やロマン派は、イギリスやドイツの作風に影響されて、古典的な詩学のルールを逸脱した自由な作品を作ろうとしている。『エルナニ』を書いたユーゴー氏はロマン派の代表格だ。劇場で暴れ始めたのは、ロマン派の興隆に我慢ならない古典派の連中さ。そして、これがキナ臭いんだが、単純に文学のスタイルの問題ではないんだ。古典派の連中の大半は王統派、つまり絶対王政を支持している。一方ロマン派の支持者は革命派、つまりシャルル10世の敵対者だ。そりゃあ喧嘩にも力が入るはずだ。」
「なんと、そんな事情が絡んでいたのですか。」天寿は腕組みする。
「コメディー・フランセーズという権威ある劇場で公然とあんな乱暴狼藉が行われたとなると...革命の勃発はもう近いということでしょうか?」ミラは言葉を選んだ。
「ああ、間違いないな。あと1ヶ月、持って2ヶ月というところだろう。」
「ところで、こないだ聞かせていただいたジャン・ヴァルジャン氏ですが、ジャベール警部にはまだ見つかっていないんですか?」ピアは心配そうに尋ねた。
「今のところはな。ジャベールも革命関係の捜査で忙しいだろうから。」
「どこにお住まいなんですか?」ミラも興味があるらしい。
「彼はマドレーヌと名を変えて、モントルイユ=シュル=メールという町で工場を経営している。市民の信頼と支持を得て、市長に任じられたようだ。確かコレットという愛娘と一緒に住んでいる。」
「お幸せになったんですね。」ピアは安堵した。
「そのジャベールという警部がぶち壊しに来なければ良いのですが。」ミラは心配だ。
「いっぺんそいつの顔を拝みに行ってみるか。」天寿は右の拳で左の手の平を叩いた。
「殴るぐらいは良いが殺しちゃいかんぞ。」ヴィドック氏は笑っている。
「そいつはいつもどこで何をしてるんで?」天寿は真顔で尋ねた。
「奴は毎朝8時半きっかりにシテ島の警察本部に顔を出し、それからパリ市内に潜入して捜査をしている。」
「どんな風袋の男なんですか?」ユミカもやる気になっている。
「顔はブルドッグそのものだ。醜男の典型だな。」
翌朝、一行はシテ島のノートルダム大聖堂前の広場にいた。パリ市警本部はすぐ目の前なのでジャベールが出てくればすぐわかる。見失わないように二手に分かれ、死角から市警の出入り口を見張る。この手の仕事は忍びにとっては基本中の基本だ。ブルドッグ顔の男が出てきた。追跡開始だ。通常は追跡する立場の警部が追跡されている。天寿は愉快になって微笑んだ。ジャベールはしばらく歩くと駅馬車乗り場に到着した。貼り出された時刻表を見ている。アンカは携帯望遠鏡で行き先を確認した。
「やばいよ。あいつモントルイユに行こうとしている。」
「何だって?」一同は色めきだった。
「どうする?」天寿は困り果てた顔で尋ねた。
「同じ馬車に乗り込むしかない。」ピアが凜々しく断言した。
「奴をモントルイユへ行かせてはならないね。」ミラも決意した。
「作戦を考える。」ユメカが何かを思いついたようだ。
「ともかくあいつを途中で馬車から降ろす。そのためには馬車の中で何か犯罪が起こらなければならない。警察官のやつはそれに対処する義務があり、奴の性格からしても当然対処するでしょう。その結果、奴は途中で馬車から降り、そして犯罪への対処の結果として、そこそこ痛い怪我を負う。犯人は意図的な痕跡を残すので、奴は必ずやその犯人を追い詰めようと決意するはず。だがそこそこ痛いダメージを負っているのですぐには動けない。悔しい。いつか必ず捕まえてやる。奴はそう決意するに決まっている。もちろん犯人は捕まらない。だって手練れの忍びだもの。怪我が治ってからやつは必死で捜す。だが捕まるはずはない。そのうち、奴はジャン・ヴァルジャンのことを忘れてしまう。ニワトリのように。」
「おまえ、顔の割にすごい悪知恵を発動できるのな!」天寿が感心する。
「ならば役割を決めましょう。」アンカが仕切る。
「犯人役は天寿と私とミリとピア、被害者役は白人のほうが良いから私とユメカ。」
「オッケー、On y va!(行こう!)」
一行はバラバラに馬車に乗り込んだ。発車してしばらくして、犯人役が行動開始だ。
「おっと、みなさん、おとなしくしてくれよ!」天寿がピストルを構える。
「金目のものを出しな!」ミラがかわいい顔ですごむ。
「命までは取らないからさ、たぶん。」ピアもせいいっぱいすごむ。
「いや、助けて!」アンカが泣きながら悲鳴を上げる。
「誰か助けて!」ユメカが悲鳴を上げながらジャベールをチラチラ見る。
「お、おまえ!」天寿はピストルの柄でジャベールを殴りつけ、胸元から武器を奪う。
「こんなものを隠し持ってやがったか。」
「物騒なお道具を使えないように、指を折っちゃいましょうよ!」とミラの安全策。
「馬車を止めなさい!」ピアが御者に命じる。
「全員降りろ!」天寿の指示。
「おい、こいつデカだぞ!」ミラがジャベールの胸元からID証を取り出した。
「裸にヒン剥こうぜ!」天寿が冷酷な笑顔で言った。
「よし、全員有り金全部この袋に入れろ!」ピアが袋を出した。
「お、よく見ればおまえらなかなか上玉だな。」天寿はアンカとユメカを品定めした。
「良いところに連れて行ってやるからよ。」
偽の盗賊団はジャベールを裸にした上でグルグル巻きに拘束した。他の乗客はそのまま放置した。そしてジャベールのロープに1枚の黒いカードを差し込んだ。そこには、
"Rendormez-vous jusqu'à ce que vos cauchemars disparaissent!" (悪夢が消えるまで寝てろ!)
と書いてあった。
「じゃあ、御者くん、悪いけど馬車は頂いて行くぜ!」
こうして天寿、ミラ、ピア、被害者役のアンカとユメカは、馬車でその場から立ち去ったのだった。
馬車はしばらく走るとモントルイユ=シュル=メールに到着した。町は石造りの城壁に囲まれ、古い建物や狭い石畳の通りがこざっぱりと配置され、まるで絵画のような雰囲気を醸し出していた。一行は馬車を降り、町をしばらく散策すると、大きな工場兼家屋を見つけた。看板に「マドレーヌ商会」と書いてある。家の前で美しい若い娘が箒で掃除していた。
「ボンジュール、マドモワゼル!ここは綺麗な町ですね。」ユメカが声をかけた。
「ボンジュール!ええ、とても静かで穏やかな町です。」娘は微笑んだ。
「お父様は市長さんなんですってね?」
「はい、皆さんのお世話をするのが好きみたいです。」
「そうだ、私たちパリから来たんですけど、訪問する予定のお友だちがイギリスへ行ってしまったらしくて、お土産に持ってきたこの紫のバラ、受け取ってもらえないでしょうか?」
「え?でも悪いわ。」
「いいえ、どうせ持ち帰っても途中で枯れてしまいます。花瓶に挿してください。」
「メルシー、メルシー・ボークー!」
革命の日が迫ります。一行はどう立ち回るのかな?




