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第一章 一 「紫苑の谷へ」

南西の空に、明けの明星が輝いていた。


「アストライオス」


リオンは小声で星の真名を呼ぶ。胸の内で、かすかな反応を感じる。星の光が、より鮮やかに瞬いたように見えた。


旅立ちから七日目の朝。露を含んだ草地に腰を下ろし、少年は夜明けを待っていた。祖父から授かった三つの巻物が、布袋の中でかすかな重みを主張している。


先の戦いの痕跡は、まだ遠くに見えていた。天文台のあった場所に漂う不思議な光は、一週間経った今でも完全には消えていない。


「おじいさま……」


リオンは、思わず呟いた。しかし、すぐに首を振る。祖父の選択を、彼は受け入れなければならない。今は、自分に課された使命に集中すべき時だ。


星標が示す方角――紫苑の谷へ。そこで、最初の仲間と出会うはずだ。


少年は立ち上がり、旅の準備を始める。夜露で湿った寝袋を畳み、わずかな荷物をまとめる。一週間の旅で、野営の手順にはすっかり慣れていた。


「エルミアス・プロテクティオ」


簡単な防護の言霊を唱えながら、リオンは身支度を整える。言葉に宿る力は、まだ弱々しいものだった。それでも、一週間前と比べれば、確実に上達している。


出発の前に、少年は『言霊綴りの書』を広げた。毎朝の日課として、基本的な詠唱を復習する。羊皮紙に記された星辰文字が、朝日を受けて淡く光る。


「大地を踏みしめ、風を感じ、星々の導きを受け入れる――」


リオンは、巻物に記された作法を声に出して読む。その瞬間、世界がわずかに違って見えた気がした。大地の息遣い、風のざわめき、そして星々の残り香。それらが、より鮮明に感じられる。


「これが、言霊使いの感覚」


祖父の言葉を思い出す。星辰の言葉を知るということは、世界そのものを違った形で理解するということ。その真意が、少しずつ分かってきた気がした。


空が白み始める中、リオンは歩き出した。


目指す紫苑の谷まで、まだ三日の道のりがある。星標が示す方角には、薄い霧を纏った山々が連なっていた。その霧の向こうに、自分を待つ者がいる。



正午過ぎ、リオンは小さな村に立ち寄った。


食料の補給と、情報収集が目的だ。村の入り口には「霧隠れの里」という名の立て札が立っている。周囲の山々から立ち上る霧が、村全体を優しく包み込んでいた。


「紫苑の谷へ向かう道を、ご存じありませんか?」


宿屋の主人に尋ねると、老人は意外そうな表情を浮かべた。


「紫苑の谷? そいつは珍しい。あそこを目指す旅人なんて、めったにおらんよ」


「そうなのですか?」


「ああ。あの谷には濃い霧が立ち込めていて、道を見失いやすい。それに……」


老人は言葉を切り、意味ありげな表情を浮かべる。


「あそこには、何か神秘的なものが住んでるって噂でな。普通の人間は、近づかない方がいいとされとる」


リオンは黙って頷いた。その「神秘的なもの」こそ、自分の目的なのだろう。


「それでも行くかね?」


「はい」

少年は迷いなく答える。

「行かねばならないのです」


老人は、しばらくリオンの表情を観察していた。やがて、納得したように頷く。


「分かった。なら、教えてやろう」

宿の主人は、カウンターの下から一枚の紙を取り出した。

「この地図を見てみな」


そこには、周辺の地形が簡素に描かれていた。山々の間を縫うように、一本の道が記されている。


「この道を行けば、紫苑の谷の入り口まで着ける。そこから先は……」

老人は肩をすくめる。

「霧の導くままというわけじゃ」


「ありがとうございます」

リオンは深々と頭を下げた。


「気を付けて行くんじゃぞ」

老人は優しく告げる。

「あの谷の霧は、ただの霧じゃない。心して臨まねば、道に迷うどころか、帰って来れなくなるかもしれん」


少年は黙って頷いた。その警告の意味するところを、彼は理解していた。紫苑の谷を包む霧は、おそらく結界なのだ。部外者を寄せ付けない、言霊の力で作られた防壁。


宿を後にする前に、リオンは老人から差し入れの握り飯を受け取った。


「若いもんが、こんな危ない旅をせにゃならんとはのう」

主人は心配そうに言う。

「何か、事情でもあるんかね?」


「はい」

少年は静かに答えた。

「星々に、導かれているのです」


その言葉に、老人は不思議そうな表情を浮かべた。しかし、それ以上の質問はしなかった。



午後の山道を、リオンは黙々と歩き続けた。


時折、星標を取り出して方角を確認する。青い水晶の中で、光が以前より強く明滅していた。目的地が近づいている証拠だろう。


「誰かが、待っている」


少年は呟く。星標を通じて感じる気配は、確かにそう告げていた。しかし、その「誰か」が、どんな人物なのかは分からない。


不安? それとも期待?

リオンは自分の感情を整理できないでいた。これまで天文台で静かな日々を過ごしてきた少年にとって、見知らぬ誰かと出会い、行動を共にするというのは、大きな挑戦だった。


そんなことを考えていると、急に頭上で物音がした。


「!」


リオンは反射的に身構える。茂みの向こうから、何かが近づいてくる気配。


「エルミアス・プロテク――」


防護の言霊を唱えかけた時、茂みを抜けて姿を現したのは――一羽の白い鳥だった。


「はぁ……」


少年は、思わず安堵の息を吐く。しかし、次の瞬間、その鳥が普通ではないことに気が付いた。


全身が真っ白な羽で覆われた小鳥。その瞳が、星のように輝いている。そして何より特徴的なのは、その羽から放たれる微かな光。


「星の使い?」


祖父から聞いた話を思い出す。言霊使いたちは時として、星々の意思を伝える使者を目にすることがある。この鳥は、まさにその星の使いに違いない。


白い鳥は、リオンの前でしばらく羽ばたいていたが、やがて谷の方角へと飛び去っていった。その飛跡が、かすかな光の帯となって空に残る。


「導きの印」


少年は呟いた。これは間違いなく、自分が正しい道を進んでいることの証。星々が、その道を承認している。


リオンは改めて歩を進める。太陽は西に傾きつつあった。今日の目標地点まで、あと数時間の道のり。


星標が示す方角に向かって、少年は黙々と歩き続けた。明日には、紫苑の谷に到着するはずだ。そして――最初の仲間との出会いが、待っている。


夕暮れの空に、最初の星が瞬き始めていた。



その頃、紫苑の谷では、アイリスがまた例の夢を見ていた。


「来訪者……」


夢の中で、少女は星々の声を聞く。それは以前より、はるかに鮮明な声だった。


「扉が開かれる」

星々は告げる。

「新たな物語が、始まろうとしている」


アイリスは、静かに目を覚ました。


神殿の窓から見える夕空に、最初の星が輝いている。その光は、かつてないほど鮮やかだった。


明日。

全てが、動き出す。

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