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ターシャを見下ろしたまま立ち尽くすオーガからは、不気味な呼吸が漏れ出ている。
――ターシャを助けなければ。
そう思うのに、私の足はなぜだか動かない。
オーガ、ゴブリン、首都周辺で暴れる魔物たち。
噂で耳にしていたそれらを、目にするのが初めてだったということに、今更気づいた。
自分は、恐怖しているのだ。そのせいで、なすべきことができないのだ。自分よりずっと幼い少女が、恐ろしい魔物に今にも襲われそうになっているというのに、そこに駆けつけてやることもできないのだ。
歩け、走れ、お願い、動いて、私の身体――。
自分の情けなさと、ぬぐい去れない恐怖で涙が出そうになったとき、
「ターシャ!」
路地に少女の険しい声が響いて、私は我に返った。
アカリは塀のそばに生えていた木に登っていたらしい。オーガが緩慢な動きで塀の上に立つアカリに目をやる。アカリは躊躇なく塀から飛び降り、ターシャに駆け寄った。
「ア、アカリおねえちゃん……!」
震える声でアカリを呼ぶターシャに、アカリが頷く。それと同時、
「グ、オ、オオオォー……!」
オーガの雄叫びが鼓膜をつんざく。残響が消え去らないうちに、拳を振り上げた。素早さはないが怪力の持ち主である。当たれば、生身の人間の命はない。
「あ、アカリ、ターシャ……!」
その名を呼ぼうとする自分の声が、誰にも届かないであろうほど、か細かった。
アカリがターシャをかばうように、抱きしめながらオーガに背を向ける。
そのときだった。
ヒュ、と、軽く空気を切るような音が聞こえた、気がした。
それが何かを認識するより先に、今度はドス、と言うような鈍く重い音が追いかける。
「オオオアアアア!!」
オーガの今度の雄叫びは、威嚇ではなく、悲鳴だった。ややあって、その大きな顔から血しぶきが舞っていることに気づいて、それから、右目に一本の矢が刺さっていることにも気づいた。
オーガは顔を両手で覆うようにしながら悲鳴とともに地団駄を踏んでいる。
そこでようやく、金縛りみたいになっていた私の身体も動き始めた。
「アカリ、ターシャ!」
ターシャを抱きしめたまま、突然苦しみ出したオーガを呆気にとられて見ていたアカリが、私の声に振り向いた。
「クララ!」
私が駆けつけると同時に、どこからか、見知らぬ一人の青年が現れ、未だ我を失っているオーガと私たちの間に入り込むようにして立った。
士官学校の制服を着ている。長身の、夜の暗がりの中でもわかるほどの抜けるような白い肌が目を引く。絹糸のような白銀の頭髪と、耳の形から、この男が純血の人間ではないことがわかる。左手には小型の弓が握られていた。先ほどの矢はこれで放ったのだろう。
穏やかで慇懃な口調で、私たちに言葉をかける。
「我々の力不足で、恐ろしい思いをさせてしまいましたね。あとは私に任せて、修道院の中へ避難してください」
「あ、はい、……クララ、ターシャをお願い」
「ええ、わかった。ターシャ、もう大丈夫よ」
アカリに守ってもらえたこと、周りに大人が集まってきたことで少し落ち着いたのか、支えてやると、ターシャはゆっくり立ち上がった。
「アカリは大丈夫? 怪我はない?」
「えっと……怪我はないんだけど……」
地面に座り込んだまま、アカリは力なく笑った。
「腰が――抜けちゃったみたい」
「えっ」
「では――」
「ひゃっ!?」
私たちの会話に割り込むようにして、男は突然、アカリを抱き上げた。
「私が入り口までお連れしましょう」
「あの! そんな! 申し訳ない……あの、私、歩けます! お、おろしてくださいっ!」
貧相な身体というわけではないが、力自慢をしそうな体型にも見えない男だが、十六歳の少女としては標準体型のアカリを軽々とお姫様だっこして、余裕の笑みを浮かべている。
「あの、修道院の中にはこの通路から入れるんです。私たちは、ここで……」
さきほど脱出に使った扉を開けて、ターシャを先に中に入らせる。魔物は絶対に通れない小さな穴だし、使い終わった後に内側から施錠すれば外部の人間が不法に侵入に使うこともできないはずだ。
「助けていただき、ありがとうございました」
「いいえ、これが私たちの任務ですから」
「あの化け物、このあと一人で相手するんですか?」
アカリが、青年のことを心配しながら、地面に下ろしてもらっている。私は、先に塀の向こうに行ってしまったターシャが心配で、一足先に通路を先に抜けた。扉の向こうから、まだ二人の会話が聞こえてきた。
「いえ。もうすぐ援軍が来ますので――ほら。だから、大丈夫、心配しないで」
私は呼吸を落ち着けようと、深呼吸する。
塀の向こうで、オーガの声が次第にただの悲鳴ではなくなっている。突然の眼球の負傷でパニックになったオーガは、段々と身体に秘めていた邪な魔力を膨らませ始める。
「ガァ、ア、グオアアアアア!!!」
塀越しに聞こえる、これまでで一番の邪気と迫力のある絶叫に、ターシャが身体を硬くしている。
「ターシャ、みんなが居る広間の方に戻りましょう」
「アカリおねえちゃんは?」
アカリはまだあの通路から入ってきていない。たぶんもう、この通路は使わないだろう。
弓使いの青年。
あれが、三人目のパーティメンバーだ。この世界に生まれてから今まで、私とは接点が一切なく、名前は忘れたが、エルフ族の血を引いた士官学生である。すべてのキャラクターと邂逅を果たしたアカリに、本来の「力」が発現し、ついに彼女の冒険が始まる――。
「アカリおねえちゃんは、大丈夫よ」
「そうなの?」
「後からきっと戻ってくるから、私たちは一緒に、安全なところでそれを待ってましょうね」
+++
その夜、都の空に、不思議な七色の光が見えたと、街中のあちらこちらで目撃証言があった。修道院の敷地内にいた人たちは、全員がそれを目にしていた。
あれはなんだったんだ、と言う問いに、答えられる者はいなかった。
そしてそれと同時に、アカリは修道院から姿を消した。元々私以外は、彼女が別の次元から来た異邦人だということも知らなかったので、急な事情で国外の実家に呼び戻されたのだと説明されて、疑う者はいなかった。
あの日、街中にまで現れた魔物たちは無事に一掃され、その後一週間、魔物の出現は確認されていない。
街の人々は徐々に平和を取り戻した。