序 二
眩い光が収まった時、リオンの目に映ったのは、見知らぬ光景だった。
天文台は消え、その場所には巨大な円環が浮かんでいた。真円を描く輪は、星々の光で編まれたかのように輝いている。どこまでも広がる漆黒の空間の中で、その環だけが確かな存在感を放っていた。
「これが……星見の環」
アルフェウスの声が、不思議な反響を伴って響く。老人の姿は、星の光に照らされて幻のように揺らめいていた。
「伝説の環?」リオンは驚いて問う。「古文書に書かれていた、あの?」
「そうじゃ」アルフェウスは厳かな面持ちで頷く。「星辰の言霊使いたちが、世界の危機に際して集った場所。天空の会議場とも呼ばれた聖域」
老人は歩み出る。足元には、光の道が浮かび上がった。まるで星々が道案内をするかのように、道は円環へと続いていく。
「来い、リオン」アルフェウスが促す。「星々が我々を召喚した。それには、然るべき理由があるはずじゃ」
二人は光の道を進む。足音は空虚な闇に吸い込まれ、不思議な静寂だけが支配する空間を歩いていく。やがて円環の直前まで来ると、アルフェウスが立ち止まった。
「見よ」
老人が指差す先で、星々が新たな形を作り始める。光の粒子が集まり、渦を巻き、そして――人の形を取り始めた。
「歴代の言霊使いたちじゃ」アルフェウスが説明する。「彼らの記憶が、星々の中に保存されている」
次々と現れる光の人影。古の装いをした者、異国の衣装を纏う者、様々な時代、様々な地域からの言霊使いたちが、円環の周りに集まっていく。
「これは……会議?」リオンは思わず囁く。
「いや」アルフェウスの声が沈む。「警告じゃ」
その言葉と共に、円環の中心が明滅を始めた。そこに一つの映像が浮かび上がる。それは――世界の地図だった。
七つの大陸が、見慣れない配置で広がっている。その中心には巨大な渦が描かれ、そこから黒い線が放射状に広がっていた。
「世界が、歪んでいる」アルフェウスが呟く。「根源的な歪み。これは……」
老人の言葉が途切れた時、光の人影たちが一斉に動きを始めた。彼らは円環に向かって手を伸ばし、何かを詠唱し始める。個々の言葉は聞き取れないが、それらが重なり合って一つの調べとなっていく。
星辰の言葉による讃歌。
リオンの体の中で、血が騒ぐのを感じた。彼の中の何かが、その歌に共鳴して震えている。
「アストライオス」
知らずに、その名が再び唇からこぼれる。明けの明星の真名。しかし今回は、その言葉に力が宿った。
星の光が、少年の体を包み込む。
「リオン!」
アルフェウスが慌てて孫の元へ駆け寄ろうとした時、光の人影たちの詠唱が最高潮に達した。円環が激しく明滅し、その中心に新たな映像が現れる。
それは、遥か古の記憶。
世界が生まれた時の記憶。
*
全てが光だった。
星々が生まれ、銀河が渦を巻き、そして世界が形作られていく。その壮大な創世の記憶が、リオンの意識を満たしていく。
そして、言葉が生まれた。
最初の言葉。世界に存在するものの名を定める言葉。星々の名を記す言葉。それらは全て、創世の光から生まれた。
「これが、始まりの記憶」
アルフェウスの声が、遠くから響いてくる。
「星辰の言葉は、世界を形作った原初の言葉。その力を使うということは、創世の力を借りるということ」
映像は流れ続ける。
世界が完成し、最初の生命が芽生え、そして知性ある存在が現れる。彼らは星々の言葉を理解し、その力を借りて文明を築いていった。
しかし――。
「見よ」アルフェウスが声を震わせる。「最初の過ち」
映像の中で、巨大な塔が建設されていく。天空に届かんばかりの高さを誇る塔。その頂には、星々の力を集める装置が設置されていた。
「彼らは、創世の力を完全に支配しようとした」老人が説明を続ける。「星辰の言葉の全てを知り、その力を自分たちのものにしようとした」
結果は、破滅的だった。
制御を失った力が暴走し、塔は崩壊する。そして、その余波が世界を揺るがした。大地は割れ、海は沸き立ち、空は歪んだ。
文明は滅び、生き残った者たちは離散した。
「最初の言霊使いたちは、その時に生まれた」アルフェウスの声が続く。「残された力を管理し、二度と同じ過ちを繰り返さないよう、見守る者として」
しかし、映像はそこで終わらなかった。
新たな時代が始まり、離散した人々は再び集まり始める。新たな文明が築かれ、そして――また同じ過ちが繰り返されようとしていた。
「今、我々は第七の文明の時代にいる」アルフェウスが告げる。「そして、歴史は再び転換点を迎えようとしている」
円環の中心に浮かぶ世界地図が、再び現れる。黒い線で示された歪みは、徐々に広がっていた。
「これは……?」リオンは不安げに問う。
「星耀計」老人が答える。「星々の力の乱れを示す地図じゃ。この黒い線は、力の暴走が始まっている場所を示している」
「暴走?」
「おそらく、誰かが再び過ちを犯そうとしている」アルフェウスの声は重い。「星辰の言葉の力を、制御できないまま呼び覚まそうとしている」
光の人影たちが、また動きを始めた。今度は円環に向かって跪き、祈りを捧げるような仕草を見せる。
「彼らは警告を発している」老人が説明する。「このまま放置すれば、古の過ちが再び繰り返される。世界は、取り返しのつかない危機を迎えることになる」
「でも、どうすれば?」リオンは途方に暮れて問う。「私たちに、何ができるのでしょう?」
その問いに対する答えは、予想外の形でもたらされた。
光の人影たちが、一斉にリオンの方を向いたのだ。
「あ……」
少年は息を呑む。無数の目が、彼を見つめている。期待に満ちた、しかし同時に悲しみを含んだ眼差し。
「リオン」アルフェウスが孫の肩に手を置く。「お前は、選ばれた」
「選ばれた?」
「星々があの夜、お前にアストライオスの名を示したのは、偶然ではない」老人は静かに説明する。「お前には、特別な資質がある。純粋な魂。それは、星辰の言葉を扱うために最も重要な要素」
光の人影たちが、ゆっくりとリオンに向かって頭を下げる。それは、彼らの希望を託す仕草だった。
「私に……できるのでしょうか」リオンの声が震える。
「お前一人ではない」アルフェウスが答える。「星々が、仲間たちを導いてくれるはずじゃ」
その言葉と共に、円環の中心に新たな映像が現れる。世界の各地で、星々の光に導かれる若者たち。彼らもまた、リオンと同じように選ばれた者たちなのだろう。
「見よ」老人が指差す。「彼らは皆、同じ運命を背負った者たち。やがて、その道は交わるはずじゃ」
リオンは黙って頷いた。
突然、円環が激しく明滅を始める。光の人影たちが、慌ただしく動き始めた。
「時間が来たようじゃ」アルフェウスが告げる。「我々は、現実世界に戻らねばならない」
「でも、どうやって?」
その問いに答えるように、星々が新たな光の渦を作り始める。その中心に、帰路を示す門が開かれる。
「行くぞ、リオン」アルフェウスが促す。「これからが、本当の始まりじゃ」
少年は最後にもう一度、光の人影たちを振り返る。彼らは静かに頭を下げ、そして――消えていった。
星見の環も、ゆっくりと光を失っていく。
「さあ」アルフェウスが孫の背を押す。「我々には、為すべきことがある」
二人は光の門をくぐる。世界が再び歪み、そして――。
*
天文台に戻った時、夜は更けていた。
壊れたガラスドームの隙間から、星空が覗いている。水晶球は以前と変わらず台座の上にあったが、その中で星々の光が特別な輝きを放っていた。
「本当に、あれは……」リオンは、まだ現実感が掴めないように呟く。
「現実のことじゃ」アルフェウスは即座に答える。「そして、我々は決断を迫られている」
老人は天文台の窓辺に歩み寄る。壊れたガラスの破片が、月光を受けて煌めいている。
「時間がない」アルフェウスが告げる。「世界の歪みは、既に臨界点に近づいている」
「私たちは、どうすれば?」
「まず、お前は学ばねばならない」老人は振り返る。「星辰の言葉を、完全に理解するために必要な全てを」
「でも、それには時間が……」
「ああ」アルフェウスは厳しい表情を浮かべる。「通常なら何年もかかる修行を、お前は数ヶ月で終えねばならない」
「そんな……」
「できる」老人は断言する。「お前には、その力がある。星々が、そう告げている」
リオンは黙って頷いた。恐れはあった。不安もあった。しかし、もはや後には引けない。世界の運命が、彼の肩に掛かっているのだから。
「そして」アルフェウスが付け加える。「お前は、仲間を見つけねばならない」
「仲間?」
「星見の環で見た、他の選ばれし者たち」老人は説明する。「彼らもまた、同じ運命を背負っている。共に戦うべき同志じゃ」
「でも、どうやって見つければ?」
「星々が導いてくれる」アルフェウスは静かに告げる。「そして、これを使うのじゃ」
老人は、懐から一つの水晶を取り出した。拳ほどの大きさの、澄んだ青い石。その中で、かすかに星の光が渦を巻いている。
「星標」アルフェウスが説明する。「古の言霊使いたちが、互いを見つけるために使った道具じゃ」
水晶は、リオンの手の中で温かく脈打つ。