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序 一

星は名を持つ。


その事実を、人は忘れていた。月は満ち、欠け、また満ちる。潮は寄せ、返し、また寄せる。夜空に無数の光が灯り、そして明けの明星が東の空に輝く。それらの営みの一つ一つに、星々は己が名を刻んでいた。だが、その真実を知る者は、もはやいない。


「エリマキス・ヴェルタニア」


夜明け前の暗がりの中、ひとりの老人が囁く。枯れ木のような痩せた指が、黎明の空へと伸びる。星の最後の光が、白く細い指先で揺らめいた。


「汝の名において」


声は低く、しかし確かな力を湛えていた。星は、かすかに瞬きを返す。


老人の傍らに立つ少年は、思わず息を呑んだ。祖父が口にした言葉は、どこか懐かしく、そして畏れ多いものに聞こえた。少年には理解できない言葉であったが、その響きは確かに魂を震わせる何かを持っていた。


「リオン」祖父が少年の名を呼ぶ。「今のが分かるか?」


「はい、でも……」リオンは言葉を探した。「意味は分からないけれど、なんだか、胸の奥が温かくなりました」


老人は満足げに頷いた。その表情には、深い安堵の色が浮かんでいた。


「よい。それでよい」しわがれた声に、かすかな期待が滲む。「お前には、それが分かるだけでよい」


リオンは黙って頷いた。祖父の言葉の意味するところは分からなかったが、今この瞬間が特別な意味を持つことは、感じ取れた。


老人の手が、リオンの頭に優しく置かれる。


「我が名はアルフェウス。かつて星辰の言霊を操りし者なり」


その言葉と共に、世界が変わった。


リオンの目の前で、夜明けの空が歪んだ。星々が描く模様が、まるで生きているかのように蠢き始める。そして、音が聞こえてきた。遥か彼方から響いてくる、星々の歌声。


「これが、星辰の言葉」アルフェウスは告げる。「そして、お前はその継承者となる」


地平線の彼方で、朝日が昇り始めていた。新たな夜明けの光の中で、リオンは自分の人生が大きく変わろうとしていることを、確かに感じ取っていた。



「言霊使いとは、言葉の真実を知る者のことじゃ」


アルフェウスの声が、石造りの書庫に響く。夜が更けても、古文書の山と向き合う日々が続いていた。二週間前の夜明け以来、リオンの修行は始まっていた。


「言葉には力がある。それは誰もが知っている。しかし、その真の意味を理解する者は少ない」


老人は古びた羊皮紙を広げる。その上には、リオンには読めない文字が並んでいた。星々の輝きのような文字。見つめていると、目が眩むような不思議な文様。


「これが星辰文字。天空の言葉を記すための文字じゃ」アルフェウスは説明を続ける。「かつて、人は星と共に語らった。天空のことわりを理解し、星々の名を知っていた」


リオンは息を呑んで羊皮紙を見つめる。文字は淡く光を放ち、まるで本物の星のように瞬いていた。


「しかし、人は忘れた。あるいは、忘れることを選んだのかもしれん」老人の声が沈む。「力の代償は常に重い。星辰の言葉は、使う者の魂を焼き尽くす。だからこそ、多くの者は忘却を選んだのじゃ」


「でも、おじいさまは?」


「わしは、覚えていることを選んだ」アルフェウスは静かに告げる。「そして、お前にもその選択をさせねばならない」


書庫の灯りが揺らめく。外では、満月が空高く昇っていた。


「星辰の言霊使いになるということは、永遠との契約を交わすということじゃ」老人は羊皮紙を巻き、棚に戻す。「星々は永遠に輝き続ける。その言葉を知るということは、永遠の重みを背負うということ。お前には、その覚悟があるか?」


リオンは答えなかった。答える必要がないことを、本能的に理解していた。これは、今すぐに答えを出すべき問いではない。


「よい」アルフェウスは満足げに頷く。「答えを急ぐ必要はない。星々は、時の果てまで輝き続ける。その光の中で、お前は自分の答えを見つけるだろう」



其の期から、七日目の夜、リオンは初めて星の声を聞いた。


それは、水晶のような透明な響き。遥か天空から降り注ぐ、清らかな音色。最初は微かな囁きのようなものだったが、次第にはっきりとした声となって、少年の心に届き始めた。


「聞こえる?」アルフェウスが問う。「星々の言葉が」


「はい」リオンは震える声で答えた。「歌のような……そして、とても古い響きです」


「その通り」老人は静かに頷く。「星々は、世界の始まりから歌い続けている。その歌の中に、全ての真実が記されている」


二人は天文台の最上階に立っていた。ガラスのドームを通して、満天の星空が広がっている。一つ一つの星が、これまでとは違って見えた。それぞれが意思を持ち、物語を語りかけてくるかのように。


「今夜は特別な夜」アルフェウスが告げる。「星辰暦で言う、星見の宵。星々の声が最も透明に響く時間じゃ」


老人は、天文台の中央に置かれた台座に向かう。その上には、水晶でできた球体が置かれていた。星明かりを受けて、幻想的な輝きを放っている。


「これが星見の器」アルフェウスは説明する。「星々の言葉を集め、その真意を映し出す道具じゃ。古の言霊使いたちが、代々受け継いできたもの」


リオンは息を呑んで水晶球を見つめた。その中で、星々の光が渦を巻いているように見える。


「さあ、手を置いてみよ」老人が促す。「お前の心に届く言葉を、受け止めるのじゃ」


震える手を、リオンはゆっくりと水晶球に伸ばす。指先が冷たい表面に触れた瞬間、世界が一変した。


無数の光が、少年の意識を包み込む。それは星々の記憶。世界が生まれた時から紡がれてきた物語。大地が形作られ、海が満ち、風が吹き始めた時の記憶。そして、最初の言葉が生まれた瞬間の記憶。


「あ……」


リオンは言葉を失う。あまりにも壮大な、あまりにも深い記憶の渦に呑み込まれそうになる。しかし、その時、一つの声が、特別な響きを持って彼の心に届いた。


「アストライオス……」


知らずに、その名が唇からこぼれる。


「よくぞ聞き取った」アルフェウスの声が、遠くから響いてくる。「それは明けの明星の、いにしえの名」


水晶球の中で、一筋の光が特別な輝きを放つ。それは確かに、東の空に輝く明けの明星と呼応していた。


「星の名を呼ぶということは、その星の物語を理解するということ」老人は説明を続ける。「そして、その物語を理解することは、世界の真理に一歩近づくということじゃ」


リオンは、ゆっくりと手を水晶球から離す。意識が現実に戻ってくる。しかし、今の体験は、確かな記憶として心に刻まれていた。


「これが、始まりじゃ」アルフェウスは静かに告げる。「星辰の言霊使いとしての、お前の第一歩」


夜空には、無数の星々が瞬いている。それぞれが名を持ち、物語を持つ。その全てを理解するまでの道のりは、果てしなく長いだろう。しかし、リオンは不思議と恐れを感じなかった。


この道を歩むことが、自分の運命だと確信していた。



しかし、運命の歯車は、誰も予期せぬ方向に回り始めていた。


その兆しは、十日目の夜に訪れた。


「変じゃ」アルフェウスが眉をひそめる。「星々の声が、乱れている」


天文台の水晶球が、不規則な明滅を始めていた。まるで、不安に震える心音のように。


「どうしたのですか?」リオンは心配そうに尋ねる。


「分からん」老人は首を振る。「星々が、何かを警告しているようじゃが……」


その時、轟音が響いた。


大地が揺れ、天文台が軋む音を立てる。ガラスのドームに亀裂が走り、砕け散った破片が雨のように降り注ぐ。


「リオン!」


アルフェウスが叫ぶ。その声に応えるように、水晶球が激しく発光する。眩い光が天文台を満たし、二人の視界を奪った。


そして――世界が、大きく歪み始めた。

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