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完全なる夜が訪れて、廊下からも他の部屋からも物音一つしなかった。
アカリは、さすがに今日は、精神的な疲れだけではなく身体も動かして困憊してしまったのだろう。布団に潜り込んでからすぐに、規則正しい寝息が聞こえてきた。
対して私は、今夜も眠れそうになかった。
さっき、急に胸が押しつぶされそうな気持ちになったのは。
それまで、アカリの境遇に自然と同情し心配していたときのものとはワケが違った。
あの華やかな笑顔に見つめれた瞬間。
私は、フェリクスさまのことを考えていた。
二人は、まもなく出会う。
そしてそれから、戦いをともにする仲間として、長い時間を共有し、場合によっては、恋に落ちる――。
それを思うと、心臓が押しつぶされて、息ができないぐらいの、未知の感情が押し寄せてきた。
いや、未知の感情、などではない。前世でも現世でも、それはありとあらゆる、特に恋愛をテーマにした小説や舞台などの芸術にははっきりと、ドラマティックに表現されてばかりいた。
嫉妬。
私はきっと、フェリクスさまとアカリの関係が進む度、こうして苦しみを抱え、そして、いつか感情を爆発させ、アカリをいじめたり陥れようと画策し――断罪されるのではないだろうか。
乙女ゲームではよくある展開であると、何かで読んだ記憶がある。
でも、私が?
恋路のために、他人を傷つけたり、法を犯したりする?
今の時点では、どうして、自分がそんなことをしてしまうなんて信じられない。
今日もまた、よく眠れないまま夜が更けていった。
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修道院の生活は、ほとんど院の中で完結している。時折、修道院の外から、礼拝があったり、司教さまたちに助けを求めに来た人がいると、司教さまや先生方の手伝いという名目で修道院の外の人と関わりになる機会もあるが、例外だ。
幼くしてやってきたばかりの女子たちには退屈な日々かもしれないが、アカリにはむしろこの閉鎖性は逆に良かったのだろう。数日ですっかりとここでの生活リズムにも慣れ、仲間たちとも馴染むことができたようだ。
日常生活に慣れてくれば、日常以外のことにも興味が向けられる段階となる。
「ねえ、クララ。修道院の外って、どうなってるのかな?」
アカリが修道院で生活を始めてからちょうど一週間が過ぎた頃だろうか。私たちは就寝時刻になってから、お互い眠気に耐えられなくなるまでの時間を、ベッドに横たわりながら他愛もないおしゃべりをして過ごしていた。
「この修道院は王都の周縁部に近い場所に建っているの。だからこの前の週末には街の人たちが大勢お祈りに来ていたでしょう? 王宮や、貴族たちが住む場所は、少し遠い場所にあるかな」
「修道院の中以外にも、いろんな人たちがいるんだね
「ええ。私たちは月に一度、貧民街の方へ奉仕活動に行くから、それに参加すれば外の世界の様子も見られるわよ」
「奉仕活動! そういえば、歴史の授業を一緒に受けている子に聞いたわ。クララが中心になってやっている活動だって」
「中心になって……というと大げさだけど、私は毎月欠かさず参加するようにしているの」
貧民街で行う奉仕活動では、貧しくて困っている市民に衣糧を配布したり、健康相談を受けたりするのが主だ。私の光属性の魔法は怪我や病気で弱っている人を癒す力があるため、それを役立てられるからと積極的に関わるようにしている。
自身に流れる光の魔術師としての力を、人のために役立てられる機会があるならば惜しむな、というのは、修道院に入る前に父から言い聞かされていたことでもあった。
「はわ……素敵! 私も次の活動のときに着いて行って良いかな?」
「もちろんよ」
次の奉仕活動は三日後だった。奉仕先で提供する予定の子供服も、裁縫の時間に着々と縫っている。ああ、あのお洋服、奉仕活動で配布するためのものだったんだ、と納得したアカリは、うきうきとした様子で眠りについた。
暗がりの中で、規則的な彼女の寝息を聞きながら、私は三日後のことについて考えていた。
奉仕活動は、修道院の若い女子たちと、士官学校の中等学生たちと合同で行われている。そこにアカリが参加するということは、「攻略対象」と接触する、ということである。
目を閉じて、記憶を辿る。
そうだ、アカリとの日常生活で忘れかけていたが、ゲーム中のメインストーリーは、修道院の中よりも、「外」に行くイベントと共に進んでいた。三日後から、本格的にアカリの物語は進んでいくのだろう。
このままでは、その傍らに自分がいることになる。詳細はわからないがいずれ悲惨な結末を迎えるサブキャラ――クララ・フォアティルトが。
にわかに信じがたい気持ちと、一抹の悔しさがある。運命は決められていて、しかもそれが誰かの添え物などということがあるのだろうか。
それと同時に、納得のいってしまう、自分の中にあるはっきりとした「不安」があった。
奉仕活動には、毎月フェリクスさまも来ている。当然、アカリと邂逅するのも三日後になる。そのとき、もしも、フェリクスさまがアカリに心惹かれたとして――私は、冷静でいられるだろうか。この数日のように、ただの友達として、アカリに親しみを感じ、時には一緒に心を痛めたり、力になりたいと励ましたり。後ろ暗い心を一切持たずに彼女に接することができるだろうか?
認めたくないけど、答えは「否」だった。こんな仮定に想像を巡らせるだけで、心臓を誰かに握りしめられたみたいに苦しくてたまらなくなる。
これがこの先もずっと続いたら?
前世でよくあった、少女マンガや乙女ゲームのライバルキャラみたいに、罪を犯してしまうのだろうか?
いいや、そんなことは、絶対に避けなければならない。
私は暗がりの中できゅっと目をつむる。
私はそのような、人に恥ずべき人間になりたくないし、実家の父や弟にだって迷惑をかけたくない。
この先何があっても――私はアカリの友として、誇り高い貴族の娘として、すべての運命を受け入れる。
――でも、でも。
三日後の朝、私はベッドの上でうずくまっていた。
「クララ、どうしたの、大丈夫?」
「なんだか、お腹が痛くて――ごめんなさい、アカリ、今日の奉仕活動、私は行けないみたい」
「えー!」
お腹が痛くて動けないのは仮病ではなく、本当だ。ただ、アカリと一緒に修道院の外に行かない、と口にした瞬間、ほっとした気持ちが湧いたのも本当だった。やはり、今日始まるアカリの周辺の物語を、直に目にするのは考えるだけでも辛かった。
それに、もしかしたらメインストーリーの傍らで私が不在になることで、悲劇を回避できるかもしれない、という一縷の希望も持っていた。
だが。
ふと、目の前が暗くなった気がした。それからまた目の前が明るくなって――。一瞬、気を失っていたのかしら? 窓の外では明るい日差しと、飛び交う小鳥の影が見える。そして。
「クララ、どうしたの、大丈夫?」
「――え?」
出かけたはずのアカリが、何故かまたベッドサイドで私を心配そうに見ていた。
「今日は、奉仕活動の日だから、早く支度しないとって言ってたけど……」
私は言葉が出ないまま口をぽかんとあけて、アカリを見ていた。
私たちは、ほんの少し前に交わしたのと全く同じ会話をしている。
どういうこと? と戸惑いながら、私はおそるおそる、先ほどと同様に拒絶してみる。
「お腹が痛くて――奉仕活動には、行けそうにないわ……」
「えー! でも、具合が悪いならしょうがないよね。どうしよう、医事の先生を呼んでこようか?」
「いえ、いつもの薬があるから――」
どうしよう、そう言いながらも、急に意識が遠くなる、まさか、まさか、まさか……。
歯を食いしばっても抗えなかった。私の眼前は急に暗くなり、そして、またアカリの声に起こされる。
「クララ、どうしたの、大丈夫? 今日は、奉仕活動の日だから、早めに支度をしなきゃいけないって――」
私は泣きそうになりながら、身体を起こした。
「――アカリ」
「うん、大丈夫? クララ」
無垢な美少女が本当に心配そうな顔で、私を見つめている。
認めるしかない。
ここは、ゲームの世界で、アカリの物語で、私は彼女について、外の世界に出なければならないのだ。