序 三
「行くのじゃ」とアルフェウスは言った。「明日の夜明けには、ここを発たねばならない」
老人の言葉は、夜の闇の中で重く響いた。天文台の破損したドームから吹き込む風が、古い羊皮紙をそよがせる。
「こんなに急いで?」
リオンは不安げに尋ねる。
「まだ、何も準備が……」
「準備など、必要最小限で十分」
アルフェウスは即座に答えた。
「星々の導きを信じるのじゃ。必要なものは、必要な時に、必要な場所で与えられる」
老人は書架に向かい、素早い動作で特定の巻物を選び出していく。その手付きには、長年の経験が滲んでいた。
「これだけは持っていくがよい」
アルフェウスが差し出したのは、三つの巻物。どれも古びているが、星辰文字で書かれた文様は鮮やかに輝いていた。
「左から順に」
老人は説明を始める。
「『星辰暦の書』――時を読むための知識じゃ。星々の運行と、世界の理の関係を記している」
リオンは慎重に最初の巻物を受け取る。羊皮紙は触れただけで、かすかな温もりを伝えてきた。
「次が『言霊綴りの書』――基本的な詠唱法と、その作法を記したものじゃ。これは、絶えず参照することになるだろう」
二つ目の巻物は、やや大きく重かった。表面に描かれた文様が、淡い光を放っている。
「そして最後が『星見の書』――これは特に重要じゃ。星々の真名と、その意味を記している。ただし」
アルフェウスは一瞬、言葉を切った。
「この巻物は、心の準備が整うまでは開いてはならん。その時が来れば、星々が教えてくれるはずじゃ」
三つ目の巻物は、他の二つと比べて小さかったが、何故か最も重く感じられた。受け取った瞬間、リオンの体の中で何かが共鳴したような感覚があった。
「この三つがあれば」
老人は静かに続ける。
「基本的な学びは進められる。後は、実践を通じて理解を深めていくしかない」
「でも、おじいさま」
リオンは躊躇いがちに問う。
「一緒に来てはいただけないのですか?」
アルフェウスは、悲しげに首を振った。
「それは叶わぬ」
老人の声は、かすかに震えていた。
「わしの役目は、ここまでじゃ。これからは、お前が自分の道を歩まねばならない」
「しかし!」
「聞くがよい」
アルフェウスは孫の言葉を遮った。
「星辰の言霊使いの道は、孤独な道でもある。師は導くことはできても、代わって歩むことはできない。それに……」
老人は一瞬、言葉を切った。月光が、その痩せた顔に深い影を落としている。
「わしには、別の使命がある」
「別の……使命?」
「ここに留まり、星見の器を守らねばならぬ」
アルフェウスは天文台の中央に置かれた水晶球を見やる。
「古の力を求める者たちが、必ずやここを訪れるはず。その時、わしが最後の守り手とならねばならない」
リオンは、突然の悟りに打たれたように息を呑んだ。祖父の覚悟が、重い現実として彼の心に突き刺さる。
「おじいさま……」
「よいのじゃ」
老人は優しく微笑んだ。
「これも、運命というものじゃ。さて」
アルフェウスは話題を変えるように、素早く部屋の中を見回した。
「残された時間で、最後の教えを授けねばならない。特に、明日からすぐに必要となる知識をな」
老人は、水晶球の前に立つ。その姿は、月光の中で一段と凛々しく見えた。
「まず、星標の使い方じゃ」
アルフェウスは、先ほどリオンに渡した青い水晶を指差す。
「その水晶は、他の言霊使いたちと呼応する。同じ運命を持つ者同士、互いの存在を感じ取ることができる」
「どうやって?」
「心を澄ませ、水晶に意識を集中するのじゃ」
老人は指示を続ける。
「星々の光が、お前の意識を導いてくれる」
リオンは、手の中の水晶を見つめた。その中で、星の光が渦を巻いている。
「試してみよ」
少年は目を閉じ、水晶に意識を集中する。すると――。
「あ!」
リオンは驚いて目を見開いた。水晶の中で、光が激しく明滅を始めている。そして、ある特定の方角を指し示すように、光が集中していく。
「南西の方角じゃな」
アルフェウスが頷く。
「あの方角に、お前と同じ運命を持つ者がいる」
「遠いのでしょうか?」
「それも分かる」
老人は説明を続ける。
「光の強さが、距離を示している。今の明滅は、比較的近い場所にいることを示しておる」
リオンは、不思議な感覚に包まれていた。確かに、その方角に何かを感じる。共鳴するような、呼び合うような感覚。
「次に、基本的な護身の言霊を教えよう」
アルフェウスの声が、真剣さを増す。
「危険な旅になることは、間違いない。最低限の防衛手段は、心得ておく必要がある」
老人は、『言霊綴りの書』を開く。
「簡単な防壁を張る言霊じゃ。『エルミアス・プロテクティオ』――心に念じながら唱えてみよ」
リオンは、言葉を繰り返す。
「エルミアス・プロテクティオ」
一瞬、空気が震えた。少年の周りに、かすかな光の膜が形成される。
「よし、基本的な形はできている」
アルフェウスは満足げに頷く。
「後は実践で上達させていくしかない。次は――」
その時、遠雷のような音が響いた。
二人は、はっとして顔を上げる。破損したドームの隙間から、異様な光が見えた。まるで、北の空が燃えているかのような赤い光。
「来たか……」
アルフェウスの声が沈む。
「想定よりも早いが、仕方あるまい」
「何が、来たのですか?」
「古の力を求める者たちじゃ」
老人は即座に答えた。
「彼らは、星見の器を狙っている」
アルフェウスは、素早く行動を開始する。
「リオン、今すぐ発つのじゃ」
「え? でも、まだ夜明けまでは……」
「時間がない」
老人は孫の肩を掴む。
「彼らの手から逃れ、仲間を見つけねばならない。今のお前には、彼らと戦う力はない」
「でも、おじいさまは?」
「わしのことは心配するな」
アルフェウスは静かに告げる。
「星見の器は、必ずや守ってみせる」
老人は急いで、小さな布袋を取り出した。
「これを持っていくがよい。食料と、若干の防具じゃ。それと――」
アルフェウスは、懐から一枚の古い羊皮紙を取り出す。
「地図じゃ。星標が示す方角に、『紫苑の谷』という場所がある。そこで、最初の仲間と出会えるはずじゃ」
「紫苑の谷……」
「行くのじゃ」
老人は、孫を裏口へと急かす。
「振り返ってはならぬ。どんな音が聞こえても、どんな光が見えても、ただ前を見て進むのじゃ」
リオンは、涙をこらえながら頷いた。
「さらばじゃ、わが孫よ」
アルフェウスの声が、優しく響く。
「星々の導きとともに」
少年は、最後に一度だけ祖父を抱きしめた。そして、言葉を交わすことなく、夜の闇の中へと走り出した。
背後で、轟音が響く。空を染める赤い光が、徐々に強まっていく。しかし、リオンは祖父の言葉通り、振り返らなかった。
ただ、前を見て走り続けた。
星標が導く方向へ。
運命が待ち受ける場所へ。
そうして、リオンの旅は始まった。
*
夜が明けようとする頃、少年は小高い丘の上で足を止めた。
振り返ると、遠く天文台のあった場所が見える。そこは今、不思議な光に包まれていた。星々の光なのか、あるいは別の何かなのか、確かめる術はない。
リオンは、胸に抱いた三つの巻物の感触を確かめる。そして、星標の示す方角を、改めて確認した。
南西。
紫苑の谷へ。
少年は深く息を吸い、また歩き出す。
世界は、大きな変化の時を迎えようとしていた。
*
その頃、世界の各地で、星々は特別な輝きを放っていた。
選ばれし者たちを導くように。
彼らの運命の糸を、より合わせるように。
遥か南西の地では、紫苑の谷に住まう少女が、不思議な夢を見ていた。星々の声が、彼女に告げる。
「来訪者を待て」という声が。
「汝の運命が、まもなく訪れる」という声が。
世界は、確実に動き始めていた。