第7章 信長、南国で餅つき
ご隠居さんは南国で餅をつきます
信長は清洲城を訪れ、信忠と対峙した。
「これは父君、おひさしゅうございます。」
「うむ、信忠よ、急な話じゃが、わしはもう引退する。家督を譲るぞ。」
「え、急に何と?」
「だから急な話だと言っただろう。わしは楽隠居して、おまえが国王になるのじゃ。これはもう決まったことなので従ってもらう。立派に王の仕事を全うせい。心配せずとも、道は開いた。おまえがよく知るかつてのゆかりの武将やその子どもたちも王宮で働いておる。きっと良くおまえに仕えるであろう。ここにわしが考えるこの国の行く末について思うところを記したものがある。よく読んで考えるように。」信長は製本した厚い文書を信忠に渡した。
「ははっ、では謹んでお受けつかまつります。」
「はっはっは、良く励めよ。」信長は満足そうに目を細めた。
数時間後、信長は鳴海城にいた。
「斑鳩の、異国に派遣した忍びじゃが、マニラからは1人帰還したじゃろう?シャムと安南からもそれぞれ1人帰還させよ。そしてそれぞれ新たに1人、送り込むのじゃ。こうやって3人に1人交代するようにしてじゃな、帰国した者は里の者に現地の言葉を教えるのじゃ。できるだけ年長の者を帰還させて、交代に若手を出すと良いぞ。それから現地で夫婦になった者がおったら、遠慮せず申し立てれば、2人で帰還させても良いぞ。」
「承知いたしました。ときに信長様、ひとつお願いがございます。」
「なんじゃ、言うてみろ。」
「影の谷が設立されてからはや35年。里の忍びはほとんどが次世代に入れ替わり、引退した爺婆は、子どもたちに術を教え、陶器や薬を作って暮らしております。もう孫を持つ者さえおります。里の秘密を守るため、夫婦になるのは里の中だけ。しかしそれが続くと血が濃くなり過ぎて、里の存続に陰りが出ましょう。そして、里の業務が増えましたので、人手を回すのも難儀いたします。里の第1世代はそろそろ寿命が尽きるころ。できれば毎年50人を新たに採用して、里に新しい血をいれていただきたい。そしてもう一つ、この雷蔵ももう55歳になり申した。隠居させてくだされ。後釜は、里の方針で決めさせていただいてもよろしいか?」
「おお、そういえば35年も経っていたか。働かせるだけ働かせて、気が利かんかった。よいぞ、毎年の増員とおぬしの隠居、いずれも認めよう。そうだ、毎年行っている銃士隊の採用試験、あの機会に忍びの才能を見極める試験も課して、銃士隊の新人から忍びを50名転属させれば簡単じゃ。うむ、そうしよう。」
「ありがとうございます。里の頭領は、身内からの世襲ではなく、里の者の総意で選びとうございます。ちかく選挙を行って決めましょう。」
「おお、画期的じゃのう。ならば選ばれた者が斑鳩の名を継ぐということじゃな。良きかな。忍びはやはり才覚があってのことよ。それで進めてくれ。」
「ありがとうございます。さて信長殿、先んじてこちらのお願いをしてしまいましたが、何かまた案件がおありだったのでは?」
「おう、そうじゃった。実はわしもさきほど隠居してのう、信忠に家督を継がせた。いずれ奴もここに相談や依頼に来るじゃろうからそのときは頼む。」
「はい、では新しき王と新しき斑鳩の時代でございますな。これはめでたい。」
「で、古き王が古き斑鳩に最後の願いだが、琉球と台湾に5人ずつ潜入させてくれ。こちらはおそらく荒事はないだろう。色事はわからんがな。できれば料理と歌や踊りに長けた者が良いな。選考した上でさっそく派遣してくれ。」
「了解しました。できるだけ南方に適した者を選びましょう。」
隠居した信長は、もっぱら安土城で暮らし、信忠は王宮として巨大化した名古屋城の主となった。安土城では毎日のように宴が開かれ、猿楽や能楽が演じられたり、琵琶法師が招かれたりと、隠居の信長は若いころの「大うつけ」に戻ったかのように譜抜けた日々を過ごしていた。宴に彩りを添えたのはさらに、遊女や芸妓、大道芸人や旅芸人までいた。宴に興じる信長のそばには、身のこなしに一分の隙もない女が控えていた。女は宴の間、食卓ではなく文机を前にして、ずっと何かを書いていた。信長はときおりその女に視線を送り、意味深な笑顔を見せた。
「で、桔梗よ、琉球と台湾に派遣する演者の組織についてどう考える?」
「は、琉球と台湾に潜入させた仲間からの報告によりますと、琉球では歌と踊りが盛んで、現地の者はサトウキビから作った強い酒を飲んで、太鼓や蛇の皮を張った三味線のような楽器をかき鳴らし、賑やかな歌を歌いながら踊るそうです。派遣する演者は、賑やかな歌や音楽や踊りが喜ばれるかと。台湾の人々は、わりと小さな集団に別れて暮らしており、漁業や木の実の採集で暮らしているようで、持ち込んだ薬は非常に喜ばれ、良好な関係を築き上げつつあります。芸事に注力する余力はあまりないようですが、喜ぶと短い歌や踊りを披露してくれるとか。なので一見してすぐわかる大道芸や色気を刺激する遊女の舞などがふさわしいかと。」
「よし、では編成を頼むぞ。準備金は財務省に話を通してある。行って受け取るが良い。」
「はっ。」女は膝を突いて一礼すると、風のように姿を消した。
「さあて、小腹も減ったし、餅でもつこうかの。おい、餅をつくぞ、用意せよ!」
信長は片肌を脱いで杵を持ち、周囲のかけ声に会わせて餅をついた。ぺったん、ぺったん、ぺったん。みんなの心がひとつになるのが感じられる。餅つきは最高の人心掌握よの、と信長はほくそ笑んだ。女中たちが粒あんとずんだを運んできた。「よし、皆の衆、思う存分食らうが良い。信長がついた信長餅よ。きっと御利益があるじゃろうて。」安土城の大広間に笑顔が溢れた。
「最近は餅つきにはまっているようだな、信長よ。」
「おお青水か、そうじゃ、これがまた楽しくてのう。みんなに餅を振る舞う、これでわしは琉球と台湾をものにしてみせよう。」
「信長にしてはずいぶんと平和志向だな。だがそれが良い。力を振るえば恨みも残る。人間笑顔が一番だ。」
「うむ、隠居して肩の荷が下りたせいか、わしもそう思えるようになったぞ。」
「で、本当におまえ自らが琉球や台湾に赴くのか?」
「当然じゃ。日本に迎え入れようとするのだから、そこは王が、いやもう隠居したので元王だが、てっぺん同士で話を付けるのが礼儀じゃろう。わしは行くぞ、南の島。珍しい魚や果物もあるじゃろうな。楽しみじゃ。」
「おお、では楽しんで来いや。」
諸国漫遊の旅の体で信長は西国をめぐった。瀬戸内から九州へ、九州では温泉に浸かり英気を養い、ついでに潜入しているくノ一に身体を流してもらいながら西国情勢を収集した。薩摩に船は用意してある。指宿で最後の日本の温泉を楽しみながら、信長は満月に向かってつぶやいた。「待っていろよ、琉球と台湾よ、必ずや悪いようにはせん。」
琉球へは中型駆逐艦を使ったので、総員は漕ぎ手を含めて約100人。うち半分が忍びであった。那覇港に到着した一行は、琉球王室の役人たちに向かい入れられ、首里城に通された。首里城は赤と金で彩られた壮麗な城で、琉球王国の富と力を示していた。
「これはこれは、はるばる良くいらっしゃった、日本の王よ。私がこの国の国王、尚永です。いささかなまりがきついかも知れませんが、日本語は話せます。琉球の言葉と似ておりますしな。」
「お出迎え、痛み入る。私は日本国の元国王、織田信長でござる。二月前に隠居しましてな、今は息子の信忠が国王です。今後よろしくお願いつかまつる。」信長は頭を下げた。
「おお、それではご隠居として諸国漫遊の旅ですか。うらやましいですぞ。」
「まあそんなところです。まだ食べたことがない魚や果物もあるでしょうし、異国の音楽や踊りにも触れてみたい。死ぬ前に悔いが残らないよう、体験できるものは体験したいという贅沢ですよ、はっはっは。」
「ならば、ごゆるりと琉球の料理や宴の芸をお楽しみください。」
「それは楽しみです。では我らもお返しに、翌日我が国の料理や芸事の宴にみなさまをご招待いたしましょう。」
謁見は和やかな雰囲気で終わり、宴が始まるまでの間、信長一行は用意された宿に集まった。ここはどうやら明の使節が来たときに使う迎賓館のような建物らしい。さっそく琉球に潜入させている忍びを呼び出して情報収集だ。
「信長様、長旅おつかれさまです。われわれ金竜疾風5名、名を名乗るほどの者ではありませぬゆえ、このままで失礼いたします。われわれが琉球に潜入して1年半、順調に堺から来た薬屋として、この地で薬を調合し、家々を回って行商し、人々の暮らしに溶け込みました。住民は温和で陽気で警戒心が弱く、すぐに友好関係を築くことができました。琉球の言葉に最初は戸惑いましたが、フィリピンの言葉と違って、日本語と根の部分は同じなので、すぐ身につけることができました。住民との会話から、彼らが明に対しても日本に対しても敵対心はないことがわかりました。彼らが恐れているのは、大きな船で我が物顔に海を渡り、たまに寄港して水や食べ物を要求する南蛮人です。南蛮人は銀貨を支払いますが、琉球の民はそれをどう使って良いかわかりません。」
「そうか、それは良い話を聞いた。この戦、戦ではないか、この作戦、勝てるな。」信長は膝を叩いて破顔一笑、上機嫌になった。
宴が始まった。珍しい魚の刺身、豚の角煮、食べたことがない海藻や木の実、海の幸や山の幸がこれでもかと振る舞われ、琉球の強い酒とともに、宴は大いに盛り上がった。三線が奏でられ、太鼓が打ち鳴らされ、琉球の民は王を含めて立ち上がり、楽しげに踊り始めた。見よう見まねで信長も踊った。踊らぬ者は誰もいなかった。みんな肩を組み笑い合い、夜は更けた。
「うーむ、少し飲み過ぎたか。二日酔いじゃの。だが今夜が勝負所じゃ。気合いを入れていこう。」そのとき部屋の外から声がかけられた。
「信長様、忍びの薬屋でございます。昨夜の宴でお疲れかと思いまして、二日酔い止めと胃腸薬をお持ちしました。今夜は大事な宴がございますので、これで調子を整えてご参加ください。」
「青水の奴、忍びに薬屋を兼業させるという提案をしてくれて本当に助かった。薬はどこに持ち出しても喜ばれる品だし、こんなふうに現地で助けられることもある。あやつに報奨を授けられないのがもどかしいのう。」
日本側の招待で宴が始まった。日本から連れてきた寿司職人や天ぷら職人に現地の魚を料理させ、持ち込んだ日本酒を振る舞った。舞台では、各地の盆踊りをアレンジした集団の舞が披露され、華やかな振り付けに会場は盛り上がった。三味線と太鼓の伴奏で芸妓たちが民謡や小唄を歌うと、琉球の男たちは興奮して手を叩いた。場が盛り上がったところを見計らって、信長が立ち上がり、「これから餅つきをしますゆえ、みなさんご唱和をお願いいたす」と言って、片肌脱いで杵を握った。臼が運ばれて舞台の中央に置かれ、炊かれた餅米から湯気が立ち上る。「よーし、ぺったん!」「ぺったん!」ぺったん、ぺったん。ぺったんと会場全体が唱和し、会場は興奮に包まれた。舞台に粒あん、ずんだ、そして今回はさらに醤油と海苔も運び込まれた。
「では、信長がついた餅、皆で食らいましょうぞ!」信長が力強く宣言すると会場から歓声が上がった。日本人も琉球人も、男も女も、餅に思い思いの味付けをして舌鼓を打った。
「いかがかな、琉球王よ?」会場のベランダに出て爽やかな風を感じながら信長は尚永に語りかけた。
「はい、われわれは同じ民族であると実感いたしました。明の使節もたまに訪れますが、中国はあのような巨大な大陸でありますゆえ、外見は似ていても中身は相当に違います。日本と琉球、同じく海に浮かぶ島国、国民性も似ているのは当然です。言語も似ておりますし。」
「その通りじゃ、琉球王よ。そこで提案なのじゃが、このまま同じ国になってしまうのはどうか。突飛な提案と思われるかも知れないが、真面目だ。この東洋の海に西洋から大きな船がやってきて我が物顔に振る舞っておる。那覇の港にもたまに来るのではないか?水や食糧を要求して、形ばかりの銀貨を置いて帰る。島民には何の敬意も払わず、なんなら威嚇するように武器に手をかける。何かをもたらすわけではなく、一方的に島から物資を取り上げる。迷惑ではないか?無礼に腹が立たぬか?そして明も、朝貢関係にあるというのに、南蛮人に対しては弱腰で、守ってくれる気配がまるでない。全く頼りにならないのではないか。しかしわれわれは違う。全力で南蛮人の横行から琉球を守ることができる。わしはスペイン艦隊10隻を日本近海で撃破した。どうだろう、日本人になってわれわれとともに未来を開いてはくれぬだろうか?琉球王家には天皇家との縁談を用意しよう。日本の皇室との縁戚者として、日本での地位も約束される。良き返事を待っておるぞ。」そう言って信長は尚永と固い握手を交わした。
台湾には数日で到着した。琉球と違って港がないので、沖合に停泊して小舟で島まで行かなければならない。船影を見たのか、潜入している忍びたちが迎えに出た。忍びたちは隠していた小舟を出して、残りの荷物や人員を陸地まで運んでくれた。海岸には掘っ立て小屋があるだけで、これといった建物はない。皆で連れ立って歩いていると、釣りをしている現地人がいた。忍びたちを見かけると、喜んで寄ってきた。忍びたちは菓子のようなものを配ると、現地人たちはうれしそうに頬張った。腰蓑にぼろぼろの西洋風衣服をまとっている。どうやらポルトガル人からもらったものらしい。忍びたちは、流ちょうではないが、それなりに意思疎通ができるようだったので、最近の状況を聞き出した。鬼のような顔つきで身体が大きい男たちが山のような船に乗ってやってきた。何かを欲しがっていたようだが、言葉が通じないので放置した。鬼のような男たちは、村へやってきて食糧を奪い、女たちを犯した。それから村の水場で水をくみ、笑いながら去って行った。そんな出来事を淡々と語り、だがあまり怒っているようにも見えなかった。しばらくして村の女は肌が白い赤ん坊を出産した。村のまじない師は、赤子を海に捨てた。異国の鬼はそれ以来来ていないらしい。
信長は、村人たちに金平糖を振る舞った。甘味は世界共通だ。村人が集まってきた。連れてきた大道芸人たちに芸を披露させた。琉球から連れてきた火ふき芸人、日本の猿回し、傘に玉を乗せる芸、ものを消す手品、すべて村人とたちには新鮮な驚きだった。信長は誰でも知っている童歌を歌った。同行者が皆で唱和した。現地人たちも嬉しそうに唱和して手を叩いた。そして、信長はここでも餅をついた。「では餅つき行くぞ!みんな準備は良いか?それでは、はい、ぺったん!」「ぺったん!」ぺったん!ぺったん!ペったん、ぺったん、ぺったん、ぺったん。皆の心がひとつになる。女中たちは砂浜で粒あんとずんだを用意した。「さあ、信長の餅じゃ、腹一杯食らうが良い!」
信長はことさらに併合の条約を結ばなかった。その代わり、日本人の入植者を1000人、主に西国から募集して入植させた。田畑もなく戦もないので仕事もない西国の足軽たちだった。大量の餅米と金平糖を持たせ、現地人の殺害を厳しく禁じた上での入植だった。ここで産業を興し、交易を始めれば、台湾は大きく発展するだろう。この状況はすぐにポルトガルの知るところとなったが、スペイン艦隊が撃破されたことを知る彼らは、何もできないだろう。もしポルトガルがことを起こすとしても、異国に潜入させている忍びたちから報告があるだろうから、薩摩に常駐させている海軍をすぐに出撃させられるし、琉球の協力も仰げる。琉球には駆逐艦10隻を寄贈してある。
信長はすっかり好々爺になったしまったね