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「はわ……修道院の外には、困っている人が沢山いるんだね……」
設営した救援所に群がる人々を見たアカリが、圧倒されるようにつぶやいた。
毎月のことなので、貧民街の衣食に困った人々は待ちかまえていたように私たちの元へやってくる。中には私たちの名前と顔を覚えてくれている人も多い。
「クララお姉ちゃん」
「まあ、ターシャ。元気にしていた?」
「うん!」
ターシャという名のこの少女は、今年で八歳になる。かつて母親に抱えられて初めてここにやってきたとき、彼女は二歳で、その日は私が初めて奉仕活動に参加した日だった。母親は職を失ったばかりで、母娘でお腹を空かせていた。大人たちが母親の生活に関する相談に乗っている間、私はまだ言葉もおぼつかなかったターニャを抱き抱え、あやし、ご飯を食べさせた。市井の人の生活や苦労を知らずに生きてきた私が初めて出会い、言葉を交わし、心を寄せた親子だ。特別な思い入れがある。
今は母親は通いの掃除婦の仕事に就き、以前より安定した生活が続けられている。それでもターニャは、姉のように慕ってくれる私に会いに、こうして毎月顔を出してくれるのだ。
「クララの知っている子なの?」
アカリが私たちの会話に興味を示して近づいてきた。
「ええ。私が奉仕活動に参加するようになってからの顔見知りなの。ターニャ、こちら、私の新しいお友達のアカリよ」
紹介されたアカリは、腰を落としてしゃがみ込み、ターニャと目線をあわせて柔らかく微笑んだ。
「よろしくね、ターニャちゃん」
「うん!」
アカリは子供相手にも自然に接することができる。元の世界でも慣れていたのかもしれない。私はといえば、修道院に来る前までは貴族の生活にどっぷりで、はじめの頃は自分と違う階層の人間や、小さい子供を相手にすることに慣れるのに時間がかかっていたことを思い出す。
アカリと他愛もない言葉を二言三言交わすと、ターニャは広場に集まってきた歳の近いなじみの友達のもとへ走り去っていった。その背中を見送っていると同時に、背後に突然人の気配が現れた。
「へーえ、修道院に新人さんが入ったの?」
澄んだ、綺麗な、青年の声。しかし、威厳だの迫力だのは皆無の、ただただ軽やかで明るい声。
私は慌てて振り返り、反射的に貴族式のお辞儀――スカートの裾をつまみ、目線をさりげなく下げて、腰の位置を落とす。
「ユージーク殿下に置かれましては、ご機嫌うるわ……」
「あー、だめだめ、やめてって言ってるじゃん? その堅苦しい感じの挨拶ー。今はお互い、修道院と士官学校の下っ端みたいなもんなんだから、対等の関係ってことで、もう少し気楽にお願いー」
長身の、男性的な体つきをした若い青年が、満面の笑みで立っている。少し癖のある赤毛に、わずかな日焼けで濃くなった肌色が、活発そうな印象を与える一方で、全体的な佇まいは彼の生まれがそれなりに上流であることを隠せていない。男は、私と、戸惑った様子でいるアカリへ交互に視線を向けた。その意を汲み、私は慌ててアカリを指し示す。
「殿下、こちら、先日から修道院で共に暮らしている、アカリ嬢です。アカリ、こちらはこのラトア王国の第二王子、ユージーク様よ」
「ひぇ、お、王子さま!?」
「はーい、王子さまです。といっても、まだ若造の学生だし、王位継承権も一番じゃないし、そんな大したご身分じゃないから、気楽に接して欲しいなー」
「えぇ……チャラい……」
ぼそっとアカリの本音が小さく漏れたのが聞こえて、慌てて私は声をあげる。
「で、殿下はとても気さくな方でいらっしゃるのよ」
「そうそ、クララお嬢さまのお友達のお友達だから、俺とも気軽にお友達になってねー、アカリちゃん」
「お友達のお友達?」
不思議そうにアカリが首を傾げたと同時に、私の心臓がきゅっとなる。
ユージーク殿下が、そばにいた男性の首に肘をかけて引き寄せる。不機嫌そうな仏頂面の青年が、横目で殿下をにらんだ。
「なんです、いきなり」
「修道院に新しい仲間が入ったんだって。クララ嬢のお友達の、アカリちゃん」
流れるような黒髪、殿下よりもやや無骨な輪郭に切れ長の印象的な目が一瞬私を見つめる。それは本当に一瞬だけのことで、すぐに離れた視線は隣のアカリへと移ったのに、私の心の中はひどい嵐が訪れたようにいつまでも静まらない。
「え……と、初めまして」
果たしてアカリと邂逅を果たしたフェリクスさまの表情に、特別な感情は見受けられないような気がした。でもわからない。私がそう願っているだけなのかもしれない。
「こいつはフェリクス。俺の士官学校の同期で、クララ嬢のお友達」
「クララのお友達?」
「あー……」
無邪気に尋ねるアカリに、一瞬言葉に詰まる。友達、というのは殿下のタチの悪い冗談だ。平成の日本とは違い、婚前の貴族の男女が気安く友達などカテゴライズはされないものだ。
「フェリクスさまは私の遠い親戚にあたる方で、子供の頃はよくお互いの家を行き来していたの」
「へえ! じゃあ、幼なじみみたいな感じだね」
「そう……なのかな」
曖昧に肯定しながら、ちらとフェリクスさまの様子を見やる。相変わらず無表情で、何を考えているのか読みとれない。アカリに何か特別な印象を抱いたのかも、私たちの関係を友達や幼なじみと表現することに何か思うところがあるかどうかも、全くわからない。
「お前、女子の前なんだからもっと愛想よくしろよー。ってことで、なんか呼ばれてるみたいだから俺らは行くね。今後もよろしく、アカリちゃん」
「え、あ、はい!」
なにやら力仕事が発生したらしく士官学校の面々に集合がかかったようだ。嵐のように去っていく殿下の後ろ姿に、アカリがぽかんと口を開けている。
「お、王子さまって、私、人生で初めて会ったんだけど……あんな軽いノリなんだね……」
あっけに取られたように呟くアカリに、私は苦笑する。実を言うと、初めてお会いした時は私もかなり戸惑ったのだった。
「ユージーク殿下は、今は学生の身なのもあって、いろんな立場の人と親しく付き合いたいと思っていらっしゃるみたい。兄君のセロシアル殿下はかなり生真面目な方と聞いているわ」
「そうなんだ。お友達のフェリクスさんは、クールな感じの人だったね。昔からああだったの?」
「いえ……どうだったかしら……」
何気ない問いに、治まりかけていたはずの胸のざわつきが蘇る。アカリの口からフェリクスさまの名前が出ることに。すっかり笑わなくなってしまったフェリクスさまのことを思うことに。
「あ! ちょっと、あの子たち喧嘩してるんじゃない? こらー! 暴力はだめよー!」
広場でじゃれ合っていた子供たちに諍いの気配を察知したらしいアカリが、慌ててそちらへ走っていく。その生き生きした姿を見ながら、私は胸元できゅっと拳を握りしめる。
そのときだった。
ふと、背後から視線を感じ、振り返る。老若男女ひしめく中に、物陰からこちらを見ている少年を見つけた。粗末な身なりにうつろな目をした、十歳前後の男の子だ。三フィートほど離れた場所で、潜むように立っている顔にはあまり見覚えもなかったが、貧民街では様々な人が日々出入りしているし、私たちの支援を求めてこの日だけ遠方からやってくる者も多いので、知らない顔を見ること自体は不思議ではない。
何か助けを求めていて、自分から声をかけづらいのだろうか。
そう思って少年の元へ歩み寄ろうとすると同時に、少年がはじかれたように駆けだした。
「えっ!?」
思わず声をあげてつられたように追いかける。裏路地に入り込んだところで、少年の手を掴んだ。やせ細りやつれた少年、という第一印象とは裏腹に、つかんだ腕は意外にしっかりとしているようにも思えた。
硬そうな癖のある茶髪に、白い肌、大きな瞳は澄んだグリーンだった。
「坊や、どうしたの? 何か困っているのかしら」
「ううん」
私を見上げる目は、遠目に見たときは力がないと思ったのに、いやに挑発的に見えて、一瞬、ぞくりと背中に寒気が走った。
「人違いだったみたい。おかしいな、お姉ちゃんからも、「違う気配」があったんだけど」
「それ、どういう――」
「クララ!」
突然、アカリの声とともに、少年の腕をつかんでいたのと反対側の腕を引かれた。驚いて振り返ると、焦った表情でわずかに息を切らすアカリがいた。
「あんまり修道院の人たちから離れない方が良いって、自分で言ってたのに。どうしたの?」
「いえ、この子がこっちをじっと見てたから、何か困っているのかと思って……」
「この子?」
アカリが不思議そうな顔で私の背後に視線をやる。私も振り返ると、いつの間にか、少年は跡形もなく消えていた。
「え、あれ? 今ここに……」
「誰もいなかった気がしたけど……」
そんなはずはない。それとも、白昼夢でも見ていたというのだろうか。
「とにかく、早く広間に戻ろう。みんな心配してるよ」
アカリに急かされてあたりを見回すと、確かに、あの少年を追って結構離れた場所まで走ってきてしまったようだ。
私たちは慌てて引き返した。
そんなことがあった以外は、残りの活動時間はあわただしく過ぎていき、修道院に戻ってきた頃には私もアカリもここ最近で一番疲れきって、ベッドに倒れ込んだ。
「ふー、疲れた! 修道院内での生活とは全然違ったね! 大変だったけど、いろんな人に出会えて、微力ながら助けになることもできた気がして――少し、安心できたような――気がする」
安心? と、アカリの言葉を不思議に思ってからすぐ、数日前の彼女の弱気な嘆きを思い出した。
どうして自分がこの世界にやってきたのか。これからどうやって過ごしていけばいいのか。そう不安に思っていたアカリの姿。
「……私も」
そのときと同じように、私はアカリのベッドサイドに腰掛け、アカリの手を握る。
「アカリが、この国の人たちと仲良く交流できて、それを楽しんでくれて、安心できたし、何より、嬉しかった。ここでの生活でも、アカリが楽しさや、自分の居場所なんかを、見つけられるんじゃないかって」
「クララ……」
いつかの夜みたいにアカリが、今度はゆっくりとした動作で、ベッドから身体を起こす。太陽の下で彼女がよく見せてくれる、無邪気さや天真爛漫さを感じさせるのとは違う、憂いや寂しさや不安がちょっとだけ隠されているような、大人びた笑み、と言えるようなものだった。
「私、クララがそばにいてくれて、本当に良かった。クララじゃなかったら、だめだったと思う」
「いえ、私じゃなくても、きっとこの修道院の誰だって、あなたのことを心配して支えてくれていたと思うわ」
「ううん、違うと思う」
そう言い切ったアカリの目は、いつの間にか、急に力強い何かを放つものとなっていた。一瞬、気圧されそうになるほどの。
「私、クララじゃないとだめだった。クララだったから良かったの。ね、クララ、ずっとお友達でいてくれる? クララは貴族のお嬢様だから、いつか私とは一緒にいられなくなるだろうけど、それでも、私と一緒にいたことを忘れないで、時々思い出してくれる……?」
結局今日の一日も、元気に振る舞っていたように見えて、アカリは本当はずっと不安だったんだな、と思った。私はアカリと向き合い、両手を握った。
私は、こんな風に頼ってくれる友を、突き放すような人間にはなりたくない。
「もちろんよ、たとえ今みたいにそばにずっとは居られなくなるような日がやってきても、それからもずっと、あなたの幸せを祈り続けるわ」